京都 嵯峨野   最勝山 福田寺

浄 土 宗 の 教 え


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 浄土宗の教え

阿弥陀仏を信じ、お念仏を称えましょう。

  高祖 善導大師 (ぜんどうだいし)


  高祖善導大師は中国・唐の時代の人で、613年山東省の臨シ(りんし:しはさんずいに巛の下に田)の朱氏家に生まれたといわれていますが、はっきりしたことはわかりません。若くして仏道修行にはげみ、山西省の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)につき、浄土の信仰を深められました。
645年道綽禅師がお亡くなりなると、長安の都の悟真寺(ごしんじ)に入りたくさんの人を教化しました。また、長安の都の西市にちかい光明寺にも住せられました。そこで、善導大師のことを光明終南山悟真善導大師(こうみょうしゅうなんざんごしんぜんどうだいし)といいます。
中国浄土教とくに曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)の流れを大成し、他力念仏の教えを大成したのが善導大師といえます。五部九巻といわれるたくさんの著作を残していますが、なかでも観無量寿経の注釈書「観経疏(かんぎょうしょ)」は、法然上人がそれを読んで、「ひとえに善導に依る」と言い、浄土宗という宗派をつくるほど決定的な影響をあたえました。

  宗祖 法然上人 (ほうねんしょうにん)


法然上人は1133年美作国久米南条稲岡庄(みまさかのくにくめなんじょういなおかしょう)(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生。久米の押領使(おうりょうし)であった父漆間時国(うるまときくに)の非業の死によって剃髪、1147年比叡山に登り、源光(げんこう)の門に入り、のちに皇円(こうえん)に師事しました。50年西塔黒谷(さいとうくろだに)の叡空(えいくう)に師事して法然房源空(げんくう)となずけられました。以後諸経をくまなく学んだがうるところがなく、1175年たまたま善導の「観経疏(かんぎょうしょ)」を読んで、はたと悟ったといわれています。その教えは、「一心に専ら弥陀の名号(みょうごう)を念じて行住座臥(ぎょうじゅうざが)に、時節の久近(くこん)を問わず、念念に捨てざる、これを正定(しょうじょう)の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」という一文に確信をえて、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えれば、すべてみな平等に救われるという信念を得て、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを確立しました。法然上人は「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」のなかで、「善導の観経疏は西方の指南、行者の目足なり、余は昔この典を推閲して、ほぼ素意をさとり、たちどころに念仏に帰す」と述べています。

  派祖 西山国師 (せいざんこくし)


西山国師は1177年、加賀権守(ごんのかみ)源親季(みなもとのちかすえ)朝臣の長男として生まれ、9歳のとき久我(こが)内大臣源通親(みなもとみちちか)の猶子となる。1190年(建久元年)14歳、法然上人の弟子となり、師に学び善導の「観経疏(かんぎょうしょ)」を徹底的にたたきこまれたといわれています。1198年(建久9)「選択本願念仏集」の撰述にあたっては、引用文との照らし合わせという勘文(かんもん)の役にあたり、翌年法然上人に代わって九条兼実(くじょうかねざね)邸で「選択集」を講じました。西山国師は「白木(しらき)の念仏」ということを説いたといわれています。「白木の念仏」の意味はいろどらない、つまりさとりや戒の何らの行のいろどりなしに、往生疑いなしと信じて申す念仏をいいます。雑念を交えない純粋他力の念仏です。また、「鎮勧用心(ちんかんようじん)」という御文を残しておられます。その中で、「もし自分が仏の救いにあずかれない人間だとしても、決して卑下してはいけません。というのは、法蔵菩薩は、永い時間修行されて、ついに願いをはたされて阿弥陀仏になられたので、その救いの相手はあなたなのです」といって、仏の本願を信じ、生きている瞬間、瞬間をありのまま阿弥陀仏に抱かれている身であることを自覚し、南無阿弥陀仏を喜びの心で唱えることを勧めています。