| 作業所総会「つどい」議案書 ここでは2002年の4月にまとめたそれまでの作業所の経過を掲載しております。前身の『1号店』が生まれて倒産するまで7年、島本障害者共働作業所として再建してからも7年経った時に総括したものです。 そしてそれ以来の年次総会『つどい』の資料を掲載しておきます。 ●2002年度『つどい』資料 ●2003年度『つどい』資料 ●2004年度『つどい』資料 ●2005年度「つどい」資料 |
| 島本障害者共働作業所のこれまでとこれから |
島本障害者共働作業所が発足して7年を越えました。その前に「自立の家『1号店』」の時代が7年ありますから、そこから数えるなら14年以上を過ごしたことになります。仕事もいろいろ移り変わりました。 |
| *『1号店』時代 |
『1号店』は「自立の家の会」が作った“商店”でした。当時学齢期の「障害」児の親、学校の教師等、「障害」者問題を自らの課題と考える人達が集まって1987年、「自立の家の会」発足と同時に『1号店』は“開店”しました。 この商店が機能を発揮するまでのしばらくの間、園芸用品の仕入れ販売や廃業する文具店から提供された文房具の販売など試行錯誤を重ねました。しかし、園芸用品が飛ぶように売れる訳もなく、文房具も提供されたものがなくなれば先細りです。 |
| [粉せっけんの販売] “開店”当初から取り組み、今でも細々と続く営業品目に粉せっけんがあります。これには合成洗剤の怖さを世間に訴え、粉せっけんの利用を呼びかけるという一定の社会運動を兼ねておりました。ちょうど琵琶湖の汚染が騒がれていた時期と重なり、粉せっけんの販売は『正義』でありました。1袋950円のところ、それが900円に割り引きされる「5袋会員」を組織し各家庭への浸透を図りました。給食現場からの合成洗剤の追放を訴えて行政にも働きかけました。 しかし、粉せっけんは使いづらいとか「無リン」をうたった合成洗剤が出回るなどして思いどおりに販路は開けませんでした。 [魚屋の取り組み] また、今では廃業してしまいましたが『土曜魚屋』というのにも当初から取り組みました。当時ご近所でありポリシーの点でも一致する部分が多かった「自然食品センター」とのかかわりで“魚の産直販売”を毎週土曜日に始めました。土曜日の早朝、産直の魚が到着する池田市まで仕入れに出かけ、戻って来るなり店開き。他の仲間の店では魚を丸ごとしか売れなかったのに、『1号店』では魚のさばきを身につけて、お客様のご要望どおり作ってあげる…本物の魚屋の仕事をやりました。 一週間に一度の魚屋で、他の仕事とも重なり大変な苦労でしたが、魚屋を通してつながる新しいお客様がそのまま『1号店』の支援者になることもあり、有意義な取り組みであったと思います。これは、産直の魚が手に入らなくなる時点で取りやめることになりましたが、それでも『1号店』がなくなるまで7年あまり続けました。 [リサイクル活動] 『1号店』のメイン商品だったリサイクル活動は、古本の扱いから始まりました。閉鎖された学習塾から靴箱の提供を受けて、そこへ店長自前の古本を並べました。結構よく売れたところからリサイクルを思いつきました。早速、高槻警察署に出かけて『古物商』の認可を取りました。リサイクル活動には、商品を運んだり磨いたりする「障害」者の自然な関わりが期待出来たからです。 当初は自転車のリサイクルを中心に活動を展開、廃品自転車の中に盗難車が紛れ込む恐れがあるため、「長期レンタル」のシステムをとって販売しました。しかし、需要に対して供給が追いつかず、お客様のニーズに応えるまで時間がかかるうえ、これに頼っての収入の確保が難しくなりました。 そのころ、オーディオマニアの方のご協力を得て、電気製品の中でも音響・映像機器の修理を身につけました。ちょうどICを使った機械が出回り始めた時期と重なり、昔の名器が不燃ゴミの中に捨ててある時期でした。不燃物ゴミの回収日の夜に走り回って集め、オーディオ機器やビデオ、テレビ、ラジカセなど手を加えて片っ端から販売しました。ほとんど手を加えなくても可動する物も多く、世の中がまさに“使い捨て時代”であることを体感しました。 この他にも、洗濯機や掃除機などの電化製品、テーブルなどの家具なども扱いました。『1号店』のこうした取り組みは「不要な物を必要な人へ」とリサイクルの必要性を訴える一つの社会運動の側面も持っていました。 [ペリカン便も] さらに安定した収入を図るために、“開店”4年めから、盆暮れの繁忙期に日通のペリカン便にも手を染めることになりました。当初は、配達員の手の回らない部分の補完と言う感じで、集合住宅を中心に配達しておりました。配達のプロでないがゆえに、荷物を受け取る側の立場になって仕事を進めるために、お客様にも喜ばれ、会社側にも当てにされるようになりました。 この仕事は、支援者のご協力もあってこの後も地域を変えて長く続くことになります。 [社会運動としての取り組み] この時期は、『1号店』が社会的な運動のメッカのようになっていました。教師たちの組合活動やその周辺の運動とも重なって、故砂田明氏の水俣一人芝居を見る会から、水俣病患者の作った甘夏が持ち込まれ、いつの間にか販売活動に携わるようになりました。また、反原発運動から、当時六ヶ所村の核廃棄物反対運動に携わっていた青森のリンゴ農家・今井さんとつながり無農薬リンゴを取り扱うようになりました。 これらの取り組みは、人だけではないすべての命を大切にし、自然体系を尊重する無農薬・無添加の食品を意識したポリシーとなって今に生き続けております。 [事業体として] 『1号店』は事業所というか、職業安定所を通して「障害」者を雇用する企業でした。したがって「障害」者を雇用する毎に、彼らに対して雇用促進の助成金が出されました。年を経るにつれ、規定によってその金額は少なくなりましたが、それでもそれが出ている間は、最低賃金制度と障害基礎年金を案配した『1号店』の給与規定からすると余るほどで、人件費の心配はたいして必要なかったのです。店の隣の二階を借り倉庫兼用の会議室を作り、青葉に古本屋「キューピット」を開店…事業の拡大をはかりました。 しかし、4年ほどして助成金が出なくなるころから、企業として勢いを失いました。生産性の低い「障害」者をメインとした企業なのに、雇用促進法に基づく以外の補助金はどこからも出ず、財政的に限界が見え始めました。 そのころから、親組織である「自立の家の会」と「障害」者の解放への視点の違いが目立つようになり、それまで細々と返済して来た「会」からの借り入れ金を一気に清算して、『1号店』は本格的に自立してしまいました。 |
| *島本障害者共働作業所となって |
[簡易授産施設への転身] 7年目に至って、ついに経済的に成り立たなくなり、倒産することになりました。「障害」者たちも企業としての『1号店』に勤務し、それが倒産することになったのですから失業保険が出ます。一方で本当に倒産してしまうと行きどころがなくなってしまう現実があります。この点を職業安定所に訴え、それなりの理解も得て、倒産した後の『元1号店』は、仕事のうえで不連続を起こすこともなくそのままそれまでの営業を続けました。 で、その期間中に、町にできていた「簡易授産施設」の手続きを行い、そのまま「島本障害者共働作業所」に移行してしまいました。同時に手狭であったこれまでの『旧1号店』から今の場所に移転しました。 これまで給与の助成金しか手にしていなかったのが、年間数百万円の補助を受ける身になりました。もちろん、社会的な運動のメッカの様相を兼ね備えていた組織ですから何かにつけ行政から“いちゃもん”としか言いようのないクレームがつけられ、当初は出るはずの補助金が“減らされた”としか受け取れない“いじめ”にも会いました。しかし、経営して行く財政的ベースの部分が保障されるということは、すごく気が楽になります。 それまで目の色を変えて金になる仕事を探していたのが、楽な気分で電化製品のリサイクルを中心に、季節の仕事としてペリカン便や送られて来る甘夏やリンゴの取り組みをしておりました。 [脱リサイクルへ] ところがそのころからリサイクルのメインであったオーディオ機器など電化製品の収集が困難になってきました。 一つには各地の不燃物ゴミの収集方法が変わり始めたことがあります。不燃ゴミの有料化が進み、収集回数が減りました。同時に古紙や空き缶の価格が下がり続けたためにそれらの業者が輸出を目的にしたスクラップ業者に転身しました。それらの業者が回数の減った不燃ゴミの日に大きなトラックで走り回り、ごっそりと持ち去ってしまう状態になりました。 また、質の良い“ゴミ”も出尽くしたのか、それぞれの家庭で新しい機械への買い替えが終わったのか、あまり「良いゴミ」が出なくなってしまいました。ゴミとなる機械は東南アジア等で作られた逆輸入物がほとんどで、以前のどっしりした機械とはめったに出会えなくなったのです。 さらに「PL法」(製造物責任法)により、メーカーから部品の供給が受けられなくなってしまった事も大きな痛手で、衰退するリサイクルに追い打ちをかけることになりました。 そしてまさに「とどめを刺された」のが2001年4月から施行された『家電リサイクル法』でした。4品目だけということでしたが、時機を見て他の家電製品にも広げるという趣旨ですから、あまり「良いゴミ」が出なくなっている時に、たくさんの家電製品を集めることには大きなリスクがかかります。修理の効かないものを集めた場合には捨てるために持ち出しとなってしまうのですから。 衣類の量販店が進出し、まるで使い捨てのようにして衣類が出回り始めた影響も大きかったです。以前は、ブランドもののジーパンやコートが集まりましたが、時を経るにしたがって古着を持ち込む人が、買い求めに来る人の数10倍以上という状態になり、持ち込まれた衣類の箱が作業所にうずたかく積まれるようになりました。この時点で作業所は衣類の倉庫と化してしまいました。天井まで積まれた段ボール箱の片隅で仕事をする状態となったのです。 リサイクルによる収入に陰りが見え始めたころに、専従が一人増えました。長い間、固定したメンバーの取り組みでしたが、初めての複数指導態勢が取れるようになりました。それまでは、作業所を留守にすることすら思うに任せなかったのが、複数になることで行動の制約がはずれ、思い切った行動がとれるようになりました。 そこから始まったいろいろな取り組みにとって、商品価値が下がり、山と積まれたリサイクル品は作業の邪魔となってきました。特に、品の加工販売の衛生上から考えても、清潔感のある雰囲気がありません。 「脱リサイクル」の決断までには時間がかかりましたが、他の仕事に追われて展示商品の入れ替えすらままならない状態が続くと、ほとんど商品も動かなくなり、埃っぽい感じがし始めて、ついに2001年秋の「脱リサイクル宣言」にいたりました。 [専従者の増加と仕事の多様化] 1999年4月から専従が複数になって、まず取り組み始めたのが箕面の「そよかぜ作業所」から仕入れた無添加パンの販売でした。定年退職した元教師ということもあり、学校現場への販売を中心に、まず学校へ自由に出入りする事が常態となって定着しました。申し込み書の配布・回収・商品の配達・集金と、職員室に出入りする機会は頻繁となり、それにつれて先生方の作業所の取り組み自体への関心も高まって来ます。それまではなかなかできなかった学校の職員室での販売は、リンゴやミカン、カレンダーにいたるまで、おりにふれ取り組めるようになりました。学校側としても、卒業生の進路の追跡と言う意味で、私達の活動に意義を認めてくれました。 1999年の6月頃から「手作りチャーシュー」を試作し始め、7月の“反核平和人権フェスティバル”で試行販売したところ好評を得たので、パンに加えて「チャーシュー」の販売を手掛けるようになりました。スーパーで安売りの豚肉のブロックを買い込んでは手作りして販売しました。需要に応え、しかも安全でおいしい肉を安く手に入れるために卸売業者とも取引を始めました。しかし、「食べ物は飽きられる」というのが原則です。しばらくすると学校を中心とした売れ行きはみるみる落ちてしまいました。 1年ほど経てからラーメンとセットにして販売し、チャーシューの売れ行きを確保することを思いつきました。これが結構「おいしい」と評判で、学校以外の顧客の開拓につながり、2001年度からは毎週販売としております。 もう一つ多様化した仕事があります。イベントや行事への弁当の仕出しを始めました。一番初めは99年春の、組合の連合体のハイキング行事への仕出しでした。その後、教師の研究集会、運動会、施設見学者の昼食、組合の定期大会への夕食など年間10回近くの弁当作りの注文を受けてこなしております。 これには、私達作業所のメンバーだけでは味付け一つとっても難しい所があるため、周囲の支援者の、主として女性に協力をお願いして取り組んでおります。当然、私達の手では一切食品添加物を加えず、安全で心こもった家庭の味を心掛けておりますから絶大な人気で、2年目の小学校の運動会は4校とも作業所に弁当注文をいただきました。 「障害」者の作業所が“ほか弁”や“コンビニ弁当”にはないおいしい弁当を作る…この意外性は食べる人を驚かすようですし、私達にとっても快感です。 ただ、他のパンの配達やラーメンの日と重なることがあり、お断りせざるを得ないこともあって残念なのですが、これからももっと拡大していきたいお弁当の仕出しです。 さらに、準専従者とも言える女性が参加するようになりました。前述の弁当の仕出しに全面的に協力してくださってきましたが、もっと恒常的に働いてみたいということで、ほとんど毎日出勤しています。初めのうちはやるべき仕事がつかめなかったけど、得意の料理の腕をふるって週に一回の昼食を作業所の仲間たちに提供をすることで作業所での位置を明かにしました。当然その昼食には食べた人が代金を支払い、そこから材料費を出して、出た利益が作業所の収入となっています。言って見れば、作業所で支払った給料の一部を昼食を通して回収する仕組みができあがりました。 [従業員の増加] 人の広がりが仕事の広がりにつながったのは、専従者だけではありません。2000年の2月に、高校を出た直後のケガのために、進路を断たれて3年間在宅になっていた農家の青年が、作業所に通うようになりました。始めは、彼の家が作業所のために家で採れたタケノコを売らせてくれる事から八百屋の仕事が始まりました。その売れ行きを見て、さらに無農薬・省農薬の野菜を栽培して卸してくれるようになり八百屋の仕事が日常化しました。毎日作業所前で八百屋をやる他に、「旬の野菜の会」を立ち上げて、延14件の会員を集めて試行しております。新年度になったら正式に「野菜の会」を発足して、安定供給をはかりたいと考えています。 2001年の9月からは、企業への就職を断念した青年がもう一名増えました。明るくひょうきんな彼の参加は、沈滞しがちな作業所仲間の空気を和らげ、全体に意欲的な雰囲気を作り出すことになっています。 [生協での店頭販売] また、大阪北生協から声がかかり、月に一回の生協前での出店をし始めました。これには常時販売しているラーメンやチャーシュー、手作りケーキ、季節の野菜などの商品のほかに、青森の省農薬リンゴや水俣の甘夏なども並べています。さらに、焼き芋の釜を借りて、季節には焼き芋も販売。2年目を過ごしている今では、固定客もでき、ラーメンや焼き芋だけを買い求めに来て下さる方も目に付くようになりました。 生協の青果と競合してしまい、青果の担当者からクレームがつくほどになりました。何分、泥付きのままのいかにも新鮮な取れたて野菜を安い値段で販売するのですからたまったものではありません。これも生協側と話し合い、2週間前に店頭販売する青果の品名と量を前以てお知らせして置くことで決着がつきました。それほど、私達の取り組みがプロの立場を脅かしてしまったのです。 この店頭販売は、作業所の存在やみんなの様子を、街の人々に知ってもらう絶好の機会となっております。また、私達にとっても励みとなり、焼き芋の釜を自前で調達し、生協前での焼き芋の販売を毎日作業所の前で取り組むなど、いろいろなヒントを得るチャンスにもなっております。 [ペリカン便の廃業] しかし、この多忙な中で、また一つ古くからの取り組みを見直さざるを得なくなりました。“ペリカン便”です。7月から8月にかけてと、12月の多忙な時期に、以上のような仕事と平行して宅配の仕事が入るわけです。メンバーをペリカン便とそれ以外と二手に分けて取り組むのですが、この時期は連日大変な事になりました。 それに、宅配の仕事から利益を生もうと思うと、効率的な仕分け・配達ルートの設定・トラックへの効果的な積載が必要です。これまで取り組んで来たメンバーはその辺りに慣れていて手際がいいのですが、新しく入った人達は結局邪魔にしかならない。しかも島本町に生まれ育った店長の、土地勘に頼る取り組みです。店長が倒れたら、身動きできなくなることは明らかです。 一定の時間内に、日常的な作業をこなしつつ、ペリカン便の「時間との闘い」のような作業もしなければならない・・・声も荒くなるし、疲れもたまります。そんな事もあってついに2001年の年末の業務を最後に、ペリカン便の仕事から撤退することになりました。ペリカン便業務に慣れている「障害」者たちにとって、できる仕事がなくなることは惜しいことではあります。しかし、無理を重ねて続けることは、精神衛生上もよくないだろうし、また新しくそれぞれが得意な分野を開拓していけばいいわけだからと、目をつぶって止める決断をしました。 [ホームページの開設と運営] 2000年の3月から、作業所に『作業所だより』を中心に置いたホームページができました。もちろん協力者があってのことですが、経過と共に自立した取り組みとなり、今ではインターネットを通して全国に仲間が広がっています。 障害者の作業所でホームページを作っているところは数々ありますが、私達のホームページの特徴は、初めのうちはこの作業所を知っている人達中心だったのが、近辺の知らなかった人達に広がり、最近では府県を越えて東は群馬・埼玉辺りから西は広島まで、いや、アメリカ・香港などまで、顔はもとより本名すら知らない人達がホームページに出入りして下さるようになり、作業所の抱える課題に大きな関心を寄せて下さるようになりました。 特徴の二つめには、他の作業所のリンク先のように、仲間の作業所や福祉の関係ページとはほとんどつながらず、趣味などを自分のホームページで扱っている市井の人達とのお付き合いを中心にしていることです。福祉関係のホームページを中心に置くと、どうしても“腕まくり”してのアクセスとなり、「お手伝いできることはありませんか?」と言う雰囲気で来られますが、そうはならない人達が多いのが特徴だと言えるでしょう。 三つめの特徴として、ホームページからラーメンやチャーシューのネット販売ができるようにしたことです。ラーメンを注文して食べたらおいしかった事から、作業所の存在に目が向けられたという人もおります。「障害」者の作業所なのに“本当においしい物を安く販売するのだ”と突っ張って取り組んでいることに、“健気さ”を感じ、共感のようなものすら覚えてくださるのだと思います。 そして、四つめの特徴として、インターネットを通していろいろ新しいアイデアや取り組みが提案されるようになりました。例えば最近では、ラーメン作りの出前のときに、「お土産用に焼き芋も置いたら」とか、「デザートに水俣のオレンジを置いて販売したらどうか」などと提案して下さいます。もちろんインターネットでつながっていない方々にもいろいろとアイデアはあるでしょうが、わざわざ来ていただくとか手紙や電話で提案するという“手間”が必要です。ところがインターネットは各自の部屋でパソコンを通して即刻書き込めるという長所があります。 ネット販売の売上自体は微々たるものですが、このつながりは、空間を超えています。これまでの私達の取り組みは、身近にいる人達にしか共感をもってもらえませんでした。しかし、インターネットのおかげで、あちこちの街に連帯感を持ってくださる方が広がりつつあるのです。今はまだ点と点だけど、それがつながれば線となり面となると言う意味で、売上以上にこれからも大切にしたい貴重なつながりだと思っています。 |
| *まとめにかえて |
この14年以上にわたる取り組みを振り返って、この小さな作業所も社会情勢の変化に翻弄されてきたのだなあと、しみじみ思います。社会的な変化に合わせて、作業所の取り組みも変化せざるを得ないわけです。例えば「リサイクル活動」などはその典型だと言えるでしょう。言うならば、試行錯誤の連続だったと思います。 しかし、こんな取り組みについて、私達自身が評価するものではないとも思います。この評価は、今一緒に働いている「障害」者たちが、10年先、20年先に出してくれるでしょう。でも、私達の作業所の外側にいる人達(特に「障害」者の親や関係者と言われる人達)からの評価は耳に入ります。「厳しい作業所だ、いつも叱られたはる」「あそこはよくできる人達だけを集めてやってるから」「あんな事はうちの子にはできない」…外から見るとそんなふうに見えるのでしょうか。こういう評価を耳にすると、職場からの広報不足をしみじみと思います。3年前、新メンバーが加わると同時に、平均月に2回の作業所便りを発行し、ホームページにも掲載して来ましたが、「障害」者たちの思いや感覚、実態はプライバシーとの兼ね合いもあって書けないでおります。また、できもしていないことをバラ色に書くことへの抵抗感もあります。 しかし、「よくできる人達だけを集めている」など、認識不足もはなはだしいと言わざるを得ません。中には一日おしゃべりだけをして帰って行く人もいます。でも、その彼が「できる人」と受け取られているのなら、それはそれで結構なことではありますが。 私達はここでもう一度基本理念に立ち返って、“どんな「障害」者が働きに来ようと、仕事にその人を合わせるのではなくて、人に仕事を合わせるのだ”と言う立場を再確認しておきたいと思います。ただ、これまでの経過から言えば、「障害」者本人から「こんな仕事をしてみたい」と言う要求が出て来ませんでした。これは、彼らの生育歴の中で「自己判断」にもとづく「自己決定」の場面が奪われて来たせいもあるでしょう。またそのような判断ができるほどの力量が育ってない側面もあるでしょう。で、結果として、仕事に人をあわせてきていました。 でも「できる人ばかり集めている」という評価は、この基本理念を実現したいと努力して来たからこそ言われるのだと受け止めておきます。 この理念を本当に実現するために、今取りつつある仕事の多様化(弁当作り・ラーメン・チャーシュー・パン・野菜・タケノコ・焼き芋等食品の販売)は、「障害」者が本当に自分のやりたいことを発見できる一つの方向かもしれないと考えます。特にこれらの仕事は、人と対面しておこなう取り組みであり、あらゆる要素(創る・数える・書く・等)が含まれています。きっとそのうち、それぞれが自分のやりたい仕事、得意な仕事を見つけてくれるだろうと思います。 さらに、今の状況で効果的な点は、サポート集団が形成されつつあることです。以前の店長が一人で切り盛りしていた時代、あるいは支援者はあっても、いろいろな意味で非常に幅の狭い範囲だった時代にはなかった雰囲気ができつつあります。しかもそれは直接作業所に足を向けてくださる方だけじゃなくて、インターネットを通してはるか遠方の地から、この作業所を意識して支えてくださる方々すら存在しているのです。大勢の方が具体的な提案もふくめてこの作業所の進路を、我が事として考えてくださっている現在を、もっと大切にしていきたいものです。 今後はさらに、仕事も人も固定する事なく、いつも大勢の人の共感や意識とともに歩いて行きたい・これからも起こるであろう予測のできない社会情勢や従業員の暮らしの変化の流れをしっかりと受け止め、作業所のサポート集団と共に着実に歩んで行きたいと考えます。 |