2008年11月11日 第17号(通算232号)
『作業所だより』最新号より
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| 文化祭の賄い食・期限切れの麺に売れ残りの具を一杯!美味いです。 |
| 主張/明るさの原因 |
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10月30日は島本町内にある社会福祉法人の特別養護老人ホームへラーメンの出前に行きました。2階に食堂があり前のテラスにラーメンの厨房器具を置いて、お年寄りの目の前でラーメンを作って提供するという取り組みです。もう今年で五回目になるでしょうか、ホームの年中行事の一つに加えていただき、提供を受けるホームの側も、私たちのほうも手馴れてしまって電話の打ち合わせだけで開店できるほどになっています。

手馴れた私たちも、以前は作業所を閉めて全員で行き、応援団に来てもらって大騒ぎしてやったものです。今では当たり前のようになり、作業所に三人残して他のメンバー五人だけでラーメン屋を開店することにしています。
その日、居残り組のR君には意味が分からなかった模様。五人のラーメン部隊がトラックや自転車で出発する前に、彼だけは一人で、行き先も確かめずに出発してしまったのです。居残り組の私はバイクで探しました。てっきり彼は老人ホームの方へ歩いているものだと思ったけどいない。ひょっとしてこの間の水無瀬神宮かと気がついて行ってみたら、参道にポツンと立っていました。

説明しながら作業所まで200メートルの距離の途中までバイクを押して一緒に歩いて、「作業所まで帰れよ」と言い置いて先に戻ると・・・帰ってこない。しばらくすると応援団の方から「阪急電車沿いの道を一人で歩いていたけど彼はどこへ行くの?」との電話。
「それだ」とまたバイクで探すと京都の方向に向かって歩いておりました。またまた説明するけどこっちもあきらめ半分。一応「作業所に行け」と言い置いてトラックを取りに帰りました。迎えに行くとやっぱりおりません。私と別れるなりクルリと百八十度方向転換をして歩きなおすらしい。探してみればやっぱりトンチンカンな方向へ。「ドコイクノ〜?」と声をかけると「ナンヤアホアホー」と言いながら助手席に乗り込んできました。
この後、三日の町文化祭で見知らぬおばさんから「私いつも思うのやけど、ここの作業所の人はなんでこんなに明るいの?」と店長に声をかけられたそうです。店長は彼特有の言い回しで「毎日いじめ倒しているからですわ」と答えたそうです。ある意味では汗をかきながら一生懸命歩き回ったR君、管理しない私たちにいじめられていたのかもしれません。
「危機管理はどうなってるの?」と言われるかもしれないけど、私たちは彼らの後を付いて回るような危機管理だけはしたくない。自分がそんなことされたら嫌ですから・・・仕事では嫌なこともさせていますが、生活面では嫌なことはしないのが明るさの原因です。
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| 11月3日文化祭報告 |
土曜定休日のため3連休最後の日の文化祭は準備が大変でした。10月31日の金曜日に買い物を済ませスープを煮出し、1日の土曜日は定休日なのに店長が来てスープに火を通すという作業が必要でした。これも定休日である2日の日曜日には前日準備ということでお昼から「有志」が集まったけど、「障がい」者従業員で出てきたのはHさんだけでした。味卵作りやネギ刻みを済ませ薄暗くなる午後5時からテント設営でした。
当日は店長たちが現地で早朝7時から厨房をセットして湯沸しと焼き芋の準備。私は一人で作業所でなるとと味卵のカットをし、現地と電話で連絡を取り合いながらぎりぎり15分前にラーメンの具の残りを仕上げ、一式を現地に運び込むことができました。

今年は私たちの体力も落ちており、ラーメンはまかない食をふくめて300食弱。焼き芋は40kgという数でした。応援団も十分な人手が集まりお昼前にはざっと数えて50名に近い行列がラーメンのためにできるほどの人気でした。焼き芋も次々と売れておりました。
作業所がこのようなイベントでラーメン屋を始めた頃、いろいろ切り詰めても一杯400円と言う価格になりました。当時は「子どものお小遣いで買える値段」が常識でしたし、この値段に少々引け目を感じておりました。しかし、今では400円出してでも食べたいと言う方が行列を作ってくださるのです。

インターネットで作業所のホームページ仲間が京都府の加茂町からわざわざ駆けつけてくれてラーメンを食べてくださいました。連れてこられたお孫さんに焼き芋をプレゼントしたら、美味しいのにびっくりしておられました。「同情ではなく求められる物を売る」というポリシーを認めてくださいました。
ラーメンの残りが40食を切った段階でも行列が途切れないので、残り食数分だけ割り箸を持って料金を先にいただき、後ろの方には「この後は売り切れになります。申し訳ありません」とお引取りを願いました。そして行列の最後尾に居眠り君を立たせて後から来る人に「売り切れです」と言わせました。ポケットに手を突っ込み凄みのある顔で立っていると彼に文句を言う人は誰一人いませんでした。これを適材適所と言います。
焼き芋が先に完売し、ラーメンも1時になる前に完売してしまいました。それから、スタッフのまかないラーメンです。これは賞味期限切れの麺を冷蔵庫にストックしておいたものです。多目に作った具を好きなだけ載せて食べる贅沢なまかない食でした。賞味期限切れの麺を使えばいっぺんに信用を失うけど、全く味は同じで役得でした。 後片付けは4時からと決められています。あまりにも時間があるので、鍋などを大雑把に洗い、乾いたものから少しずつ手運びしてバス通りまで持って出てトラックに積み込み、4時には机椅子を片付け、テントをたたむだけの作業にしてしまいました。ここらが作業所のチームワークだなあと思いました。
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| 連載C北海道へ行きました! |
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最後の晩餐
キリンビール園に電話を入れて子羊の焼肉喰い放題の予約をとり、ホテルの巡回バスの時刻表を確かめて集合時刻を決め、全員ですすき野を目指しました。キリンビール園はすすき野から1kmほど離れていましたので、足の不自由な人だけタクシーを使い、他のみんなは歩いて向かいました。800人も入れる大きなホールでした。関西では見たことがない!

到着すると8人がけの席が三つ用意されておりました。私が一番奥の席に立ち、店長が入り口の席に立って「この三つの席に座ってください」と声をかけたら、「障がい」者は私の方へバラバラと近寄って適当に座りましたが、応援団と親達が入り口の店長の席を取り合うように動きません。「障がい」者の席に座るのは私一人??思わず「誰かが焼いてやらなアカンやろ?生肉でも食っておけって言うのか?」と一喝しました。すると応援団の二人と親子の三組が分かれて坐ってくれました。
最後の晩餐が始まりました。私の前は作業所代表のMさん。ホールでは北海道大学卒業生の同窓会でも開かれているのでしょうか、聞き覚えのある北海道大学の寮歌「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)♪」の歌声が聞こえてきます。高校時代に北大にあこがれたこともあった私には最高の北海道気分でした。同じテーブルの「障がい」者従業員達には「好きなだけ食っていいんやぞ。ただし、生は食うなよ」と言い置いて、焼きながら食いながら飲みながら北海道やなあと感激しながらMさんと自分の大学の話や当時の暮らしをおしゃべりしていました。
そのうちに食い放題の時間が経ち、やがてデザートのアイスクリームが配られてきました。当然満腹したみんなはデザートを食べ終わるなりすることがなくてそわそわ。私は店長の所に支払方法(お金の徴収方法)について相談に行きました。彼の席は「障がい」者抜きの応援団と親達だけの席です。そこで応援団の一人から「ナンヤもう帰るの?せっかく盛り上がってるのにもう終わるの?」と抗議めいた(少なくとも私にはそう受け取れました)口調で言われました。よく見れば店長の前には3リットルは入るピッチャーが二つも置かれ、店長は「これを飲め言われてますねん」と苦笑しています。

私はブチギレてしまいました。「あんたらは盛り上がってこれからかも知れんけど、私らの席はとっくに盛り下がっとるわい。私らなりに盛り上がったけど、デザートまで出たら盛り下がるのが当たり前やろ!あんたらこのまま盛り上がったらええがな。私らは飲んだ分の金を置いて帰るから。」・・・シーンとしらけましたなあ。でもねえ、自分はほとんど食わずに一生懸命「障がい」者に肉を焼いて食わせていた人(それが良いことだとは思いませんが)もいたのです。「もうこのスタイルでの旅行は止めるべきだ」と思った瞬間でした。「障がい」者と一緒に来ていることを忘れてしまってはねえ。「障がい」者のために犠牲になって旅行するのは間違いです。でも、仲間である「障がい」者の存在を忘れてしまうのなら意味も意義もありません・・・「障がい」者はただのダシに使われているだけです。
その後は見るも無残な心で(私だけかも知れませんが)ホテルに戻りました・・・盛り上がっていた人たちも息せき切って歩いたらしくバスの時刻に間に合って・・・。
第4日目
ダンピング価格の旅行は昼前出発の便でした。朝は自由に食事を取り9時前にホテルをチェックアウトして、一路新千歳空港へ。レンタカーを返しましたがどれも500km以上走っておりました。レンタカーを使って走り回る費用に、一人1万円強かかった計算でした。
新千歳空港に着くと11時前。荷物置き場を決めて見張り番を交代してそれぞれが買い物や食事の自由行動。私もちらほらみんなが戻ってくる頃からお昼ご飯を食べに行きました。お土産屋でお弁当を目の前で作っている店があり、その場でも食べさせるそうなので北海道らしいウニとイクラとカニの載った弁当をその店で食べました。すると仲間の「障がい」者がやってきて、自分も食べたそうにします。「ここで食べてもいいんやって、好きにしたらいいやんか」と言うと、お金の勘定ができない彼が、ちゃんと金を払って私の隣に坐って弁当を手に入れ食べ始めました。
できるんですなあ・・・金さえ持っておれば、こんな繁華街で自分の食べたい物を選んでちゃ〜んと食事する・・・そんな場面を初めて見ました。R君の弟で彼は作業所には来ていませんが、毎日町内を飛び出して京阪沿線をうろついています。家とだけ通じる携帯電話を持って、毎日繁華街に出入りしてるのですが、それなりに立派に力をつけておりました。
12時に飛行機は飛びまして、羽田で一時間以上の待ち合わせ。伊丹空港に着いたのが3時半。格安の旅行ですから文句は言えません。伊丹空港で一応解散ということになり、私は一人でさっさと帰って来ましたが、多くの人がそのまま団体で動いたようです。翌日、空港から水無瀬駅の間までもいろいろと「高齢化による」アクシデントがあったらしいことを聞きました。
229号の『主張』でも書きましたが、このスタイルでの旅行はもうこれで終わるべきだと思いました。私たち自身が高齢化し心にゆとりをなくしているようです。具体的に言えば「障がい」者以上に時間が守れなかったり、健常者と言われる人に行程が飲み込めない人が出たり、おまけに3日目の夜のようなことが起こるようではこの旅行の意味がなく疲れるだけに終わります。本当は目的を共有する旅行として毎年行っていたのですが、今回でそのバランスが破綻してしまったように思いました。
でも・・・総じて楽しかったし意義があったし、「このスタイルでの旅行はもう無理だな」と分かったし、意義深い旅行でした。(完)
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