ちくわ


ちくわ[竹輪](名)
海に棲む動物の一種。魚類と軟体動物の中間種。細長く、中心に空洞が存在する。幼児期は白く、成長するにしたがって焦げに似た黄色い模様が現れる。体長は最大で二十センチメートル程度。食用。

――超電堂 国語辞典より


 昨日、高校へ行く途中に、近くのおもちゃ屋で『ちくわっち 入荷』と赤ででかでかと書かれた札を見た。朝早くのことだ。すでに店の前には十数人もの人が並んでいた。主に並んでいるのは女子高生らしかった。おそらく、店の開店までには、より多くの人が並ぶことだろう。しかし、僕はその前を素通りした。そんな物に興味がないからだ。
 知らない人のために書いておくが、『ちくわっち』というのは、某おもちゃメーカーが開発したちくわを育てるゲームだ。手のひらに乗るくらいの大きさで、はんぺんのような形をしている。どうしてちくわっちなのにはんぺん型なのかが納得いかないが、とにかくそういう形だ。そこにいくつかボタンが付いていて、操作することによって、ちくわに餌を与えたり、遊んでやったりするらしい。そして、育て方が悪いと変な形のちくわになってしまったり、時には死んでしまったりするようだ。僕には理解できないが、これが大ブームを巻き起こしている。関連の攻略本もどきみたいなのまで出ているほどだ。
 ブームとなると、その話題を採り上げずにはいられないのがマスコミで――というより、ブームをここまで大きくしてしまったのがマスコミなのかもしれないが――ちくわっちに対する批判などが特集として採り上げられたりする。その一方で、テレビのワイドショーなどでは、ちくわっちを面白いと言っている司会者なんかもいる。そして驚くべきことに、某新聞の読者投稿欄にまで数回にわたって、ちくわっちは有害かどうかが論議されていた。そこでは年配の人ほどちくわっちに対して良い印象を抱いていないようだった。
 はっきり言って、僕もちくわっちに対して良い感情を持っていない。あれは生き物に対する感覚を鈍らせると思う。やはり、ちくわは実際に飼ってみるにかぎる。僕はちくわっちが発売される前からちくわを飼っているが、ある朝起きてみて、せっかく育て上げてきたちくわが、ぷかっと浮いているのを見るのは何度見ても悲しい。世の中には死んだ直後のちくわを中にきゅうりか何かを通して食べてしまう人もいるようだが、とてもそんな気にはなれない。それどころか、魚屋で売っている食用ちくわでさえも、僕は食べない。ゲームに慣れてしまった人たちに、この感覚が分かるだろうか。

「お前、ちくわなんか飼ってんのかよ」
 小学生の頃、馬鹿にされたことがある。
「もっと高そうなもん飼えよ。熱帯魚とかさ」
 反射的に僕は、言った奴を殴っていた。
 ――貴様は何も分かっちゃいない。生きてるものはみんな同じなんだ。見た目のきれいさとか、珍しさとか、そんなもので価値が決まるんじゃない。みんな同じなんだ。みんな、同じ命を授かっているんだ。
 言葉にするのももどかしくて、もう一発、殴っていた。
 次の日から、僕はクラスのみんなから変な目で見られていた。
 ――あいつはちくわなんかに狂っている。
 誰一人として口に出しては言わない。しかし、無言の圧力はその頃の僕にはとても耐えきれるものではなかった。僕は徐々に学校に行くのが憂鬱になってきていた。
 今にして思えば、そういう人たちがちくわっちみたいなゲームに熱狂しているのだろう。そういう命の尊さの尺度がずれている奴らが。

 トントン。
 僕は水槽のガラスを指で軽く叩いた。途端に数匹のちくわたちが水面に上がってくる。そして僕は餌をやる。僕の最も心休まる時だ。
 ちくわたちは見かけによらず、少しのことなら覚えてくれる。水槽を叩くと上がってくるのもその性質の一部分だ。パブロフの犬と同じようなもので、いつも餌を与えるときに水槽を叩くようにしていると、そのことを覚えて、水槽を叩いただけで餌をあげなくても、水面に上がってくるようになる。もちろん僕はそんなかわいそうなことはしたことはない。
「さあ、ご飯だよ」
 僕はちくわたちに語りかける。当然のことながらちくわたちは何も答えない。それでも、僕の言っていることは聞こえているような気がする。僕が何か喋ると、たまに少しだけこちらを振り向いてくれるからだ。
 僕は小さな頃からちくわを飼っていたが、その頃からずっと、新しいちくわを捕まえたりしたことはない。ちくわは共食いもしなければ必要以上に卵を産みつけたりもしない。限られた空間の中ではある程度の数を保ち続けるようなのだ。本能なのかもしれない。

「へえ。ちくわって、海にいるものだったんだ」
 僕は中学生のときに東京に越してきた。
「そうだよ。海に潜るとね、すぐに見つかるよ」
 都会の中学生たちはそういう知識に乏しいらしく、転校したての僕を質問責めにした。
「でも、オレが海に行ったときにはいなかったよ」
「それは多分、砂浜に行ったからだよ。ちくわは磯にいるんだ。多いときには一回潜ると五、六匹はいるかなあ」
 僕はちくわについて長々と喋った。都会の人のほうがちくわに対する偏見がないのか、中学生になったからなのかは、判断できなかった。しかし、話していて気分がいいのは確かだった。
「私さ、ちくわって、お刺し身でしか食べたことがなかったから、白身の魚をすりつぶして焼き目を付けたものだとばっかり思ってた」
 話も終わりのほうになって、それまで黙っていた女の子がぽつりと言った。
 これには僕も驚いた。ちくわのことをそんなふうに思っている人がいたなんて思いもしなかった。
「でも、面白そうだから、私も飼ってみようかな」
 面白そうだから、というのは不純な動機だと思ったが、口には出さなかった。どういう動機であれ、飼う人が増えるというのはなんとなくいいことのように思えた。
「ね、餌は何がいいの?」
 数日後、僕は図書館でちくわについて調べていた。彼女はあれからすぐにちくわを買ったらしいのだが、その日から僕を質問責めにしていた。初めのころは僕の知識の範囲内での質問だったから良かったのだが、そのうち徐々に質問が高度になってゆき、とうとう僕の答えられないようなことまで訊いてくるようになったのだ。
 しかし、そのおかげで僕自身それまでうやむやにしてきたちくわの生態について調べる機会ができた。
 ちくわというのはその内側で食物を溶かし、栄養を吸収するのだが、あまりに大きなものを飲み込んでしまったときはどうするのか。答えは、そのまま反対側の穴から出す、ということだった。彼女はどうしてもきゅうりを食べさせてみたかったのだそうだ。でも、窒息してしまったら困るとかで、僕に相談しにきたのだ。
 それから、ちくわはどうやって進化してきたのか。これについては二通りの説があるらしい。古くから支持されているのは、はんぺんが口腔をつくったというもの。もう一つは白身の魚が退化していって、生きるのに必要な最低限の機能しか備えなくなったというもの。どちらの説も長所と短所を持っていて、決着がついていないらしい。
 彼女はそのほかにもいくつも質問していた。僕はその度に図書館に行って質問に答えた。
「ふうん。じゃあ、ちくわは内臓を持っているのかしら」
「分からないな。また調べてこようか」
 そういうふうにしてどんどん質問は増えていく。
「ううん。あまり、調べてもらってるばかりじゃ悪いから、今度は私が調べてくる」
「そう」
 しかし、その次の日、事件は起こった。
 あの、今でも思いだしたくないような、おぞましい出来事が。
「やっぱり、ちくわは内臓を持っていなかったわよ」
 彼女は僕に会うなりそう言った。
「どうして――」
 嫌な予感がしていた。
「切ってみたのよ。輪切りよ」
 僕は貧血を起こしそうになった。まな板の上で生きながらにして切られる瞬間のちくわを想像してしまったのだ。
 彼女は水槽からちくわをわしづかみにしてまな板の上に乗せたのだ。
 彼女は息ができなくてもがき苦しむちくわを左手で押さえつけたのだ。
 彼女は右手に包丁を持ってちくわの側面に押しつけたのだ。
 彼女はそのまま包丁をぐっと引いて一匹のちくわを二つに分けたのだ。
 彼女はなおもぴちゃぴちゃともがくちくわを、文字通り輪切りにしていったのだ。
「どうしたの。顔色悪いわよ」
 ――近づくな。それ以上僕に近づくな。
 僕はその場から逃げだした。息が詰まりそうだったのだ。
 もっと早くに気付くべきだった。彼女が本当にちくわを愛していないことに。単に興味だけでちくわを飼っていたことに。

 あれ以来、僕は人前でちくわの話をしていない。ちくわっちの話が出そうになったときは、さりげなく話をそらすか、その場を離れるかしている。そうでもしなければ、包丁でその人を輪切りにしたくなるからだ。