骨が砕かれる音も

 うまい棒を三本レジに持っていった。
 会計を済ませると、僕よりも少し年下に見える女性店員が視線を伏せて、「つまらないものなので」と言った。
「つまらないものなので、受けとってください」
 差し出されたのはもう一本のうまい棒だった。めんたいこ味。どこにでもある商品だ。とりあえず、「すまない」と言ってもらっておくことにした。
「ところで、『つまらないもの』のあとは、『ですが』では」
 などと野暮なことを言ったりはしない。
 僕はファミリーマートを出る。

 店を出てしばらく道なりに歩き、立ち止まる。真っ直ぐに延びる灰色の道路を見て、その店員の顔をすっかり忘れてしまっていることに気づいた。可愛かったかと訊かれれば可愛かったような気もするし、ブスだったかと訊かれればブスだったような気もする。メガネをかけていたかどうかも憶えていない。とりたてて特徴のない平凡なファミリーマートの店員だ。

 公園で散歩をする。コンビニの袋からうまい棒のコーンポタージュ味をとりだして食べる。この人工的な体に悪そうな味が久々に僕をあちら側の世界に引き戻そうとする。僕は今、こちら側で平穏に暮らしているというのに、遠い昔のあちら側での味気ない記憶が呼び覚まされる。いつも素通りしていたコンビニになんとなく立ち寄ってしまったが、やはり入るべきではなかった。
 数ヶ月に一度、あちら側を思い出してしまい、そのたびに後悔をする。

 ポケットの携帯電話が震える。どうせメールだろうと思って放置しておいたら四回以上震えたので表示を見る。知らない人からの電話だ。
「はい」と出る。
「失礼ですが、最近、薬をもらいませんでしたか」
 若い女性の声だ。どうにも話が唐突なので、「誰?」と訊いてみたが、
「申し訳ないのですが、それは言えません」
 と言われてしまった。この話し方はあちら側の人だ。直接の接触を試みるというのは珍しい。
「僕は薬が嫌いだから飲まない。ここ何年かは全く飲んでないから人違いだね」
 よほどのことがないかぎり、医者にもかからない。
 僕が電話を切るよりも早く、彼女は先ほど聞いたばかりの言葉を口にした。
「その薬のコードネームは、『つまらないもの』というのですが、本当に知りませんか」
「知らないね」

 僕にはもらい物を最後までとっておくという習慣があり、幸いにも『つまらないものなので』と渡された明太子味のうまい棒にはまだ手をつけていなかった。これがおそらく電話の女性が言っていた『薬』なのだろうとは思うが、全く実感がわかない。なにしろ、包装がうまい棒だ。包装の上から触ってみた感じも、やはりうまい棒だ。
 僕は先ほどのファミリーマートに向かう。

 毎日の散歩が僕の日課だったのだが、どうやらその散歩ルートの景色が変わりそうだ。うまい棒をくれたファミリーマートには営業停止の貼り紙があった。

 営業停止になったのはこのうまい棒を渡したせいなのだろうかと思いつつ、明かりの消えた店内を外から眺める。店の外の貼り紙には『本日をもって店を閉めさせていただきます。ありがとうございました』と下手な字で書かれているだけでほかに情報はない。
 これはうまい棒の包装を破ってみるしかなかろうと思い、破る。中にはうまい棒に見えるお菓子が入っていた。本当に単なるうまい棒にしか見えなかったが、食べる気にはならない。あちら側のものを下手に食べるわけにはいかない。
 捨て場所を求め、辺りを見回していると、犬がやってきた。犬には詳しくないので種類は分からないが日本の犬だ。赤い首輪が目立っている。飼い主は見当たらない。僕はしゃがんで、うまい棒を地面に置き、「食べろ」と命令してみた。犬は食べた。食べかすすら残すことなくきれいに食べた。「大丈夫か」と僕は訊いた。犬は何も答えずに、ただしっぽを振り続けていた。
 うまい棒の包装が手に残っていた。持ち帰ろうかとも考えたが面倒だ。ゴミ箱を探さねばならない。このあたり、最近ゴミ箱が極端に少なくなっている。駅にもなければ公園にもない。あるのはコンビニの前のみだ。ここから一番近いコンビニはローソンだ。百メートルほど離れたところにある。
「じゃあな、犬」
 となんとなく言って、僕はローソンへと向かう。

 ローソンは特に潰れているということもなく、通常どおり営業していた。
 ゴミ箱にファミリーマートのビニール袋ごとうまい棒の包装を捨て、次の散歩ルートである神社に向かおうとしたら何かが足にまとわりついてきた。足元を見ると、赤い紐が宙に漂っていた。赤い紐の動きに合わせて、紐以外の何かが足に当たる感触があった。足元に手を伸ばすと、毛のようなものに触れた。
「うぉん」
 という鳴き声が聞こえた。犬だ。よく見ればその赤い紐は先ほどうまい棒を与えた犬が着けていた首輪だった。僕は透明になってしまった犬が足にまとわりついているところを想像した。それらしく想像することができた。足元には犬がいる。
 うまい棒は本当に薬だったようだ。犬を透明にする薬だ。
「ついてこい」
 と僕は犬に命令した。

 十メートルほど歩いてから、宙に浮いた不自然な首輪を外してしまおうと思った。
「待て」
 と命令すると首輪は止まった。飼い主が誰だか知らないが、教科書どおりにしつけてあるらしい。
 僕はしゃがんで、首輪を外す。首輪はポケットに入れた。
 これで、そこに犬がいるのかいないのか、僕にも分からないようになった。便利だとか不便だとか、そういうことは考えてはいけない。

 ずっと昔、高校の友人は僕に一つだけ大切なことを教えてくれた。悪いことをするならブログを書くなということだった。「透明人間になれ」と友人は言った。透明人間なら、顔写真が出ることもない。社会から自分を抹消するんだ。もしそれができないなら、悪いことはするな。
 その高校の友人は、すでに死んでいる。彼のブログだけがこの世に残っている。
 僕は犬に言う。
「お前、悪いこと、いっぱいできるな。頑張れよ」
 返事はなかった。
 そこに犬がいるかどうかの確証は持てなかった。

 散歩ルートである神社は崖の上に建っていて、階段で崖の下まで行けるようになっている。崖の下には滝があったり小川があったりする。
 僕が滝壺まで行くと、男が待っていた。なぜか僕のことを睨みつけていたので、僕もその男を睨み返してみた。男は四十代くらいに見えた。
「すみませんが、薬を持っているのはあなたですか」
 と男は言った。
 僕は興味があったので、
「誰? 何者?」
 と訊き返してみた。
「あなたたちが言う、『あちら側』の者ですよ。製薬会社に雇われているんです」
「薬なら持っていたけど、もう使ったよ」
「食べたんですね」
「いや、使っただけ」
「どちらにしろ、私はあなたを捕獲しなければならないので、失礼」
 男は僕に手を伸ばしてきた。宣戦布告を受けてしまったら仕方がないので、僕は思いきり男の股間を蹴り上げた。先制攻撃の甲斐あって、男はうめいて倒れた。

 僕の足元から「うぉん」という鳴き声がした。まだ、犬はついてきていたらしい。
「行け」
 と僕が命令すると、犬はうめいている男ののどに噛みついたようだった。男から血が勢いよく噴き出した。僕は、「待て」と犬に命令をした。血まみれの透明な犬は、僕の横にお座りをした。血まみれなので、その様子がよく見える。

 男の流血が止まるのを確認し、僕は犬に命令した。
「体を洗え」
 日本語を理解してくれるかどうか不安だったが、分かってくれたようだった。滝壺に血まみれの透明な犬が入っていった。血は僕が手を貸すまでもなく水に洗い流され、元の透明な犬に戻った。透明な犬が水の中を泳いでいるというのはなかなか面白い光景だ。そこだけ水がくりぬかれてしまっているように見えた。この犬がもしももっと大きかったら、モーゼの十戒のようなシーンになっていたことだろう。
 犬は水から上がると、僕から離れたところで体を震わせて、水分を振り払った。それでもまだ完全には乾かず、光の屈折の具合で、水晶でできた犬のように見えていた。見えていてはこの犬の能力が半減してしまうので、僕は上着を脱ぎ、犬を拭いた。そこそこきれいに乾いてくれた。
 死体はおそらくあちら側の人間に片づけられることだろう。

 まだ多少濡れているので、犬がついてきているのが分かる。
 実験をしてみる必要がある、と僕は思った。この犬は僕のいうことをなんでもきくのか、それとも気まぐれに滝壺で血を洗っただけなのか。
「僕の周りを三周回って吠えろ」
 乾ききっていない犬は、僕の周りを命令どおりに回って、「うぉん」と吠えた。
 僕は、次に、声には出さずに指先で逆方向に三周回るように指示をした。犬はその通りに回った。手を打ち鳴らすと、僕の意図を汲んで、犬は吠えた。
 この犬、なかなか賢い。

 跳躍力と敏捷性も測る。
 僕は腰の高さのところで右手の手のひらを下に向けた。犬と目を合わせて、「跳べ」と命令した。犬は跳んだ。右手に犬の鼻が当たるのが分かった。僕は少し手を高くした。犬は再び跳んで、僕の右手を鼻で突いた。さらに高くしていくと、ちょうど僕の身長のところで犬の鼻は届かなくなった。跳躍力は充分だ。
「よく頑張った」僕は言った。
 犬がしっぽを振っているのが分かった。
「いいか、犬。よく聞け。僕が行けと言ったら、あの曲がり角まで全力で走って、全力で戻ってこい」
 了解したとでも言うように、犬は吠えた。
「行け」
 犬は走っていった。角まで約二十五メートル。かなりの速さで疾走し、戻ってきた。さすがに息は切れているものの、走力も充分だ。
「よし。よくやった」

 最後に意思疎通の能力。これがあればかなり便利だ。
「いいか、犬。YESなら右足にすり寄れ。NOなら左足にすり寄れ」
「うぉん」と犬は吠えた。
「よし。この道にあの角から入ってくる人間が男であるなら、右足にすり寄れ」
「うぉん」と吠えて、犬は角に向かった。
 僕は、これからは『了解』のサインも考えなければならないと感じた。まあ、飛び跳ねさせて右手にでも触れさせよう。『了解せず』のときには、左手だ。
 この人通りの少ない道で、犬はしばらくじっと待っていた。角のところはちょうど日向で、最初の頃犬は濡れているせいで輝いて見えたが、そのうち乾いてきてまるで見えなくなった。僕が角の手前まで歩いていくと、不意に左足に何かが触れた。犬だ。僕の知らない解答を犬が教えてくれたかどうか、数メートル歩いて確認する。確かに、こちらに向かってきているのは女性だった。
「よし、偉いぞ」
 僕はしゃがんで、口早に『了解』と『了解せず』のサインも憶えさせた。右手に犬の鼻が触れた。

 その女性は僕に向かって手を振った。
「おーう、久しぶりー」
 とまで言った。
 目を凝らして見れば、小学校時代の同級生だった。確かそいつは、どこか遠くへ行ったという話だったが、なぜこんなところにいるのだろう。

「お前、あちら側にいたんじゃなかったっけ」
 僕が訊くと、
「仕事は、うん、やめた」
 彼女はあっさりとそう答えた。
「今はどこにいる」
「うん、近くの小学校」
 なるほど、あそこは女性が多いことで有名だ。
「しばらくは生きていけるね」僕は言った。
「うん。楽勝。これからは趣味に生きるの」

 僕は彼女に趣味はなんなのだと訊いてみた。
「つまらないもの探し」
 という返事だった。
「何それ」
「つまらないものを探してね、それをブログに書くの」
「今日は何か見つかった?」
「うん、あなた。ものすごく、つまらない人生を送ってる顔をしてる」
「じゃあ、僕のことを書いてくれ」

 別れ際に、彼女はこんなことを言った。
「でも、ちょっと今日は面白いことがあったでしょ」
「なぜ?」
「だって、なんとなく血の臭いがするから」
 きっと犬から漂っているのだろう。

 携帯電話が震えた。
「あの女をこれから殺します」
 数時間前に電話をかけてきた女性の声だった。
「勝手に殺せばいい。僕に連絡をする必要はないはずだ」
「では、殺します。あの女、あなた同じように、つまらないものの存在に気づいています」
「殺す理由をわざわざ語る必要はない」
「そうですか」
「ところであなたは誰だ」
「薬剤師の女とでも憶えておいてください」
「僕をどこから監視している」
「人工衛星は我々の管轄ですよ」
 きっと僕が犬につまらないものを使ってしまったことも知っているのだろう。
「犬も見えるか」
「透明なものは見えませんよ」
「なぜ監視している」
 そう問うと、薬剤師の女は語った。語った内容を短く要約するとこうなる。薬はそもそも人間を透明にするためのものだった。犬への適用例がなかったので、監視している。
「なんのために僕に電話をかけている。電話代はこちらの利益になるが」
「電話代がとれなくなって困るのは、あなたたちでしょう?」
 答えになっていないのはお互い様だ。

 ひとまず携帯電話の電源は切っておいた。

 海に来た。海が好きなわけではないが、目的地まで行こうとすると海辺の道を通ることになる。砂浜ではなく、磯である。ごつごつした岩を削ってこの道ができたものと思われる。上も下も断崖だ。
 ほぼ毎日この道を通っていると、道のことを憶えすぎてしまい、道を歩いてきたはずの時間を忘れてしまう。駅から一瞬で目的地まで着いてしまったような気になることもある。今日は、透明ではあるものの、犬がいたので自分が海辺を歩いているのだという実感はあった。犬がいるというのは、服装のイメージチェンジを図ったときの感覚に似ている。世の中が自分を見ているような気がして、反対に自分が世の中に敏感になる。
 向かいから車が来る。
 轢かれるなよ、と心の中で思う。
 車が通りすぎる。
「いるか?」
 僕が訊くと、透明な犬は右足になすりついた。
『YES』
 賢い人は好きかと訊かれたら、僕は肯定する。結婚をするなら、天然ボケよりも計算ボケがいい。計算ボケは肝心なときには絶対にボケないからだ。もしも、人生の大事なときに勘違いをされてしまったら困る。結婚をするつもりはないけれど。

 犬が僕の右手に触れた。僕が何も命令していないのに、『了解』のサインが来た。すぐに左手にも触れた。『了解せず』。犬は交互に僕の手に触れた。何かを伝えようとしているのだと思い、僕はまず後ろを見た。道が続いているだけだった。
「声を出していいぞ」
 と言うと、ガードレールの方から「うぉん」と吠えてきた。
 僕はガードレールに寄り、遠くの海を眺める。違和感のあるものが視界に入る。断崖の下を見ると、四メートルほど下の海に死体が浮かんでいた。よく目を凝らすと、その死体は先ほど喋ったばかりの僕の同級生だった。そのままの服装で浮かんでいた。
 薬剤師の女に関係している誰かが殺したのだろう。
「おい、犬。これは見なかったことにする」
 右手に犬が触れた。

 体育館に着いた。
 仲間たちからはジョギングをするように言われているが、僕はそんなことはしない。疲れるからだ。代わりに、歩いている。僕の足は走るようにはできていない。
 僕は犬をどうするべきか迷ったが、見えないのだからいいだろうと思い、中へ一緒に入ることにした。一応、吠えるなとは言っておく。

 軽く打っただけでもう疲れてきたので、壁によりかかって休んだ。ほかの十四人はまだピンポン球を打っている。真面目だ。僕とその相手だけが休んでいる。
 卓球をどうして始めたのかと訊かれたら、それが一番疲れないスポーツに見えたからだと答える。実際には足の裏から腕の先までかなりの疲労が溜まる上に、脳味噌まで疲れるのだが、傍目から見るとそういうことには気づかない。軽い気持ちで卓球を始め、軽い気持ちで打ち続けてはいるが、のべ十数年間も打ち続けているとそれなりにうまくなってしまう。ここに来たばかりの新入生など、簡単に負かせる。ただし、すぐに追い抜かれて、負かされてしまう。おそらく、今この卓球場で一番弱いのは、僕だ。
 一番強いのは、三年前まで毎年ダブルスで日本一をとっていた女子二人のうちどちらかだ。どちらが強いのかは、僕の目からは分からない。二人がシングルスで対戦すると、その日によって勝者が変わり、五分に落ち着く。
 以前は、「お前どうして卓球続けてんの」などと訊かれることもあったが、「ほかのことをしたくないから」と答えるとみんな納得してくれた。今は、「もう少し気合い入れて練習しよう」と言われる。この体育館には卓球台が十二台ある。つまり、部員は二十四人までは絶対に入れる。定員間際になったら、僕もちゃんと練習しようかと思う。

 かつて僕がテレビを見ていた頃、ダブルス二人のうちの片方はかなり有名だった。その一方で、もう片方の話題は全く出てこなかった。ダブルスで優勝しても、マイクを向けられるのは背の低い方だと決まっていた。
 新聞も同じだった。ダブルスで優勝をしても、写真に写るのは片方だけだった。もう片方は絶対に写真に出ない。僕について来た犬のように透明なわけではないし、顔が悪いわけでもない。どちらかといえば写真写りがいいのは写っていない方だと思うのだけれど、記事にされることはない。
「なぜ」
 と来たばかりの部員は訊く。「シングルスの会見だと思っていました」とまで言う。
 なぜなのかは僕らには分からない。ただ、かつての社会には複雑な戒律があったのだと、あちら側から来た情報通の人たちは言う。知り合いの中にはテレビ局に勤めた奴もいるが、戒律については触れなかった。

 一時間ごとに練習相手は交替となる。くじびきで決まった僕の練習相手は、ダブルスの女の子の写真に写らない方だった。
「どうせすぐに休むんだよね」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、最初から休んでいよう」
 どれほど強い人だって、休みたくなるときはある。当然だ。そんなことを彼女は言った。
「僕は休ませ要員なんだね」
「そう。プラスとマイナスがあってちょうどいいんだよね。プラスドライバーとマイナスドライバーみたいな感じ」
 彼女は床に足を広げて柔軟体操を始めた。

 練習は毎日三時間。つまり、三回相手を変えて打つことになる。
 三人目も僕に、「十五分くらい軽く打って、あとは休もう」と言った。
 どのような練習をするかはまるで決められていない。三年前に僕がここに来てすぐの頃はコーチがいたが、今はいない。誰が殺したのかは知らないが、一日も休まずに来ていたコーチはある日から来なくなった。厳しいコーチではなかったが、コーチであることは確かだった。みんな、そのうち殺されるだろうとは感じていたので、驚くことはなかった。ただ、ああ今日か、とは思った。

 三人目の彼は真ん中くらいの強さの男子で、彼の強みはボールの回転量だった。球速には追いつけるが、回転に押されて甘い返球になってしまう。そこをそこそこの速さで叩かれる。こういう力で押してくるタイプの攻略は得意だったはずだが、最近は相性が悪くなってきた。
 僕が後ろにそらした球を拾って台に戻ってくると、「休もう」と彼は言った。ちょうど十五分が経っていた。
 休憩要員の僕は、これからどんどん弱くなっていくのだろう。

 体育館の外に出て、
「いるか?」
 と僕は言った。
 右足に透明な犬がすり寄ってきた。
「よし。偉いぞ」
 僕は海岸沿いを歩き始めた。

 死体が浮いていた場所で、ガードレールに寄りかかって崖の下を見てみた。すでに僕の同級生はいなくなっていた。波に流されてしまったのだろう。
 一応、「臭いはするか」と犬に訊いてみたが、NOという返事だった。

 電車に乗るときには、必ず運転手か車掌の顔を見ることにしている。ここ数年、年配の人の顔は見たことがない。僕らは若い乗務員たちを『使われている人』と呼んでいる。彼らのような『使われている人』はほぼ必ず、僕らの世界に戻ってくる。『使う人』にはなれない複雑な制度になっているからだ。
 僕は、『使う人』でも『使われている人』でもない。単なるこちら側の人だ。

 三年前まで、電車の中では無言でいなければならないと思っていたが、それはかなり不自然なことではないのかと思うようになった。だから、僕は知らない仲間に話しかける。
「おう」
「うっす」
 相手も返事をしてくれる。電車の中で知らない人と雑談をするという習慣は、一ヶ月で日本中に広まった。どうやら、日本中で同時発生的に起きた現象のようだった。僕ら以外も、みんな喋っている。喋らないのはあちら側にいる人だけだ。そういう規則になっているらしい。
「今日、変なうまい棒をもらったんだけどさ」
「誰から?」
「ファミマの店員」
「それ、怪しくね?」
「怪しいと思ったから、犬に食べさせたんだよ。そうしたら、透明になった」
「犬が?」
「そう、犬が」
「信じられねえ」と見知らぬ彼は言ったが、「でも、信じられる気もするな。『店員』なら」とも言った。あちら側の人間なら、という意味だ。

「それって」と知らない女性も話に加わってきた。「私、知ってるかも」
 僕らは先を促した。
「友達の友達から聞いたんだけど、本当に普通のうまい棒の形なんだけど、食べると体が部分的に透明になるんだって」
「犬は全身が透明になったけど」
「それは多分、犬が小さかったからじゃないかな」
 僕は想像してみた。例えば、左足のひざから下だけが透明な男。裸になると、ひざから切断されたように見える。ひざからはわずかに血管が見えている。切断面からは筋肉組織や骨も見える。嫌な薬だ。
「噂はそこまで?」僕は訊いた。
「あとは、うまい棒のコードネーム。『つまらないもの』とかっていう話」

「ねえ、その犬ってどこにいるの。見てみたいんだけど」
「ここにいるけど見えないよ」
「なんで?」
「透明だから」

 電車から降りてしばらく歩くと、犬が僕の左手をつついた。
 僕もそれには気づいていたので、小さく頷いた。男が僕のあとをつけている。どうしたものかと考えたが、ひとまず本当に僕のあとをつけているのかということを確認することにした。
 今来た道を僕は引き返す。男と視線を合わせずにすれ違う。再び駅に向かい、改札口を通り抜けてホームの椅子に座る。
 男もホームに引き返してきた。目を合わせると、僕の方に近づいてきて、
「分かっているとは思いますが、話があります」
 と切り出した。
「僕もその話は聞きたかったところなんだ」そして問う。「『つまらないもの』ってなんだ?」
「私がその質問に答えると思いますか」
「あなたは答えないだろうが、ファミリーマートの裏切り者なら答えるだろうね」
「彼女なら、答えるでしょう」
 どうやら、ファミリーマートにいたあの店員は、あちら側の裏切り者らしい。当てずっぽうでもなんでも言ってみるものだ。あの店員は、こちら側に何らかのメッセージを送ろうとしていたことになる。

「犬を透明にしましたね」と男は言った。
「ここにその犬がいる」
「その犬を私に渡してくださいませんか」
「僕は構わないが、犬自身がなんと言うかは分かりかねる」
 犬は僕の左手に触れた。
『了解せず』
 男の手に渡っても何か実験されるだけだということが分かっているのだろう。
「それから、犬があなたに意志を伝えたいかどうかも分からない」
『NO』意思は伝えたくないらしい。この状況をなんとかしてくれという犬からの依頼だ。
「その犬はあなたになついているのですか」
『YES』即答だった。
「それほどでもない」僕は答える。

 まっすぐな線路の向こうから、電車が来るのが見えた。

「仕方ない。僕にはこの犬の能力を活かすことができない。だから、あなたに渡そう。犬もそう言っている」僕は言った。「犬はこの場に残すから、僕が立ち去ったら持っていってくれ。僕は犬が乱暴に扱われるところを見たくはない」
 僕は立ち上がる。
 男は僕の前に立ちはだかる。
「私にはもしもあなたが犬と一緒にどこかに行ってしまっても分からないのですが」
「心配ない。犬に定期的に吠えるように言って聞かせる」
 僕の言ったとおりに、犬は、
「うぉん」
 と吠えた。
 男は犬の方を見た。
「それじゃ」
 犬は五秒ごとくらいに「うぉん」と吠え、僕はそこから遠ざかる。ホームの端の方にいたから五十メートルくらいを歩くことになる。犬の声は徐々に小さくなる。

 頃合いを見計らったのだろう。一際大きな犬の遠吠えが聞こえてきた。合図だ。僕は振り返る。男は周りの目を気にしながらも、透明な犬がいるはずの方に駆け寄り、捕まえようとした。かがみ込んだ男の腕が空を切った。間髪を容れずに、男の背後から犬は吠えた。男が振り返ったそのときに、犬が的確な角度から体当たりをくらわせたのだろう。男はよろめき、線路に転落した。

 電車の急ブレーキの音を久々に聞いた気がする。その急ブレーキに紛れて、骨が砕かれる音も聞こえた気がした。

 駅の外で、僕は犬に声をかける。
「なかなか、やるじゃないか」
 犬は僕の背中をつついた。これは一体、なんの合図だと思えばいいのだろう。

 僕が刑務所の中に入ると、409番が話しかけてきた。
「この寒い中、よく外に出る気になるよなあ」
 変声期前の高い声がなんとなく羨ましい。それは、僕の声が低いからではなく、僕の声が中途半端に高くてひょろひょろしているからだ。変声期前からやり直して、低い声になるように訓練したい。
「卓球は好きだからね。散歩も好きだし」
「刑務所の中に卓球台を持ってくればいいじゃん」
「今の卓球場が気に入っているんだよ」
「ああ、海辺の」
 そういえば、一度409番を連れて行ったことがあった。ラケットを持たせてみたらなかなか勘がよかったから、続けていたら僕よりも強くなっていたかもしれない。身長も足りている。
「あの海はオレも好きだね」
「僕はそれほどでもないけどね」

「やっと帰ってきたか、32番」女の声がした。56番だった。「128番が呼んでたよ」
 面倒くさいやつに呼ばれたものだ。
 128番は通称『視聴覚室』と呼ばれる部屋にいつもいる。普段、番号で呼び合う僕らも128番には『諜報員』というニックネームをつけている。

 ルームナンバー4『視聴覚室』には、パソコンが十台ほど並べられている。この刑務所に住んでいる人間なら誰でも使っていいことになっているが、定期的に使っているのは二十人ほどだ。僕は使っていない。
 128番は長いソファに横になっていた。充分に暖房が効いているので、毛布などは要らない。
「なあ、諜報員。人様のことを呼びつけておいて自分が寝ているとはどういう了見だ」
 ドアを閉めながら僕は言った。128番は起き上がってスリッパを履いた。
「了見はまあどうでもいいとして、ちょっとこの画像を見てほしいんだよね」
 128番はつけっぱなしだったパソコンの画面を指差す。画面が黄色一色に塗りつぶされているように見えたが、よく見ると濃淡がある。
「これは何かの拡大画像らしいんだけど、何の拡大画像だかが分からないんだよね」
 つまり、これが何であるのかを推測する手法を作れ、とそういうことだ。

「画像は何枚ある」僕は訊いた。
「五枚だね」
 全て見せてくれるように頼むと、128番は素早く画面に五枚の画像を表示してくれた。五枚の解像度はまちまちだった。黄色一色の濃淡画像であることだけが一致していた。
「解像度がまちまちなのはなぜだ」
「これは、解像度が違うんじゃなくて、カメラと被写体との距離が違うんだ」
 なるほど、言われてみれば、それぞれの写真の遠近感が異なるような気もした。
「できるか?」
 と訊かれたので、
「無理そうだな」
 と答えた。
 全く輪郭がない画像では分かるはずがない。

『視聴覚室』から出て、ドアを閉める。

 思えば僕は犬を飼ったことがない。この犬はいろいろと質問に答えてくれるが、やはり人間のアドバイザーもほしいところだ。僕の部屋・ルームナンバー78に向かう途中で、不意に心配になり、
「いるか?」
 と足元に問う。
 右足に犬が触れる。
 なんとなく、『視聴覚室』に閉じこめてしまったのではないかという不安に駆られていたのだ。あまりにも無造作にドアを閉めてしまったからだ。次からは、ドアに気をつけなければ。
 さて、人間のアドバイザーはどこにいるだろう。

 ルームメイトの229番が言うには、あちら側の政府は僕らを攻略しようとしているらしいとのことだった。できるはずがないと思った。まず、戦闘員の人数の桁が違う。こちら側は全員が戦闘員だが、あちら側はほんの一握りだ。それに、僕らは僕ら自身を人質にとっている。僕らのほとんどは、あちら側の人間の子供だ。あちら側が攻撃を仕掛けてくることなどあるはずがない。さらに、もしもこちら側が負けそうになったら、あちら側のライフラインの機能を停止させることだってできる。ライフラインは三年前、僕らが同時多発的に占拠した。水道、電気、ガス、電話。これらは完全に僕らの制圧下にある。
 そう言ったら、229番は、
「向こうもいろいろと考えているだろうよ」
 と僕をバカにするような口ぶりで言った。
「あちら側には勝てる要素がないだろ」
「きっとあちら側も頑張って、勝てる要素を探していることだろうよ」

「だいたい、あちら側ももう俺たちを人質だとは思っていないよ」229番は言った。「こちら側は『集団自殺』しようとしているんだからさ」
「あちら側には『人情』という弱点があるんじゃなかったっけ」
「あれから三年も経つんだし、もうそんなものは捨てただろう」
 確かに僕の同級生の女の子は、今日、簡単に殺された。
「思い当たるふしがあるんだね」
 と言われたので、同級生の死を話した。それから、ここに犬がいることを話し忘れていたので、それも話した。
「犬がいるのか。触ってもいいかな」
 僕が「おい」と声をかけると、犬は229番の元へ行ったようだった。229番は透明な犬をなで回した。
「いい毛並みだ。きっとこいつを透明にした薬が、向こうの開発途中の切り札なんだろうな」

 夕食にしようという話になり、229番と一緒に部屋を出た。僕は二人部屋をあてがわれている。

「あ」と僕は気づいた。「お前、犬を飼ったことがあるのか」
「ああ」それが何か、という感じだった。
「僕は犬の飼い方を知らないんだよね」
「なるほど。でも俺じゃ役に立たないな。ほとんど放し飼い状態で、餌すらやっていなかったから」
 僕は足元の透明な犬に話しかける。
「お前は、自分で食べ物をとってこられるか」
『了解せず』
「そうか。僕はお前の食べられるものを知らないから、自分でより分けてくれ」
『了解』
 僕が独り言のようにそう言っていると、
「その犬、人の言葉が分かるのか」
 と229番は訊いてきた。
「分かるらしいね。なぜだか知らないけど」

 食事は料理好きの奴らが作っている。僕も229番も自分では料理をせずに食べるだけだ。
 材料費やその他の費用は、ライフライン管理局から支給される。コミュニティごとに財政管理部があり、彼らが費用を割り振っている。この刑務所では1番から5番までがその担当だ。財政管理部の奴らに若い番号を割り当てたのはうちのコミュニティくらいで、近所の小学校を拠点としているコミュニティでは、フィボナッチ数を割り当てたらしい。まあ、趣味の問題だ。
 今日はハンバーグとマカロニサラダのようだった。ハンバーグなら、多分、犬も食べられるだろう。
「透明な犬がいるんだ」
 と話すと、怪訝な顔をしながらも85番は二人分よりも少し多めによそってくれた。

「犬、ここは『待て』だ。お前は多分、食い散らかす。お前の分はちゃんと確保しておく」
 少しの間があって『了解』という返事が来た。お腹が空いているのだろう。
 僕はマカロニにフォークを突き刺す。口に入れようとして、あることに気づいた。
『視聴覚室』で見せられたあの黄色の物体は、うまい棒ではないだろうか。マカロニを黄色く塗って間近から撮影したら、ああいう濃淡にならないだろうか。

 ちょっと用がある、と言って僕はマカロニを一つ食べただけで席を立った。
「すぐに戻ってくるつもりだけど、時間がかかったら部屋に食べ物を運んでおいてくれないかな」
「犬のも、か?」
「頼む」
 僕は腹を空かせた犬とともに、『視聴覚室』に向かう。

 うまい棒だろうと言うと、128番は再びパソコンの画像五枚を見せてくれた。画像信号処理のプログラムを書くまでもなく、この濃淡のパターンは、円柱形のものだと分かる。
「この写真の色調はどれくらい信頼できる?」僕は訊く。
「梅の花がちゃんと赤く見えるくらいには信頼できる」128番は答える。
 これがうまい棒だとすると、もう一つの情報がここに入ってきている可能性が高い。
「もしかして、自然言語処理担当の奴らに、『つまらないもの』っていう文字列の解析を頼んでいないか?」
「なぜそれを知っている」
 僕は昼間の出来事を全て話した。

 僕は『視聴覚室』を追い出され、ドアには鍵がかけられた。その場に居合わせた347番も追い出された。
「戦略部会のようだね」
 僕が言うと、
「なんだそれ」
 と聞き返された。
 僕らがコミュニティを作るようになったときにテロを起こした仕掛け人たちの会議だ、と教える。
「『諜報員』って『あちらとこちらに分ける会』の党員だったのか」
 347番は純粋に驚いているようだった。このあたりの事情は、知っている人間と知らない人間との差が激しい。

 自室で犬に食べ物を分け与える。僕も一緒に食べる。229番はほとんど僕を待つことなく、自分が食べ終わるとさっさと自室に向かったとのことだった。「待っていても退屈なだけだ」とのことである。そのとおりだ。
 犬がものを食べているところを見るのは面白かった。犬がくわえたハンバーグは空中に浮かび、くわえられたところが透明になる。空中に食べかすが浮いていても、一瞬ののちにはきれいに消えている。犬が口の周りをなめ回したのだろう。食事の前は犬の胃袋で消化されていくハンバーグを見たいと思っていたのだが、くわえた瞬間に消えるというのも手品のようで面白い。
「なあ、犬」僕は話しかける。「なんでこんな面白い薬に『つまらないもの』なんていう名前がついているんだ」
 犬は、くー、と鳴いた。多分、分からないという意味だ。
 代わりに二段ベッドの上から、229番が推測を披露してくれた。
「薬を作った奴らの生き方を表しているんだよ」

 トイレで用を足していると、壁のスピーカーから、
「通信班は至急『視聴覚室』へ集まれ。繰り返す。通信班は至急『視聴覚室』へ集まれ」
 という放送が聞こえてきた。
 僕は、情報解析班画像担当だ。面倒ごとを避けることができたらしい。

 トイレから帰る途中に電話がかかってきた。
「その後、犬の調子はどうですか」
 薬剤師の女だった。
「どうもなにも、人工衛星で監視しているんじゃなかったのか?」
 人間、たまにはからかいたくなる。人工衛星では建物の中まで見えるはずがない。
「意味のない会話を好む人間だとは思ってもいませんでした」少しの間のあと、薬剤師の女は言った。
「これは、意味のある電話なのか?」
「我々は、あなた方のコミュニティを壊滅させます」
「それは面白いね。ところで、電話を切ってもいいかな。退屈な会話は嫌いなんだよ」
「およそ十五歳以上のほとんどの人間を狙います」
「なかなかいい狙いだね。手段はないんだろうけど」
「一斉蜂起をするんですよ」
 そこまでで電話は切れた。
 通信班が呼び出されたのは、この電話があるという情報が入ったからなのだろう。僕の電話の内容を録音しつつ全員で聴いているに違いない。

 すぐに次の電話が来た。128番からだ。
「ご苦労」128番はまずそう言った。そしてすぐに用件を切り出す。「俺たちが気づけないようなことで、何か気づいたことはあったか」
「多分、ないだろうね」
「32番の見解は?」
「僕が電話を早く切り上げようとしても用件を言ってきたからね。多分、こちら側の全員に内容を伝えておきたかったんだろう」
「つまり、俺たちの出方をうかがっているということか」
「そう。だから、僕らは何も対策をしてはいけない」
「それが32番の直感か」
「あとは、戦略部の皆様に任せるよ」

 その晩、229番が久々に二段ベッドの上から話しかけてきた。
「全面戦争かねえ」
 僕もそう考えていた。向こうは数日以内に仕掛けてくるのだろう。あちら側は団塊の世代と新人類。こちらは団塊ジュニアとゆとり世代。負けるはずがないとは分かっているが、勝てるはずがない戦いを挑んでくるところが不気味だ。
「負けそうになったら、俺たちは」229番は言葉を選んでいるようだった。「俺たちは心中をすべきなんだろうか」
 もしもあちら側の人間が団結して、戦闘人員の数の差が消えてしまったら、白兵戦も空中戦も、重火器を所持しているあちら側の方がどう考えても有利だった。僕らに切り札があるとしたら、無理心中だろう。
「戦いを挑んできたそのときには、日本のライフラインを全て破壊する。それが僕らの強さだ」
 多分、ほかの部屋でも、そして、ほかのコミュニティでも、今夜はこんな会話が交わされているのだろう。

 朝起きると犬がいた。いや、犬は最初からいたが、透明ではなくなっていた。
「へえ、こういう犬だったのか」
 と229番はあらためて犬をなで回した。
『つまらないもの』というあのうまい棒の薬には、時間制限があるらしい。完全に色が戻っていた。

 128番はソファで寝ていた。こいつの役目は情報収集のみで、寝ているということはつまり情報をかき集め終えたということになる。戦略部会の会議も終わったのだろう。
 起きろと言うと、128番はすぐに起きた。
「なんだ、起きていたのか」
「眠れなかっただけだよ」
 確かに、血色は悪かった。
「どういう対処をすることになったんだ」
「対処法を教えないことになったよ」

 僕はといえば問題なく眠れた。
 四年前に体を壊したときには眠ることすらできなかった。あの頃はどうなることかと思ったが、静かに休んでさえいれば人間の体は回復していくものだと知った。もしも四年前に戻ることになったら、僕は壊した体を引きずり回して再就職先を探すことなどせずに、静養することを選択しただろう。
 あの頃の同僚とは今もたまに電話をする。最も仲のよかった同僚は、今もまだあちら側の世界にいる。「使い潰されているよ」とそいつは言う。「使い捨てられないだけマシだよ」と僕は言う。

 昨日の散歩には透明な犬がついてきたが、今日の散歩には透明でない犬がついてきている。刑務所を出るときに、赤い首輪もつけておいた。外に出た途端に元の飼い主のところに走って戻るかとも思っていたが、なぜか僕についてきた。
「なぜついてくるんだ」
 僕が訊くと視線を一度だけ合わせたが、質問に答えることもなくすぐに逸らしてしまった。考えてみれば、理由を問う質問に答えられるような合図を僕は教えていない。
「僕についてきたいのか」
『YES』
 なんとなく、訊く前からそれは分かる。それ以上の質問に答えてもらうにはどうすればよいだろう。

 携帯電話が震えたので電話がかかってきたのかと思ったが、メールだった。コミュニティ全員宛のメールだ。
『琵琶湖沿岸部の中学校付近に着弾がありました。他国ではなく、あちら側によるものと思われます。着弾地点は湖の中であり、そこから一キロ離れた中学校には被害はありませんでした』
 あちら側による威嚇だ。誤射ではない。向こうのミサイルの精度は一キロも外すほど悪くはない。

「うぉん」と犬が吠えた。
 振り返ると、背後からバットを持った男が突進してきていた。
 反射的にナイフをとり出す。
 男はバットを振りかぶる。
 犬が男に向かって走り出す。男が犬に目をとられた隙に、僕はナイフを投げつける。狙ったとおりに男の右目に突き刺さる。さらに犬が首筋に噛みつく。男の手からバットが落ちる。犬が離れる。

 予告していた一斉蜂起というやつだろうかと思い、刑務所にいる229番に電話をかけた。
「確かに男が二十人ほど侵入してきたけど、全て始末したよ。ただ、431番が軽い怪我を負ったけどね」
 刑務所にはこういうときに備えて罠が仕掛けてある。薬剤師の女が言っていた一斉蜂起というやつは、随分とお粗末なものだったようだ。
 電話を切って、僕は犬に語りかける。
「僕のナイフとお前の口の周り、洗わないとな」
 ひとまず公園に向かうことにする。

 ナイフを洗い、丁寧に拭き、折りたたむ。「おい」と言うと犬が水道の蛇口に顔を寄せてきた。こういうのは嫌がるかと思ったが、素直な犬だ。僕は犬の顔についた血液を水で洗い流す。犬は気持ちよさそうに目を閉じている。
「ついでに体も洗うか?」
 と言うと、犬は「うぉん」と吠えた。

 犬を洗っていたら、
「おう」
 と声をかけられた。卓球クラブの準備体操男だった。こいつはいつも練習の一時間前には来ていて、黙々と準備体操をしている。練習が終わるとやはりクールダウンに時間をかける。卓球の腕は、僕よりは一応強いものの、それほどでもない。真面目に練習をしているにしてはかなり弱い方だと思う。
「お前、犬を飼ってたのかよ」
「昨日からだけどね」
「似合わないなあ」
「僕も似合わないと思うよ」
 そして、一応、僕らは情報交換をした。準備体操男のコミュニティにも、一斉蜂起などの情報は流れたらしい。それから、何人かの男たちがそいつのコミュニティ拠点である小学校に侵入してきたそうで、こちら側は二人の負傷者が出たそうである。琵琶湖へのミサイル着弾の件はそいつも知っていた。
「それ以上は俺も知らない」
 と準備体操男は去っていった。

 犬を洗い終えたらまた透明になるのではないかと期待していたが、そんなことはあるはずもなかった。

 ファミリーマートに行ってみたが、閉まったままだった。すぐに立ち去ろうと思ったが、何か違和感を覚えた。なんだろうと思い、店をじっと見ていて理由が分かった。営業をやめたにもかかわらず、暗い店内の中に商品が並んでいる。なぜ片づけをしていないのだろうと不思議だったが、きっと片づける人員がいないのだろうと考えて、やはり立ち去ることにする。
 今日は一斉蜂起なのだ。人員が不足していてもおかしくはない。

 神社に行く途中で今度は女が一人包丁を持って後ろから襲いかかってきたので、殺しておいた。犬に包丁の対処を任せ、僕はナイフで頸動脈を切り裂いた。

 神社の崖の下の滝壺で、僕はナイフを洗った。犬は犬かきをしていた。
 昨日の男の死体はすでになかった。血の跡も拭きとられていた。昨日はおそらく犬が透明だったから僕に手出しができなかったのだろう。
 犬が滝壺から上がる。
 今も僕は監視されているのだろうかと考える。今日は早めに卓球場に向かった方がいいかもしれない。卓球場に早く来てお喋りをしている奴らは結構いる。

 いつものように電車内で誰かに声をかけるということはしなかった。誰かに話しかけようものなら、すぐにこちら側の人間だとばれてしまい、あちら側に殺されかねない。久々の緊迫感だ。
 黙っていれば襲われることはないだろうと思うが、念のためにナイフをいつでもとり出せるようにポケットに手を入れておく。電車内の均衡は今にも崩れそうに思えた。今この場で誰か一人が傷つけられたら、均衡は崩壊し、誰か一人が生き残るまで殺し合うことになる。実際に、テロが起きてからの最初の一ヶ月間はそういう光景がしばしば見られた。僕はそういう車両に乗り合わせたことはないが、すぐ隣の車両がそうなってしまったことはある。
 今日は一斉蜂起があったこともあって、誰もが神経をとがらせている。まばたきが少ない。呼吸が浅い。
 駅に着くごとに人が降り、人が乗り込んでくる。乗り込んでくる人は、犬を連れている僕を奇異な目で見る。考えていることは相手も僕も同じだ。この人はどちら側の人間だろう。

 車両の中で誰かが咳き込み始めた。咳から判断するに男だ。すぐにその男を目で探す。僕からはかなり遠い場所にいた。
 刺されたのだろうかと思って、僕は呼吸をさらに浅くする。
 男は、吐いた。血が混じっているようには見えなかった。緊張から電車に酔ってしまったのだろう。程なくして、車両に嫌な臭いが充満した。
 次の駅でその男は降りていった。どちら側の人間なのかは判断できなかった。
 誰も刃物や銃をとり出すことはなかった。電車が駅を出る。
 臭いが酷いからといって、降りる人が増えるわけではなかった。ここで不自然に降りてしまうと、残った人の中で自分と同じ側の人間が人数的に不利になる。何かが起きたときのことを誰もが考えている。乗ろうとして途中で臭いに気づき、ホームに引き返す人はいた。

 臭い以外は何事もなく目的の駅に着き、僕は降りた。

 駅から出てしばらくは商店街を歩く。美容院の前で、五十代くらいの女性がティッシュ配りをしている。僕はティッシュをもらって、広告を確認する。
『つまらない話をしていきませんか』
 と書かれていた。
 僕は自分の髪を触った。まだ切ったばかりだったが、その美容院に入ることにした。

 客は一人もいなかった。
「いらっしゃい」
 と出てきたのは、店長と思しき髪の薄い人だった。
 入ってすぐのところで、
「あの」
 と僕は言った。あちら側にならって、ここは敬語を使わなければならない。
「つまらない話をしに来たんですが」
 僕の言葉を聞くと、店長は黙って頷いて奥へと引っ込んでいった。そしてすぐに薬を二錠くれた。「一錠の効果はだいたい六時間だ」と言った。そして再び黙って頷いた。僕も頷いた。
 店を出た。

 海岸の人気がないところで、僕は128番に電話をした。
「ちゃんと生きているようだな」
「大丈夫だ」
 僕は錠剤のことを話した。

 今日は犬が透明ではないので入口で待たせておくべきかとも思ったが、廊下までは連れて行った。体育館の中にはすでにお喋りを楽しんでいる奴らがいた。
「あれ、犬。お前の?」
 と訊かれた。
「多分、僕の。昨日からだけど」僕は続けて訊いた。「中に入れてもいいかな」
 彼らはお互いに思惑を探り合ったのち、
「いいんじゃないかな、足を拭けば」
 と言った。
 僕が「足を拭くぞ」と言うと、犬は「うぉん」と吠えた。
「すごい、賢い。気持ちが分かるんだ」と感嘆の声をあげた奴もいた。

 犬は僕に寄り添うように座っていた。ハチ公の座り方だ。
「そういや、お前、今日は早いな」
「あちら側の襲撃はもう終わったよ」
「世の中早い日も遅い日もあるよ」
「っていうか、『準備体操男』より早かったことって今までなかったんじゃない?」
「そうかも」
「そろそろ腕が落ちてきてやばそうな雰囲気を感じたんだろ」
「最近は全敗だっけ」
「俺、こいつと当たると休めるから好き」
「あんたも最近、休み過ぎじゃね?」
 という科白を僕は聞き流していた。

「ういっす」
 と十歳くらいの最近入ってきたばかりの女の子が卓球場に来た。卓球を始めて三ヶ月のこの女の子にも僕は負けている。僕が弱いのもそうだが、それ以上にこの女の子の上達が異常なほど速いのだ。
 何やら嬉しそうににやにやとしていたので、一人が訊いた。
「なんでそんなに、にやけてんの」誰かが訊く。
「だって」
 と女の子が答えようとしたら、
「そっか、歴史のお勉強をするんだったよね」
 と誰かが言った。

「なんで犬がいるの」とその女の子に言われた。
「僕が連れてきたから」
「触ってもいい?」
「犬に訊いてくれ」
「どうやって?」
「人間の言葉で」
 女の子は考えて、こう言った。
「ドント・タッチ・ミー?」
 犬はちゃんと女の子にすり寄っていった。

 三年前に何が起きたのかということを女の子は知りたがった。
 端的にいえば、生活に疑問を感じた奴らが社会から降りるという宣言をしたということになる。そして、ほとんどの若い働き手が無職となり、学生たちは自主退学をした。
 一つだけ知りたいことがある、と女の子は言った。
「首謀者は誰?」
「医師会の若い人たち」
 と僕は答えた。
「その人たちの活躍のおかげで、私は今、学校に行かなくてもいいことになっているんだね」

「そういえば俺、三年前何をしてたかなあ」一人が呟いた。
「私は憶えてるよ」
「何?」
「現実逃避」
 僕たちは結局何も変わっていないのかもしれないと思った。僕は学生のとき、モスバーガーの厨房でバイトをしていた記憶しかない。授業にはだいたい真面目に出ていたが、勉強はしなかった。出席していれば単位がとれる講義ばかりを選んでいた。会社に入ってからは、自分でも何を書いているのか分からないプログラムを毎日書いていた。それが本当に社会で使われていたのかは分からない。睡眠時間は週に十四時間程度だったから、拘束だけはしっかりとされていたことになる。勉強を始めたのは、三年前からだ。入門書から学術論文までいろいろと仕入れて、画像信号処理について学んだ。

「もう一度、一斉蜂起が起きるかもしれないんだ」
 僕は話を切り出した。
「まあ、今回のは生温すぎたよな」
 誰かが相づちを打った。
 僕は、犬が昨日は透明だったことを告げた。ずっと、卓球場にいたのだと言った。
「気づかなかったよ。この犬、静かだし」
「透明になるかもしれない薬がここにある」僕は美容院でもらった錠剤をとりだした。「これを誰かに飲んで人体実験をしてほしい」
「なるほど。完全に透明になれれば、今度は透明人間たちが乗り込んでくるということだな」

 服を脱いでもらう都合上、透明とはいっても男がいいだろうという話になった。ジャンケンをした結果、それまであまり喋ってなかった奴が錠剤を飲むことになった。
「毒かもしれないんだよな?」
 そいつは呟いた。そして、口の中に含み、水で流し込んだ。僕らはそれをじっと見ていた。
「とりあえず、毒じゃないみたいだけど、俺、透明になってるか?」
「いや、まだ透明にはなっていないし、毒じゃないとも限らない」別の奴が言った。「遅効性の毒だって」
 と言葉を続けようとしたところで、薬を飲んだ奴が透明になっていった。
「お前、自分の腕を見てみろよ」
 まだら模様に透明になっていたので、血管や筋肉繊維などが外から見えた。「いやっ」と女子が悲鳴をあげた。透明になっている本人はいたって冷静に、「六時間で効力が切れるんだったよな」と呟いた。
 数分かけて、そいつは完全に透明になった。服を脱ぐと、まるでそいつがどこにいるのかが分からなくなった。

 報告をするための簡単な実験をしてもらった。まず、体に触れるかどうかの確認をした。体の実体はあった。歩くと足音がした。ペンで体に色を塗ることもできた。色が塗られた部分だけが、宙に浮いているように見えた。裏側からもその色は見えた。
 要するに、僕らが通常思い描くような透明人間と同じらしい。

 僕がひととおりの報告を終えると、128番は、
「あちら側の一斉蜂起はいつだと思う」
 と訊いてきた。僕の直感が知りたいのだろう。
「今夜か、明日の晩だろうね。とにかくすぐだ。僕らが薬の効果を知ったのはばれているだろうから、対策を立てる間を与えてはくれないはずだ」
 128番もそう思っているらしかった。
「どうにかなるか?」
 と僕が訊くと、128番は楽観視しているようだった。
「あちら側の結束力は弱い。人数だけならこちら側が圧倒的に上回っているよ」

 僕らが弁当を食べていると、準備体操男が現れた。練習開始の一時間前だ。
 当初、服だけが宙に浮いている様子を見て驚いていたが、透明人間になる薬を飲んだのだと説明すると、かなり簡単に納得してくれた。
 二度目になるが、食べ物が空中で消えるさまは見ていて面白かった。あとから来たほかの部員たちも面白がっていた。

 彼は、透明なまま卓球をすることになった。ユニフォームは着ているから、位置はかろうじて分かる。最初に彼の練習相手になったのは、年少の女の子だった。やりづらいやりづらいと騒いでいた。視線が分からない分、翻弄されているらしかった。
「なんか、ずるい」
 というのが女の子の感想だった。
 次に当たったのは、僕だった。
「休む?」
 といつものように訊かれた。
「いや、今回は時間ぎりぎりまで打つ」
 確かに、透明というのはずるかった。足の運びも分からなかったし、肘の位置も分からなかった。僕は普通に打つよりも体力を消耗した。
「やっぱり、休んでいい?」
 僕は三十分後に降参した。

 誰かの携帯電話の着信音が鳴った。音の長さから察するにメールだ。一人がラケットを台に置いて自分のバッグの方へと走っていった。続いて、別の一人の着信音も鳴った。そして、みんなが気づいた。
「俺たちも」
 透明人間が言ったので、僕も頷いた。全員が自分の携帯電話のもとへと走っていった。
 全員にほぼ同一内容のメールが届いていた。
『スプレーを買っておけ』
 戦略部会でそう決まったのだろう。

 透明人間にはカラースプレーが有効だ。色がつけば透明ではなくなる。僕らがスプレーを大量に買うと、透明になる薬のことをこちら側が気づいていることにあちら側も気づく。あちら側の少ない戦力が、もしかしたらさらに少なくなってくれるかもしれない。あちら側には、『知る権利』を主張するグループだってあるのだ。おそろしく統率のとれていない集団だ。

 メールを読み終えると、僕と透明人間以外の部員たちはまた卓球を再開した。
 僕は床に座り込んで足をもみほぐした。透明人間は軽く素振りをしていた。僕はその様子を見ていた。
「絵の下手な人が、棒人間をよく描くじゃん」
 と僕は言ってみた。
 透明人間は、相づちを打って続きを促した。
「あれの逆でさ、棒の関節のところと先っぽのところだけを点で描いて、『点人間』っていうのがあるわけさ」
 そこまで僕が言うと、透明人間は気づいたようだった。
「つまり、今の俺が『点人間』に見えるわけか」
 シューズが見えて、短パンが見えて半袖のシャツが見えてラケットが見える。もし、ラケットが二刀流で、帽子もかぶっていたら、完璧な『点人間』の出来上がりだ。

 三人目の相手は最年少の女の子だった。その女の子は、とにかく強くなるのだと意気込んでいた。強くなってどうするのかと訊いてみたこともあるが、そういうことはあまり考えていないらしい。
「休まないでね」と言われた。
「それはつらいな」
「みんながやってるんだから、休まないのが基本なの」
 それは、そうではないんだよと教えようかとも思ったが、そのままにしておいた。
 彼女は彼女なりに考えているらしく、僕を疲れさせることなく自分の練習ができるような練習方法を言い渡してきた。

 女の子は全力で強打し、僕はそれを軽く打ち返していた。いかに僕よりも上手いとはいえ、小さな女の子の強打くらいなら簡単に返せる。僕が彼女にかなわないのは、テクニックの問題だ。
「ちょっと疲れてきたかも」
 と女の子が言った。
「だから、休めばいいんだよ」
「休まないよ」
 負けず嫌いというのは、勝つための大きな要素でもある。

 練習が終わって、いち早く帰ろうとした僕の肩に、透明人間が手を置いてきた。
「これ、本当に六時間で戻るんだろうな」
「それは僕が知りたいくらいなんだけどね」本当に知りたかったので、ついでに言っておいた。「戻ったらメールをくれ」

 僕の前にスーパーマーケットに入っていった人も、スプレーだけを買って出てきた。棚を確認すると、すでに赤いスプレーは売り切れになっているようだった。僕は二つだけ残っていた青いスプレーのうち片方を買う。
 レジに持っていくと、パートのおばさんが、
「頑張ってね」
 と言った。

 気になることがあった。スプレーに毒が入っているのではないかということだ。128番に連絡を入れてから、スプレーを左手に向かって少量噴きかけてみた。鼻を近づけてみても、単なるシンナーの臭いしかしなかった。
「うぉん」
 と犬が吠えたので、犬にもかがせてみた。
「どうだ、毒は入っているか」
 と訊いたら、少し迷ったのちに、『NO』という返事が来た。
 128番に報告をした。

 車両の中に透明人間がいる可能性はゼロに近い。透明人間が何らかの方法でこちら側の人間を殺したとしても、返り血などが体に付着するために透明ではなくなってしまうからだ。透明でなくなった途端に、こちら側の人間の攻撃に遭う。
 いやらしいのは、人気のない道にいるときだ。いつ襲われるか分からない。

 駅を出て人気のない道を歩いていると、真向かいから刃物を持ったおばさんが突進してきた。何か意味のある言葉を叫びながら向かってきたが、なんと言っているのかはよく分からなかった。僕はもう何人も殺しているから、余裕をもって対処できた。ポケットからナイフをとりだし、おばさんの包丁をいなして、ナイフをのどに突き刺す。
 簡単なものだ、と思ったときに僕に油断が生まれたのだろう。左腕に痛みが走った。
 振り向くと、犬が何かに噛みついていた。少し遅れて、何に噛みついているのかが分かった。犬は透明な人間に噛みついていたのだ。僕の足元にナイフが落ちていた。僕がおばさんに気をとられている間に透明人間に後ろをとられ、ナイフで浅く腕を傷つけられたということらしい。犬がいて助かった。
 腕の傷は大したものではなかった。

 刑務所の前で、409番と行き会った。
「外を出歩いていると危ないぞ」
 と言ってみたら、
「なに、お兄さんぶってるんだよ」
 と言い返された。変声期前の高い声だ。
「こんな危険な日に外を出歩くこともないだろう」
「そっちこそ、こんな日に卓球をして襲撃でも受けたらどうするんだ」
「奴らの襲撃なんか大したことない。こちらが数にものをいわせれば」
「まあ、そうだけどさ」

 同室の229番は僕が部屋に入るなり、何かがびっしりと印字されたA4の紙を見せてきた。
 なんだろう、という顔をしていると、すぐに教えてくれた。
「今夜の襲撃に割り当てられているあちら側の人数だよ」
 僕のコミュニティには、十五人が割り当てられていた。向こうもそれなりに頑張ったらしいが、こちらにはその数十倍の人間がいる。
「一応、買ってきてはみた」
 僕は青いスプレーを見せた。
 229番は黄色のスプレーを買ってきたようだった。

『視聴覚室』のドアには貼り紙があった。戦略部会だから入るなとのことだ。緊急の場合はメールをくれとのことなので、ドアの向こう側にいる人間にメールを送る。
『薬が一錠余っているから渡したい』
 返信はすぐに来た。パソコンのメールアドレスからだった。
『あとでゆっくりとあちら側から大量に送ってもらう。その一錠はお前にやる』

 風呂から出て、脱衣所のドライヤーで髪を乾かしていると、409番も入ってきた。
「そういや、風呂で会うのは久しぶりだな」
「健康に気をつけることにしたんだ」
 409番は答えた。
 確かこいつは、かなりの夜型だったはずだ。前回風呂で会ったのは、夜の零時を過ぎたころだった。そのときは僕の画像解析作業がものすごく遅れていて、風呂から上がってからまたすぐに『視聴覚室』に向かったのだった。
「僕はいつもこの時間だよ」午後六時だ。
「早っ」
 と言われてしまったが、僕より早い奴なんていくらでもいる。

 廊下を歩いていると、
「おう、32番」
 と女に呼ばれた。56番だった。
「なんだその格好」
 僕は言った。56番は全身黒ずくめだった。金髪だった髪も黒く染め直していた。
「対策だ」言うまでもないだろうという感じだった。「私の部屋は一階だ。透明人間が窓からガラスを割って入ってくる可能性がある。こちらも見えづらいように、黒くなったんだ」
「窓の鉄格子、外すべきではなかったな」
 三年前、僕らは入ってすぐに鉄格子を外した。
「どうせ、窓が割られた瞬間にそこにスプレーをかけるんだけど」
 56番は赤のスプレーを買ったらしい。

 229番と食堂で夕食をとっていたら、UNOに誘われた。
「男子がいないとつまらないから」
 という理由だった。
「ここは修学旅行じゃないし、先生が見回りに来ることもないよ」
 と僕が言ったら、
「そのあとで告白大会にしようか」などと言ってきた。「もちろん、枕投げもするよ」
「意味が分からん」
「わんちゃんも、一緒に来るよね」
 なぜだか彼女は犬に話しかけた。犬は「うぉん」と吠えた。
「決まりね」
「ルームナンバーは?」
「33に来て。ほかにも何人か誘ってあるから」
「枕も持っていくよ」

 ドロー・ツー・カードが何回か連続していた。僕はドロー・ツー・カードもワイルド・ドロー・フォー・カードも持っていなかったから、僕の前の番の人にそのどちらかを出されたら、かなりの枚数のカードを引かされることになる。僕は左隣の517番の表情をみた。ポーカーフェイスでよく分からなかった。
「この想いは届くかっ」
 517番のさらに左隣の奴がドロー・ツー・カードを上乗せした。
「その想い、受け流す」517番はさらにドロー・ツー・カードを場に出した。
 僕はカードを出す振りをして、「みんなの想いは受け止めた」と、敗北宣言をした。
 場に出されたドロー・ツー・カードを数え、その二倍のカードを山から引いていると、「なんだよ、だせえな」とか「32番、持ってなかったの」とか「きっといつかいいことがあるよ」とか、勝手なことを言われた。
「危ねー、俺、持ってなかったよ」右隣の229番が呟いた。

「つーか、平均年齢、高くね?」
 誰かが言った。
 ほとんどが、僕の世代だった。
「このメンツで、『四捨五入の会』とか作ろうか」
「私、二十四歳二回目だから、ちょっと入れないかなー」
「何言ってんだよ」
「そうだ、現実を見なきゃ駄目だ」
「俺なんかすでに四捨五入をすると減るよ」
「なんて嫌な現実なんだ」

 UNOの途中で携帯電話が震えた。
「ちょっとごめん」
 卓球部の透明人間になった奴からだった。
「おう」と僕は電話に出た。
「そっちはまだ大丈夫か」
「ああ、何も起きていない」
「ところで、戻った」
 何が? と言いかけて、色が戻ったら教えてくれと言ってあったことを思い出した。
「そうか、おめでとう」どう返事をしたらよいものか分からなかったので、そう言っておいた。
 じゃあ、と僕らは電話を切った。
 128番にメールで報告した。

 僕の電話がきっかけで、「そういえば今日、何かが起きるんだよね」という話になってしまった。UNOを片づけて、それぞれが自分の部屋に戻っていった。

 僕は着替えることなく布団に横になっていた。229番は柔軟体操をしていた。
「俺は久々の運動だからな。筋肉を痛めないように」
 横にはナイフが置かれていた。僕も枕元にナイフを置いておいた。
「張り切りすぎない方がいいんじゃないかな」と僕は言った。「ほら、今晩と見せかけて明日とか明後日とかかもしれないし」
「いや、戦略部会が今晩と言っているんだから、今晩だろう」
「戦略部会が人数を手に入れたけど、偽物かもしれないし」
「あれは信憑性が薄いと彼らも言っていた。ただ、あちら側にあれ以上の人員がいるとも思えない」

「飽きたな」
 229番は床にあぐらをかいていた。
 僕はベッドの上でうとうととしていた。あちら側が来ても大半は罠にはまるし、残りは格闘好きの奴らが倒してくれるのだ。起きているのは時間の無駄に思えた。
「飽きたなら、寝ればいい」僕は言った。
 229番は僕の提案を無視して、「しりとりでもしよう」と言った。
 どうせならもっとマシなゲームがいいと僕は思った。
「オセロにしよう」
 僕は自然と犬に目をやっていた。頼めばオセロをとってきてくれるような気もしたが、犬は眠っていた。

 ノックの音がした。
 僕は反射的に枕元のナイフを手にとって上半身を起こした。229番は素早く立ち上がっていた。
『どうする』と229番が目配せをしてきた。

 警報はまだ出ていない。
 落ち着くための時間がほしかったが、229番はドアに静かに寄っていった。犬はいつの間にか僕の隣にいた。
「32番、いるか?」
 ドアの向こうから僕を呼ぶ声がした。変声期前の男の子の声だった。409番だ。
 僕は緊張をほぐし、
「おう、いるいる」
 と返事をした。
 229番がドアを開けた。

 229番は必要以上に長い間、ドアのところに立って黙っていた。
「どうした。何かあったか」
 と僕は訊いた。
 229番は何も答えずに、ゆっくりと仰向けに倒れた。のどにナイフが突き刺さっていた。
 駆け寄ろうとしたら、犬に静止された。
 ナイフがひとりでにのどから抜け、大量の血が吹き出て天井を染めた。

 犬がその状況を理解できていたのが幸いだった。

 ナイフの刃がこちらに向き、不自然な遅さで真っ直ぐに僕に迫ってきた。その後ろには赤い何かがあった。
「透明人間侵入」スピーカーから女性の声が聞こえた。「推定、二百人程度。抗戦せずに、逃げよ」
 なぜか、向かってきていたナイフが空中で止まっていた。僕はようやく事態を把握しつつあった。僕よりも早く事態を把握していた犬が、ナイフから少しずれたところに飛びかかった。
 犬は空中のどこかに噛みついた。
 ナイフが床に落ちた。極めて自然に床に落ちた。見慣れた落ち方だった。

 今、床には透明なまま死んだ409番が横たわっている。透明ではあるが、ところどころに229番の血液が付着しているので見える。
 経緯は分からないが、409番は透明になり、僕らに襲いかかってきた。犬がいなかったら僕もやられていたところだ。
 ドアはすでに閉めたから、おそらく今はここに409番以外の透明人間はいない。
 スピーカーからの先ほどの放送では、透明人間は二百人ほどだとのことだった。それはほぼ、この刑務所に住んでいる十五歳以下の子供たちの人数と一致する。あちら側の人間はおそろしく統率がとれていないが、こちら側は十五歳以下も含めて結束力が高い。特に世代ごとの結束力はおそろしく高い。
 これは確かに、僕らの負けだ。

 僕はペットボトルの水で薬を飲む。服を脱ぐ。ほどなくして、透明になる。
 犬が僕にすり寄る。
「元気でいてくれ。お前は殺されることがないから」
 窓から僕は外に出る。

 心配だったのは、透明人間同士は見えるのではないか、ということだった。実際には、僕にも彼らは見えなかったし、彼らにも僕のことは見えていないようだった。
 刑務所前で待っていた宙に浮かんだナイフに狙われることもなく、僕は逃げ延びることができた。

 走っていると何かにぶつかった。
「おっと」
 と目の前から女性の声がした。
 続けて、
「どうしたの」
 と問われた。目の前に透明人間がいるのだということに気づいた。
「ああ、問題ない」
 おかしな受け答えだったかもしれないが、僕はそう言っていた。僕の声がひょろひょろとしていて高かったからかもしれないが、特に何も疑われることなく、
「ならいいや」
 とすれ違うことができた。

 隠れる場所を探すことにする。
 かなり歩いたところに見慣れない公園があったので、入ってみると、砂場に僕と同年代と思われる男が仰向けに倒れていた。頭部が陥没していた。ここまで逃げた挙げ句に、鈍器で殴られたのだろう。
 背格好が僕と同じくらいだったので、僕は男の服をはぎとって公園を出た。
 服だけが空中に浮いているという状態があちら側に見つかると間違いなく殺されるので、全力で走った。
 廃屋があったので、そこに入り、服を着た。サイズは思ったとおりぴったりだった。

 僕の体はあと数時間で元に戻る。いつ僕は外に出て、どのように生きのびればいいのか、ということを考えなければならない。

 僕はクモの巣の張りめぐらされたトイレで眠ることにした。

 人の声で目が覚めた。大勢の人の声だった。
「この中か」
 と声がした。
「私、見ましたから」
 という声も聞こえた。
 どうやら、逃亡ももう終わりらしい。あっけない。

 廃屋から連れてこられたのは、三畳ほどの個室だった。畳が敷かれているので、正確に広さが分かる。
 そのうち殺されるのかもしれないが、僕には食料までもが与えられた。温かいラーメンだ。具も豊富に入っている。服も新しいものを与えられた。靴は没収された。
 トイレと洗面台もあった。ただし、この部屋には窓がなかった。照明はある。畳敷きではあったが、出入り口はドアだった。鍵は外からかけられている。

 ノックの音がした。なぜノックをする必要があるのか分からなかった。外側から鍵が開けられ、部屋に男が一人で入ってきた。スーツ姿だった。
「君が生き残りか」男は言った。「いや、怖がらなくていい。君を殺すことはない。拷問にかけることもない。ただ、質問に答えてほしいだけだ。それが終わったら、君をこちらに受け入れる予定だ」
 なんと言おうか迷ったが、
「ラーメン、おいしかった、ですよ」
 とだけ伝えた。丁寧語を自発的に使ったのは久々かもしれない。早くも感覚が三年前に戻りつつあった。

「まず、こちらで把握していることから話そう」男は言った。「首謀者は医師会のおよそ三十代前半の奴らだ。東京でのストライキが社会問題としてマスコミに報じられたのをきっかけに、医師のストライキが地方にまで伝搬した。医師たちの動機は分かる。直前に可決された法案のせいだ」
 男は、そうだろ? という視線を送ってきた。僕は頷いた。
「で、分からないのはそのあとに続いた君たちの世代の、あの異常なまでに統率のとれた襲撃だ。あれは誰が指示を出したんだ? まだあのとき電話会社は私たちの管轄にあったが、インターネット上に君たちの通信記録はなかった」
「それを知って、どうするんですか」
「どうもしない。強いていえば、歴史に残すだけだよ。君たちの愚行を」

 徐々に思い出してきた。
 僕が上司と話をするときは、毎回こんな調子だった。五年前とか六年前とかの話だ。最初は話が穏やかに始まるものの、そのときからすでに上司が怒りを自制していることがこちらからは分かる。
『君はこういう結果を報告したね?』という確認から始まり、『でもね』という接続語句のあとに『それでは困るのだ』ということを言われる。『なぜ、ああいう報告で君は満足したの?』僕は問いつめられる。些細なことに関してまで問いつめられる。『じゃあ、明後日までにこれを片づけてね』到底できるはずがない量の仕事を押しつけられる。ミスが出て当然だ。

「話したくない場合は?」
 僕は訊いた。
「黙っていてくれて構わない。ただし、喋ってくれないとこちらとしても君を解放することができない」
「監禁ですか」
「そういうことになる。ちゃんと三食持ってくるつもりだし、君が病気になったら治療もするつもりだ。君が望めば暇を潰すためのものも与えよう」
 どうやら、相当に僕の証言は貴重らしい。
「僕から質問することは?」
「質問は自由にしてくれて構わないが、私が喋れることは限られている」

 僕は最初の質問をした。
「今回、そちら側の人員ではなく、こちら側の十五歳以下が僕らを襲撃したんですよね」
「そう。同士討ちだ」
「そちら側はこちら側の十五歳以下の人員にどうやって接触したんですか」
 409番の死体を見たときから気になっていたことだった。
「おそらく」と男は言った。「大きな勘違いをしていると思う。我々が彼らに命令したのではなく、彼らが我々に協力を求めてきたんだ」
 十五歳以下の自発的な裏切りか。あり得ない話ではない。
「何週間くらい前に?」
「三年前、君たちが君たちのコミュニティを作ってすぐのことだよ。それからすぐに彼らでも戦えるように政府は影で資金をそのための対策費に充てたんだ。結局三年かかったが、いい薬ができた。日本の特許だよ」

 今度は私が質問する番だ、と男は言った。
「もう一度聞くが、どうやって連絡をとったんだ。手紙にしては速すぎるし、電話やインターネットには記録が残っていない。伝言ゲームとかその類か?」
「僕は、答えるつもりはありませんよ」
 こちら側が重要なことを見落としていたように、あちら側も重要なことを見落としているようだ。そのことについては、しばらく喋らないで様子を見ておこうと思う。

「君たちがコミュニティを作ってから、日本の国力は落ちた。崩壊寸前のところで薬が完成し、なんとか立て直せるか立て直せないかというところだ。薬自体は軍事兵器として輸出することになる。それが君たちの作った新しい日本だ。君たちがそういう日本をなぜ望んだのか。そのあたりも答えてほしい」
 前提が違うのだと思った。決定的に前提が違う。
「正直なところ、私もかなり苦労をした。何しろ、労働力が半分に減ったんだ。それまでの二倍以上、働くことになった。大変だったよ。睡眠時間は五時間だ。にもかかわらず、君たちに水道局や発電所を占拠されてしまったから、馬鹿高い水道代や電気代を払わなきゃならなくなった。君たちを育てたあの苦労は一体なんだったんだろうと思ったよ。病院も人手が足りなくなったから、下手に病気にもなれない。その間、君たちは私たちの金で遊んでいたんだよな。日本を食い潰していたわけだ」

 男は去り際に、
「何かほしいものはないか」
 と言った。
「時計がほしい。置き時計でも腕時計でも」
 僕は答えた。

 誰かが使い古したハローキティの置き時計を見ていた。秒針を見るのが好きなのだ。
 僕らが全国で一斉に様々な場所を襲撃することができたのは、襲撃者同士で情報をやりとりしたからではない。テレビが医者の声明文を読み上げてくれたからだ。僕らはその声明文のとおりに行動を起こせばよかった。テレビニュースで識者が『次に襲撃されると危険な場所』を次々と教えてくれた。新聞が危険区域を教えてくれた。僕らはマスメディアの教示どおりに襲撃していった。マスメディアは襲撃の『予測』が的中すると、喜んで次に襲撃すべき場所を教えてくれた。

 夕食を運んできてくれた人が、僕に携帯電話を返してくれた。

 僕はランダムな文字列のアドレスを入力し、メールを送信した。
『僕はかなり苦労をした。同じ部署には平社員が僕だけで、あとはみんな上司だったからだ。直属の上司は四人いた。だから僕は四人分働いた。睡眠時間は二時間だ。にもかかわらず、給料は上司たちの四分の一だった。家賃なんか払えるはずがなかった。一体なんのために今まで生きてきたんだろうと思った。病院にかかる暇もなかったし、病気になったら会社を辞めるしかなかった。どうせ、僕に携帯電話を与えて、通信を傍受しているんだろ』
 送信を終えると、僕は洗面器に水を溜めて、そこに携帯電話を浸した。

 翌日、僕は解放された。そして、新たに職を言い渡された。

 海岸沿いを歩いていた。三年間歩き続けた道だ。二回だけ、犬がついてきたこともある。一回目は透明だった。僕が目指しているのは、卓球場だった。インストラクターとして雇われたからだ。
 僕らが占拠した全国に点在する施設は、政府に一元管理されることとなった。いつも使っていた卓球場も、政府の管轄にある。役人からは、運動能力の高い子たちを集めたということを聞かされていた。十五歳以上はほとんど殺されていたから、僕が教えるのは中学生以下の子供たちということになる。

 卓球場のドアを開けると、すでに中には二十人くらいの子供たちがいた。六歳くらいの子から、十五歳くらいまで、偏りなくそろっていた。男女の偏りもなかった。知っている子はいなかった。
 僕とあともう一人のインストラクターで卓球を教えることになっていると聞いている。

「おう」
 と僕はみんなに向かって声をかけた。
 誰も返事をすることなく、ラケットとボールで遊んでいた。意図して僕を無視している感じだった。
 中学生くらいの男の子が一人僕に歩み寄ってきて、
「お前が生き残りか」
 と言ってきた。
「そうだけど」僕は答えた。
「なぜ、生き残った」
 彼の質問の意図がよく飲み込めなかった。
 気がつくと、みんな僕の方をじっと見ていた。
「もう一度、訊く。なぜお前はここにいる」

「ここに来いと言われたからだよ」
「そんなことを訊いているんじゃない」
 まあ、そうだろう。僕も何を訊かれているのか分からない。ラケットを持ったほかの子たちも僕の方へ歩み寄ってきた。僕は周りをとり囲まれていた。
「なんで、お前は生きているんだ」
「死ななかったからだ」
 僕の答えを聞くと、その男の子はラケットを床に投げつけた。
「そんなことは訊いていない。お前、殺されかけた理由、分かっているのか」
「そんなことより、さっさと卓球をやろう」
 と僕は言ったが、誰も動かなかった。
「俺たちがお前の言うことを聞くとでも思っているのか」
「聞かないなら聞かないでいい。それはそれで楽だからね」
「お前、本当に腐ってんだな」
 話を聞いてほしいのだろう、と僕は解釈した。
「まあ、座れ」
 と僕が言うと、
「命令するな」
 と怒鳴られた。
 僕は構わずに座った。
 別の奴が、「くそー」と叫びながらラケットを振り下ろしてきた。僕は体をひねったが間に合わず、ラケットは左肩に直撃した。激痛が走った。呼吸ができなかった。
「殺るか?」
 女の子が言った。
「いや、まだだ」年長の男の子が「殺さない程度に痛めつける」と宣告をした。

 そうはいっても僕はここで死ぬのだろう。

「腕だな」
 誰かが言った。
 僕の腕を誰かが引っ張り、腕の上に足を乗せた。
 何か僕は叫び声をあげていたのではないかと思う。

 遠くから声が聞こえたような気がした。
 ポッキーってなんでチョコだけ先になめたくなるんだろうね、とかそんな会話が聞こえた。いや、聞こえていない。幻聴だ。本当に聞こえたのはプリッツの話だ。先に外側だけなめるよね、とか。いや、そんな話も聞こえてはいない。
 ただ、ポッキーだかプリッツだかを誰かが齧っただけだ。
 テレビコマーシャルに出てくるような感じで、ポッキーをまず一本。それからプリッツを一本。

 気がつくと、身体中が水で濡れていた。
「それくらいで気を失うんじゃねえよ」
 僕の腹に蹴りが一発入った。腹ではなく腕に激痛が走った。猛烈な吐き気の中で、両腕が折られたのだということを理解した。
「目も潰しておくか?」女の子が言った。
「いや、下手をすると死なれるからな。目は駄目だ。こいつには生き地獄を味わってもらう」
 もはや、どうでもよくなってきた。

「足だな」と誰かが言った。

 水がかかった。
「目、覚ませよ。俺の話を聞け」
 腹に蹴りが入った。もはやどこがどう痛いのかが分からなかった。
「俺たちさ、お前らに三年間軟禁されてたんだよね。『こちら側』とか言って社会から逃げ出して、無責任に国を放り出してさ。お前らは自分の未来を潰しただけかもしれないけど、俺らなんか頼んでもいないのにお前らに勝手に未来を潰されたわけ」
 叫び声をあげながらでも、相手の声は聞こえるのだということを今知った。
「お前らが抜けた分、誰が埋めるんだよ。俺たちは学校にも行けないのかよ。お前らが受けたような教育も受けられずに、いきなり働かなきゃいけないのかよ。どうなるんだよ。なんとかなるのかよ。無理だろ?」

 卓球のラケットで殴られ、身体中を蹴られ、水をかけられた。
「死ぬんじゃね」
「まだ、大丈夫だろ」
 何回かそんな会話を繰り返したのち、彼らは去っていった。
 僕は卓球場にとり残された。

 目を開けても何も見えなかった。腕を折られてからどれくらいの時間が経過したのか分からなかったが、目までやられてしまったようだ。
 耳は聞こえた。カラスの鳴き声が聞こえた。鳴き方から、朝だと分かった。
 まぶたを開けていると、次第に何かが見えてきた。自分が暗い部屋にいることが分かった。目が見えなくなったわけではなく、光が足りなかっただけだった。思えば、目には痛みを感じなかった。
 目を凝らすと、点滴の袋が見えた。誰かに助けられたらしい。

 見回りが来た。僕が気づいたことを確認すると、人を呼びに行った。
 来たのは、あのスーツの男だった。
「酷い姿になったものだ」
 男は言った。
 何か相づちを打とうと思ったが、口を開けようとした途端に腕と足に激痛が走った。
「動かない方がいい。君の怪我の仕方は尋常じゃない」
 自分がどのような身体的暴力を振るわれたかということは、よく憶えている。内臓への致命傷は受けなかったはずだ。痛みにはこらえられる。
「あなたが卓球場に彼らを差し向けたんですね」
「彼らから頼まれたんだ」と男は答えた。「私は反対したんだが」

「彼らはいろいろと言っていただろう?」
「ええ」
「君たちの名前は歴史に残るよ。それだけのことを君たちはした」
「光栄ですね」
「君たちの生き残りは、一パーセントに満たない。君が怪我を治して社会に戻っても、冷遇されるだけだ。そこで、自分で選んでほしい。今すぐに死ぬか、罵られて生き続けるか」
「昔、流行りましたよね。望まない選択肢が二つ用意されていて、そのどちらかを選ぶ遊びが」
「それだけしか選択肢が残されていない状況を作ったのは君たちだ」
 作るも何も、生まれたときから大半の人間にはそんな選択肢しか与えられていないんじゃないかと思う。これから、もう一度、歴史を変えてみたいものだ。