ポーカーフェイストーク

 午前八時四十五分。快晴。
 浜松町の駅からは、東京タワーが見えた。なぜか僕は東京タワーは赤一色であると思っていたのだけれど、実際には赤と白の縞模様で、あろうことか展望台の部分は白だった。どことなく間抜けだった。展望台は赤であってほしかった。
 僕は駅から東京タワーまで歩き、そのすぐそばにある機械振興会館という建物に入った。今日はそこで『聴覚特別講座・大学生向けセミナー』という一般公開の講義が、開かれることになっている。僕は地下三階までエレベーターで下り、つきあたりの第一会議室に入った。パンフレットによれば、隣の第二会議室では『思考と言語特別講座・高校生向けセミナー』という企画も催されているとのことだった。高校のときに僕は文芸部にも所属していたくらいだから、そういったセミナーにも興味があった。高校生向けと書かれていなかったら、もしかしたらそちらを聴講していたかもしれない。

     *   *   *

 高校生のころ、最初僕が所属していたのはブラスバンド部だけだった。入学当初からそこに所属していて、ホルンを吹いていた。ホルンは、唇の緊張のさせ方を少しでも間違うと簡単に音程が外れてしまうという酷く厄介な楽器で、一年生の頃はかなり苦労した憶えがある。二年生の秋になってもあまり巧くは吹けなかったけれど、それでも三年生になる頃にはそれなりに吹けるようになっていた。部活にある程度の余裕ができた僕は、三年生であるにもかかわらず、何かほかの部にも入ってみようかと考えた。
 文芸部を選んだのは、純粋に消去法だった。僕は放課後の教室に一人残り、生徒手帳の部活動一覧のページを開いた。そして、一つ一つの部活を線で消し始めた。運動の苦手だった僕は、まず全ての運動部を線で消した。次に、数学部や物理部など、学問的な知識が必要な部を消した。勉強は嫌いではなかったけれど、部活に入ってまで勉強しようとは思わなかった。すでにブラスバンド部に入っていたので、音楽関係の部活も消した。そうして様々な理由をつけて消していった結果、残ったのは文芸部と書道部と美術部だった。僕は致命的に字が下手だったので、まず書道部を消した。そして僕は考えた。国語の読書感想文くらいでしか文章を書いたことのない自分が文芸部に入ってやっていけるものかどうか。絵画に対する思い入れのない自分が美術部に入っていいものかどうか。放課後の教室で一時間ほど悩んだ挙げ句、僕は文芸部に入ることに決めた。四百字詰め原稿用紙のマス目を埋めていけば、字が上手くなるのではないだろうかと思ったからだ。
 文芸部にはだいたい十人くらいの部員がいた。決まった活動日というものはなく、締め切りの日と編集の日に指定の教室に集まるというのが、活動の全てだった。
 初めての締め切りは、五月の中旬だった。ワープロに打ち出した原稿を持っていくと、すでに五人ほどが放課後の空き教室に集まっていた。いくつかの机を向かい合わせに寄せて雑談をしていた。黒板には『文芸部原稿提出』と赤いチョークで書かれていた。一年生たちも今日が始めての活動だったので、その日来る予定だった九人が集まった時点でその場で自己紹介をしたのだけれど、顔も名前も憶えられなかった。それから、部員たちは持ち寄った原稿の回し読みをした。もちろん、僕もそれに加わった。自分の書いた原稿がその場で読まれているというのは、なかなか不思議な感覚で、自分の身体の一部が切り離されてそれだけが独立してまじまじと見られているような気分だった。たとえば自分の耳だけが他人に見られているような感じだ。
 僕の原稿は『かまぼこ』という題名で、体長二十センチくらいの魚介類と主人公の男の子との交流を描いた物語だった。原稿用紙で十一枚。自分がそれまでに書いた読書感想文の最大枚数が五枚だったから、一気に記録を二倍ほどに塗りかえたことになる。この初めて書いた話は、今でもわりと気に入っている。
 もちろん、僕はほかの人の原稿も読んだ。それまでオタク文化に全く触れたことがなかったので、正直なところ、どうして女の子の科白の語尾が「にゅ」になったりするのか、どうしてモンスターとの戦いの途中でサイコロの目の話題になったりするのか、それからどのようにあとがきの部分の「今日和!」という表記を読んだらいいのか(いまびより?)、そのあたりがそのときはまるで分からなかったけれど、なかなか楽しそうな部だと思った。文芸部という名前から、芥川龍之介やら森鴎外やらの作風を想像していたのだけれど、それよりも軽いノリだった。どちらかといえば、漫画的な世界を描いた作品が多かった。
 回し読みをした原稿の中に、一篇だけ際だって巧い作品があった。歌人の俵万智が小説を書いたらこんな感じだろうな、と思わせるような恋愛小説だった。文章もほかの作品よりも圧倒的に上品で、そして読みやすかった。題名は忘れたけれど、主人公の女の子の視点から同級生の男の子を丁寧に描いた作品だった。全ての科白が結末への伏線になっていて、最後の科白が冒頭の科白と全く同じであるにもかかわらず、全く違う意味を持つものへと変化していた。作者は、「奈美かなめ」という筆名だった。
 この奈美さんって誰? と僕が訊いたら、私ですよ、と正面に座っていた女の子が答えた。二年生だった。その女の子は僕の書いた『かまぼこ』を読んでいるところだった。にやにやと笑みを浮かべながら読んでいたのをよく憶えている。

 秋の文化祭が終わって、僕はブラスバンド部を引退した。その一方で、文芸部には所属し続けた。『かまぼこ』が思いのほか好評だったので、僕は味をしめていた。
 受験勉強に差し障ることはなかった。むしろ、二ヶ月に一度くらいしか集まらないこの部は、勉強の息抜きとしてちょうどよかった。
 その日も僕は、放課後の図書室で数列の勉強をしていた。僕は数学は得意だったけれど、数列だけは苦手だったので、その頃は同じような問題を何度も繰り返し解いていた。今では顔文字などですっかりおなじみになってしまった「Σ」だけれど、僕が高校生のころはまだ大部分の人から敬遠される特殊記号だった。僕もこの記号は好きになれなかった。特に、漸化式の考え方がなかなか飲み込めなかった。今も漸化式だけは自信がない。
 五時になってチャイムが鳴った。問題集やノートを鞄の中にしまう段になって、僕はようやく目の前に「奈美さん」がいたことに気づいた。六人がけのテーブルの真向かいに、『天体議会』という文庫本を読んでいる女の子がいることには気づいていたけれど、その女の子が誰であるかということについてはまるで気にもとめていなかった。奈美さんは、ずっと気づかないかと思ってましたよ、と言った。
 正直なところ、僕は奈美さんの顔をほとんど憶えていなかった。だから、その女の子が奈美さんであると分かったことは奇跡に近かった。それから申し訳ないけれど、奈美さんの本名は最初から憶えることを放棄していた。筆名さえ憶えていれば、文芸部ではなんとかなってしまうからだ。どうしても本名の必要なときには、名簿を見ればすむ話だった。
 高校から駅まで、奈美さんと一緒に帰ることになった。僕の高校の目の前にはまっすぐのケヤキ並木があって、大抵の生徒はそこを通って駅に向かっていた。ケヤキ並木を通りぬけるのに、だいたい五分ほどかかる。紅葉したケヤキを見上げながら、奈美さんは僕に対して、こんなことを訊いてきた。
 先輩はどんなふうに出会うのが理想ですか?
 秋の文化祭の冊子に奈美さんが出したのは、『13とおりの出会い方』という題名の作品だった。登場人物は男女二人だけで、その二人が出会う十三通りの状況を描いた話だった。特になんのオチもなかったけれど、出会う状況がてんでばらばらで、とても面白かった。
 僕は奈美さんの質問に対して、わりと真面目に答えた。
「場所はなぜか東京タワー。しかも、その中じゃなくて、東京タワーの足下」
「ふむ」
「東京タワーは高いなあ、とか思って見上げていると、雨が降ってくる」
「夕立ですか?」
「まあ、そんなもん」
「そのあとは?」
「雨に濡れるのもそれはそれでいいだろうと思って、子供がよくそうするように上を向いて雨をよけようとしていると、視界が赤い傘に覆われる」
「ははぁ」
「なんだろうと思って傘の柄をたどると、女の子が僕に傘を差してくれていたことが分かる」
「ふむ」
「女の子は『濡れますよ』と酷く当然のことを言う」
「それに対して、先輩はどう答えるんですか?」
「『そうだね』って答える。それから鞄の中から自分の紺色の折りたたみ傘をとりだそうとする」
「はは。先輩っぽいですね」
「そうすると女の子は『どうしてそんなものをとりだすんですか』と訊く」
「ふむ」
「僕は折りたたみ傘をしまって、女の子と一緒に近くの駅まで歩く」
 ふうん、と奈美さんは笑みを浮かべて、意外とロマンチストですね、と言った。そうだね、と僕は答えた。並木道が終わりに差しかかるころ、奈美さんは僕が本名を憶えていないことを見抜いた。奈美さんは妙に勘が鋭かった。
 日下部まみ。
 奈美さんはそう名乗った。次に会ったときにもしも本名を忘れていたら申し訳ないので、僕は心の中で何度かその名前を繰り返した。
 並木道の終わりから僕は駅の方に向かい、日下部さんは反対方向に向かった。そちらの方に日下部さんの家があるということだった。

 もう一度だけ、日下部さんと一緒に並木道を歩いたことがあった。二学期が終わる頃だった。文芸部の冬の号の製本のあとに僕が図書室で勉強すると言ったら、日下部さんもついてきた。読みたい本があるんです、と言っていた。
 確かその日は運動量と力積についての問題を見直していたと思う。隣を見ると、日下部さんは『少年アリス』という文庫本を読んでいた。僕は文芸部に入ったくせにあまり本は読まなかったけれど、日下部さんは本をよく読んだ。製本のときにも、山田詠美や江國香織などその頃の僕が知らなかった作家の名前が、日下部さんの口からはたくさん出てきた。今にして思えばどうしてこの二人の名前を知らなかったのだろうと思うけれど、それくらい僕は本を読まない高校生だった。僕がぱっと名前を挙げられた作家といえば、高校生の頃は、赤川次郎と綾辻行人と江戸川乱歩くらいだった。ミステリーはそれなりに読んでいた。
 五時のチャイムが鳴った。僕が問題集とノートを鞄の中に入れていると日下部さんは、待っていてくださいね、と言って『少年アリス』を棚に戻しに行った。僕は言われたとおりに、そこで日下部さんが戻ってくるのを待っていた。
 校門の前から続く並木道を歩いていると、日下部さんは僕に質問した。
 先輩はどんなデートが理想ですか?
 次はそういう作品を書くのだろうな、と思った。文芸部の冬の号には日下部さんは『13とおりのキスの仕方』という題名で、出会ってから別れるまでのキスの仕方の変化を描いていた。巧いこと書くものだな、と僕は思った。
 僕はわりと真剣に考えてから、答えた。
「神社での夏祭り」
「ふむ」
「僕が普段どおりの服装で待っていると、相手の女の子は浴衣を着てくる」
「どんな色の浴衣ですか?」
「紺色」
「ふうん」
「女の子が『カップルがいっぱいいますね』と言う」
「目につくでしょうね、やっぱり」
「僕は『そうだね』と言う」
「先輩らしいですね」
「僕とその女の子はまだつき合っているというわけじゃないから、どうにも答えようがないんだね」
「初めてのデートよりも前のデートみたいな感じですか」
「そんな感じ」
「ふむ」
「『射的をやりましょう』と女の子が誘うので、僕は財布から小銭をとりだして店の人に渡す。結局、なにも落とすことはできないんだけど、店の人は『おまけだ』と言って飴を二つくれる」
「ははぁ」
「そんな感じでいくつかの店を巡る」
「あくまで女の子が連れ回すんですね」
「そう。そして、おみくじをひこうと女の子に提案される」
「ふむ」
「僕とその女の子はおみくじを見せ合う。女の子は恋愛運を気にし、僕は健康運を気にする」
「そう言えば、先輩って体が弱いんでしたっけ」
「そう。だから、健康運」
「味気ないですね」
「最後にたこ焼きを買おうとする」
「ふむ」
「女の子が千円を出して五百円のおつりをもらおうとするのだけど、店のおやじが、『いま釣りを切らしてるんだすまねえな』と言う」
「ふうん」
「だから、僕が自分の財布から五百円玉を出す」
「ふむ」
「店のおやじが『彼氏さん金持ちだからな』といやらしく笑う」
「まだつきあっていないんですよね?」
「僕と女の子は顔を見合わせる」
「でしょうね」
「『なんだよ違うのかよ』と店のおやじが言う」
「どう答えるんですか?」
「『いえそうです』と僕は言って女の子の頭をなでる」
 なんとなく分かります、と日下部さんは言った。なにがどう分かったのか僕には分からなかったけれど、日下部さんには何かが分かったらしかった。並木道の終わりで、受験頑張ってくださいね、と日下部さんは言った。そりゃ頑張るよ、と僕は言った。僕は駅の方に向かい、日下部さんは反対方向に向かった。
 それ以来、僕は日下部さんに会っていない。

     *   *   *

 僕はそれ以降もそれまでと同じように受験勉強を続けた。だいたい、一日に勉強した時間は四時間くらいだった。学校での授業は嫌いではなかったけれど、受験勉強は好きになれなかった。それ以外の時間は、なにもせずに自分の部屋の窓から道路を見ていた。浪人生活は僕にはあわないと思っていたので、滑り止めばかりを志望校として選んだ。受験そのものも面倒だったので、受験する大学は三つだけにした。案の定、三校全てに受かった。僕は最後に受けた大学に進学を決めた。
 大学での生活はなかなか忙しかった。高校のころの二倍くらい勉強することになった。授業も分かりづらいものが大半だったけれど、それはそれで面白かった。複雑な暗号を解読しているときの気分だった。

     *   *   *

 機械振興会館での『聴覚特別講座』もやはり分かりづらかった。もともと大学三年か四年が受けるための講座だったから、聴講する前から一年の僕が受けても分からないだろうとは思っていた。
 午後四時。僕は機械振興会館を出た。目の前には東京タワーがあった。来るときにも見たけれど、あらためて見てみると、本当にそれは高かった。見上げていると、雨が降ってきた。まずいな、と思っていたら、視界が透明なビニール傘で覆われた。目の前に、どこかで見たことのある女の子がいて、僕と一緒にその傘の中に入っていた。
「日下部さん?」
 どうしてここにいるのか分からなかった。
「濡れますよ」
 日下部さんは言った。
「そうだね」
 僕は鞄から折りたたみ傘をとりだそうとして、そして手を止めた。その仕草を見て、日下部さんはにやにやと笑みを浮かべた。
「どうしてここに?」
「ここの地下三階の二号室で、高校生向けの講習会があったんですよ」
 言語に関する講義か、と僕はパンフレットを思い出した。
「さて、先輩。駅まで行きましょうか」
 筋書きどおりに、日下部さんはそう言った。
 僕はどうしてもこう言わなければならないような気がして、
「諏訪神社のお祭り、今週の日曜だよね?」
 と提案してみた。
 日下部さんは答えた。
「たこ焼きを食べに行きましょう」
 なかなか面白い伏線を張るものだ、と思った。
「ちゃんと五百円玉を持っていくよ」
 僕も伏線を張り返した。