私たちの街だった

 午前四時の住宅街を私たちは歩く。多分それは近所迷惑なのだろうけど、道が広くて気持ちがいいからいいじゃないかとか言い訳をして、私は歌う。歌声は両脇のブロック塀にほどよく反響して夜空へと吸い込まれて消える。空は曇っていてまるで星が見えず、月のあるあたりだけがぼんやりと光っている。
 千恵と誠が私の前を並んで歩き、慎也が私の斜め後ろからついてくる。私の歌なんか耳に入っていない様子で千恵と誠は喋っている。決して小さな声ではないのに、話の内容はなぜか聞こえない。ときどき笑い声が聞こえる。なんか寂しい。
 歌がサビの部分に入ると、慎也も私に合わせて歌い始めた。えっ、という感じで私は慎也の方を振り向いた。慎也も歌うのを途中でやめて、『ん?』という顔で私に笑いかけた。
「俺、そんなに音痴だったかなあ」
「いやいや、この歌を知っていたのが意外で」
 私が歌っていたのは、新譜が出たばかりの女性ボーカルの曲だ。
「なんか、聴いてたら気に入っちゃって」
「へー。どこで聴いていたの」
「ラジオ」
「そんなに流れてたっけ」
「結構流れてるよ。注目されてるみたいだね」
 そう言った慎也が目をそらした気がしたので、ちょっと詳しく聞いてみたくなった。なんだかあやしい気がするでしょ、って予感。
「もしかして、彼女でもできたとか」
「できてない、できてない。なんで?」
「彼女がよく歌っていて、それで憶えたのかな。みたいな」
「だったら俺としても嬉しいんだけどね」
「違うのかあ」
「大ハズレ」
「うーん、残念」
 当たっている気はしたんだけどなあ、と私は思った。
「ねえ、もう歌わないの」
「歌うよ、歌う」
 そしてその次の科白がいかにも慎也だなあという感じだった。
「俺、もう邪魔しないからさ」
 そんなことを言っているから、いつまで経っても彼女ができないんだよ。っていう気持ちを込めて私は途中になっていたサビの部分から歌い始めた。歌手は女性ボーカルだけど、歌詞は一人称で『僕』。結局うまくいかなかったねという恋物語。諦めのよすぎる歌詞にどうしても慎也を重ねてしまったりする。もう少し頑張りましょう。
 千恵がひときわ高い声で笑って、私に話しかけてきた。私は歌うのを途中でやめる。千恵は後ろ向きに歩きながら喋った。
「ねえ、カエデちゃん。さっきカラオケで、裸の大将、歌ったの?」
「裸の大将っていうか、『野に咲く花のように』」
 ダ・カーポというちょっと昔の人たちが歌っていたさわやかな曲だ。千恵もこの歌を二軒目のカラオケで聴いていたはずなのに、なんで今さらそんなことを訊くのかなとか思って、そのときちょうど千恵がトイレに行っていたことを思い出した。私がフルコーラスで、最後のスキャットの部分まで歌っていたのに千恵が帰ってこなくて、みんなで遅いなあとか言っていたのだ。
「好きだったなあ、裸の大将」
 と千恵が呟く。私は瞬間的に、千恵の彼氏が太っていたことを思い出す。思えば元彼も太っていたから、きっとそういう好みなんだろうなと今さらながらに思う。
「おにぎりしか食べないんだよね」
 私が言ったら、そうそう、と千恵は手を叩いて喜んだ。
「あと赤い傘をさしてたりして」
 誠も話に加わった。
「傘、真っ赤だったよね」
 と私は思い出す。
「私も線路を歩きたい」
 叫ぶように千恵が言った。
 その気持ちは分かるかも、とか思う。道路と線路の交わるところには必ず踏切があって、私たちはその遮断機の指示に従わなければならない。そして、二つの道が交わっているにもかかわらず、そこで曲がることは決して許されない。直進するためだけにその交差点はある。なんだか理不尽。
「あ、そういえば、俺たちが今歩いてる道って、昔、トンネルの中だったんだって」
「へー、なんか変な気分」
 とか普通に千恵は誠の言ったことを信じてるけど、私は騙されない。
「それって本当かしら」
「いや、嘘だけど」
 ははは、と誠は笑った。ほらね、やっぱり嘘だった。千恵、単純すぎるよ。いつもこの手にひっかかってるよ。
「でも、ここがトンネルだったら楽しいなあ、とか思わない? カエデちゃん」
「うん、思う」
 千恵が言ったみたいに、もしもここがトンネルだったら、と私は想像する。歌を歌ったらエコーがすごくて楽しいだろうな、とか。足音が何人分も聞こえるんだろうな、とか。出口が見えなかったらいつまでも歩いていられるんだろうな、とか。実際の私たちはあと五分もすれば歩かなくなるんだろうけど。
 私たちは、誠の家に向かっている。誠のアパートは広いから、入り浸るにはちょうどいい。ベッドとソファとコタツがあるから、三人は寝られる。一人分足りないけど、大抵一人は朝まで起きているから問題ない。
 気がつくと千恵と誠はまた前を向いて二人で喋っていた。私は歌の続きを歌おうと思って息を吸い込んで、それから歌うのをやめた。家の近くでは歌わないように、と誠から言われているのだった。誠の仕事はちょっとやばくて、おいそれと見つかるわけにはいかないのだ。
「ねえ、慎也」
「なに」
「なんか、眠くなってきた」
 そんなことを慎也に言ってもどうしようもないってことくらい分かっているけど、誰かに言いたかったので言った。昼間、しっかりと大学で寝ていなかったから眠いんだろうな、と思った。
「あと少しだから、ゆっくり眠るといいよ」
 慎也はいい奴だなあと思った。彼女がいないのは、きっといい奴すぎるからだろうなあとか思う。善人に彼女なし。今作った格言。

 週に四回は来るそのアパートは、大学から徒歩十分のところにある。『グリーンホーム』という名前のアパートなのだけど外壁はくすんだ白で、誠になんで『グリーン』なのか訊いてみたら大家さんが美登里という名前だからだと答えてくれた。もし、お銀とかいう名前だったら、『シルバーホーム』になっていたのかな、なんていう無駄な想像をしたりした。
 私はグリーンホームの頼りない階段を上がっていく。二〇一号室に誠の部屋はある。合い鍵をバッグの中からとり出して、鍵を開ける。最初の頃はいちいち来る度にインターホンを押していたような気がするのだけど、誠が面倒くさいと言い、いつからか合い鍵を持たされて自分で開けるようになっていた。
 ドアを開けて中に入って、しっかりと鍵を閉める。誠は仕事柄、鍵に関してはとてもうるさい。家の中にいるときでも絶対に開けっ放しにしておいてはいけないと言う。いつだったか閉め忘れたら、一時間くらい説教を食らったこともある。鍵を閉めたことを慎重に確認して、私は足元を見る。玄関の靴の様子から、家にはまだ誰もいないということが分かる。
 電気をつけて靴を脱ぐ。まずは廊下にバッグを置く。そして洗面所に向かう。手を丁寧に洗ってうがいをし、それから歯を磨く。歯ブラシは四本ある。私はピンクの歯ブラシを手にとり、一本ずつ歯を丁寧に磨く。歯ブラシを小刻みに動かしながら、私はダイニングキッチンのソファに座る。
 この家に誠は一人で住んでいるわけだけれど、一人で住むには広すぎる。トイレバス洗面台は完備しているし、洗濯機置き場もある。そのほかにダイニングキッチンを含めて部屋が三つもあったりする。日当たり良好、駅からは徒歩七分。一度、誠に家賃を訊いたこともあるけれど、答えてはくれなかった。
 ふかふかのソファから立ち上がり、洗面所に行って口をすすぐ。目の前の鏡を見ると思い切り眠そうな顔が映っている。今日も大学で眠らなかったから、異様に眠いのだ。
 だから、寝る。ダイニングキッチンの隣の部屋は六畳の和室になっていて、和室のくせにベッドが置かれている。当然のようにベッドの足の下の畳は無惨にへこんでいたりして、出るときに大家さんの美登里さんに怒られるんじゃないかなあなんて思う。私は部屋の戸を閉め、窓を分厚い遮光カーテンで塞ぎ、部屋を真っ暗にする。手探りでベッドを探し、倒れ込む。四つある枕のうち私のやつをたぐり寄せてその上に頭を乗せる。ああ、もうあと三秒もあれば寝られそう。
 とか思っていたら、誰かが外の階段を上ってきた。誰だろう、誰でもいいや。私は寝ます。寝るのです。近くにあるはずの玄関が、もはや遥か彼方にあるような気分になる。鍵を開ける音がして、ドアが開き、閉まる。閉め方で分かる。入ってきたのは慎也だ。慎也は和室の戸を開ける。
「清水さん?」
 と私の名前を呼ぶ声がするけどとにかく眠たいので、うー、とか適当な声を出しておいて布団の中に潜り込んだ。
「寝てるのかな」
 うー。
 慎也がベッドに近づいてくる。眠ってないけど眠いんですよ、見れば分かるでしょ。
「まあ、寝ててもいいから聞いてよ」
 うー。
 よかろう。聞いてあげよう。
 慎也は、隣の部屋から椅子を持ってきて腰掛けたようだった。畳がへこむよ。
「今日の収穫はすごいよ」
 うー。
 慎也が収穫と言ったら、あなた、それは万引きのことなのですよ。万引きだけじゃお金が稼げないからレストランでバイトとかもしているようだけど、基本的には慎也は万引きで生計を立てているのですよ。普通、万引きっていったら、本とか文房具とかが基本だけど、慎也の場合は違います。スーパーマーケットでレタスとか鯵のヒラキとかを盗ってきたり、たいやき屋でたいやきを盗ってきたりするのです。信じられないでしょ。私もどうやって盗んでいるのかは知らないけど、唯一同行したことのある千恵の言うことによれば、普通に買うような感じで手にとってそのまま店を出てくるのだとかなんとか。私も一度見てみたい。
「これこれ、見てよ」
 うー?
 私は布団から顔を出して、慎也が手に持っているものを見る。暗かったり眠かったりでよく見えないけど、箱のようなものを持っている。慎也がランプシェードの明かりをつけると、箱の表面の文字が読めた。
『ジューサーミキサー』
「なにそれ」
 なんでそんなものを盗ってきたの、とか訊こうとしたのだけど口から出たのはその言葉だった。なんかちょっと自分でも冷たい言葉だなとか思ってしまったりしたので、もう一度別の言葉で言い直そう。
「おいしいの?」
「おいしくはないかもしれないけど、体にはいいよ」
「へえ、じゃ飲むわ」
「今、何か野菜あったっけ」
「冷蔵庫の中に」
 誠が自分で買ってきたやつとか、慎也が盗ってきたやつとか、いろいろとある。食べるのには不自由しない家だ。
「とりあえず、洗ってくるよ」
「うん」
「起きたら飲もう」
「うん」
 そして私はまた眠る。慎也はランプの明かりを消し、部屋を出ていく。
 遥か彼方から、段ボールの箱からガムテープをはがす音とか、プラスチック製の何か重たい物を木のテーブルの上に置く音とか、蛇口から出る水の音とか、水で何かを洗う不規則な音とか、そんなのが聞こえる。遠くに置いておいたバッグの中で携帯電話の震えている音も聞こえてきたけど、どうせ彼氏だろうからいいやとか思ってそのまま放っておくことにする。誰かがアパートの階段を上ってくる。程なくして玄関のドアが開く。この音は誠だ。
「あ、今日は早いな」
 とか呟いている。慎也が今の時間に誠の家にいるのはわりと久々だ。
「誠、おかえり」
 キッチンでミキサーを洗い終えた慎也が、誠を出迎える。
「お、ミキサーじゃん。どうしたのこれ」
「今日の戦利品」
「もう使える?」
「うーん、コードが短いから、テーブルタップがほしいんだよね」
「ああ、あるある」
 誠が物置代わりになっている三畳ほどの洋間から、延長ケーブルを持ってくる。コードを繋いでスイッチを入れる。ミキサーが空回りをする。
「おー、回った回った」
 慎也が声をあげる。
「カエデは?」
「寝てる」
「じゃあ、起きたらみんなで飲もう」

「ん」
 歩いていたら誠が急に立ち止まった。またあれだな、と私は思った。今は夜の八時で、誠がよく立ち止まる時間帯だった。
「私たちは先に行ってた方がいいのかな」
 千恵が訊いた。
「その方が都合がいいね」
 誠は頷く。
「じゃあね」
 と私が手を振ると、誠は薄暗い路地の中に入っていった。誠の仕事は空き巣だ。どういう理屈だか分からないけど、誠には鍵の開いているドアを探し当てる能力があって、さらにその家に人がいるかいないかを察知する能力もある。毎日のように不用心な家を見つけては、忍び込んで現金を盗んでくる。私たちが一緒に歩いているときも、ちょっと、と言って近くの家に入っていく。
「不思議よね」
 と私が言ったら、千恵は頷いてくれた。
「うん、すごく不思議」
「怖くないのかな」
「自信があるんじゃない?」
「中に人がいても喧嘩に勝つ自信?」
「じゃなくて、中に人がいない自信」
 なんとなく分かる気がした。誠はそこが危険な場所なのかどうかを本能的に知ることができるのだ。雨が降りそうな日でも、誠が傘を持たずに外に出たら、雨は決して降らないし、傘を持って出たら雨は必ず降る。そんな感じ。
「なんか、世界の全てを把握してる感じがする」
「カエデちゃん、その科白、なんかすごく詩人」
 喋っていたらすぐに繁華街に出た。私たちはこれから『すずめのお宿』という居酒屋に行く。私は十九で千恵は二十。もう充分にお酒が飲める年齢だ。あとから慎也も来ることになっている。慎也が何歳なのかはよく分からないけど、多分二十二歳くらいだと思う、見た目的に。誠も空き巣が終わったら来ると思うけど、何歳なんだろう。ちょっと年齢不詳。妥当な線でいけば、誠は二十三か二十四くらいかな。
 すずめのお宿は地下にあって、私たちは階段を下りていくことになる。下りてすぐのところに順番を待つための椅子が置かれていて、さらに奥に店の入口がある。入口を潜って店の人に人数を告げると、奥の座敷に案内された。平日のせいか、時間の割に店はあまり混んでいなかった。一組だけ大人数の学生たちがいたけれど、そのほかは少人数のグループが三組くらいだった。こんなんで店の経営は大丈夫なのかな、と思った。
 座布団の上に座ると千恵は言った。
「決まった?」
「いつもの」
 と私が答えたら、千恵はすいませーんと店の人を呼んだ。店の人はすぐに来た。いつもの茶髪で色白で小顔の可愛らしい女の店員さんだ。千恵が注文する。
「梅酒ソーダと、桃と林檎のおしゃべりと、軟骨揚げ」
 店員さんは、はいかしこまりました、と言って厨房の方に去っていった。
「千恵、変な名前のカクテル好きだよね」
「おいしいよ」
「この前飲んだけど、普通だったよ」
「あ」
 と千恵が声をあげた。視線の先には入口の近くで私たちを探す慎也の姿があった。私が慎也に向かって手を振ると、慎也はこちらに向かってきた。私の隣の座布団に腰を下ろすと、テーブルにひじを乗せて大きく息をついた。
「お疲れ?」
 すかさず千恵が言った。
「急にバイトが一人抜けちゃって、てんやわんや」
「いるよね、急に抜ける奴」
「いるんだよね」
 慎也はもともと準備されていたおしぼりのビニールを破ると、手を拭き始めた。私と千恵も手を拭いた。
「二人ともまだ来たばかりなんだね。仲手川くんは?」
 一瞬、仲手川くんって誰だっけ、とか思ってしまった。誠だよ、誠。慎也しか苗字で呼ぶ人がいないから、なんか忘れてしまう。
「誠はお仕事」
 私は小さな声で隣の慎也に囁く。
「あ、なるほど」
 と慎也は頷く。そこで会話は止まってしまった。公の場で誠の噂話をするのはどう考えても無謀だ。っていうか、慎也の話をするのも無謀なんだけど。なんで私の周りは犯罪者ばかりなんだろうね。
 可愛い店員さんがようやくお通しとソーダとカクテルと軟骨揚げを持ってきた。机の上に飲み物を乗せる店員さんに、慎也が生中一つと注文をする。かしこまりました、と言って店員さんが下がっていく。
「あ、食べ物はまだなんだね」
「うん。誠が来てからでいいかな、と思って」
 注文を頼んだ千恵がそう言う。私と千恵が飲み物に手をつけないでいたら、慎也がお先にどうぞと言った。
「じゃ、失礼して」
 と私と千恵が飲もうとしたら、誠が店に来た。なんだか知らないけど、誠はこういうときにはやたらと目立つオーラを放つ。空き巣に入るときには完全に気配を消すくせにね。
「お、慎也、早かったね」
「誠も無事で何より」
 誠は千恵の隣に腰掛けて、店員さんを呼び、ビールを注文して、割り箸を割り、軟骨揚げを食べ始めた。一つ一つ箸でつまんで、ものすごくおいしそうに食べる。私たちはまだ食べていないのにね、とか思っていたら気づいたように顔を上げて言った。
「あ、今日は俺のおごりだから」
 誠かっこいいよ、とか心の中で呟きながら、いぇーい、と私たちは声をあげた。相当たくさん盗んだんだろうなと思った。これで通算何件目? とか訊いてみたいところだけど、こんなところで訊いたら捕まってしまう。玄関の鍵を開けておいてくれた人に感謝しつつ、私はお酒を飲むことにする。
「すいませーん」
 慎也が店員さんを呼ぶ。
「カエデちゃんも、ぼうっとしてないで注文しなよ」
「うん。じゃあ、ハムのサラダとグラタンと焼き鳥」

 オリジナルの曲はなかなか盛り上がらないけど、私と千恵は一曲目は必ずオリジナルの曲をやることにしている。そうじゃないと、私たちが歌っているって気がしないからね。
 私と千恵は調布駅の南口で毎週土曜日の夕方頃から歌を歌い始める。歌うのは私。ギターを弾くのは千恵。分担するくらいなら一人でやればいいとかあなたは思うかもしれないけど、私はギターが下手だし、千恵は歌が下手なのです。まあ、自分で言うのもなんだけど、女の子一人より二人の方が華があっていいじゃない? とか思っているし、誠や慎也もそう言っている。
 南口の前には大きな噴水があって、夜になるとその周りではギターを弾いて歌を歌っている人がわりといる。うまさはばらばら。足早に駅前を通り過ぎていく人たちの耳にそれぞれの歌声がワンフレーズだけ届く。立ち止まって聴いてくれる人なんかほとんどいない。でも、私たちだけは例外で、多分女の子だからという理由でわりと足を止めてくれる人がいる。前に置いたギターケースにお金を放り投げてくれる人もいる。集団の酔っぱらいなんかはいいお客さんで、座り込んで手拍子をしてくれたり、すごく高いお金を置いていってくれたりする。何より嬉しいのは、一曲歌い終えても立ち去らないことだ。しらふの人とかだと、お金を置いてすぐにどこかに行ってしまうけど、酔っぱらいは居座る。吐くまで居座る。たまに缶ビールを買ってきて私たちにくれることもある。そういうときにはその場で遠慮なく飲む。飲みっぷりがいいね、と褒めてくれる。
 まだ夜の七時だというのに、今日は酔っぱらいさんたちが三人ほど地面に座って聴いていた。一曲目が終わると、おじさんたちはすぐに声をかけてきた。
「おねえちゃんたち最高」
「バンド名はなんてーの?」
「彼氏はいるの?」
 私たちはしらふだから、噴水の周りでここだけ浮いているなあとか感じるのだけど、それならいっそのこと浮きまくってやれとか思って声を張り上げる。
「おじさんたち、残業は?」
「そろそろリストラされそう?」
 会話なんてかみ合わなくてもいい。何か言葉をやりとりしているんだなっていう実感さえあれば、酔っぱらいは満足してくれる。
「そろそろデビューするのかな」
「CD買ってくよ」
「今日肩叩かれちゃったよ」
 CDなんか出してないよって感じだけど、そう言ってくれるのは嬉しいね。
「二曲目いきまーす」
「リクエストして」
 私たちに頼みそうな曲なら、だいたいレパートリーに入っている。たまに演歌とかをリクエストしてくる人たちもいるけど、そういうときにはどっかの手品師みたいに、その曲は今日は休みなのよね、とかいって笑いに変える。
「宇多田のヒカルちゃんのオートマチック」
 酔っぱらいたちは、私たちの歌い慣れている曲を挙げた。
「おじさん、若ーい」
「お兄さんって呼んじゃおうかな」
 いや、本当は微妙に古いなとか思ったし、こてこてのカタカナ発音はなんとかしてほしかったけど、お客さんに文句は言わない。
「若いよー」
「俺たちまだ」
「三十代だもん」
 最後の「三十」のところだけ声がそろった。えっ、とか思った。ごめんなさい、五十代だと思っていたよ。だからサラリーマンの年齢は分からないんだよね。
 会話に間があいて、その間がいかにも演奏前の神聖な独特の間だったかのように千恵がとり繕って前奏が始まる。
 私は千恵のギターが好きだ。なめらかなのに鋭くて、感情むき出しなのにどこか冷めてる。しなやかに駆け回るサバンナのチーター。時速百キロ、三百メートルの全力疾走。トムソンガゼルを食いちぎる。って感じ。ちょっと褒めすぎ?
 私の歌は千恵曰く、オオカミの遠吠え。芯はあるけど、聴いていると寂しい気持ちになってくるのだそうだ。どんなに吠えても月までは届かないとかなんとか、陶酔っぷりの激しいことを言っていた。
 さて、さっきのおじさんたちの質問に答えましょう。私と千恵のバンド名は『電報ガールズ』。ここの近くの大学の電子情報学科の同じクラスだから、そういう名前にしてみました。この前の酔っぱらいさんは「チチキトクスグカエレ」って感じだとか言っていたけど、私たちの感覚だと「カネオクレタノム」。一応、通信業界では有名な文章です。
 それから、千恵にも私にも彼氏はいます。残念。でも、おじさんたちに訊かれたら、いつも「募集中」って答えることにしているよ。その方がウケがいいからね。妻子持ちのおじさんが、本当に私たちを口説くわけがないんだし。いや、この人たちって三十代なんだっけ。だったら、もしかしたら口説いてくるのかな。
 デビューをするつもりはありません。私たちはここで歌っていれば幸せ。それにデビューなんかしたら、大学に通っていられなくなるよ。そもそも、そんなに歌がうまいわけじゃないしね。
 それから、軽い気持ちでリストラのことを訊いちゃったけど、三十代でリストラはきついよね。ごめんなさい。この歌で謝るわ。今歌っているのは『automatic』だけど、リストラも自動的に決まっていくのかな。業績の低い人から順番に。
 私が歌い終えると、おじさんたちの手拍子が拍手に変わった。おじさん、まだ千恵のギターは続いてるんだからちゃんと聴いてよ、とか思うけど千恵はそれで満足らしいからまあいいか。
「さて、次はオリジナルの曲です」
 私が言ったら、おじさんたちは「オリジナルっ。オリジナルっ」と手拍子を始めた。何を言っても盛り上がるのかな、と思った。
「曲名は『四街道とその周辺』」
 千恵の出身地について歌った曲だ。千恵の名前の由来が、千葉県の恵み、であるそうで、この歌は両親に感謝する歌なのだそうである。誠は「ちょっとダサくない?」と言い、慎也は「いい歌だけど題名はもっと格好良くてもいいと思うなあ」と言っていた。私は純粋にこの歌が好きだ。歌いやすい。歌詞の意味が分からない部分もあるけれど。
 ワーン・ツーー・ワンツースリー。千恵のカウントでギターと歌が同時に入る。
 泥だらけになって遊んだ田圃が夏から秋へと変わる。初めて着たセーラー服は採寸が合っていなかった。合唱コンクールはうちのクラスだけギターで伴奏。そんな歌詞。確かにダサいかもしれないけど悪くはないと思う。ほら、おじさんたちが肩を組んで一緒に歌っているよ。「印旛沼にもぐろう」。
 おじさんたちが歌ってくれたおかげか、私たちの周りにはいつの間にか人だかりができていた。歌が終わると拍手喝采。二ヶ月に一度くらい、賑やかなライブになる。
「ありがとうございました」
「次は何か好きな曲を言ってください」
 私たちが言ったら、すぐに誰かがリクエストした。
「aikoの『花火』」
「よし、『花火』に決定」
 私が手を叩いて手拍子を促す。千恵が前奏を始める。
 この曲、私たちも好き。

 新宿に行くときには、千恵は必ず手袋をする。なぜか。それはもちろん、指紋を残さないようにするため。あなたも薄々勘づいているとは思うけれど、千恵も人のものを盗む。いつから盗むようになったのかは憶えていないけれど、四月の頃はまだ、手袋をして新宿を歩く習慣はなかったはずだ。
 護身のために、誠も一緒について来る。慎也はバイトなので今日はいない。混雑している新宿は千恵の恰好の仕事の場だ。いつだか、千恵は言っていた。
「スリって、意外と見つからないものだから」
 特に、すっている最中は本人にはまるで分からないものなのだそうで、見つかってしまうのはほかの人に見られているときか、すられたことにすぐに気づいて大声で叫ばれるときとか、それくらいだそうだ。幸運なことに、千恵はその両方に一回ずつ遭遇しているにもかかわらずまだ捕まっていない。
 最初に見つかったと思ったのは慎也と一緒に二人で歩いていたときだそうだ。千恵の左側を慎也が歩いていて、千恵は左腕に自分のバッグを提げていた。狙ったのは向かい側から歩いてきたカップルの男の方だった。千恵はすれ違いざまに鞄から半分ほど飛び出していた財布を右手で抜きとり、すぐにその財布を反対側の腕に提げていた自分のバッグの中に入れた。男が騒いだのはそのすぐ直後。「財布がねえっ」と叫んだ。「ほんのちょっと前に中を確認したんだぜ。スリだ」とわざとらしく男は周りによく聞こえるように言った。周りにいた人間は、スリだという言葉に反応してすぐに立ち止まり、お互いを見始めた。千恵と慎也も立ち止まらざるを得なかった。半径五十メートルほどの人たちが立ち止まっていたという話だから、逃げることはできない。千恵が、もう自分の人生もこれで終わりなんだと観念していると、慎也が三歩ほど男の方に歩み寄って、財布を拾い上げる真似をした。「もしかして、これですか?」と男の方に差し出した。百人以上の人間が慎也の行動を視界の中に入れていたにもかかわらず、誰も、千恵のバッグから財布をとり出して一度しゃがんでそれを差し出しただけだ、などとは思っていない様子だったという。男まで、自分が落としてしまったのだと勘違いし、「そうだ、これだ」と言って、すぐにその場から去っていったらしい。
 次に危なかったのは誠と歩いているときだったそうだ。今度は前とは逆に、誠は千恵の右側を歩いていて、千恵は右腕に自分のハンドバッグを持っていて、左手でスリをした。狙ったのはやはりこのときも男の人。三十歳くらいの男だ。ポケットからのぞいていた財布を抜きとり、右のハンドバッグの中に入れた。その直後に左手をつかまれた。手をつかんだのは狙ったのとは別の男性で、中年の背広を着た男だったそうだ。中年の男は千恵の左手首をつかみながら、「今、盗っただろう」と言った。もちろん、その中年の男は被害者も呼び止めて、財布がなくなっていることを確認させた。「この子が盗ったんですよ」と言った。このときもやはり、千恵はもう終わりだと思ったらしい。「濡れ衣です」「だったらそのバッグの中を見せてみろ」「女の子のバッグの中を見るんですか?」「警察に行くぞ」「私のバッグの中に興味があるだけなんでしょ」「逃げるなよ」という会話をした挙げ句、警察に行くことになったのだと千恵は言っていた。そして、気がつくと誠がいなくなっていたとも言っていた。千恵は一人で新宿の派出所まで行き、バッグの中を調べられた。警官は乱暴にバッグを逆さにして机の上に中身を出したそうだ。そして、その中から財布をつかみ、被害者の男に見せた。「これですか?」。被害者の男は「違います」と否定した。千恵は「その財布は私のです」と言った。バッグの中には、被害者の男の財布はなかった。結局濡れ衣だったのだということになり、千恵は解放された。もう予想はついていると思うけど、財布は誠が持っていったのだった。
 それ以来、千恵だけでは危なっかしいということで、新宿に行くときには慎也か誠がついていくことになっている。
 そして今日もいつもの道を歩いていた。人混みをかき分けながら道を歩き、盗りやすそうな財布を探す。道を何往復かすると、別の通りにあるパスタの店まで夕食を食べに行く。
 店の人に人数を告げてテーブルに着くと、すぐに誠が言った。
「今日は静かだね」
 静か、というのはつまり盗んでいないということだ。千恵の手際は見事すぎて、すぐそばを歩いている私にもまるで分からないのだけど、誠には分かるらしい。
「体調でも悪いの」
 再び誠は訊いた。
「うーん、なんかさ。なんか、うまくいかないんだよね」
 と千恵は喋り始めたのだけど、そこで口をつぐんでしまった。周りの人に聞かれるのを心配しているのとはちょっと様子が違う。言いたいことが言葉としてまとまらないという感じに見えた。こういう状態を私たちは、もやもやしている、と呼んでいる。千恵の場合、大抵のもやもやは数分もすればすっきりと言語化されるのだけれど、今日のもやもやはなんだか深そうだなと思った。こういうときに、相談に乗るよとかいうふうに無責任な言葉をかけてくる奴もいるけれど、相談に乗ってもらったくらいで晴れるもやもやなら、自分でとっくに晴らしているよ。それに、相談に乗りたがる人ほど自分の意見を押しつけたがる傾向にあるから、何の解決にもならないしね。誠も私もそのあたりのことは充分に承知しているから、何も言わずにしばらく頼んだスパゲッティを食べていた。
 やがて、カルボナーラを食べていた千恵が、ぽつりと言った。
「分岐点ってあるじゃない」
 なんか、深刻そうな話だ。
「うん」
 私は頷く。その話がどこに辿り着くのか分からないけど、ここは頷くべきところだ。
「告白するのとか、受験校を決めるのとか、閉まりそうな電車に駆け込むのとか」
「うん」
「そういうときって、決断するよね」
「するね」
 千恵が喋って、私が相づちを打って、誠は黙って聞いている。
「そういう決断の数ってさ。決められてる気がするの」
「決められてる?」
「あなたは千回決断をしたからもう決断できなくなります、とか」
「決断の回数制限?」
「そう」
「上限みたいなのはあるかもね」
 回数制限みたいなのは、あるかもしれないなあとぼんやりと思う。一生のうちの回数制限とかいうよりは、一週間とか一ヶ月とかでの単位の回数制限。だって、期末試験とかやると、なんだかものすごく疲れるじゃない。一問ごとに答えを決めなきゃいけないから。それとか、テニスの試合をすると一球一球が勝負だから、精神的にもすごく疲れたり。それで、その回数制限を超えると、しばらくは何もやりたくなくなるの。人によっては、すごく長い間、何もできなくなる人もいる。
「こういうのって、スランプっていうのかな」
「そうかもしれないね」
 私はペペロンチーノを食べながら、千恵は決められた回数の上限を超えてしまったんだなと思った。
「私のしてることってさ。片手でできるんだよね」
「うん」
 スリは片手、っていつも千恵は言っていた。
「右手と左手でいつも迷うんだよね。ねえ、どっちの手を使ったらいいのかな?」
 千恵の代わりにどうやら私が決断をしなければならないらしい。だから私はフォークとスプーンを置いて、千恵の両手を強く握った。
「どっちの手も、お休みしようよ」

 起きたら時計の針は二時を指していた。今に始まったことではないけど、私の睡眠サイクルは狂いまくっていて、もはやサイクルとは呼べない。もし、今が午後の二時ならまだ救いようはあるのだろうけど、時計の文字盤には大きくAMという文字が現れている。いつ眠ったのかも憶えていないけれど、多分、六時間くらい前だろうと思う。頭がすっきりしている。
 ここは誠の家だ。だって、私がソファで寝ているから。ソファの向かい側にはベッドがあって、そこでは千恵が胎児のような格好で寝ていた。千恵はいつ寝たんだろうなあと思いながら、私は伸びをして起きる。寝る前に脱いだと思われるニットを着て、水を飲みに隣の部屋へと向かう。
 ダイニングキッチンにはグローランプの薄暗い明かりがついていて、テーブルの椅子には誠が座っていた。ひざを抱えてその上にあごを乗せていた。テーブルの上には何も乗っていなかったから、きっといつもみたいにぼうっとしていたのだと思う。
「おはよう」
 と私が言ったら、誠は足を椅子の上から下ろした。
「早いね」
 誠は時計を見て言った。
「早いのかな」
「うん、早いよ。午前だからね」
 じゃあ、あと二時間早く起きていたら、遅かったんだなと思った。
「慎也は?」
「今日はうちに来てないよ」
「そうだっけ」
 誠の家にはみんな年中入り浸っていて、しかも起きている時間帯がばらばらだから、もう誰がいつ来ていつ帰っていったのかがまるで分からなくなっている。さすがに誠は把握しているようだけど、この前訊いたら千恵も慎也も把握できていないと言っていた。
「何してたの」
「まあ、いろいろと。今は休憩中」
 いつも誠は話をはぐらかしてばかりだなあと思いながら、私は台所の蛇口をひねって水を出す。水を手ですくおうとしたら思いのほか冷たくて、反射的に手を引っ込めてしまった。もう本格的に冬なのだなあと思った。十一月もそろそろ終わりだ。水が温まるのを待ってもう一度手を出し、すくい上げて飲む。冷たい水に触れるのは嫌だけど、温かい水を飲んでもおいしくないなあと思った。蛇口を閉める。
「ねえ、休憩中ならあれやろうよ」
「いいよ」
 スコットランドヤードというボードゲームが、今、私たちの間で流行っている。ロンドンの地図を模したボード上を犯人一人が逃げて、警官五人が追うというゲームだ。ただし、警官の姿は見えても犯人の姿は見えず、犯人の使ったバスやタクシーのチケットのみを頼りに見当をつけて探していくことになる。とてもよくできたゲームだと思う。
 ボードゲームの入った箱を三畳の洋室から誠が持ってくる。ボードをテーブルの上に広げてチップをそれぞれの警官の分だけ配り、犯人と警官の最初の位置を決める。私が警官五人を動かし、誠が犯人一人を動かす。最初の頃は犯人役も警官役もみんな交替でやっていたのだけど、あまりにも誠の犯人役がうまかったために、いつの間にか、犯人役は誠、というふうに決まってしまった。ほかの人が犯人をやるといつも捕まってしまうというのに、まだ誠は一度も捕まっていない。
 私たちは薄暗いグローランプの下でゲームを始める。
「さてと、まずはバスで」
 誠がバスのチケットを使用履歴のボードに置く。
「私はこんな感じかな」
 警官たちを私は配備する。このゲーム、決められたターン数で犯人は一瞬だけ姿を現す。そのターンのときに一気に犯人に詰め寄れるように地下鉄の駅のマスにいることが重要になる、と勝手に私たちは思っている。最初に犯人が姿を現すのは三ターン目だ。
「さてと」
 と言って、誠が犯人用のコマを自分のマスのいる場所に置く。その後、逃走。私は五人の警官で包囲網を作る。とても華麗に誠は逃げる。二ターンも経つと、すぐに誠の位置が分からなくなる。
「なんでそんなに逃げるのがうまいの」
 私がコマを動かしながら訊いたら、誠はこんなふうに言った。
「全てのことから逃げてるうちに、逃げるのがうまくなったんだよ」
 微妙に格好悪い科白を吐きながら、誠は犯人の使ったチケットを提示していく。
「なんで逃げてるの?」
「逃げるしか能がないから」
 誠は、驚くほど自分のことを話さない。だから、私は誠が何歳なのかも知らないし、どういう経歴を持っているのかも知らない。もしかしたら、仲手川誠という名前は偽名かもしれないし、この家も実は誠の家じゃないかもしれない。彼女はいるらしいけど、どんな人なのかも分からない。
「ねえ、誠の初恋っていつ?」
「いきなりそんな質問をしなくても」
「動揺を誘おうかなと思って」
 嘘だ。ボードゲームの勝ち負けなんかどうでもいい。知りたいのは誠の経歴で、幼い頃からじわじわと攻めていけばそのうち年齢とかも分かるんじゃないかなとか思った。いつから空き巣を始めたのかとか、何人兄弟なのかとか知りたいじゃない。でも、誠がそんなことをべらべらと喋るはずがなくて、せいぜいニンジンのうまい皮の剥き方くらいしか教えてくれない。というか、この前それを教えてくれた。
「シオリちゃんだね」
「何が?」
 聞き返してから、それが初恋の人の名前であるということに気がついた。まさか、答えてくれるとは思っていなかった。おかげで、警官のコマの配置をミスした。
「カエデは、いつ?」
「うん。幼稚園の年長組」
「ふうん、早いね」
「普通だよ」
 スコットランドヤードの方は八ターン目に入り、再び犯人が一瞬だけ姿を見せた。包囲網を楽に突破されていた。さっきの警官の配置ミスが痛かった。もしかしたら、私にミスをさせるためにわざと誠は過去のことを喋ったのかもしれないとも思った。
「そっちは地下鉄が平均で一枚ちょっとか」
 残りのチケット数を誠は数える。ちょっと地下鉄を使いすぎたか、と思った。これから状況を立て直すのはちょっとつらい。
「投了します」
 と私は言った。結局今回も誠は逃げ切った。私はコマとチケットを片づけながら、誠は何から逃げているんだろうなと考えた。何かから逃げているようには見えないから、単に格好悪い科白を言っただけかなとも思う。
 箱に収めたボードゲームを持って、誠は三畳の洋室へと歩いていった。私はさっきまで誠が座っていた椅子に足を抱えて座ってみた。ひざの上にあごを乗せてみて見えたのは、この部屋の明かりのスイッチだった。
 立ち上がって、カーテンの隙間から顔を出し、窓の外の景色を見る。このまま起きていれば、明日の一限の授業には出られるなあと思ったりする。

 オリジナルの歌詞を作るとき、私はだいたい大学から一駅のところにあるガストに行く。ポテトを注文してルーズリーフに向かい、必死に頭を働かせる。ここでお客さんの心を掴まなきゃ、とかわりと俗っぽいことを考える。そういうことを誠に言ったら、アーティストと言うよりはエンターテイナーだね、と言われた。どちらの呼称も荷が重すぎるなあと思った。
 私も歌詞を書くけど、千恵も歌詞を書く。私たちはそれぞれ別々に歌詞を書いて、それぞれ別々に曲を作る。一回、合作をしてみようとしたこともあったけど、二人の歌詞を書く方法が違いすぎていて結局仕上がらなかった。どちらの方法もありだと思うけど、お互いにお互いの方法でよく歌が作れるなあと思っている。
 今私が書いている詞の題名は『ロウソクの灯』というのだけど、すでに一行目で詰まっている状態で、つまりほとんど何も書けていない。「いつ消えてしまうんだろう」とか「暖かい光が」とかそんな安っぽくて刺激のない言葉しか出てこなくて、もう自分には詞は書けないのかなあとか軽い絶望感に襲われる。ガストで詞を書いているといつもそういう気分になって、でも、結局は何日かかけて詞が書き上がるのだから不思議だ。なんで自分はこんなことをしているんだろうとか、ふと思う。なんで私はこんなことをしているんだろう。
 とか思っていたらふと思いついた言葉があって、書きとめるべくシャープペンシルのキャップを二回素早くノックしたら思いのほか大きな音がした。なんか変だと思ったら窓の外からもう一度ガラスを叩く音がした。なんだこの音か、と外を見たら慎也がこっちに向かって笑っていた。私は頷いた。私が詞を書いていると、たまに慎也はガストに来る。慎也のバイトがこのガストのすぐ近くだからだ。家も近くだと言っていた。慎也も真面目に働いているんなら万引きなんかする必要ないのになあ、お金を貯めているのかなあ、とか考えていて、ようやく私はさっき思いついた言葉をすっかり忘れてしまっていることに気づいた。慎也め。
 慎也は私の向かい側に座りながら、ルーズリーフに目を落とした。
「あ、書いてる書いてる」
「書いてるけど、書けてないよ。書けそうだったのに」
 さっき何を書こうとしたんだったかなあ。
「本当だ。一行しか書いてないね」
「一行? 違うよ。これは題名」
 確かにルーズリーフの一行目に「ロウソクの灯」って書いたけど、これは題名。よく作詞の邪魔をしに来る慎也ならそれくらい分かっていると思っていたんだけどなあ。
「ってことは、一行も書けずに詰まってるんだね」
「うん」
「手伝いたいところだけどね」
 慎也も、私が作詞中に口を挟まれるのが嫌いなことは知っている。雑談とかは構わないんだけどね。
「なんか、浮かばないんだよね」
「いつもおんなじように悩んでるね」
 いっそのこと、「いつも同じように悩んでる」とか一行目に書いてしまおうかと思ったけど、それはそれで普通だなあとか思って、やめた。
「うー」
 と唸って私はポテトを食べる。太りにくい体質なので、どんどん食べる。慎也はウェイトレスに注文してドリンクバーをとりに行った。体に悪そうな緑色のメロンソーダを持ってくると、席に座って一行も進んでいないルーズリーフを見た。
「ねえ」
「ん?」
「俺たちのこと、書いてよ」
「千恵と慎也と誠と私?」
 慎也は頷いた。そして、メロンソーダを飲んで私のポテトをつまんだ。これも万引きかなあ。私からの。
「なんかさ。俺たちのテーマソングがほしかったんだよね、前から」
「テーマソング、って。でも、何書くの」
「なんでもいいよ。でも、明るくて楽しい歌がいいな」
 そんなリクエストじゃ歌は書けないよ、と思った。それに私たちって、明るくて楽しいかな。どちらかというと、静かで穏やかなんじゃないかな。それで、ちょっと暗くて。とか考えて、『ロウソクの灯』というタイトルにあってるなあと思った。
「どこから書けばいいんだろう」
「俺たちが出会ったところからじゃないかな」
「軽い出だしだなあ」
 でも、無難な出だしかもしれない。そう感じたから、どうやって私たちが出会ったのかを思い出そうとした。思い出せなかった。初めて私が誠の家に行ったのって、いつだっけ? 千恵とはどうやってバンドを組んだの? 慎也とはどうやって知り合った?
「どうしたの?」
 私の目を見て慎也が言った。焦った。足の先がすうっと冷たくなっていった。
「意外と書くのが難しいかな、とか」
 どうやったら誤魔化せるだろうと考えていたら、おかしなタイミングで目を逸らしてしまった。
「難しいんなら、無理して書くことはないね」
 ああ、慎也には気づかれてしまったんだな、と思った。慎也は勘がすごくよくて、ちょっとしたことからすぐに真相に辿り着く。今回どこから私のことを察したのかは分からないけど、確実に見抜いている。そうでなかったら、話題を逸らさない。この話から逃げてはいけないんじゃないかと私は勝手に思った。
「慎也が初めて私に言った言葉って、なんだっけ」
「ああ、『大丈夫です』だね」
「え?」
「俺、道に倒れてて、清水さんと山本さんに助けてもらったからね」
「うん」
 慎也はさりげなく説明してくれた。なんだか本当に歌詞になりそうなドラマチックな話だけど、私はまるで憶えていなかった。何丁目のどこの道で、私と千恵は慎也を助けたんだろう。その頃にはもう、私は誠の家に出入りしていたのだろうか。
「酔っ払って寝てただけなのにね」
 そうしてまた私は、えっ、と言いそうになった。何があって慎也は道で寝てしまうほどお酒を飲んだのだろう。普段はまるで酔わない人なのに。あんまり飲まないし。
「そうだよね」
 とか、私は適当な相づちを打っていた。
「さてと、そろそろ行こうかな」
「バイト?」
 私が訊いたら、慎也は頷いた。
「うん。バイト」
「頑張ってね」
「あ、それからさ。今日の夜、大丈夫?」
「うん、空いてるよ」
「じゃあ、誠の家に来てね。必ず」
「行くよ」
「忘れないようにね」
 慎也が念を押すなんて珍しいな、と思った。私はお金を置いて店を出ていった慎也に手を振った。

 ガストを出て、一度家に戻ってから誠の家に行く。結局歌詞は四行しか進まなかったけど、そこそこいいものが書けたので満足している。私たちのことを歌った歌ではなくて、「なんだか全て忘れてしまっているなあ」という歌。思えば、私は高校時代のこともほとんど憶えていない。当時クラスには四十人の生徒がいて、名前や性格は全て憶えていたはずなのに、今は三人くらいしかぱっと思い出せない。同窓会とかがあったらきっと困るだろうなあとか思う。待ち合わせをしても顔が分からないから。
 今にも崩れ落ちそうな頼りない階段を上って、誠の部屋の前まで行き、ドアノブに鍵を差し込んでドアを開ける。玄関に上がると千恵の靴があった。家の中は暗かったので、きっとベッドで寝ているんだろうなと思った。
 洗面所に行って手を洗うと、私はベッドのある部屋の戸を静かに開けた。戸のかすかな音に反応してベッドの上の影が動いたので、起きているのだということが分かった。
「誰?」
 と千恵が言った。
「私」
「ああ、カエデちゃんか」
「電気、つけるよ。それとも消したままの方がいい?」
「もう起きるよ。向こうの部屋に行こう」
 千恵はベッドから下りて隣の部屋に向かった。私も隣の部屋に行こうとしたら、誰かが外の階段を二階まで上ってきた。この歩き方は誠だ。
「呼んでおいたくせに、慎也が一番遅いんだね」
 私が言ったら、千恵は何回も言っている科白を言った。
「足音だけでよく分かるよね」
 千恵には足音が誰のものかが分からないらしい。私だって全ての人間の足音を聞き分けられるわけじゃないけど、千恵と慎也と誠は特徴があるからよく分かる。そもそも、履いている靴からして違うから、音の高さが違う。体重が違うから響き方も違う。体の造りが違うから左右のバランスも違う。
 玄関のドアが開いて、誠が入ってきた。
「慎也が一番遅いのか」
 私と同じことを言った。これまでの言動をまとめると、どうやら慎也は三人全員をここに誘ったらしい。何かを企てている。
 私たちはダイニングキッチンで特に喋ることもないなあと思いながら窓の外を見ていた。自然に集まったときには誰か何かしらの話題を持っているけど、集まれと号令をかけられてしまうと手持ちぶさたになってしまう。早く慎也が来ないかなあと思った。あまりにも喋ることがなかったからなのか、誠が椅子から立ち上がってキッチンの収納部分を開けた。
「トマトジュースでも作ろうか」
 いつだか慎也が盗ってきたジューサーミキサーをテーブルの上に乗せた。
「そうだね」
 別に飲みたくもないけど暇だから飲もうかなと思った。誠はジューサーを洗い始め、私は冷蔵庫からトマトをとり出してへたをとって洗った。千恵は窓の外を見てぼうっとしていた。盗ってきた最初の頃はジューサーをよく使って野菜ジュースを飲んでいたけど、最近はまるで使っていなかった。誠はカビが生えていないかよく確認しているようだった。このジューサー、普通のとは形が違っていて、前もって野菜を細かくしておかなくてもいいようにできている。しかも、削りかすがとり除かれるようになっていてとても飲みやすいジュースを作ることができる。でも、それだけに構造はわりと入り組んでいて、使っていないと汚れやすい。
「どう?」
「うん。まだ使えそうだね」
 誠は刃の部分に指を当てていた。
「危ないよ」
「大丈夫」
 誠はジューサーのパーツを全て組み上げた。
 私がトマトをジューサーに入れたところで、慎也の足音がした。ジューサーの駆動音と慎也が玄関を開ける音が混ざった。
「あ、もうみんないるんだね」
 と言った慎也は二十センチメートル四方くらいの箱を持っていた。
「今度は何を盗んできたの」
 千恵が訊いた。
「違うよ。これはちゃんと買ってきたんだよ。っていうか俺が作ってきたんだけど」
「ってことは、食べ物?」
 慎也のバイト先は、ファミリーレストランだ。来るなと言われているから一度も行ったことはないけどね。
「かなり甘いものだね。トマトジュースとあうかどうかは分からないけど」
 私と誠は四人分のトマトジュースを作り終え、グラスに注いでいた。慎也はテーブルの上に箱を乗せて、包みをほどいていった。包み方から予想はできたけど、箱の中から出てきたのはケーキだった。
『HAPPY BIRTHDAY』
 と中央に書かれていた。
「え、すごい。誰? 誰?」
 私は騒いだ。千恵も一緒に誰だろうとはしゃいでいたから、答えは明白だった。
「俺」
 と誠が言った。あまり嬉しそうな表情じゃないなあと思ったけど、誠のおかげで慎也の作ったケーキが食べられる私はとても幸せ者だ。
「ねえ、慎也くん、ロウソクは?」
「この袋の中」
 千恵にせっつかれながら、慎也は小さな可愛いロウソクを三十本ほど箱のふたの上に広げた。
 そして千恵は、訊くべきことを誠に訊く。
「何本?」
「いくつでもいいよ」
「こういうのは、正確じゃないと御利益がないんだよ」
「じゃあ、あるだけ」
 全く、徹底した秘密主義者だ。それ以上は千恵も訊かず、結局、三十本の小さなロウソクがケーキの上に差された。慎也のライターで灯がともされて、部屋の電気が消されて、カーテンがひかれた。丸い形の灯が暗闇の中に浮かび上がる。
 三人でハッピーバースデーの歌を歌って、歌の終わりに合わせて誠は灯を一気に吹き消した。部屋が真っ暗になって、その瞬間にふと、どうやって慎也は誠の誕生日を知ったのだろう、と思った。誠は普段、出身とか血液型とかを一切喋らなかったけど、もしかして慎也にだけは教えていたのだろうか。
「さて、食べよう」
 ナイフを食器棚からとり出すと、誠はケーキを四等分にした。そして、小皿にとる。みんなでそろっていただきますと言い、一口食べたらものすごくおいしかった。クリームがなんとも言えない。トマトジュースも意外とおいしかった。
「慎也は将来絶対いい主夫になるよ」
 私が言ったら、慎也は違うよと否定した。
「俺はいい料理人になるんだよ」
 慎也の夢って、料理人だったんだ、とか初めて知ったので調子にのって訊いてみた。
「ねえ、誠は何になるの?」
「料理人かな」
 誠は案の定、誤魔化した。ああ、いつもの誠だなあ、と思った。

 へんな問題に当たってしまったなあと思いながら、大学から誠の家までの道のりを歩く。線形代数というごてごてした名前の講義で、次の週までに問題を解くように指示されてしまった。どこからどう手をつければいいのか分からない問題で、教科書の末尾の回答集には「証明は割愛する」という非情な文が書かれていた。同じ授業をとっていた千恵には、ものすごく簡単な問題が出されたというのに、どうして私には難しい問題が当たってしまうんだろうとか自分の運の悪さを呪う。
 いつもどおり頼りなさそうな階段を上り、誠の家の玄関を開けて中に入る。中には誠がいたけど、誠は数学の問題なんか解いてくれないだろうなあと思って、暗い気分になる。
 ダイニングキッチンに顔を出すと、誠は作り置きしておいたカレーライスを食べていた。
「どうしたの」
 思いっきり悲痛な面持ちを作っておいたので、一応誠は気を遣ってくれるのだけれど、心の底からは気を遣っていないんだろうなあということがなんとなく分かる。
「宿題が難しいの」
「大学の?」
「そう」
 誠は興味なさそうに、再びカレーライスを食べ始めた。
「見てよ」
 私はバッグの中から『アントンのやさしい線型代数』という教科書をとり出した。この教科書、名前に少々詐欺があって、まるでやさしくない。しかも、分厚い。先生は最初の授業で「この教科書は非常にいい本で」とか言っていたけど、全然よくないです。っていうか、先生の授業も分からないです。私の彼も分からないって言っています。どうすればいいですか。宿題をやってこなかったら単位はやらないと言っていました。助けてください。
「どの問題に当たったの」
 誠に訊かれて、私は開いたページの一番下の問題を指差した。そして、問題を読み上げる。
『任意のxについてCx=Dxとなるとき,C=Dであることを証明せよ.ただし,xはm次の列ベクトルであり,CおよびDはn×mの行列である』
 問題の意図が分からない。
「へえ。一番最後の問題だから難しいんだろうね」
 という問題文を読んでいないことが明白な感想を誠は言った。
「難しいんだけど、簡単そうに見えるのが問題なんだよ」
「簡単なら、問題ないじゃん」
「シンプルすぎて、何から手をつけたらいいか分からないから、困ってるの」
 私は泣く真似をした。
「まあ、とりあえず座ろうよ」
 と言われたので、座る。もしかして、解いてくれるのかな、とか期待する。
「座りました」
「そして、問題の最後が『行列である』だから、人が並んでいるところを想像しよう」
「は?」
 って思わず心の中の驚きを口に出してしまった。
「ん?」
「行列って、『行列』のことだよ。『行』と『列』があるやつ」
「うん、行列だよね」
「英語でいうと、マトリックス」
 行列って高校で習うよね。計算方法とかが分からなくても、名前くらいは知っているよね。この機に乗じて、未だによく分かっていない誠の過去を聞き出したくなってきた。そして、聞き出してはいけないような気もしてきた。
「そうそう。行列、行列」
 とか言っているけど、この話を誠が拒否している感じがしたので、教科書を閉じて鞄の中にしまう。
「家に帰って考える」
 椅子から立ち上がろうとしたら、千恵が階段を上ってくる音がした。千恵もこの問題はよく分からないって言っていたし、同じ授業をとっている学生の中で一番頭のいい人も、「ごめん、降参。頑張って」と言っていた。単位だけはほしいので、そいつに「なんとかして」って頼んだのだけど、「多分無理」とか言われてしまった。
 千恵はダイニングキッチンに入ってくるなり、私の出していた教科書に目をつけた。
「あー、線形代数。残念だったよね」
 すでに千恵の中でも私は単位を落としたことになっているらしかった。
「一緒に頑張ろうよ」
「人生、諦めることも重要です。って、線形代数の先生も言ってたじゃん」
「今、私は逃げちゃいけないんだよ」
「意外と誠が線形代数得意だったりして」
「駄目だって。誠は行列、知らないって」
「え? 行列知らないの? 文系だったんだ」
 千恵も私と同じところに辿り着いたようだった。結論は微妙に違うけど。
「ま、俺に勉強のことを聞いちゃいけないのは確かだね」
 偉そうに言うことじゃないよ、誠。私は今、困っているんだよ。
「そうだ。慎也くんに聞いてみようよ」
 千恵が提案した。私は早速バッグから携帯電話をとり出した。すがりつけるものになら何でもすがりついてやろうじゃない。
 メールを打つのももどかしかったので、直接電話をかける。通話ボタンを押してから三コール目で慎也は出た。
「慎也、線形代数、得意?」
『え?』
 と聞き返された時点で、私はもう駄目かと思った。
「単位がかかってるの。線形代数」
『ああ、線形代数か。簡単なやつなら大丈夫だよ』
「じゃあ、問題を言うから解いて」
『待って、今バイトに行くところなんだけど。だから、メモる紙がない』
「短い問題だから大丈夫」
『じゃあ、問題を言ってみて』
 私はもうすでに憶えてしまったあの問題を暗唱した。
「解ける?」
『考えてみないと分からないから、ちょっと時間をくれないかな』
「頑張って」
『うん、分かった。解けたら連絡するよ。あ、バイト先についたから、じゃあね』
 そして電話は切れた。
 慎也は文系だとか言っていたような気がするけど、線形代数が分かるんだなあと思った。意外と、ものすごく偏差値の高い大学に行っていたのかもしれない。なんか、誠の過去のこともほとんど知らないけど、慎也のことも実はほとんど知らないんだなあと思った。
「慎也、分かりそう?」
 千恵が訊いてきた。
「なんだか、好感触。問題も一回で憶えたし」
「すごいね」
「わりとすごそう」
 とか言っていたら、携帯のメールの着信音が鳴った。電話をかけてから一分も経っていない。
『今、バイト中。トイレの中からのメール。さっきの問題、解けたよ。バイト終わったら教えるよ』

 お寺の境内で、千恵と歌っていた。今日は土曜日だけど、千恵が左手首をひねってしまったためにギターが弾けなくなって、恒例の路上ライブができなくなってしまったのだ。千恵は、ごめんね、と謝った。私は、そんなことより左手は大丈夫? と心配した。多分来週にはよくなってる、と千恵は答えた。
 この境内は初めての曲を音あわせするときとかによく使っている。近所に家がないから、迷惑をかける心配がないのだ。代わりにお堂の仏像たちに私たちの歌を聞いてもらう。今はこんな歌が流行ってるんですよ、みたいな感じで。今は午後の五時で、広い境内には人の気配がない。お堂はここから見えるだけで五つあるのに、がらんとしている。私たちは石段に腰掛けてギターを弾く。風がないから楽譜が飛ばされる心配はない。
 今日は、千恵が書いた曲の初あわせをする。初あわせといっても、千恵はギターを弾くことができない状態だから、私が弾いて私が歌う。お客さんが仏像だけだから、私のギターでも充分だ。
 千恵の書いてきた曲は、なんだか知らないけどそれまで書いてきた曲とは一変して、歌詞が哲学的だった。一言で歌詞を説明するとしたら、「世界が平和でありますように」。千恵に何が起きたんだろう、と私は思った。
 リズムとかテンポとか、そういうのを一通り打ち合わせしたあとに、ギターを置いて私は訊いた。
「『だから定規を折ろう 分度器も 三角定規も』ってところだけどさ」
「うん」
「どんな感じで歌えばいいのかな」
 私の訊いた部分が今回の歌のサビ。千恵の書いてくるものはいつもこんな感じで独特だ。私の書く歌詞は無難だけど売れ筋だと自分では思ってる。でも、安っぽい。千恵の歌詞は、難解だけど心に訴えかけてくるものがある。今回もなんで文房具を壊さなきゃいけないのか分からないけど、メロディに乗せるとすごく歌いやすかったりする。
「定規と分度器と三角定規に憎しみを込めて歌うの」
 千恵の言ったことはなんとなく分かっていたけど、あらためて言われるとなんで文房具を憎まなきゃいけないのか分からないよ、千恵。
「それでなんで『街は眠りにつくよ』なの?」
 歌詞に文句をつけているわけじゃないことは、千恵もよく分かっている。ただ、本当に分からないから歌いようがないだけなんだよ。思えば、『四街道とその周辺』のときも、よく分からなくて意味を千恵に聞きまくったりした。意味が分からなくても不思議と歌いやすいんだけどね。
「先輩が言っていたんだけどね」
「うん」
 と相づちを打ちながら、ああやっぱり男だったのか、と思った。千恵の歌詞の傾向はかなり頻繁に変わる。そして傾向の変化は要するに男が変わったことを意味する。同級生のあの男の子は捨てられて、今度は『先輩』なのかあ、と思った。今度もまた太ってる人なのかなあ、とちょっと気になったりもする。
「私たちって、科学の勉強をしてるじゃん」
「うん」
 まあ、科学の中のごく一部分を勉強している。
「科学の歴史って、物差しの歴史なんだって」
「は?」
「人は、日付を測って、距離を測って、コレステロール値を測ったんだよ」
「うん?」
 そういえば、今回の歌詞には『コレステロール』という単語が出てきた。
「腫瘍の良し悪しを判断して切除するんだよね」
 話がよく分からない方向に進んでいるなあと思った。どうやら、今度の男は随分と小難しいことを喋る奴らしい。そして、『物差し』を憎んでいる男らしい。千恵はまどろっこしい話は苦手だから、これはすぐに別れるんじゃないかなと思った。
「これって、医療の話なの?」
「違うよ、科学の歌詞だよ」
 これ以上この歌について訊くのはちょっと無理だなあと感じた。だから、話題を変えてみる。
「千恵、左手まだ痛い?」
「うん。動かすと痛い」
「鈍い感じ?」
「なんか、動かすとぴきっと電気が走るみたいな感じで」
 私は怪我とかそういうのにはあまり詳しくないけど、スジを伸ばしちゃったのかなあと思った。
「寒くなってきたし、そろそろ帰ろうか」
 と私は提案してみた。あまり寒いのも怪我にはよくなかろう、とか思った。
「うん。誠の家に寄っていこう」
 千恵は自分の譜面をバッグにしまい、私はそのコピーを自分のギターケースの中に入れた。ギターもケースの中に入れ、立ち上がっておしりをはたく。
 私たちは境内の中を門へと歩く。なんだか喋ることもなくなってしまったので、私は歌う。広い場所なので大きな声を出しても音が闇の中に吸い込まれていく。音程には自信があるつもりだけど、自分の声が反響して聞こえてこないと、調子っぱずれになっていないかどうかが心配になってしまう。
 門を出るまでにワンコーラス歌い終えてしまったので、私はさっきの千恵の作ってきた曲を歌う。あやふやな歌詞のまま歌っていたら、千恵が一つ一つ訂正していった。「も」じゃなくて「が」だよ、みたいに。「だから定規を折ろう」のところは千恵も珍しくハモった。千恵の歌はやっぱりちょっと練習が必要だなと感じる。そして、そのことをどうやって切り出そうかと悩む。何度もひたすら歌っていけばいいとかそういうのなら楽なんだけど、多分、千恵は自分の歌がそれほど酷いとは思っていないはずだから話は難しい。
 ちなみに、私の書いていた『ロウソクの灯』は、まだ完成していない。あと数行で完成するのだけど、そこの歌詞が出てこない。本当は今日あたりに完成する予定だったのだけど、線形代数の宿題に手間取っていて、時間がなくなってしまった。歌の内容はこんな感じ。私は全てのものを忘れていく。もちろん、生まれたときの記憶はないし、小学校に上がる前の記憶は全くない。初恋の人も思い出せなくて、高校のときの友達は三人しか憶えていない。これからも私は何人もの人に出会っていくのだろうけど、全部忘れてしまうんだろうな。
「歌ってたらさ。なんとなく歌詞の意味が分かってきたよ」
「分かってきた?」
「うまく歌うよ」
 嘘だ。本当は意味なんか全く分かっていない。それから、今まで千恵が作った歌詞は全て理解できていない。でも、分かったと伝えれば分かった気分になるから、安心して歌える。誠の家に着いたら、小さな声で近所迷惑にならないように歌ってみよう。そういえば、私がギターを弾いているところを誠や慎也に見せるのは初めてかもしれないということに気づいた。
 早く歌を聞かせたいなと思って、私はもう一曲歌い始めた。
 今は秋だけど、ゆずの『夏色』。

 目が覚めたときに考えることは三つだ。ここはどこだろうということと、一緒に寝ている人がいるかということと、今は何時だろうということ。
 一応もう目は覚めているけど、単に意識があるというだけでまだ目を開ける気力はない。たとえばベッドの上で、うー、とか唸ったら自動的に目覚まし時計が時間を教えてくれるとか、そういうのを誰か作ってくれないかなあ。作ってくれないだろうなあ。売れないだろうし、誤動作したらうるさいし。ってそこまで考えて、多分ここは私の家だと思った。なんとなく。
 起きねば。と思って、思い切って布団をはねのける。寒かったので体が縮こまる。完璧に目が覚める。ここは私の家だ。今は午後五時。ほかに人がいる様子はない。その三つを確認したあとで、さらにもう一つ思い出す。私はいつ寝たのか。確か、彼の家から帰ってきたのが朝の七時頃だったから、そのあたりの時間だ。大学に行くまでの間ちょっとだけ寝ようと思って寝過ぎてしまったらしい。まあ、今日はサボっても大丈夫な日だから問題はない。
 テレビでもつけよう、と思ってテーブルの上のリモコンに手を伸ばそうとしたら、ナイトテーブルの上で携帯電話が三回ほど震えた。誰からのメールだろうと思ってディスプレイを見る。とりあえず、彼からの「大学に来てないね」関連のメールはあとで読むとして、最新のメールをチェックする。今メールをくれたのは、慎也であるらしかった。
『いまどこ?』
 というそれだけの内容。なんだか切迫している感じがしたので、私も短く返信してみる。
『おうち』
 短すぎたか。
 とか思っていたら、電話がかかってきた。慎也からだ。本当に切迫しているらしい。
「清水さん、今、自宅?」
「うん」
「じゃあ、五分後にそっちに行くから」
「ん?」
「あ、知り合い以外からの電話には出ないで」
「え?」
「それじゃあ」
 一方的に電話は切れた。いつもこういうときには慎也はこちらの都合を聞いてから行動していたのに、変だなあと思った。何かあったのかなあ、と考える。考えてもどうしようもないからとりあえず、服を着替える。五分とは急だ。
 部屋の整理をしていたら、インターホンの鳴る音が聞こえた。慎也だな、と思って玄関に向かい、ドアの覗き穴から顔を確認する。ドアを開けるとすぐに慎也が玄関に入ってきて、自分でドアを閉めて鍵をかけた。玄関が狭くなった。
「どうしたの」
 と訊いたら、驚くべきなんだろうけどなぜか驚けなかった言葉が返ってきた。
「山本さんが捕まった」
「ん?」
「スリの現行犯」
「へえ」
 こういうときにそういう顔をするものじゃないということは分かっているけど、なぜか私は笑っていた。驚いた顔をしようとしたり泣きそうな顔をしようとしたりすればするほど、私の唇は横に広がっていって、笑ってしまう。もはや、満面の笑顔になっている。
「清水さん、大丈夫?」
 慎也が心配するのも分かる。私が狂ってしまったんじゃないかと思ったのだろう。私は狂っていないよ、ただ笑ってしまうだけ。声に出して笑うことはないけれど、にたにたとした顔になってしまう。
「うん。大丈夫」
 声までなんだか嬉しそうに聞こえた。私は狭い玄関から上がって、部屋の方へと慎也を案内する。玄関先まで慎也が来たことは二度くらいあるけど、部屋の中に入ったのは初めてだったと思う。
「これがその」
 と早口に喋り始めた慎也の言葉を遮って、私は普段どおりに訊いてしまう。
「何、飲む? ウーロン茶でいい?」
「うん。で、これがその新聞で、ここに山本さんの記事がある」
 座ろうともせずに慎也はカバンから新聞をとり出して、私に見せようとした。私は冷蔵庫からとり出したペットボトルのウーロン茶を二つのグラスに注ぎながら、千恵は新聞に載ったんだなあ、と感心していた。犯罪で載ったのに、すごいなあとか思っていた。だんだんと本当に嬉しくなってきて、早く記事が見たくなった。ウーロン茶のペットボトルを冷蔵庫の中に戻すと、私は記事を覗き込んだ。そこには小さな字で、確かに千恵の記事が載っていた。
『女子大生スリ常習犯、捕まる』
 新宿で現行犯逮捕らしい。
「これだけ?」
 と私は訊いていた。こういう記事は小さい方がいいに決まっているのだけど、なぜか私は千恵の扱いが小さいのが気にくわなかった。スリ五十件以上だよ? もう少し大きな記事で写真入りとかにしてもいいんじゃないの? とかわけの分からないことを考えていた。そして、わけが分からないことだと自覚しておきながら、新聞社に抗議の電話でもしてやろうかなどと考えていた。「もっと大きく扱ってください」。
「これだけ、って。清水さん、大丈夫?」
 駄目かもしれないなあとか思った。私は致命的な何かを忘れてしまっているなあと感じた。
「うん。大丈夫」
「とりあえず、座ろう」
 と言われたので、ウーロン茶をテーブルの上に乗せて、座った。
「はい。座りました」
 慎也は、本当に大丈夫なのかなあ、という視線を私に向けた。問題ないです。大丈夫ですから心配しないでください。
「これから俺たちが考えなきゃいけないのは、俺たちが捕まらないことなんだよ」
「うん」
 と頷きながらも、私は、捕まったらどうなるんだろうなあという好奇心でいっぱいだった。危険だ。
「だから、もう山本さんに連絡をとっちゃ駄目だから」
「私も?」
「当然だよ。清水さんも山本さんの犯行を手伝ってるんだから」
 そうなるとギターはどうなるのだろう、と私は急に心配になった。私は一人で歌わなくちゃならなくなるのだろうか。
「ああ」
 とため息を漏らした私の顔からはすっかり笑顔が消えていたらしく、ようやく慎也が私の顔から視線を逸らした。
「それから、俺ももう、万引きをやめるよ。危険なことからは手を引くことにする」
「生活費は?」
 私は訊いた。
「俺、今度副店長になることになったから、ファミレスの」
 慎也、すごいや。

 どうやって慎也は誠の誕生日を知ったのだろう、ということがずっと気になっていたので訊こうと思った。それが昨日の夜。自分の家のベッドの上から、慎也にメールを送って、気づいたらそのまま寝ていた。そして今朝、携帯電話を見てみたら、そのメールは宛先不明で戻ってきてしまっていた。なんとなく予想はしていたことだった。
 多分繋がらないんだろうなと思いながら電話をかけてみたらやはり、『その番号は現在使われておりません』。慎也は逃げた。ずるい奴だ。
 逃げた慎也を追う手段は何かあるかな、と考える。家の場所は知らない。家の電話番号も知らない。慎也が電話帳に名前を載せているとは思えない。こんなとき、探偵だったらどう調べるだろう。行きつけの歯医者? それも知らない。ほかに慎也の行き先はあったか、と考えて単純なことに思い当たる。バイト先に行けばいい。というか、電話をすればいい。
 タウンページから慎也の店の名前を探す。見つかる。電話をかける。今は午前十時。ワンコール目で相手が出る。私とおそらく同年代の女の子が店名を名乗る。
「そちらに木村慎也っていう人、いますよね」
「キムラシンヤ様ですか?」
 ん、『様』?
「副店長になったばかりの木村っていう店員さん、いますよね?」
「少々お待ちください」
 電話は保留音になった。明らかにおかしかった。いろいろと考えを巡らしながら待っていると、唐突にグリーンスリーブスの音楽が止まった。
「はい。店長の福島と申します。どのようなご用件でしょうか」
 今度は、五十代くらいのおじさんの声に代わった。渋い声だ。
「そちらの店員にですね。木村慎也という男がいると思うんですが」
「キムラシンヤですか?」
「はい」
「申し訳ないのですが、当店には『キムラ』も『シンヤ』もおりません」
 電話が店長に代わった時点で予想をしていた回答だった。だから私は、用意しておいたもう一つの質問をする。
「今度副店長になる人とか、最近副店長になった人とかもいませんか?」
 慎也が偽名を使っていたとしても、これなら分かるんじゃないかと思った。
「申し訳ないのですが、ここ一ヶ月ほどの人事ではそのようなことはありません」
「ほかの店舗でも、そういうことはありませんか?」
「当店舗以外ですと、人事は数え切れないほどありますので、把握しておりません」
 そりゃそうだろうな、と反省する。
 申し訳ありません、と店長さんは言った。
「そうですか」
「はい。お役に立てなくて申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
 私は電話を切る。思えば、慎也のバイト姿を私は見たことがなかった。きっと、ほかのところでほかのバイトをしていたのだろうな、と思った。酷い裏切り者だ。多分、もう、慎也と会うための手だてはない。ここはすっぱり諦めて、誠に会いに行こう。
 家を出て、電車に乗って一駅、歩いて七分。誠の家が見えてくる。いつも夜に来ることが多かったせいか、見慣れているはずの景色も昼間の今は間が抜けているように思えた。ただ、誠のアパートであるグリーンホームだけはなぜか暗かった。というか、白い壁が黒く変色していた。何かあったのかなと思ってさらに近寄ってみると、警官とも警備員ともつかない人たちが出入りしていた。この状況、誠まで捕まったのかな。
 こういう場合には素知らぬふりをして通り過ぎるのがいいのかもしれないけど、好奇心を隠せないのが私の性格で、どうしても警官らしき人に話しかけてしまう。
「何かあったんですか?」
 二人いた警官のうち、片方が私に優しく答えてくれる。
「君、この近くの人? 昨日放火があったんだよ。迷惑な話だね」
「ああ、この黒いやつって、焦げたあとですか」
 黒い焦げはちょうど誠の家のあたりから広がっていた。誠が自分で放火したのだろうか。なんのために?
「そうそう。白くてきれいな壁なのにね。もったいない」
「中から燃えているみたいに見えるんですけど、火事じゃなくて放火なんですか?」
「窓の外から中に松明が投げ込まれたみたいなんだよね」
 確かに、誠の部屋の窓は割れていた。
「なんだか、すごいものを投げ込まれましたね」
「現代の世の中で松明とはね」
 そして私は気になることを訊いてみる。
「このアパートに住んでいた人は大丈夫だったんですか」
「全員が無事に逃げたみたいだね。とりあえず、けが人とかはいないよ」
「へえ」
 と相づちを打ってはみたものの、私の知りたいことはまだ分かっていない。
「じゃあ、全員が今はどこかに別の場所に住んでいるんですね」
「まあ、一人を除いてホテルに一時避難だね」
「一人って?」
「菅山って人の部屋に松明が投げ込まれたんだけど、そいつが不在でね」
 仲手川誠も偽名だったらしい。私の周りは犯罪者だらけで偽名ばっかりだ。
「もしかして、菅山って人が放火犯だとか思って捜査してたりしますか?」
 とか突っ込んだことを訊いてみた。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないねえ」
 そんな陳腐な科白で警官は誤魔化した。
「頑張ってくださいね」
 と言って、私は警官に手を振る。グリーンホームが遠ざかっていく。
 なぜ誠は自分の家を放火したのかと考える。それはきっと、私や慎也との関係を絶つためなんじゃないかと思う。放火された家の主が不在のくせに、もし合い鍵を使っている人がいたら、そこから誠に結びついてしまう可能性がある。この鍵ももう使えないんだなとか思いながら、私は合い鍵をキーホルダーから外して、眺める。銀色に光るそれをどうしようかと考えて、道路のわきの排水溝に捨てる。大雨の日に流されてどこかに消えていくのかもしれないし、もしかしたら誰かに拾われて交番に届けられるのかもしれない。どちらにしろ、もう、私には使えない。
 誠自身は、なんとなく逃げ切れるような気がしていた。スコットランドヤードで一度も捕まったことがないのだ。日本の警察なんか目じゃないに違いない。きっと今ごろは東京を抜け出して、北か西に向かっている。そしてどこかに住み着いて、空き巣を繰り返している。
 慎也は誠の本名が誠でないことを知っていたのだろうと思う。誕生日を知っていたくらいだから、きっとそれくらいは知っていたはずだ。今は多分、本当にどこかのファミリーレストランで副店長をしているに違いない。そして、新米のバイトにやさしく仕事を教えている。
 千恵は、きっと、何かを焦っていたんだろうなあと思った。スリは片手って言っていたけど、やっぱり、両手が使えないとちゃんとした仕事はできないんだよ。千恵とはもう路上ライブをすることができないのだなあと思うと寂しい。
 私はまだ路上で歌い続けるつもりでいるけど、千恵のギター以外で歌うのはちょっと難しそうだ。いっそ、ギターなしで歌うのもいいかもしれない。声には自信があるから。

 駅を出てロータリーを左手に見ながら北へと向かう、朝、十時十五分。空は快晴で、もともとおそば屋さんのあった場所に新たに作られた噴水が勢いよく水を噴き上げている。この時間になるとサラリーマンたちはもう会社に行ってしまっていて歩いていないけど、学生たちは駅からたくさん出てきて大学に向かっている。ロータリーにはバスがたくさん到着していて、どこに行くのか分からないけど、主に高齢の人たちが並んでいる。ロータリーを抜けて、黄色の落ち葉を踏みしめながらたいやき屋と吉野家の前を通る。銀行のお姉さんが配っているポケットティッシュを受けとって、バッグの中に入れる。スクランブル交差点で立ち止まり、信号が青になる瞬間を待つ。いつもアンケートをとっているおばさんたちが声をかけてくる。ちょうどよく信号が青になったので無視して北へと直進する。交差点の角の本屋に入る。
 まだこの時間、店内には人が少ない。入口正面でハードカバーの本を選んでいるおじいさんくらいしかお客さんがいない。ちょっとした賭けなのだ。と私は自分に言い聞かせる。
 文庫の棚の前に行き、選ぶ必要なんかないのに私は本を選ぶ。周りに人がいないことを確認する。緑の本と赤の本が並んでいて上下巻になっていたので、それを棚から引き抜いてバッグの中に入れようとする。視線に気づく。おばさんのお客さんが私の右手の本を見ている。店員さんに見つからなくてよかったと思いながら、その二冊の本をレジへと持っていくべく、店内を歩く。
 俺たちの歌を歌ってよと言っていた慎也の表情を思い出す。私は本屋で万引きっていう古典的なことすらできなかったよ、と心の中で報告する。
 私は結局、慎也のリクエストした私たちの歌を書くことはしなかった。私はガストでルーズリーフを睨みながら考えた。今この歌を書き上げても、結局は過去を振り返ることしかできない。しかも、美化された格好悪いやつ。万引きに成功したら書いてもいいかなと思っていたけど、失敗したからやっぱりやめる。
 文庫本二冊をレジに差し出して、会計を待つ。言われたとおりの金額をぴったり払って、表紙を拒否し、買った本をバッグの中に入れる。店を出る。
 先週慎也が解いてくれた線形代数の問題は、あと十数分で私が答えることになる。慎也の書いた解答は見事すぎて、しばらく私はそれがどういう解答なのかを理解することができなかった。何度もその解答を読み返して、それがどれほどきれいな解答で、それからその解答を必要とした問題がどれほどきれいな問題なのかということを理解した。やるじゃない、『アントンのやさしい線型代数』を書いたアントンさん、とか思った。彼氏にその解答を見せたら、「誰に解いてもらったの?」とか言われた。一瞬、答に詰まったけど、「千恵」と答えたら、それ以上は追及されなかった。
 本屋を出た私は、北に向かって歩く。青い空に向かって歌おうかと思ったけど、周りを歩いている学生がびっくりすると悪いので、やめる。まともに聴いてくれる人もいないしね。
 夜が来たら、私は一人で歌う。