今週の聖書の言葉
2008年8月24日
“イエスは…言われた。「…あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」”‐ヨハネ8:32‐
「人間の自由とは、諸条件からの自由ではなくて、それら諸条件に対して、自分のあり方を決める自由である」(ヴィクター・フランクル)。わたしたちは様々な規制や束縛、条件といったものから解き放たれることこそが自由であると思っています。けれども、束縛や条件といったものから解放されることは良いとしても、自分の人生の確かな拠り所を見い出しているのか、あるいは新たな別の束縛の中に自ら入り込んでしまう危険性はないのかということを自らに問う必要があります。キリスト者にとって自由に生きることとは、「わたし(主イエス)の言葉にとどまる」ことによって与えられる確かな信仰の土台の上に立ち、困難の中にあってもなお希望をもって前進することです。(T)
2008年8月17日
“イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。”−ヨハネ3:13−
主イエスはご自分に従って来た人々の中から十二人を呼び寄せ、使徒と名付け、福音宣教のために奉仕する者とされました。十二人は主イエスのみこころにおいて選ばれましたが、その中には明らかに意見が異なり、通常であれば共にいるということさえも考えられないような人たちもいました。けれども彼らは主イエスに選ばれ、主イエスにつながっているということにおいて一つとされたのです。「違う者たちであるけれども一つになろう」ということではなく、「違う者たちであるからこそ、主イエスにつながって一つである」ということです。わたしたち自身の交わりと教会が立つべき点がここにあります。(T)
2008年8月10日
“イエスは…言われた。「…ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。…」”−マルコ3:34−
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」と書いてあります。主イエスの食事をする暇もなく、枕するところもない暮らしぶりや「気が変になっている」という評判をきいて取り押さえに来たのです。その時主イエスは、外に立っているままでは知ることができない真実を告げられました。主イエスと共に周りに座っている人々―主イエスの献身によって生かされている人々、そしてその恵みに感謝して応えようとしている人々、イエス・キリストに従おうと、自分の十字架を背負い、苦しんだり悩んだり損をしたり痛いめにあったりしている人々―その人々と救い主は身内のように一緒におられるというのです。私たちも神さまを信じるためにイエス・キリストに従うために様々な戦いをします。けれども救い主がまるで兄弟のように様々な苦しみの中に戦いの中に身内のように近くにいてくださる。これが私たちの慰めであり支えです。(M)
2008年8月3日
“下役たちは、「今まであの人のように話した人はいません」と答えた。”−ヨハネ7:46−
群衆の間に主イエスを信じる者が大勢いて、主がなされたお働きについて話し合っている(ヨハネ7章31節)のを聞いて、祭司長とファリサイ派の人々は不快感をあらわにし、主イエスを捕らえるために下役たちを遣わしました(同32節)。しかし下役たちは主を彼らのもとに連れて来ることをしませんでした。下役たちが、主イエスが語られるお言葉を聞き、その力に圧倒されたからです。それは、「『聖書』や『律法』にこのように書いてある」といった説明の言葉ではなく、主イエスご自身が生ける神のみ言葉そのものであるがゆえに持ち得た力でした。わたしたちもまた、「まず、彼(主イエス)に聞く」(同51節)信仰をもって一歩一歩の歩みを進めてまいりましょう。(T)
2008年7月27日
“イエスは…言われた。「…自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。…」”‐ヨハネ7:18‐
主イエスは、「自分の頭から出たことを語る者は、自分の栄誉しか求めない。」(ヨハネ7:18。柳生訳)と語られました。わたしたちは誰でも常に自分に関心を持っており、自分の思いに固執し、自分の考えを語ることに全神経を用いております。誰でも自分という存在から自分自身を切り離すことはできないのですから当然と言えば当然です。しかしそのために、自分の存在が軽んじられたり、自分の意見が受け入れられないと感じた時には、たやすく他者を傷つけてしまったり、あるいは自暴自棄に陥ってしまいます。主イエスはそのご生涯において常に神に栄光を帰す歩みを刻まれました。主の真実に従い、神の栄光を求める歩みへと導かれることを祈り求めましょう。(T)
2008年7月20日
“ペトロは…言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」”−ヨハネ21:17−
漁師であったペトロは、主イエスに召し出されて弟子となりました。彼は自分に目をとめ声をかけてくださった主イエスの招きに応える中で、主に対する愛を増していったことでしょう。ペトロは主イエスが好きだったし、何よりも愛していたのです。しかしそのペトロが、三度も主イエスを知らないと言ってしまいます。けれどもそのことがあったために、ペトロは復活の主イエスに対して、もはや自分の愛の決意やまごころの内に主イエスを愛する愛の確かさがあるのではなく、自分の罪とその罪を悔い改める心の痛みを知っておられる主の愛の内にこそ愛の確かさがあることを証しすることができたのです。(T)
2008年7月13日
“あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、神のものとなった民です。” −Tペトロ2:9−
福音(グッドニュース)というものは、神さまの真理に関わるもので、人間の価値観の一つではありません。私たちが福音を選ぶかどうかではなく、福音によって私たちのほうが選ばれ救われるかどうかが問われているのです。神さまがキリストにおいて私たちを選び呼び出し、神の民として召し集め、公同の信仰告白の下で訓練してくださる、そこにキリストの教会が姿をあらわすのです。私たちが神さまの憐れみによってここに集められている、ひとつにされている、そのことが現に起こっているということ、そこに大きな意味があります。私たちは礼拝において、血縁や家柄、民族や国籍、あるいは自己実現などを超越する真の主体性(神と人との交わりの中で生きること)を繰り返し見い出し、確かめ、受け継いでいくのです。(M)
2008年7月6日
“そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。”−ヨハネ6:21−
弟子たちが舟に乗り湖の向こう岸に行こうとした時、「主イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」(17節)とあります。辺りは暗くなり、強い風が吹き、湖は荒れ始めました。古くから教会は舟に例えられてまいりました。時にこの世の暗闇や強風、荒波の中を漕ぎ悩みつつ進み行く舟としてです。舟は「目指す地」(21節)に向かいます。同様に教会も、時にこの世界の様々な困難な課題や時代の流れに翻弄されながらも目指す地に向かいます。主イエスがまだ来ておられない中で、主の「わたしだ。恐れることはない」(20節)とのみ声を聞き、主を舟に迎え入れる備えをなしつつ、主イエスがもたらしてくださる神の国の完成の日に向けて前進いたしましょう。(T)
2008年6月22日
“イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」”‐ヨハネ4:50‐
王の役人が、自分の息子の病気の癒しを主イエスに願い出ました。主イエスは、「しるしや不思議な業」に注目し、それを求める人間の心の思いの危うさを十分にご存じでした(ヨハネ2:23〜25)。けれども、主はこの役人の息子を癒されました。それはこの役人がすぐれた信仰をもっていたからでも、あるいはそれが必死の願いであったからでもありません。それはただ主イエスの一方的な恵みによるものでした。息子を癒された役人にとって、このことは人生における一つの出来事で終わることはなく、彼もその家族も主を信じる者となりました。主イエスのなさった「しるし」とは、病気のいやしだけではなく、彼とその家族の新しい歩みの始まりそのものでもあるのです。(T)
2008年6月15日
“ヨハネは…言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。…」”−ヨハネ1:23−
主イエスの宣教活動の先駆けとなった洗礼者ヨハネは、人々が彼の行動に注目して、「あなたはメシア(救い主)であるのか」、あるいは「あなたは偉大な預言者の再来であるのか」という問いかけに、明確に「そうではない」と答えます。人の声に惑わされることなく、また、自らの名声を求めず、ただ、“この世に来るべきメシア”を証しすることをこそ自らの使命とし、そのメシアを証しする“声”に徹したヨハネの姿がここに描き出されております。人には、自分が注目されたり、名前を知られたりすることを求める誘惑があります。しかし、わたしたちがなすべきことは、生涯かけて指し示し続け、証し続けるべきお方と出会い、その方と共に旅路を歩み行くことです。わたしたちもまた、主イエスを証しする“声”として用いられてまいりたいと思います。(T)
2008年6月8日
“主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。…」”−創世記4:6〜7−
理由がわからないけれども事実として不公平が存在している。そういう事態がここで語られているのです。考えてみればそのようなことは私たちの生活の中にいくらでもあり、その時にそれをどう理解し、どう行動するか、それが人生を明るくもし、暗くもするのです。怒りとねたみにつきうごかされて神さまの愛を見つけることができないカインに対して、神さまはあらゆる方法をとって立ち返るチャンスを与えておられます。一人ひとりに与えられるただ一つの固有の人生を神さまから受けとりなおし十分に生きていくことができるようにとイエス・キリストは命を捨ててくださった。その神さまの愛を信じて、自分の人生の真相を顔を上げて問い続けていきたいものです。(M)
2008年6月1日
“御子の内にとどまりなさい。”−Tヨハネ2:27−
信仰生活において陥りやすい誤りは、自分の計画や働きが実現することを願い、そのために神さまのお支えや力を求めてしまうことです。自分のために神さまを利用しようとしていることに気づかないでいる、ということが起こるのです。わたしたちの計画や働きがどんなにすばらしいものであるとしても、主イエスのお働きの豊かさに及ぶものでないことは明らかです。わたしたちには、「この方(キリスト)の満ちあふれる豊かさの中」(ヨハネ1:16)に自分の身を置くことが何よりも必要なのです。わたしたちは、主イエスから離れて豊かな働きができるというのではなく、御子の内にとどまることによって、神の豊かな恵みをいただき、「喜びが満ちあふれる」(Tヨハネ1:4)中で、神さまのみわざに仕える働きをなす者とされるのです。(T)
2008年5月25日
“実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。”−ローマ10:17−
わたしたちの信仰には始まりがあります。その始まりとは、わたしたちが自分で真理を見出した時ということではなく、また、自分の信仰の確信を得た時ということでもありません。わたしたちの信仰は、ただキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。わたしたちは、この世のさまざまな声に惑わされることなく、本当に聞くべきみ声を聞き分けることに集中することが必要なのです。さらに、わたしたちは福音を聞くと共に宣べ伝える者でもあります。聞くことなしには信じることはできませんし、神さまから遣わされることなしには語ることはできません。神さまのみ声を聞き、神さまに遣わされる者とされてまいりましょう。(T)
2008年5月18日
“イエスは言われた。「…また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」”−使徒1:8−
主イエスの弟子たち一人ひとりに聖霊が降り、彼らは、さまざまな国の言葉で「神の偉大な業」を語り始めました(使徒2:11)。それは、弟子たちが福音の宣教のために「地の果てに至るまで」遣わされたことを意味しております。主イエスの「弟子」たちは「使徒」とされました。使徒とは神より遣わされた者であり、その働きは主イエスこそがまことの救い主であられることを証言することでした。その働きは彼ら自身の能力によるものではなく、神さまの力によるものでした。ペンテコステによってこの世に誕生した教会は、折が良くても悪くてもみ言葉を宣べ伝える(Uテモテ4:2)ことに励み、今日に至っております。わたしたち一人ひとりもまた、主の恵みを証しする証人として遣わされるために招かれております。(T)
2008年5月11日
“信じた人々の群れは心も思いも一つにし、…すべてを共有していた。”−使徒4:32−
実にいきいきとした教会の姿が描かれています。イエス・キリストにより罪を赦されて、復活の新しい命をいただくその喜びが共同生活をうみだし、聖霊の働きによって与える・受ける関係がより良く展開していました。その時にアナニアとサフィラの夫婦が人の評価を得ようとして、嘘(うそ)のささげものをし、その行為は教会の存亡に関わるできごととなり、自らの命を貧しく、暗く、こわしていくものとなりました。神さまが私たちに与えてくださった赦しと命(永遠の命)、その神の恵みに応える生き方こそが自分と隣人を生かすものとなり、この世界の中で一つの証、輝く生き方になるのだということを心に刻みたいと思います。(M)
2008年5月4日
“キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。−Uコリント5:17−
わたしたちは誰でも他の人との結びつきや関わりをもって生きています。他者との関係で慰められ、励まされることもあれば、それが悩みの原因となったり、心が傷つくこともあります。パウロは、キリストと出会い、関わりをもつことは「キリストと結ばれる」ことであり、キリストにあって「新しく創造」されることであると述べています。それは何よりも、主イエス・キリストの十字架の救いによる罪のゆるしをいただき、神と和解させていただき、さらに、「キリストの使者の務め」(20節)を果たす者とされることを意味しております。主イエスが備え、招いてくださっている和解の食卓(聖餐)に共にあずかり、主にあって新しい命の日々を歩んでまいりましょう。(T)
2008年4月27日
“これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。”−ヨハネ16:33−
「あなたがたがわたしによって平和を得る」との主イエスのみ言葉は、「わたしの内にあって平和を得る」という意味です。弟子たちは主イエスの十字架の前から逃げ出し、「自分の家に帰ってしまい」ます(32節)。弟子たちは主が共におられないために不安で、怖かったからです。けれども、自分の家の中に閉じこもっていた弟子たちのところにも主のみ手は伸び、弟子たちをその平安の内においてくださいました。「あなたがたには世で苦難がある」と主イエスは語られました。主は日々様々な苦難の中で悩むわたしたちの悩みをご存じなのです。けれども、主イエスは十字架において苦難に勝利されました。主は今もその十字架の勝利をもって、自分の殻の中に閉じこもってしまおうとするわたしたちに「勇気を出しなさい」と語りかけておられます。(T)
2008年4月20日
“イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。…」”−ヨハネ14:6−
主イエスが、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(4節)と語られると、すかさず弟子のトマスが聞きました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」。トマスや、この後に登場するフィリポ、そして弟子たち全員が必死です。自分たちの先生である主イエスがいなくなってしまうというのですから。その弟子たちに、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られました。アウグスティヌスはこのところから、主イエスが「まことの命の道」であられると説いたと言われます。主イエスの教えを聴き、主に従い、主と共に歩むこと、そのことこそが命の主なる神に至る道です。(T)
2008年4月13日
“これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。”−エゼキエル37:5−
私たちの国も長年にわたる戦争をし、敗北し、多くの人が非業の死を遂げました。戦争という場所以外でも殺されたり、病による死、無念の死というものはやがて時がたち忘れ去られ、風化してしまうのでしょうか。「否」と神さまは言われます。人間ではどうすることもできない失われた命を救い出すためにイエス・キリストは誰よりも無残な非業の死を遂げられ、そして復活されました。どの命をも絶対にその身をもって受けとめてくださる方がいるのです。それゆえにもはや忘れ去られたり打ち捨てられる命はありません。みんな復活に向けて生かされているのですから。どんなことがあっても私たちはこの命を投げださないで生きていきたい、おそれずに希望をもって生きていきたいのです。(M)
2008年4月6日
“あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、…
その方を畏れて生活すべきです。”−Tペトロ1:17−
神さまを畏れて生きるということは、わたしたちが、人間の罪に対する神さまの裁きを、ただただ恐れて日々を過ごすということではありません。そうではなく、神さまが人間の罪を公平に裁かれると共に、主イエスの十字架によってわたしたちの罪をゆるしてくださったことを知り、その神さまのゆるしのもとに、日々悔い改めをもって立ち帰ることです。「公平に裁かれる方」は、わたしたちを造られ、愛しておられる「父」であられるお方なのです。主イエスの「放蕩息子」のたとえ話(ルカ15章11節以下)に登場する父親のように、息子(わたしたち)が自らの罪を悔い改めて立ち帰ることを、ゆるしをもって今か今かと待っておられる父(神さま)なのです。(T)
2008年3月30日
“神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ…”−Tペトロ1:3−
主イエスを死から復活させられた神さまは、その深い憐れみによってわたしたちを新たに生まれさせてくださいました。「新たに生まれる」ということは、「人生をもう一度やり直しましょう」ということではありません。そうではなくて、それまで支えとしてきた自分の力、働き、経験、人の支えといったものを神さまにおささげして、神さまを頼りにする生き方を始めるということです。その具体的な歩みは、神さまをほめたたえる賛美に生きるということです。主の日の礼拝においてはもちろんのこと、日常の生活においても神さまをほめたたえつつ、信仰の生涯の歩みを進めてまいりましょう。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(Uコリント5:17)。(T)
2008年3月23日
“イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」”−ヨハネ20:1〜10−
週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアは主イエスを葬った墓に行きました。けれども、そこに主のご遺体はありませんでした。そのことを聞いたペトロともう一人の弟子は走って墓に行き、マリアが話した通り墓が空っぽであることを確認しました。墓に行ったマリアの願いはむなしいものとなってしまいました。主のお体がそこに無かったからです。しかし、主は死から復活され、この後、自らその復活のお姿を現されます。わたしたちの思いや願いがむなしく終わったかのように見えるその時に、復活の主は、新たなる出発の道を、まことの希望を、決してむなしく消え去ってしまうことのない光を備えておられます。主はたしかに復活されました。ハレルヤ!(T)
2008年3月16日
“わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。”
−黙示1:5〜6−
「アーメン」とは、「まことに」あるいは「たしかに」という意味の言葉です。お祈りの最後に「アーメン」と唱和します。それは、「確かにその通りです」、「わたしはそのように信じます」との信仰を言い表していることなのです。新約聖書で主イエスは、「アーメンである方」と呼ばれています(黙示3:14)。それは、主イエスこそは真実なお方であり、ご自分の命を犠牲にしてまでわたしたちに対する真の愛を貫かれた方であられることを証ししております。この主イエスの真実により頼み、与えられた道を力強く歩んでまいりましょう。(T)
2008年3月9日
“するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。”‐ルカ23:43‐
十字架の周りにいる人々の中にこそ本当に深い闇があることを知って主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。主イエスと共に十字架につけられていた犯罪人の一人は、救い主が自分たちのために神の呪い死の苦しみを引き受けて十字架についていてくださる。だとしたら、この自分にも希望があると思いました。だから彼は「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願い、主イエスは「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と応えられたのです。私たちもこの罪のからだの苦しみは避けられません。自分の罪のために苦しまなければならない私たちの隣にもイエス・キリストがいてくださることは私たちの支えであり希望です(M)
2008年3月2日
“イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。…」”−ヨハネ12:7−
マリアは、主イエスに高価な香油を惜しげもなく注ぎました。マリアは、おそらくは自分でも押さえ切れない思いに突き動かされて、主にささげるべき最も良いものとして、それまで大切にとっておいた香油を注いだのでありましょう。それは、敬愛する主イエスに対するマリアの純粋な愛、勘定ずくでない愛であり、“献身”でありました。もともと愛とは計算高くなく、勘定ずくではないものであるはずです。けれども、わたしたちの日常においては、一瞬一瞬に、実に細々とした“愛の勘定”が入り込んでしまうことがあります。マリアの行為は、主イエスに対する真実の愛の表れでありました。そしてその愛と献身こそは、主イエスが十字架への道を進み行かれるために最もふさわしい道備えでありました。(T)
2008年2月24日
“キリストがわたしの内に生きておられるのです。”−ガラテヤ2:20−
パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りました。自分が生きていることの意味、その価値はパウロ自身にあるのではなく、自分のために命をささげてくださった主イエスが、パウロの内に確かに生きておられるということにあると言うのです。わたしたちもまた、主イエスがわたしたちの内に生き、わたしたちを生かしておられることのゆえに、わたしたちの生涯の日々、わたしたちの肉体、そしてわたしたちの働きが意味をもつのです。(T)
2008年2月17日
“イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。” −マタイ4:8−
悪魔は主イエスに、「もしわたしを拝むなら」…「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」と語りかけます。しかし、悪魔には「国々」も「権力」も「繁栄」も任されてなどおりません。それらはみな神のものであり、ひとり子主イエスにこそ任せられているものです。悪魔はわたしたちにも誘いをかけてきます。自分が王として君臨する国を築こうとし、周囲を自分の意のままにしようと力を振るい、自分だけの繁栄を得ようとします。国、力、栄えは永遠に神さまのもの、との祈りをもって、神さまとわたしたちの間を引き離そうとする誘いを退けましょう。(T)
2008年2月10日
“「…最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」” −マルコ13:13−
人間が知恵をしぼり能力を結集して作ったどんな建物も文化も社会もその根本が崩される日がくる、とキリストが言われた時、弟子たちは、「いつ?」「どんなしるしが?」「どう準備したらいいのですか?」と質問しました。キリストは極限の試練が起こるときにも、それは終わりではなく「産みの苦しみの始まり」であり、その苦難の場所にも私が共にいて支えるから、そこに私と共にとどまるものは救われる、と言われます。十字架上でキリストが「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたその極限の場所が復活につながったように、命の道は絶望の中にもある、それがわたしたちの希望です。福音は信仰者の苦しみの中で迫害の中で伝えられ証しされてきたことも忘れないようにしたいと思います。(M)
2008年2月3日
“イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。” −ヨハネ6:11−
男だけでも五千人の群衆を前にして、弟子たちは手元にあるパンではとうてい足りないことを嘆きます。しかし、主イエスは、弟子たちが「足りない」(7節)と嘆き、「何の役にも立たない」(9節)とつぶやいたそのパンを取り、人々に分け与えられました。人の目には役に立たないと見えるものでも、神さまはそのように見てはおられません。主イエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから…人々に分け与え」られました(11節)。主は十字架におかかりになってその身を弟子たちに分け与え、「人々が満腹」(12節)するために弟子たちを用いられました。今も主はわたしたちを用いてくださいます。(T)
2008年1月27日
“サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。”−創世記18:12−
「来年の今頃あなたに男の子が生まれる。」これはアブラハムとサラが長い間待っていた事柄でした。けれどもサラはそれを聞いて笑いました。私たちも神さまの約束をいただきながら、心のどこかで笑っています。神さまは、そんな私たちの皮肉、不信仰をご存じでそれでもなお約束をされ、それを実現される。そして私たちを本当に心から喜んで笑わせてくださるのです。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9章24節)と言うしかない私たちを、必ず復活の命に向けて導いてくださる神さまの愛の御手に委ねてこの年も歩んでまいりましょう。(M)
2008年1月20日
“イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。”−ヨハネ22:40−
わたしたちはいろいろな「誘惑」に弱い者です。自分でこうありたい、こうすべきだと思うことと、実際の自分自身のあり方や行動とがバラバラになってしまっております。そのようなわたしたちの弱さとその根底にある罪を主イエスはご存知です。ほんの小さな悪や、自分自身の罪との戦いもできないでいるわたしたちに、主イエスは、「悪を退けよ!自らの罪に勝利せよ!がんばれ!」と叱咤激励するのではなく、まず主ご自身がわたしたちの一切の罪をご自分の身に負い、十字架において勝利してくださいました。わたしたちは、その主の勝利によって救われ、命を与えられ、主のみわざのために用いられる者とされております。(T)
2008年1月13日
“イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」言われた。” −ヨハネ1:38−
洗礼者ヨハネの二人の弟子たちは、ヨハネが主イエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った言葉を聞いて、主イエスに従って行きました。主イエスは振り返り、彼らに「何を求めているのか」と問われ、彼らは「どこに泊まっておられるのですか」とたずねました。主イエスの“教え”を聞くことを求めていたのでありましょう。しかし、彼らが与えられたものは“教え”以上のもの、すなわち、メシア(救い主)との出会いでした。主イエスについて行った二人のうちの一人のアンデレは、兄弟ペトロに「わたしたちはメシアに出会った」(41節)と伝えました。さて、わたしたちは一体何を求めているのでしょうか。わたしたちのどんな求めにもまさる救い主イエスとの出会いがわたしたちにも与えられています。(T)
2008年1月6日
“その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。…」”−ヨハネ1:29−
洗礼者ヨハネは、主イエスこそは、人々の罪の贖いのために、神さまのみ前にご自身を犠牲の小羊としてささげられる救い主であられると証ししました。それは、ただ主イエスのみがなし得ることであり、主イエスによって実現した神さまの救いのみわざそのものでありました。この救いの出来事は、人間の知恵による言葉や、合理的な説明といったもので伝えられるのではなく、ただ“証しの言葉”によってのみ伝えられる出来事です。この一年、「混じりけのない霊の乳を慕い求め」る信仰(Tペトロ2:2)をもって聖書のみ言葉に聴き、主イエスの救いのみわざを証ししてまいりましょう。(T)
2007年12月30日
“言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。” −ヨハネ1:14−
ヨハネによる福音書には、人となられ、人間の間に宿ってくださった主イエスのお姿に、父なる神のひとり子としての栄光を見たとあります。それは、見栄えのする、輝かしいお姿ではなく、自らを低くし、この世の闇の中に身を置くことによって、父なる神の恵みと真理を現すお姿でした。「栄光」とは、まさに神さまご自身に、あるいは神さまのみわざにこそ用いる言葉です。その「栄光」が、主イエスのお姿、とりわけ十字架に付けられたお姿においてこそ現されているのです。十字架は、主がわたしたち一人ひとりを罪から贖ってくださったことのしるしです。わたしたちは、主イエスと、主をほめたたえる群れの中に主の栄光を見ます。神を礼拝する一人ひとりが神の恵みと真理に満たされ、主の栄光を現す器として用いられるのです。(T)
2007年12月23日
“実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは…祝福に満ちた希望、すなわち…わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。”−テトス2:11〜13−
神さまの恵みは主イエス・キリストにおいて現されました。とりわけそれは、主イエスが十字架の上で、「わたしたちのために御自身を献げられ」、わたしたちを「贖い出し」てくださった(14節)ことに明らかにされております。神さまの恵みは主イエスの十字架の救いにおいて結実します。主イエスの“栄光”は十字架において現されております。クリスマスを待ち望む信仰は、その“栄光”の現われをこそ待ち望む信仰です。(T)
2007年12月16日
“「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。” −Tテモテ1:15−
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」との言葉は、初代教会の礼拝あるいは信仰教育で用いられた信仰告白の文章の引用であると思われます。そこには、主イエスが、「いつ、どこに、どのようにして」お生まれになられたのかということではなく、「なぜ」あるいは「何のために」この世に来られたのかとのことが簡潔に言い表されております。それは、「罪人を救うため」であり、さらに使徒パウロは、「罪人の中で最たる者」である「わたし」を救うためであると述べます。クリスマスの恵みとは、ほかならぬこの「わたし」が神さまの憐れみをいただき、主イエスが、まずこの「わたし」に限りない忍耐を示して救ってくださったという事実に支えられ、その喜びの内を歩むことです。(T)
2007年12月9日
“兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。”−ヤコブ5:7−
私たちは自分の労苦だけで自分の人生を完成させることはできません。私たちは一生懸命労苦するけれどもやがて神さまが来てくださって完成させてくださる、その信頼の中で私たちは生きていると言っていいと思います。そして忍耐するというのは自分で一生懸命がまんをするというのではなくて、神さまを見上げながら、神さまにであいながら、神さまに支えていただきながら立ち続けるということでしょう。主が来られる時に私たちは皆祝福をいただきます。なぜなら主は私たちの命をあがない救ってくださった方だから、−祝福を受けとる−その日に向けて私たちは生きているし、主の日に向かう希望の中にこの命があることを待降節の時共に覚えていきたいのです。(M)
2007年12月2日
“主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。”−イザヤ40:3−
バビロニア帝国によって滅ぼされたイスラエルの国土は荒れ果てておりました。そこに至る道もまた、“荒れ野”であり“荒れ地”でした。そして、さらに深刻なことは、人々の心が荒れすさんでいることでした。神さまの救いを信じることができず、かたくなな心となり、つぶやきの中に過ごしていたのです。そのような人々の心に、自らが“主の僕”として人々の嘆きを深く知り、苦しみを担い、人々の“良い羊飼い”となられる救い主によってもたらされる慰めが語りかけられました。クリスマスを待ち望む心は、荒れてすさんだ心に救い主イエス・キリストをお迎えする道を備えることです。(T)
2007年11月25日
“イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」”‐ヨハネ5:8‐
「起き上がりなさい」と主イエスに言われて、その人は起き上がりました。38年間もの長い間病気で横になっていた人にとって、もはや病気(病人)であることがその人の常態であり、日常の生活のあり方そのものであったことでしょう。しかし、主イエスはその人に目をとめ、起き上がらせられました。病に苦しむ大勢の人々がいる中で、この人は主イエスと出会い、その呼びかけにより新たな歩みを踏み出したのです。この人にとって、それで38年間が戻って来るわけではありません。しかし彼は、それまで自分が身を横たえていた床を担いで歩くという新たな歩みを踏み出すことができたのです。(T)
2007年11月18日
“イエスは言われた。「…その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。…」”−マタイ18:27−
「主の祈り」の中の、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」との祈りの言葉を祈ることが心苦しいという思いをもったことがある方は多いのではないでしょうか。自分をつらい目にあわせた人、苦しめた人、心や体に傷を負わせた人をゆるすことはとても難しいことであり、ほとんど不可能なことと思われるからです。そうであるとすれば、まさにこの祈りを祈る時、わたしたちは、自分自身がただただ主イエス・キリストを仰ぐほかはない者であることを知らされます。主イエスは、ご自分を苦しませ、十字架の死へと追いやった人々のためにゆるしと執り成しの祈りをささげられました(ルカ23:34)。わたしたち一人一人が、その主の祈りに支えられております。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32)(T)
2007年11月11日
“信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。”−Uコリント13:5−
信仰を持って生きるということは、私たちが信仰的な決断をして生きるということであり、自分の判断・考え方・思想を超えて、イエス・キリストが自分の中で生き始めるということであり、私たち人間の思いとキリストの思いが葛藤する、その中にこそ信仰というものはあるのだと思います。キリストは心の広い神というのではなくて、赦し受け入れるための痛みを自らの身に負うことのできる神です。そうであれば、自分の怒りや憤り、考え方、価値感によって歩む道ではなく、赦し受け入れるために痛み悩む十字架の道にこそ、真の命の充実や、闘って良かったという喜びがあるのではないでしょうか。(M)
2007年11月4日
“わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。”−Uコリント4:10−
ある方の証しの文章の中に、「試練は神さまからの招待状」とありました。その方は、「何十通もの招待状をいただいた」と記しています。日々の歩みの中でわたしたちは、自分の思いや願い、あるいは計画といったものの挫折や中断といったことに直面し、自分自身(自我)に“死ぬ”ことを経験いたします。けれどもそれら一つ一つは、神さまからの招きをいただいていることの証しであり、さらに、主イエスの命がこの身をもって現される機会ともなります。わたしたちは、主イエスの命に生かされ、主イエスと共に歩む幸いを与えられております。(T)
2007年10月28日
“イエスは…言われた。「…この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費全部を入れたからである。」”−マルコ12:44−
レプトン銅貨2枚−自分を守る最後の手元にあるものをささげて、やもめは神さまに自分を任せました。握りしめていた最後のものを手放す、そして手放したら神さまが受けとめてくださる、それが彼女の信仰なのです。私たちの人生は年を重ねるごとに少しずつ手放し、最後は自分、自分の命を手放さなければなりません。どこに、誰に手放すのか、神さまに向かってです。そうであるなら、今からその方に向けて私たちは自分の手を開いていく。ささげることを学びながら生きていきたいものです。(M)
2007年10月21日
“わたしたちに必要な糧を今日与えてください。”−マタイ6:11−
主イエスは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈ることを教えられました。しかし、わたしたちはしばしば必要以上に欲しがります。「隣人の家を欲してはならない」(出エジプト20:17)と戒められているにもかかわらず、隣人のものまで自分のものにしようとしてしまいます。また、主は日々、その日一日分の糧を与えてくださいます。しかし、わたしたちはその日一日分以上に、明日の分、あさっての分をも求めてしまいます。そのことによって、わたしたちは日々に新たな主の恵みを見失ってしまいます。主が霊の糧をもってわたしたちを養っていてくださること、一日一日を支えていてくださっていることに信頼して歩みを進めてまいりましょう。(T)
2007年10月7日
“オネシモは…一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。”−フィレモン16−
パウロは、主人であるフィレモンのもとから逃亡してきた奴隷のオネシモを「愛する兄弟」と呼び、主人のフィレモンに対しても、オネシモを「愛する兄弟」として迎えることを頼みます。一人の奴隷(しもべ)のために自筆で懇切なる手紙を書き、その負債を自らが負うことをさえ申し出ます。オネシモを愛するこのパウロの姿に、わたしたちの罪のために十字架のお苦しみを忍ばれ、わたしたちを「兄弟姉妹」(マルコ3:35)と呼び、さらに「友」(ヨハネ15:15)と呼んでくださった主イエス・キリストが証しされております。(T)
2007年9月30日
“わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。”−ヤコブ2:1−
「人を分け隔てしてはなりません」と勧められております。「そんなことは分かりきっている」と思うでしょうか。あるいは、「自分は分け隔てしているかもしれない」と自らを省みるでしょうか。ここには、「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」とあります。つまりこれは、一般的な人付き合いのこととしてではなく、信仰のこととして受けとめなさいということです。信仰のこととして受けとめるということは、主イエス・キリストから目を離さないで、ということです。「神は世の貧しい人たちをあえて選」(5節)ばれました。主イエスの十字架の死こそは、主が、貧しい人や辱しめられた一人ひとりと離れることなく、いつも共におられることを証ししております。(T)
2007年9月23日
“高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。”−Tテモテ6:17−
「富に望みを置くのではなく…神に望みを置くように」と勧められております。富を持たない者に対しての慰めの言葉ではありません。あるいは、この世では貧しくても、神に望みを置く者はやがて(天国において?)豊かな者となるということでもありません。ましてや、「富」そのものが悪であるということを言っているのでもありません。神に望みを置き、善を行い、人に分け与えることの恵みを知ることにより、「自分のために堅固な基礎を築く」(19節)ためです。富に振り回され、高慢になることなく、神が本当の豊かさを与えて、このわたしを楽しませてくださることを知る者となるためです。(T)
2007年9月16日
“…イエスは…祈って言われた。「…しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」”−マタイ26:39−
主イエスは十字架への道に向かおうとする時、悲しみもだえ、「できることなら、この杯(十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られました。わたしたちの心(願い、望み、計画…)は、神さまのみこころから遠く、時に敵対します。しかし、神さまは、ひとり子イエスの十字架の死に至るまでの従順さのゆえに、わたしたちを愛し、受け入れてくださいました。ひとり子イエスの死をもってわたしたちを救ってくださった神の愛と、主イエスのお苦しみの祈りを覚え、自分自身を神にゆだね、神さまのみこころの実現をこそ第一とする信仰へと進ませていただきましょう。(T)
2007年9月9日
“イエスは…言われた。「…人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」”−マルコ10:45−
「偉くなりたければ今は仕えなさい。一番上になりたければ今は僕としてがまんしなさい…」そうキリストが言われたのではありません。神の国では偉い人というのは仕える人であり、一番上の人とは僕である人のことなのです。なぜならイエス・キリストが僕として仕えるメシア(救い主)であり、それ故に私たちが救われているからです。今も足を洗い続けてくださる救い主の奉仕、それが神の国の土台です。救い主に仕えていただいているこの私たちの命も仕えるためにあるということではないかとここでは言われているのだと思います。(M)
2007年9月2日
“わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。”−Uコリント11:11−
パウロの宣教活動は、時に誤解されて非難を受けることがありました。このところでは、何と、パウロが福音をただ(無報酬)で宣べ伝えたことが問題であると言われていたとあります。パウロは、コリントの教会の人々に負担をかけたくなかったため、自分で生計を立て、さらに他の教会からの支援を受けて宣教活動をしました。ところがそのことを好ましく思わなかった人々がいたのです。人の気持ちというものはなかなか複雑なものです。ここにおいてパウロは、コリントの教会の人々を心底愛していると語っています。福音宣教は、まさに愛に基づくものであり、「愛がなければ、無に等しい」(Tコリント13:2)ことなのです。わたしたちの信仰の歩みはどうでしょうか。(T)
2007年8月26日
“生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。”−ローマ14:8−
使徒パウロの力強い福音宣教の働き、その根底にあったのは、自分自身の全存在が主イエスのものであるという固い信仰でした。自分のすべてを主に差し出し、主のために生き、主のために死ぬことにおいて、パウロの心と働きは定まっておりました。このことにおいてパウロはぶれることなく、後退することがありませんでした。そしてパウロは、「わたしたちは主のもの」と語っております。頑なな心をもつわたしたちが互いに受け入れ合うために必要なこと、それは、わたしたち一人ひとりが、主イエスの十字架の救いによって神に受け入れられているという恵みの事実に立つことです。(T)
2007年8月19日
“そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。”−マタイ4:17−
主イエスの福音宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でありました。「天の国」とは“神のご支配”という意味です。生ける神のお働きが、今、主イエスにおいて始まったというのです。しかし、「そのとき」は、この世の支配者が力を振るい、民衆の良心の声がいとも簡単にもみ消しにされてしまう時でありました。そのような中にあって、主イエスは神の国の福音を宣べ伝えることによって神のご支配の確かさを証しされ、さらに、自ら十字架におかかりになることによって神との和解の道をお開きくださいました。わたしたちはその道を歩むために招かれております。(T)
2007年8月12日
“むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。”−Uコリント2:7−
赦しを受けた人はもう一度立ち上がることができます。イエス・キリストは私たちが生きていくように私たちを赦して受け入れてくださいました。だから私たちも「赦す」という課題が与えられていると思うのです。この世界の歴史の中心に十字架があるように、この私たちの世界の混沌の中心にも十字架があります。私たちが自分の十字架を背負って、その痛みを担うことの中で、神さまのみわざに参与していきたいし、そうすることで生きるということを学んでいきたいと思うのです。(M)
2007年8月5日
“できれば、せめてあながたは、すべての人と平和に暮らしなさい。”‐ローマ12:18‐
ローマの信徒への手紙は、11章まではキリスト教信仰の教え(教理)の内容が書かれ、12章からはキリスト者の実際的な生活のことが書かれております。そのキリスト者の実際的な生活とは、何か人に模範を示そうと頑張ることや、キリスト者らしく見せる努力をするということではなく、何よりも、ただキリストを信じることによって神さまの前で義とされる信仰(ローマ3章21節以下)にしっかりと立って生きるということです。わたしたちが、他の人に自分の寛容さを示そうとしたり、時に妥協したり、あるいは人の意見にひたすらに追随する姿勢を示すということではなく、まさに「キリスト中心」に生きること。そこにこそ平和への道が開かれてまいります。(T)
2007年7月29日
“主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。”−エレミヤ17:14−
預言者エレミヤは、神さまは人の心の奥深くを知っておられる方であると語りました。人間の心は「つっぱっていて、いじけている」(ルター)のであって、真実に神を求めることをしていないことが明らかにされております。しかし、人の「いやし」と「救い」は神さまのみ手の中にあり、神さまがなさるみわざです。わたしたちが、深い悩みや苦しみの中で、自分がどこに立ち、何を頼りとして生活しているのかということを自らに真剣に問う時、それはちょうど、木が地中において水路を求めて根を伸ばしている時であるということです。わたしたちは、「生ける水の源」である神さまに根を張ることによって、生き生きと生き、葉を茂らせ、実を結ぶことができるのです。(T)
2007年7月22日
“そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。”−マタイ9:6−
罪を赦された人間は起き上がるのです。つまり自分自身を取り返して生き始めます。そして自分も何かを人に与え得る人間だということに目覚めさせられる。さらに、現実に向き直り、そこで「よく生きる」ものになるのです。自分の目の前にある現実をふみしめながら生きていく中で希望がなんであるかということが見えてくるから。ここを生きて希望はその中に思いがけないかたちで与えられていくものだから。与えられた現実は命につながる。神の命の世界に至るのだということを私たちは覚えていきたいと思います。(M)
2007年7月15日
“天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。”−マタイ6:9−
「主の祈り」は、わたしたちが、自分の思いや願いを祈ることに先立って、先ず神さまのみ名があがめられることを求める祈りから始まります。「み名があがめられますように」は、原文では「あなたのみ名が聖なるものとされますように」とあります。わたしたちは、自らの祈りにおいて、神さまのみ名が聖別されることを真実に求めているでしょうか。そうではなくて、むしろ、現実の諸問題に心が騒ぎ、思いが乱れる中で、先ず自分の願望や企てが実現することを祈り、そしてそのことのゆえに、神さまのみ名を汚してしまっていることが多いのではないでしょうか。主イエスは、ご自分の十字架の死を前にして心騒ぐ時、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られました(ヨハネ12:28)。主イエスご自身が、そのお苦しみの最も深いところにおいて、ご自身の思いに逆らうようにしてこの祈りの言葉を祈られたのです。その主イエスの祈りに、わたしたちも従う者でありたいと思います。(T)
2007年7月8日
“イエスは言われた。「…あなたは、わたしに従いなさい。」”−ヨハネ21:22−
復活された主イエスは、弟子のペトロに現れ、主イエスに従う群れの世話をすることと、その生涯を通して神の栄光を現す務めを担うことを命じられました。その時、ペトロが振り向くと、そこに主イエスが愛しておられた弟子がついて来るのが見えたので、ペトロは「主よ、この人はどうなるのでしょうか」とたずねました。主イエスはペトロに、「あなたは、わたしに従いなさい」と答えられました。ペトロにはペトロに、他の弟子にはその人に対して与えられる主よりの務めがあります。わたしたち一人ひとりにも神の呼びかけ(主の召し)があり、主のお働きのために用いられるのです。(T)
2007年7月1日
“この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。”−使徒11:18−
神さまのなさることは人間の思いを超えており、人間の考えや判断の先にあります。ペトロは幻において、ユダヤ人が清くない物、汚れた物としていた獣や鳥などを屠(ほふ)って食べることを示されます。ペトロは強く反発しますが、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒11:9)とのみ声に、ついに自らの壁を打ち破ることとなります。ここに異邦人伝道の大きな一歩が踏み出されることになります。「神よ、変えてはならない事についてはそれを受け入れる心の静けさを、変えるべきことについてはそれを変える勇気を、そして、その両者を見分ける知恵をわたしに与えてください」(ニーバー)との祈りをもって歩みを進めてまいりましょう。(T)
2007年6月24日
“フィリポは口を開き、…イエスについて福音を告げ知らせた。”−使徒8:35−
主の天使はフィリポを、エルサレムからガザへ下る道へと行かせます。「そこは寂しい道」(26節)でした。しかし、そこでフィリポはエチオピアの女王に仕える高官(宦官)に出会います。彼は「馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読して」いました(28節)。それは「苦難の僕の歌」と呼ばれる箇所(イザヤ書53章)で、そこには自ら苦しみを負う救い主が証しされておりました。フィリポは、この宦官に、その「苦難の僕」こそが主イエスであることを証ししました。この寂しい道でのフィリポの活動は、ただこの一人に出会い、福音(良い知らせ)を告げ知らせることのみでありました。けれども、この宦官はその後「喜びにあふれて旅を続けた」のです(39節)。主イエスの福音は、主を求める一人の存在に確かに伝えられ、その人は、たとえ「寂しい道」であっても喜びにあふれて人生の旅路を歩む者とされるのです。(T)
2007年6月17日
“イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、…』」”−ルカ11:2−
古代の神学者テルトゥリアヌスは、「『主の祈り』は福音の要約である」と語ったと言われています。ですから、「主の祈り」を丹念に学ぶことによって福音の核心が分かるということができます。けれども、学ぶことよりも、神さまに祈ることができるということ、あるいは、神さまを「父よ」と呼ぶことができるということ、そのことの方がより大事なことです。神さまは、ひとり子イエスさまの十字架の救いにより、わたしたちに、「父よ」と呼ぶことをゆるしてくださると共に、わたしたちが本来あるべき「神の子」(ガラテヤ4:5)としてのあり方を回復する道を、この「主の祈り」において開いてくださいました。日々喜びをもって、「天にましますわれらの父よ」と共に祈りましょう。(T)
2007年6月10日
“わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。”-フィリピ4:19-
使徒パウロはすべての境遇の中に神さまの御心が込められていることを、自分の歩みの中で習い覚えたと言います。そして、貧しさも豊かさも、その時々を、神さまからの賜物として受けとっていくことが生きていく秘訣だと語ります。そして、人は受けてたくわえることで富むのではなく、神さまの栄光の富=人の魂を豊かにするもの=によって内から育てられ、他者のためにささげるものへと変えられていくのだと言います。「病(やまい)、苦しみ、悩み、不幸であったとしても、しっかりとお吸いなさい。なぜなら、すべては恵みの呼吸だから、神さまのなさることにまちがいはないのですから。いつの日か吸い込んだ不幸の息を感謝に代えて吐き出すことができますよ」と渡辺和子さんも証しておられます。(M)
2007年5月27日
“主は…言われた。「…枯れた骨よ、主の言葉を聞け。…見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。…」”−エゼキエル37:4〜5−
預言者エゼキエルは紀元前6世紀半ば、国が壊滅してバビロンに捕囚されていく人々の中で幻を見ます。それは現実を透視するもの、人間の真実を写しだすものでした。「枯れた骨」それは精神的にも肉体的にも弱り果てている状態以上に、自分の罪によって再起不能な状態で打ち捨てられている状態−それは十字架上に主イエスを見捨てた自分の罪に打ちのめされている弟子たちの姿と重なります。ペンテコステは神さまが霊を吹き込んで、弟子たちを立ち上がらせ教会が誕生した日。枯れた骨も聖霊をいただくことができ、神さまの器として用いられる。それが私たちに対して与えられている約束であり恵みなのです。(M)
2007年5月20日
“『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』”−マタイ21:16−
主イエスは、神を礼拝する場所であり、祈りの家である神殿で、鳩を売ったり両替をしたりなどの商売に夢中になっている人々を追い出されました。人々が主イエスのなさることを驚いて見ていた時、子どもたちまで「ダビデの子にホサナ」と叫びました。それは、神さまが子どもたちの口に歌わせられた賛美でありました。「さんびの上に座しておられる」(詩編22:3〔口語訳〕)神さまは、わたしたちがささげる賛美を受けてくださるだけでなく、わたしたちに対して、「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせ」てくださる(イザヤ61:3)お方です。わたしたちもまた、神さまの恵みをほめたたえる賛美を与えられ、神さまからの慰めと励ましをいただいて一日一日を過ごしてまいりましょう。(T)
2007年5月13日
“「…わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし…『来い』と言えば来ます。…」”-ルカ7:8-
主イエスは、まことの神の権威によってみ言葉を語り、力強いみわざをなされました。そして、父なる神の権威に従って、自ら十字架への道を進み行かれました。その主イエスに従った使徒たちもまた、人々の迫害の中にあってもなお、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)との告白をし、主イエス・キリストの福音を証しする歩みを続けました。“この世の権威”を恐れて神に従う道からそれてしまうことなく、まことの権威であられる神の下に立ち、そのみ声にこそ聴き従ってまいりましょう。(T)
2007年5月6日
“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、…栄光が世々限りなくありますように、アーメン。”−エフェソ3:20〜21−
神さまの御力とそのお働きは、わたしたち人間が思ったり考えたりすることをはるかに超えているということは、当然と言えば当然のことです。神さまはわたしたちの造り主であられ、この世界の造り主であられるのですから。しかし神さまは、その御力をわたしたちの内に働かせ、わたしたちを用いて、この世界においてそのお働きを実現へと至らせてくださいます。わたしたちが、自分自身の小さな思いや狭い考えにとらわれて、神さまの大きなお導きやお働きを見失ってしまうことがないように、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(18節)を知り、その中で生きる者とされてまいりましょう。(T)
2007年4月29日
“イエスは言われた。「わたしが命のパンである。…」”−ヨハネ6:35−
主イエスは、神のみ心をこの地に明らかに示すために、天から降って来られました。そして、十字架の上でご自分の命をささげるというまことに驚くべきあり方で、主を信じる者に、ご自分の命を与えてくださいました。ある牧師が、「主が“命のパン”であられるということは、わたしたちの肉体が滅び、灰になっても変わることのない事実である。わたしたちは、死の時にこそ、復活の信仰をもう一度明確にするのだ。」ということを述べています。主イエスは、わたしたちの命の源であり、日々わたしたちを生かしてくださるお方であり、終わりの日の復活にあずからせてくださるお方です。(T)
2007年4月22日
“イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。”−ルカ24:43−
主イエスのご復活をなかなか信じることができないでいる弟子たちの前で、復活の主イエスは焼いた魚を食べられました。どことなくユーモラスな感じがする出来事ですが、主はまさにそのように、弟子たちと共に、またわたしたちと共に食卓を囲んでくださるお方であります。日々の生活において、喜び、悲しみ、痛み、嘆き、あるいは悩みのただ中にあるわたしたちを訪ねて来てくださり、共に食卓を囲み、ご復活のご栄光によりわたしたちが歩む道を照らし、ご自分の命を分け与えてわたしたちを養ってくださるお方です。詩編の詩人が歌ったように、まさに、「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)です。(T)
2007年4月15日
“イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。”−ルカ24:30−
二人の弟子たちが、エルサレムからエマオの村に向かって歩いている時、復活の主イエスが二人と一緒に歩いてくださいました。けれども二人の弟子たちは、その方が主イエスであると気づかずに、暗い顔をして話し合い論じ合っていました。わたしたちも日々の生活の中で、暗い顔をして話し合い、論じ合うことの多い者です。しかし、復活の主はたしかに今も活きておられ、わたしたちと共に歩んでいてくださいます。その後、復活の主から聖書の解き明かしを聞いた二人の弟子たちは、食事の席で主イエスがパンを裂かれるお姿を見た時に、その方が主であられることが分かりました。教会は、主イエスの十字架のあがないによる救いを示す「主の食卓」(聖餐)によって主を証しする群れです。その主との出会いがわたしたちの喜びであり、力です。(T)
2007年4月8日
“イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。”−ヨハネ20:16−
復活したイエス・キリストはマリアの背後から「マリアよ」と呼びかけられ、墓の方を向いてうつむいて泣いているマリアを、朝の光がのぼっている前の方に向かわせます。なぜならキリストは過去にではなく、これから歩いていく前方におられるから。救い主は私たちの罪を赦し、私たちに新しい命を与えるために、十字架に苦しみ、死んで復活されました。私たちと一緒に歩くため、私たちを清め、守り導き、真の慰めと希望を与えるためです。そしてキリストの下で、復活の命において私たちは失われないのであり、かりそめのものではない、無駄ではない、偶然ではない本当の出会いを経験します。何度でも名前を呼ばれ、光の方へ向きを変えていただきながら、愛する試みを続けていこうではありませんか。(M)
2007年4月1日
“そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」”−ルカ11:20−
人々は、救い主であられる主イエスを十字架につけてしまいました。彼らはその時、自分たちが何をしているのかを知らないでいたのです。自分で自分が何をしているのかが分からなくなってしまっているということほど、人間にとって恐ろしいことはありません。自分が正しいと主張する余り他の人の言葉に耳をかさない、相手のちょっとした言葉や行動にイライラする、怒りに燃えて逆上する等々、自分で自分の今の姿や状態が分からなくなった時、わたしたちは正しい判断から離れ、さらに他の人を深く傷つけてしまいます。主イエスは、自分が何をしているのか分からなくなってしまっている人々さえも、神さまの前でとりなしておられます。「彼らをお赦しください」と。主イエスの十字架こそが、わたしたちを縛る罪の力を打ち砕くのです。(T)
2007年3月25日
“「…ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』…」”−ルカ20:13−
主イエスのたとえ話として、ぶどう園の主人が収穫を納めさせるために送った僕たちを袋だたきにし、さらに主人の愛する息子にいたっては殺してしまうという、まことに身勝手で、自らの欲望のおもむくままに行動する農夫たちが語られております。ぶどう園は農夫たちに貸し与えられたものでした。しかし彼らはそれを自分たちのものとしようとします。神さまから貸し与えられているものを、すべて自分のものと思ってしまうほどに、神さまから遠く離れてしまっているわたしたち人間の罪の姿がここに明らかにされております。わたしたちは、自分の罪の闇の深さにおののきつつ、神さまの憐れみを求め、悔い改めて神さまのみ前に立つしかありません。神さまは決して“機械じかけの神”(人間の思い通りになる神)ではなく、「愛する息子」イエス・キリストをわたしたちに与えてくださった恵みの神です。 (T)
2007年3月18日
“キリストは、神の身分でありながら、…自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。”−フィリピ2:6〜7−
新美南吉の作品に『きつね』という童話があります。月夜に七人の子どもたちがお祭りに出かけます。その途中で、その中の一人の文六は、新しい下駄を買います。そこで、見知らぬおばあさんから「夜に新しい下駄をおろすと狐がつく」と言われた文六は、そのことが気になってしょうがありません。家に帰り、文六は母親に「ぼくが、ほんとうに狐になっちゃったらどうする?」と聞きます。すると母親は「人間をやめて、狐になることにきめますよ」と答えます。子どもの心に広がる不安や恐れ、それを優しく包み込む母親の愛情が伝わる童話です。神さまはわたしたち人間を愛し、さまざまな不安や恐れ、そして罪から救ってくださるために人間となられました。そのお方が主イエス・キリストです。主イエスこそは、わたしたちのまことの喜びなのです。(T)
2007年3月4日
“イエスは…言われた。「…しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。…」”−ルカ11:20−
主イエスがこの世界に来られたことこそが、「神の国」(神のご支配)の到来そのものです。主イエスがなされるお働きは神さまのお働き(「神の指で」)でありました。しかし、主イエスのお働きを快く思わない人々は心の中に敵意を抱き、主イエスに対して、「あの男は悪霊の…力で悪霊を追い出している」と非難しました。それに対して主イエスは、悪霊でさえも内輪で争っていたならば立ち行かないと語られ、内輪で争い合うことの愚かさを明らかにされました。聖書には、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」は「肉の業」であり、そのようなことを行う者は、「神の国を受け継ぐことができない」と教えられております(ガラテヤ5章20〜21節)。主イエスのご支配の中にあって、主と共に歩んでまいりましょう。(T)
2007年2月25日
“悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。”−ルカ4:13−
わたしたちは、日常生活の中で様々な誘惑に直面いたします。それは自己保身や身勝手さ、人を非難したり傷つけたりすることなど、他の人との関わりにおいて起こり、また、気づかされるものです。しかし、主イエスは荒れ野で(つまり「人」がいない所で)悪魔の誘惑を受けられました。その誘惑の目的は、人間と神さまとの関係を引き離すということでした。人間が神さまの存在を疎んじ、神さまを必要としないものとするために、神さまのお働きを試させるものでした。主イエスはみ言葉(神の言葉)をもって悪魔の誘惑を退けられました。信仰の歩みは、神さまとわたしの関係を引き離そうとする様々な誘惑との戦いです。悪魔は「時が来るまで」(13節。口語訳では「一時」)主イエスを離れました。その「時」とは十字架の時であり、主イエスの悪魔の誘惑に対する完全な勝利の時でありました。(T)
2007年2月18日
“あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。”−ヘブライ3:13−
わたしたちは、罪に惑わされることによって“かたくなな心”になってしまいます。自分の思いや考えにこだわってしまうあまり、まわりのことや他の人の気持ちに思いが至らない状態になってしまいます。聖書に、「『今日』という日のうちに」とあります。明日に延ばすことができないことがある、延ばしてはならないことがあるというのです。それは「神の声を聞く」ことです。主にある兄弟姉妹が、日々、祈りにおいてお互いに“励まし合い”(ギリシア語では、「かたわらにあって語りかける」という意味の言葉)、神のみ声によってやわらかな心とされ、また、やわらなか心をもって神のみ声を聞く者とされてまいりましょう。(T)
2007年2月11日
“そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言った。”−マタイ3:1〜2−
ヨハネは「天の国は近い所に来ている。手の届くところに救い主は来ている。光はすでに私たちの所に届いている」と語っています。ヨハネは荒野で生活をし神さまの前に立つ、荒野で裸の人間として神さまの光に照らされて自分を知る人でした。だから彼の言葉は「荒野で叫ぶ声」として人々の心に届いたのです。悔い改めるとは罪を認める、知るということでしょう。そして神さまの赦し、恵みを感謝して受け取る、そこからうまれる生き方、行為こそが他の人を支える生き方になるのだということを、ヨハネはその生き様を通して証ししています。(M)
2007年2月4日
“良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。”−ルカ8:15−
草花も野菜も、種が芽を出し、根をはって成長するためには時間が必要です。早く育つものもあれば、ゆっくり時間をかけて成長するものもあります。信仰においても、神の言葉がその人の内ですぐに成長する場合もあれば、なかなか芽が出ず、根もはらず、実を結ぶのはいつのことか…と思われる場合もあります。しかし、一人ひとりにはそれぞれ必要な時間があり、その時間は人によって違います。種の成長を見守っている周りの人には、その成長をじっと待つ忍耐が必要ですし、種の成長と共にその人自身も成長をする一人ひとりにおいては、神さまのお導きのもとに“自らの身を置き続ける”(「忍耐する」というギリシア語の原意)ことが必要です。祈りの内に覚える方たちが、「成長させてくださったのは神です」(第一コリント3:6)との告白に至るように皆で見守り、祈りをもって支えてまいりましょう。(T)
2007年1月28日
“イエスは…言われた。「…この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」”−ルカ21:4−
主イエスは、金持ちたちと貧しいやもめとが、それぞれに献金をささげるのをご覧になって、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」とおっしゃいました。献金は自分自身を献げる献身のしるしですから、本来、だれかとだれかを比べて多いとか少ないということはありません。しかし、時に人の目を気にして、体裁をつくろうために形ばかりのことをする人間のあり様を主イエスは見抜いておられます。主イエスはまた神殿で、人々がその建物や奉納物の見事さに見とれている時、その建物がいずれ崩れ去る時が来ることを語られます。形(体裁、建物)ばかりで内容(献身、祈り)が伴うことがなければ、その形は時の流れの中で失われて行きます。わたしたちの罪のために、十字架において、まことの献身と祈りをお示しくださった主イエスに従ってまいりましょう。(T)
2007年1月21日
“神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。…第一の日である。”−創世記1:3,5−
聖書に記されている神さまの第一声、それは「光あれ」です。神さまによる天地創造のみ業において最初に創造されたのが、その「光」でした。それは太陽の光でも月や星の輝きでもなく(それらの「光」は14〜19節において創造されます)、神さまが造られた天地万物を根源において照らし、支え、導き、活かす光です。また、その「光」は、この世界とそこに生きるわたしたちが深い闇の中で苦しみもがく時、わたしたちの存在そのものを「良し」として受けとめ、生かし続けてくださる神さまの「愛」そのものです。わたしたちに与えられている一日一日、神さまの光に照らされて歩んでまいりましょう。(T)
2007年1月14日
“身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。”−詩編3:6−
祈る者は天から支えられます。神のみ座である天がこの小さな命を支える土台になるのです。信仰者は不安定な日常の中でいつも祈って上から支えられていくのです。詩編の作者は敵に囲まれつつも、その中で身を横たえて眠ると言います。たくさんの敵の中で主が支えてくださるから眠れるのです。厳しい現実の只中を生かしていてくださる神の現実に目を開いて、勇気をもってその場所に立ち、またその中にふみこんでいく信仰が与えられますように。「『恐れてはならない、わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い』と言って、主に祈り、『主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください』と願った。」(列王記下6:16〜17)(M)
2007年1月7日
“イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。”−ルカ3:21〜22−
主イエスは天から降られた神のひとり子です。強大なローマ帝国の支配下にあり、民衆は神の救い主メシアを待ち望んでおりました。自分の周りを見回しては、ただ天を仰いでため息をつくしかないような様々な問題や悩みに直面している民衆の中に、主イエス・キリストは天を開いて降って来られました。ここに、神さまと人間との確かな深い絆が結ばれました。主イエスによってもたらされた絆であります。クリスマスに家畜小屋の中で生まれ、飼い葉桶に寝かせられた主イエスは、わたしたちの日常の歩みや営みのただ中に来てくださいました。その主イエスの祈り、教え、働きのすべてが、主なる神さまの愛と恵みを豊かに証ししております。(T)
2006年12月31日
“ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。”−ヨハネ18:37−
誕生したばかりの「ユダヤ人の王」を、その権力をもって殺そうと謀るヘロデの前から、ヨセフとマリアは幼子イエスを連れてエジプトへ逃げました。逃げるほかなすすべがなかったからです。その後、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子がヘロデによって殺されてしまいます。主イエスのお誕生直後のこの悲惨な出来事は、主イエスが、どのような慰めの言葉も通じない大きな悲しみや嘆きを深く知っておられること、さらに、ご生涯においてそれを負ってくださり、人間の罪を担う十字架上の死に向かって進んで行かれる歩みがここに決定づけられていることを示しております。嘆き悲しみでわたしたちの生涯の歩みが終わるのではなく、主の十字架によって受けとめられ、支えられていること、それがわたしたちの救いです。(T)
2006年12月24日
“彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。” −マタイ2:11− 東方の占星術の学者たちは幼子の主イエスを拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。赤ちゃんへの贈り物としては大変高価なものです。けれども、神さまはわたしたちに主イエスさまをくださいました。それは、この世のどんなものによっても代えることのできない神さまからのプレゼントです。神さまは、赤ちゃんという小さな存在に神さまの限りない愛を現されました。その神さまの愛に促され、励まされて、わたしたちも「小さな事に大きな愛を注ぐ」(マザー・テレサ)歩みをなしてまいりましょう。(T)
2006年12月17日
“天使は言った。「…布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」”−ルカ2:12−
神さまの救いをもたらすお方は、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中