桜川のサクラの歴史 |
「桜川のサクラ」をご存知ですか?
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名勝「桜川のサクラ」 |
我々が普段“磯部のサクラ”と呼んで親しんでいる「桜川のサクラ」は、古来より 「西の吉野、東の桜川」と並び称されるほどのサクラの名所でした。 平安時代の歌人紀貫之が 「常よりも 春べになれば桜川 波の花こそ まなくよすらめ」 と詠ったのは、まさにこの桜川のことです。 残念ながら、紀貫之自身は桜川を訪れてはいませんが、東国の桜川の評判が 遠く平安京の都人にまで届いていた証しでもあります。 室町時代には、桜川磯部稲村神社宮司が時の関東公方足利持氏に花見噺 「桜児物語」を献上、これを基に、時の将軍足利義教が世阿弥元清に作らせた のが謡曲「桜川」です。 江戸時代になると、水戸黄門として有名な水戸光圀や笠間藩主牧野貞喜なども 度々桜川の地を訪れ、サクラを愛でたと言われています。 特に水戸光圀は、偕楽園前を流れる小川のほとりに桜川のサクラを移植し、 その川を「桜川」と名付けてしまうほど「桜川のサクラ」がお気に入りでした。 (現在も水戸市内に「桜川」は流れています) また、四代将軍家綱は隅田川堤に、八代将軍吉宗は小金井堤に「桜川のサクラ」 を移植させました。 (隅田川堤も小金井堤も現在は桜の名所として有名ですね) 小金井堤の桜の縁起を辿ると「吉野桜50本と桜川の桜50本が交互に植えられた」 とあり、この事実を見ても当時の「桜川のサクラ」の評判が伺えます。 明治時代になると、当町出身の文学者石倉翠葉(重継)氏の熱心な研究により 『櫻川事蹟考』が出版され、大正13年「名勝桜川」として国からの指定を受ける 基礎となりました。 また、昭和49年には「桜川のサクラ」は国の天然記念物に指定されました。 しかし、残念ながらこれだけ由緒のあるサクラも、現在は桜川磯部稲村神社と 磯部公園に面影を遺すだけとなり、往時の賑わいもまたその歴史も忘れ去られ ようとしています。 そこで立ち上がったのが、私達「サクラサク里プロジェクト」のメンバーです。 「桜川」の歴史を勉強し、この素晴らしい遺産に気づいた私達は、これをまずは 地元の人達に伝えながら守り育てることを決意しました。 そして、将来的にはもう一度「西の吉野、東の桜川」と並び称されるほどの桜の 里にしようと、サクラをテーマにした町おこしに乗り出したのです。 現在、日本のサクラの8割はソメイヨシノと言われています。しかし、サクラサク里 プロジェクトのメンバーが大切に後世に残し、伝えていきたいサクラは、クローン と呼ばれるような “どこに行っても同じ”ソメイヨシノではありません。 その土地の特性を反映して個性を育む「ヤマザクラ」です。 万葉人や平安貴族の時代から愛され、歌に詠まれてきたのは、この「ヤマザクラ」 なのです。 ・・・情緒があって繊細な、「日本古来の桜美」であるヤマザクラで、この地を埋め 尽くしたい。 ・・・「桜川のサクラ」を日本中の人に知らしめたい。 そんな熱き思いで今、メンバー達が動き始めました。 |
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