非常口

 明日で退院だ。

 軽やかな足取りで、トイレに向かう。その僕の頭の中では、『退院』という言葉が、やはり軽やかなステップで踊っていた。

 嬉しい――他に適切な言葉が思いつかない。多分、一生の内でこれほど嬉しいことは、もう二度とないんじゃないだろうか。

 入院したのは、逆上ること二ヵ月前。あの時は、腎機能のちょっとした検査のためにこの大学病院へ やって来た。一週間ほど入院し、腎臓の細胞を採取して検査を行う、ということだった。その筈だった。しかし、検査の結果、緊急に手術が必要になったのだ。 医師の説明では、腎臓がどうだ、とか、血液がこうだ、とか言っていたが、理数系全滅の僕には全く理解できなかった。手術は有無を言わさず行われ、二ヵ月の 入院を言い渡された。

 その二ヵ月間は、まさに地獄の日々だった。地獄!そうとしか言いようがない。日に三度の検温と血 圧測定、二度の点滴、一度の採血。週に二度は心電図と採尿を義務づけられ、山のような薬を飲まされた。食事は少なくまずいし、やたらと時間が早い。夕食な んて、五時だぜ、五時!夜中に空腹で何度目が覚めたか。さらに手術後四日間はベッドを離れることを禁じられ、特に初日は寝返りも禁止された。絶対安静とは いえ、これじゃ拷問以外の何者でもない!

 病院というところは、患者をロボットと勘違いしてるんじゃないだろうか。入院中、何度そう思った ことか。生命活動のすべてを管理されているようで、生きている気分がしなかった。健康のためとはいえ、普段の生活のほとんどを制限され、身体中からデータ を集め、厳重なタイムテーブルの上で食事や睡眠を取る。刑務所だってこれほど酷くはないだろう。

 しかし、そんな生活ともあと一日――いや、もう、零時を過ぎたから、もう半日もすれば終わりだ。入院中、あれもしたい、これもしたいと夢見ていたことが、明日からは思う存分出来るわけだ。ああ、この日をどんなに待ち憧れたことか!

 用を足してトイレから出た僕は、思わず拳を力一杯握りしめた。あ……、うれしい!

 ……真夜中の病院の廊下で、何をバカなことをやってるんだ、僕は。

 気を取り直す。とにかく今は寝よう。

 その時、僕の目に異様な光景が写った。

 非常口が開いている……?

 廊下を真っ直ぐ行った突き当たり。緑地に『非常口』と書かれた電光看板の下のドアが大きく開け放たれていた。

 それがいつも開いているなら、こんなに驚きはしない。でも、そのドアにはいつも鍵がかかっており、しかも開けるにはノブにかぶされているプラスチックのカバーを壊さなければならないのだ。

 スリッパの音を廊下に響かせながら、僕は非常口に近寄った。ドアの向こうには、階段の踊り場が見える。

 いったい、誰が開けたんだろう。

 考えては見てが、見当もつかない。僕は非常口を出、階段部へ進んだ。風が強い。晩秋の妙に湿った冷たい風が、僕のパジャマをなびかせた。寒さに体が震える。

 手すりを持って、下を覗いてみた。今いるのは、この病棟の中間部の七階。この下は噴水のある芝生の中庭だが、今は真っ暗で何も見えない。暗闇の穴に吸い込まれそうな気分になり、慌てて手すりを握りしめた。

 その時、四階の非常口も開いていることに気がついた。廊下の常夜灯の淡い明かりが漏れている。

七階の非常口を開けた奴は、階段を降りて四階へ行ったのだろうか。それとも、逆に四階から七階へ登ったのか……?いずれにせよ、おかしい。夜中にわざわざ危険な非常階段を使った奴とは、いったい誰なのか。

 興味を持った僕は、この階段から四階へ降りてみることにした。最後の夜だ、院内を探検するのもいいだろう。鉄製の段を降りながら思う。

 四階の非常口から、中を覗いた。別段七階と変わりない風景が広がる。だが、その床には変わったものが落ちていた。

 血、だ。

 明らかにそれは血だった。血の雫が一滴、床に落ちている。また、三メートルくらい先にも一滴、また一滴と……。

 四階は、外科の病室のフロアだ。すると、これは入院患者のものなんだろうか。

 しかし、出血するような患者が、どうして七階と四階の非常口のドアを開けるんだ?第一、こんな状態で歩ける筈がないし、看護婦が許さないだろう。だったら、これは……。

 僕は、魅かれるように床の血を追った。三メートル間隔の雫は、廊下を真っ直ぐに進んでいる。

 その途中、明かりの灯ったナースステーションの前を通ったが、中にいた看護婦は、こくりこくりと 頭を揺らしていた。いくら過酷な職場だからって、これはまずいのではないだろうか。血を滴らせながら彷徨っている患者がいるというのに。けれど、僕はその 看護婦に声を掛けずに先へ進んだ。

 やがて、棟の長い廊下が終点に近づくと、血の雫の間隔が短くなってきた。三メートルは、二メートル、一メートル、三十センチとなった。そして。

 突き当たりが見えたとき、常夜灯に浮かぶ、一つの影が現れた。どうやら、この影が血を滴らせているらしい。その歩き方はなんともぎこちなく、頭を左右に揺らしながら足を引きずるような感じで前へ進んでいる。

 夢遊病か何かだろうか。でも、精神科はここから随分離れた別の病棟だ。ひどい怪我をしているようだけど、なぜうろうろ歩くことが出来るんだろう……。

 後をつけながら、いろいろと想像してみたが、それでわかれば苦労はない。それに、非常口を開けた奴を捜し当てる興味も、急激に薄れてしまった。いや、むしろ逆に、何か恐ろしい気分がしてきたのだ。もう、帰ろう。そう思って引き返そうとした。

 だが。

 僕の目は、そいつが常夜灯の下に立ち、明かりによって照らされたその姿の全貌を見てしまったのだ。そいつは、ゆっくりと振り返った。僕の体は凍りついてしまった。

 裸だった。しかし、そんなことで驚いたんじゃない。

 そいつは、男とも女ともつかない体をしていたのだ。

 右足はスネ毛の生えた筋肉質の男の足、そして左はスラリと細く白い肌の、どう見ても女性の足。性器は間違いなく男なのだが、胸には女性らしい膨らみがあり、左右の腕も、肌の色と質が違っていた。そして、それぞれの部分には、接合手術らしき跡があった。

 そして、顔を見た。半分潰れて、眼球が飛び出し、血まみれの顔を……!

その顔が、笑うように歪んだ。

 うわあああああ!!

 僕の頭の中の、全ての理性が吹き飛んでしまった。次の瞬間、僕は全速力で逃げた。廊下を逆走していく。

 途中、ナースステーションの中から看護婦が何か叫んでいたようだったが、そんなものは耳に届かなかった。脳裏に焼きついたバケモノの姿を追い払うように走りつづけた。『非常口』の緑色の光が視野一杯に広がり、そして消えた。

 全ての光が消えた。

 僕は、暗闇の中を落下していた。

 四階の非常口から、あのバケモノが僕を見下ろしていた。

 同時に。

 地上では、また別のバケモノが、自分を待っているように、落ちてくる獲物を見上げていた。白衣を着たバケモノが……。

<了>


企画15-p 1990年9月10日完成 初出「葉隠」第七号(広島大学文芸部発行)


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