今年の運動会は、赤の勝ちだった。
グラウンドに赤軍の万歳三唱の声がこだました。
閉会式が終わり、会場の片付けが始まった。
昨日一日かけて準備したテントを解体する。
応援席の椅子をそれぞれの教室に戻す。
空ではためいていた万国旗を下ろす。
競技で使われた跳び箱や、大綱、平均台、大玉、それから一年生の使ったお遊戯の道具などを体育倉庫にしまう。
今日一日、弾むような音楽が流れつづけ、応援の声が絶え間なく上がり、体が熱くなるほど真剣に走った、グラウンドがあっと言う間に静かになった。
☆ ☆
「では、みんな寄り道せずに、気をつけて帰ってください。あしたは振替休日でお休みです。あさって、また元気に登校してください」
「さようなら!」
いつもと違う帰りの会。いつものように日直が司会をするのではなく
て、先生が連絡事項を話しただけで終わった。みんなの恰好は体操服のままだった。ほこりと汗まみれになって、白い服が汚れている。一日中外で、走ったり、
応援していたから、服だけでなく、身体中が汚れている。
教室は、帰りの会の間、熱気に包まれっぱなしだった。みんなの汗は、
乾いていくことはなかった。運動会の興奮がまだ続いていた。紅白で二分されていたクラスが、でもそんなことはお構いなしに今日の功績を自慢しあっている。
二分割して争うことに何の意味もない。運動会というイベントが行われた、それに参加した。ただそれだけのことなのだ。
興奮は冷めやまない。教室のなかは何ともほこりっぽかった。床の上も机の上も、どこもかしこもほこりが積もっているような気がした。今日は掃除をしない。運動会の日は掃除をせず、振替休日を置いて翌々日にまとめて掃除をするのだ。むかしからそうなっている。
さようならを言うとすぐに、クラスのみんなは教室を出ていった。
「敦子ちゃん、帰ろ」
そう言って友達の美都姫ちゃんが寄ってきた。服の前側に派手な泥汚れ
をつけている。徒競争のときに思いっきり転んでしまったのだ。あれは見事としか言いようがなかったけれど、本人にしてみれば不名誉なことだったのだろう。
午前中にあったその競技からお昼休みまで、美都姫ちゃんは不機嫌そうな表情だった。右膝の擦り傷のあとがまだその様子をひきずっている。
「うん」
わたしは美都姫ちゃんに返事をして、いつものように机の上の荷物を取ろうとした。けれど、そこには鞄も何もなく、今日は何も手に持ってこなかったことを思い出した。
いつもと違う。それは、周りの情景だけではないような気がした。何か心の中で蠢いている感情。わたしの心の中のあやふやな部分がとってもかゆくて、でもいくら掻いてもかゆみがとまらない。もどかしい程の気持ち。
机にみかん色の光が差し込んでいた。わたしたち以外誰もいなくなった
教室が、みかん色に包まれている。それが南西方向の窓から指す夕日だということに、すぐには気づかなかった。教室の壁にかかった時計を見ても、針はまだ四
時を指したばかり。夕日はまだ早すぎるんじゃないだろうか、そう思ったから。でも、その疑問には今日の日付が教えてくれた。九月も下旬。良く考えれば、秋
も本番の季節。テレビのローカルニュースでも行楽地の紅葉を目にしている。
一方で、夏休みが終わってまだ一ヵ月しかたっていないことにも気がついた。今の光は、あきらかに秋のものだった。目を開いているのもまぶしい、透明度の高い夏の光は、もうここにはなかった。あるのは、柔らかいみかん色の霧を吹きつけたような光、そして空気。
誰もいなくなった教室。見たことないわけじゃないのに、初めて見る光
景のように思えた。みかん色に覆われた教室のなかに、さっきまでいた人の息吹がなくなっている。広い教室のなかで、ぽつんと机が転がり、まるで時が止まっ
たように静かな場面がそこにはあった。高まる気持ち。どうしてなんだろう。
「敦子ちゃん、どうしたの?」
教室の戸のところで美都姫ちゃんが再び声を掛けた。その声で、呪縛が解けた気がした。
「ううん、なんでもない。行こう」
そう答えたものの、なにか後ろ髪引かれる気持ちになったのは否めなかった。
☆ ☆
もう人けの少ない玄関を出る。目に映ったのは、がらんとしてしまったグラウンドだった。
ここにも、みかん色の光が包み込んでいた。大きなくすのきの影がグラウンドに横たわっている。四階建ての校舎よりも大きなくすのきが風にゆっくりと揺れ、影もゆっくりと揺れた。あまりにも静かなグラウンド。
不思議な感じがした。つい一時間前まであんなに賑やかだったグラウンドが、いまはしんとしているなんて。生徒とその家族と先生と、グラウンドから溢れ出るくらいの人で埋め尽くされていたのに、
たった一時間のあいだに、こうも変わってしまった。
でも、良く考えれば、これはいつものグラウンドであるはずなのだ。夕
方のグラウンドは、いつもこんな感じだったはずなのだ。六年生が下校するころには、下級生はもう下校してしまったあとであることが多い。だから、グラウン
ドにはあまり人がいないのだ。だから、人けのないグラウンドは見慣れているはずだった。
そうは言っても、グラウンドにはいつもと違う何かがあるのは否定できなかった。まだ消えていないトラックの白線、足跡。風に流される運動会のプログラムを刷ったプリント、紙吹雪。いや、そんなものが要因じゃない。もっと、根本的な、何か……。
その時、一際強い風が、グラウンドを吹き抜けた。プリントを舞い上がらせ、くすのきの影を大きく揺らし、グラウンドの砂と白線の白い粉を乗せて、わたしにぶつかってきた。
そうか。
その瞬間、この違和感の原因がわかったのだ。かゆかった気持ちが、溢れ出てきた。
風は、そう、夕日と同じ色をしていた。あったかい、でもどこか寒い、風。あったかいなかに枯れ葉の匂いがこもった風。寒いなかに過ぎ去った夏の余熱を感じさせる風。余りにもあやふやな色。あやふやな香り。
そして気づいたのだ。夏が過ぎ去り、秋がやって来た。まぶしいくらい
光っていたグラウンドはもうない。寂しげなみかん色に染まったグラウンドがある。昼間の運動会の熱気は、まだ夏を帯びていたのだ。汗をかき、走り、活発に
動いていた運動会は、夏そのものだった。だけど、風はもう秋のものになっていた。秋――冬の使者。夏とは全く異質の存在。それに気づいていなかったわたし
には、すぐに理解することが出来なかったんだ。
一瞬寒けがして、わたしは体を縮めた。風が、冷たかった。
物哀しい風の匂いが、わたしに思い出させてくれた。六年生、小学校最後の運動会。寒い冬が過ぎれば、卒業が控えている。そんなこと、普段は思いつきもしないのに。
風が心のなかの寂しい部分を突いたのだと思った。六年間もいた学校にお別れする日が迫っている。グラウンドがその時ふと懐かしい写真のように思えた。セピア色に変色した、写真のように。
秋の風は、冬を予感させる。冬を越せば、卒業。今まで考えもしなかったことだけど、でも、事実。そして、この秋風が教えてくれたことで、考えさせられてしまった。
「どうしたの、敦子ちゃん。どうして泣いてるの」
「ううん、わからない」
いつのまにか、涙が出ていた。物哀しい、ただそれだけなのに。
わたしは涙をぬぐい取った。頭を振る。精一杯笑顔を作ってみせた。
「もう大丈夫。行こう、美都姫ちゃん」
家が恋しくなってきた、なんて、美都姫ちゃんには言えない。でも、太陽はもう西の山に隠れようとしていた。みかん色の霧が濃くなっていく。
わたしたちの去ったグラウンドに、ふたたび、秋の寂しげな風が、吹き抜けていった。