ユーロピア王国からサネア街道を西へ行き、大小様々な入江が続くサネア海岸の中間に、ビチャオという町があった。プルトリナ王国の首都プルトリナまであと二日の道のりという位置にあるこの町は、漁業とともに旅館や酒場なども栄えていた。
サネア街道を行く人々は様々な人種系がおり、国際色豊かな様相を呈している。事実、ビチャオの酒場はユーロピア王国はもとよりラガークル=ミルズ国やタナ
ルーア王国、トルパニア王国、遠くはエンレニティ公国からやってきた旅人が疲れを癒していた。地元プルトリナ王国の国民は酒場の主人とウェイターくらいで
あった。
アルマはユーロピア王国の東、アッセンブリア王国からやってきた。王家の御用商店で見習いをしている彼は、店主の言いつけでプルトリナ王国の女王ユ・プル
ミナ・プルトリナへ献上品を届け、代わりにアッセンブリア王家の欲する商品を買いつけてくることになっている。約一ヵ月の道のりを歩き続け、ようやくプル
トリナへの道程の最後の町ビチャオへたどり着いた。
「まあ、アッセンブリアから。それはさぞかしお疲れでしょう」
その宿の女主人はアルマのなりの良さを見て最上の部屋へ案内した。木造建築の三階にあるその部屋は男一人で寝るにはやや広かった。白を基調とした内装、飴色に輝くガス灯がゆらゆらと影を揺らしている。
荷物を運んできた女主人は、部屋のベッドの脇へ置いた。アルマは彼女にチップを渡した。彼女はその額にほくそ笑んだ。
「うちは酒場もやってるんですよ。この宿の隣にあるんですがね。そこにうちのかわいい看板娘がいて、それはもう人気者でね。ぜひ会いに行ってくださいな」
そう言って彼女は部屋を出ていった。アルマは旅のマントを脱ぎ、ベッドに腰を下ろして一息ついた。ユーロピア王国は山地が多く、またサネア海岸も道が険し
いため、アッセンブリアからプルトリナへの道のりは決して楽ではない。だが、ここまで来れば行程の半分を消化したも同然となる。あと一ヵ月で家に戻れると
思うと、これまでの疲れも癒されるような気がした。
夜の帳も下り、酒場はこれからがもっとも賑やかになる。備付けの冷茶を一呑みし、たばこを一服していたアルマは、ふと酒でも飲みに行こうと思った。プルト
リナまではあとわずかだし、今日は飲みたい気分だ。特に理由もなかったが、アルマは腰を上げ、マントを羽織って部屋を出た。
☆ ☆
女主人の言った通り、酒場は宿のすぐ右隣にあった。看板にはプルトリナ語で『海風亭』と書かれてある。中からは賑やかな笑い声が聞こえてきた。
アルマは開き戸を押して中へ入った。大騒ぎの客は多種多様な人種が入り交じっていた。中央に並べられたテーブルは満席で、カウンター席に座った。初老のバーテンに酒とつまみを注文し、しばらくして出されたコップ一杯の蒸留酒と小皿の豆を口に含んだ。
コップの酒が半分ほどになったころ、多くの客が一斉に歓声を上げた。アルマはその歓声の向けられた方向を見た。
店の奥に低い舞台があった。その舞台にスポットライトが当てられ、その光の中に黒光りするピアノが浮かび上がっていた。
拍手と歓声が最高潮に達する。そしてスポットライトの中に若い女性が入ってきた。
アルマは手に持っていたコップを静かにカウンターに置いた。視線は女性に釘付けになっている。
歳の頃は十七前後だろうか、細く柔らかな体のラインにどこか幼さを感じる。真っ白のドレスがライトの明かりで輝いていて、清純な雰囲気を醸しだしていた。女性というにはまだ早いと思わせる。
あの少女が、宿の女主人の言っていた看板娘だな。
アルマは何とはなしにそう思った。酒場の客のその大半が少女を目当てに来店しているようだった。少女がピアノの前の椅子に腰かけると、歓声がぴたりと止んだ。
静かな酒場に、ピアノの水を打つような音が響いた。少女の撫でるように指を動かし、ピアノはそれに呼応して優しいメロディーを歌う。それは愛を語る少女の
歌声にアルマは聞こえた。時に小川のせせらぎのように、時に大河の緩やかで壮大な流れのように奏でる旋律は、人々の脳裏に懐かしい風景を映し出した。
いったいあの少女にはどんな魔法が備わっているのだろう。アルマはそう思った。起きているとは思えない表情と華奢な腕から生まれ来る旋律が、こうも釘付けにされる威力を持っている。
一目惚れの瞬間とは、こういったものであろう。アルマはまさに一目で少女に惚れ込んだ。そしてピアノの旋律でその選択が正しかったことを確認した。
少女が一曲弾き終わるたびに、嵐のような拍手と歓声が贈られた。五曲ほど演奏して、コンサートは終わった。
スポットライトが消え、場内はまた騒がしくなった。少女はピアノを離れると舞台を下り、テーブル一つ一つに挨拶に回った。
アルマはその間に酒をもう一杯注文し、それも一気に飲み干した。そうして一息ついた頃、少女はアルマの脇へやって来た。
「いらっしゃいませ。旅のお客さんですね」
澄んだソプラノの声色だった。大きくクリクリとした瞳を向け、溢れるような笑顔をアルマに寄せてくる。真っ白な肌に頬だけが赤く染まっていて、アルマは無意識に注視していた。
「いかがでしたか、私の演奏は。お気に召されましたか?」
耳に入った様子もないアルマに、少女は不思議そうな表情になった。
「あの……、お客さん?」
アルマははっと我に返った様子で少女を見た。あわてて顔を作り、少女に言った。
「あ、ああ……。よかったよ、君の演奏。こんないいピアノは久しぶりに聞いた」
少女に笑顔が戻った。
「ありがとうございます」
「わたしはアルマ。よかったら君の名前を教えてもらえるかな」
「ミレーナと申します」
「ミレーナか、いい名前だね。この店はもうずいぶん長いのかい?」
「もう七年になります。十一の頃から」
「そんなに若いころから働くなんて大変だね」
少女の笑顔がわずかに曇った。アルマはその変化を見逃さなかった。マズいことを言ったのだろうか、と不安になる。
「……もともと奴隷の身分なんです。でも、宿の奥さんとご主人さんのお陰で今こうしてみなさんの前でピアノを弾くことが出来ます」
「そうか……。今は幸せなんだね」
少女はそれまでで最上の笑顔を見せた。
「はい。・・では、ごゆっくりどうぞ」
軽く礼をして、少女は離れていった。アルマは少女の背を目で追いながら、少女が言ったことについて考えた。奴隷制度はごく一般的なもので裕福な家庭に一人
は小間使いとして奴隷を一人買ってくることも多い。プルトリナ王国では現在の女王プルミナが即位して奴隷解放令が出されたがどうやら徹底されてないよう
だ。沿岸地域は奴隷売買がもっとも盛んで、このビチャオのような大きな港町ではしばしば市場が開かれ、海の向こうの国、ミルラネスク王国やファル=ベゼル
ブ大公国辺りから船で運ばれてきた奴隷たちが競売にかけられている。
それにしても十一歳の少女を奴隷売買の商品としてしまうとは……。アルマは自分の考えの甘さを反省した。売買されるのはせいぜい二十歳すぎの若者からだと思っていたが、事実はそれよりもひどいもののようだ。
アルマはさらにもう一杯酒を注文した。普段よりペースが早いのは承知していたが、飲まずにはいられなかった。
あの子を、ミレーナを連れていくことは出来ないだろうか。本気でそう思うアルマであった。ミレーナをアッセンブリアへ連れて返り、結婚したい。それは境遇
への同情ではない、哀れんでのことではない。あの笑顔を、ピアノの音色を独占したい。否、それ以上にミレーナに魅かれていた。
☆ ☆
アルマはそれから何となく宿に居続けた。熱病に侵されたように毎夜酒場へ行き、ミレーナのピアノの音色に身を投じた。また、ミレーナは昼間は宿で働いていたので、しばしば出会い話し込むことも多かった。二人の会話は弾み、お互い意気投合するようになった。
惰性で二週間ほど過ごしたころ、アルマはようやく自らの使命を思い出した。二週間程度ならばまだ言い訳もできようが、そろそろ出発しなければ店主の怒りを買う。だが、ミレーナのことがアルマの心を離れようとしなかった。
アルマは決意した。いまこそ告白しよう。そしてミレーナとともにアッセンブリアへ戻ろう。
昼下がりの宿の裏庭には海からの涼しい風が優しく流れていた。麻布のワンピース姿のミレーナは庭の木陰に腰を下ろしている。
何気ない話をしていたアルマは、ふいに言葉を止めた。ミレーナは不審に思った。
「……どうしたの、アルマさん」
「……もう行かなくてはならないんだ、ミレーナ。アッセンブリアへ戻らなければならないんだ」
風にミレーナの髪がなびいた。別れの言葉はミレーナにとって衝撃的なことだった。アルマは続ける。
「でも、僕はまだここから出ていきたいとは思っていない。それは、君がいるからなんだ。君が好きだから、離れたくないから……。だから、ミレーナ、僕は君に一緒についてきてほしいんだ」
ミレーナにとって、この間のアルマの言葉はすべてが衝撃的であった。別れの言葉と思っていたものが、じつは告白への伏線であり、そして一緒にアッセンブリアへ行こうと誘われた……。
「あ……、あの……」
そう声を発するのが精一杯だった。その混乱した様子に、アルマは優しく微笑みかけた。
「ミレーナ。もちろん君の判断でいいんだよ。僕が君が好きなのは僕の都合でしかない。でも、僕は君が好きだ。そして、君と帰りたい。それだけは忘れないで」
「あの、でも、その、ご主人さんと奥さんに、その、話さなきゃ……」
「もちろん、僕から話しておくよ。きっといい返事がもらえるよ」
顔を真っ赤に染め、うつむき加減に、あの、や、その、を繰り返し漏らすミレーナに、アルマは続けて言った。
「僕はまずプルトリナへ行かなければならないんだ。ミレーナ、このことの返事はその時でいいよ。僕はもう一度ここを訪れる。その時に答えを聞かせてくれ」
ミレーナは潤んだ瞳をアルマに向けた。信頼できるアルマの強い瞳に、ミレーナは笑顔で頷いた。
「ありがとう、きっと幸せにしてみせる。だから、一緒に行こう。ミレーナ、いい答えを期待しているよ」
再び海風二人のまわりを優しく包む混むように流れていった。
☆ ☆
その日のうちに出発したアルマは順調に歩きつづけ、二日後にはプルトリナへたどり着くことができた。早速女王プルトリナへの謁見を申請し、それは翌日とい
うことになった。事は無事に終わり、プルトリナを発とうとしたアルマの耳に、気懸かりな話が飛び込んできた。
――ビチャオが海賊に襲われたらしい。プルトリナ軍が向かったそうだが、間に合わなかった。
アルマは不安になった。サネア海岸の南方、スイッツァ島を根城に近海を荒し回っている海賊が居ることは、そこから遠いアッセンブリアでも話題になっていた。ビチャオを襲ったのもその海賊ではないだろうか。だとしたら……。
ミレーナはどうなっただろう。海賊は連れ去ってしまっただろうか。
アルマは馬貸しから馬を借りると、拍車を激しく打ちつけてビチャオへ急いだ。時は既に夕暮れで道は次第に暗くなってきたが、ミレーナの安否を気づかうアルマは馬を止めることなく進み続けた。
☆ ☆
行きは二日かかった道のりを、わずか一晩でたどり着いた。だが、それは無駄な行為のようにアルマは思えた。
あの栄えていたビチャオの町は、その面影を失っていた。海賊は破壊の限りを尽くして行ったらしい。賑わっていた酒場は明かりもなく、内部には多くの刀傷が付いていた。そして、道には多くの死屍が散らばっている。
ミレーナは? ミレーナの居た宿はどうなったのだろう。
アルマは焦りを覚えながら廃墟の町を歩いた。一歩進むたびに絶望の色が濃くなっていったが、ミレーナだけは助かっているのでは、というわずかな希望を持ちつつ歩みを進めた。
ミレーナの居た宿は、見るも無残な様相を呈していた。町でも有数の大きな建物だった宿は焼け落ちていた。焼け跡には一階部分の柱と石垣造りの炊事場だけが
残っている。ミレーナどころか、人の姿すら見えなかった。隣の酒場も同様に焼け、アルマは意気消沈して道に膝を落とした。
まだくすぶっている柱の向こうに、ミレーナと楽しく話していた木陰が見えた。木の葉は火災の熱で茶褐色に変色していたが、樹木本体は無事だった。アルマはその木陰に行こうと、焼け跡に足を踏み入れた。
この宿に止まっていた二週間が走馬灯のように思い浮かんできた。同時に後悔の念がアルマを押しつけてきた。プルトリナへ出発するときにミレーナを連れてき
ていれば、海賊に襲われることもなかったのだが……。とはいえ、いまさら遅いことは重々わかっていた。後悔しても始まらない。けれど、アルマは木陰に座り
込んで動こうとはしなかった。
どれくらい時間がたったろうか。アルマは人の気配に振り向いた。それは宿の焼け跡からだった。炊事場の石垣のなか、床の下がわずかに動いたような気がした。
いや、確かに動いた。アルマは立ち上がった。ゆっくりと近寄ると、炊事場の床に扉があった。地下室への入口のようだ。
アルマの鼓動が跳ね上がる。そして、扉をゆっくりと持ち上げた。
暗い地下室に姿は見えない。しかし気配はまだある。アルマは呼びかけた。
「ミレーナ? そこにいるのかい?」
反応は、すぐに返ってきた。コカンと木桶の落ちる音がし、弱々しい声が聞こえていた。
「……アルマ?」
「ああ、そうだよ。もう大丈夫だ」
アルマの声に、ミレーナは梯子を駆け登りってアルマに抱きついた。舞台衣装の白いドレスの姿で、ミレーナは幼い表情をアルマの胸に埋めた。アルマは彼女の頭を撫でながら言った。
「すまなかった。君を連れていっていれば、こんな怖い思いはさせなかったのに」
ミレーナは大きく首を振った。
「アルマ。私を連れていってくれる?」
「もちろんさ。ミレーナ、もう君を放さない」
海風が木の葉を急き立て、褐色の木の葉が秋の落ち葉のように二人の周りを舞いとんだ。いつまでも抱き合う二人を祝福するかのように。