熱い夏




  『暑い夏』、だったと思う。
  マウンドの上は本当に暑くて、一球投げるたびに全身をなめ回すように熱気が襲ってきた。
  ともかく、『暑い夏』には違いなかったんだ。読み方が違っても。
  『熱い夏』は、はかなく終わった。片田舎の進学には縁のない高校、野球に関して全くの無名の高校の野球部に入部した時点で、『熱い夏』を夢見ちゃいけなかったんだ。
 だけど、諦められなかった。高校野球をしていて、ただ毎日をのんべんだらりと過ごすなんて、無駄もいいところだ。それではあまりにも悲しいから、その時の僕はせめて目指すべきものだけは目指すことにした。
  高校野球、目指すは甲子園。
  一年生の頃は先輩どもに莫迦にされた。そりゃそうだろう。創部十年、練習試合も含めて三勝二十四敗。少年野球チームとの試合も含まれている。そんな俺らが甲子園だ?  お前、頭は大丈夫か?
  二年生になって、ようやく僕の熱意が伝わって、みんなは少しだけ夢見るようになった。けれど、県予選大会はくじ運が悪く、前年の県予選準優勝校に見事大当たり。二十二対〇、五回コールド負けという稀な記録を打ち立ててしまった。
  それでも、諦めなかった。それだけは嫌だった。三年目、今年はせめて一回戦を突破したい。めでたく主将に就任した僕はチームを奮起させ、今年の県予選に挑んだ。

  九回裏、二死、走者一塁。ゆらめく陽炎の向こうにピッチャーが見える。照りつける太陽にグラウンドが光ってみえる。上からも下からも、あらゆる方向から白熱灯をつけているような気分だ。暑い。
  二アウト、一ボール。ピッチャーは何度か頭を振り、ようやくセットポジションについた。何が来るか。一球外すか、それとも、決め球を投げるか。
  ボールが放たれる。外角低め、絶好のボール。僕はバットを全力で振った。
  金属バットの、高く弾けるような音が響く。勇壮な入道雲に向かって上昇するボールに勢いはない。すぐに落下に転じ、センターのグラブに吸い込まれた。
  試合、終了。
  甲高いサイレンが短く鳴る。

              ☆                ☆

  「お疲れさま、主将」
  ダグアウトに戻ると、マネージャーの巣田恵美が声をかけてきた。
  「主将じゃないよ、もう。恥ずかしいからやめてくれ」
  恵美がタオルを放ってくるのを受け取る。それで汗を拭き取りながらベンチに腰を下ろした。
  「そお?  九イニング完投で奪三振は四つ、フォアボールもホームランもなし。今までで最高の成績だったんだよ?」
  「十五安打。よくコールド負けしなかったと思う」
  乱打戦だった。味方もよく打ってくれたけれど、僕もよく打たれた。一点差の試合だったとは言っても、白熱したわけじゃない。失策を連発して、八対七。どんぐりの背比べ的な試合展開だったんだ。
  「恵美、マネージャーはベンチに入っちゃいけないんだぞ」
  タオルをそのまま顔にかけ、側にいる筈の恵美に言う。するとふふっという笑い声が聞こえた。
  「いいじゃない。今日の日程は終わりだよ」
  第四試合。一番暑い時間に当たったな。抽選会のときそう言ったのは僕だったか、それとも他の誰かだったかな。
  「みんな、お疲れさま。バスにジュースが用意してあるから一本ずつ取ってね。新居浜君のお父さんがくれたんだから、ちゃんとお礼言ってね」
  荷物をまとめるほかの部員らは、試合に負けた悲しさよりも、ジュースがもらえることに喜びの声を上げた。
  ……父さんも好きだな。ウチくらいだ、試合の度に応援に来るのは。
  ま、いいさ。もう終わったんだ。
  「雄也も、ほら、早く着替えてきなさいよ。バス、出ちゃうよ」
  「なあ、恵美」
  顔のタオルを取る。スパイクの踵をコンクリートの地面に二回当てると、グラウンドの黒茶色の土が落ちた。
  「遠いな、甲子園は」
  恵美の返事はない。
  「まだ地平線の向こうにあるんだ。遠すぎたよ、甲子園」
  「気にしてるの、もしかして」
  ちょっと笑っているような声。恵美は後ろのベンチに腰掛けて覗き込むように僕を見る。
  「ああ、約束だったもんな。甲子園のアルプススタンドに無料ご招待。予選で優勝したら学校の経費で連れていけたんだ」
  「そんなの、最初から期待してないよ」
  「そうだな。最初から無理だったんだ」
  ひいき目に見てもウチの実力は下の中。県内の強豪と肩を並べるなんて夢物語だ。
  「ちがう。学校の経費でってことを期待してないって言ったの。連れてってくれるんでしょ?  雄也のお金で」
  ゲッ。
  「冗談!  そんな金ないよ。いくらかかると思ってんだ、甲子園まで」
  「調べたよ。船なら往復二万五千円、飛行機も同じくらいね、JRなら三万円くらい。これに宿泊と食費あわせて一人当たり五、六万円もあれば」
  「あのな、どこにそんな金が」
  「別に今だなんて言ってない。バイトもしてないんだし、お金がないのはわかってる。いいよ、来年でも。就職、してるんでしょ?」
  恵美は満面の笑みで僕を見つめていた。そうか、約束して以来、何度か甲子園に行く話をしてたのはこのせいだったのか。
  「してると思う。でもなあ、本当は甲子園に出場したいっていう決意で言ったことな……」
  「わかってるって」
  僕の言葉を遮って、恵美は強く言った。
  「期待してたよ。毎朝早くから練習して、夕方も日が暮れるまでグラウンドを走って。暗くなってからは体育館借りて素振りして。頑張ってたもんね。そりゃ、 甲子園出場絶対間違いなし、なんてお世辞にも言えない。けど、県予選ベスト8くらいまでは行けるかなあ、とは思ってた。負けちゃったけどね」
  恵美は立ち上がり、僕の前に来てしゃがんで大きな瞳で見上げた。
  「雄也は、最初から無理だって思ってたの?  そう思いながら試合したの?」
  「そんなこと思ってたら、最初から出場しない」
  「気持ちは同じだよ。わたしだって最初から無理なことだったら雄也の約束、その場で一蹴してた。でも、雄也は本気で言ってたんだもん。だから、期待したの。雄也が言うんだから、絶対甲子園に連れてってもらえるんだって、期待したよ」
  期待、か。僕だって期待していた。今年は、きっと勝てる。一歩でも甲子園に近づける。そんな期待。そう思ってなかったら、こんな暑い試合なんてやってられないさ。
  「それにね。雄也、ここは甲子園じゃないの?」
  と、急に恵美は変なことを言いだした。
  「は?  何を言ってんだ。ここは……」
  「朝日新聞社主催、全国高等学校野球選手権大会の県予選大会。ここだって甲子園だよ。何も甲子園球場に集まる代表校だけの甲子園じゃない。地方予選の第一回戦から大会だもん。だから、ここも甲子園だよ、雄也」
  そういう恵美は、自信満々の笑みを見せた。それは冗談で言っているのではない証拠だった。
  ここも、甲子園。
  整備されていない芝生。使い古されたベース。グラウンドの壁面の塗装は何度も塗りなおした跡があり、ダグアウトの壁には落書きもある。外野席に座席はな く、得点掲示板は数字盤を差し込む。あの甲子園球場とは似ても似つかない地方の球場。でも、そうだ。僕たちは夏の甲子園に出場したんだ。甲子園球場の土を 踏んではいないけど、ここだって甲子園の一部なんだ。『夏の甲子園』という、一つの場所なんだ。
  考えてもみなかったな。確かにそうだ。僕たちは夏の甲子園に出場したんだ。
  『参加することに意義がある』って言葉は好きじゃなかった。負け犬の遠吠えのような気がしていた。けど、そんな意味じゃない。ここも甲子園で、僕たちは甲子園に一歩足を踏み入れたんだ。
  「ありがとう、恵美」
  僕はしゃがんだままの恵美の頭を軽く撫でた。
  未だに陽炎が立ちのぼるグラウンド。整備員が内野の土を均している。あの暑いマウンドだって、甲子園の一部に違いはない。
  熱く苦しかった胸が、すっと涼しくなった気がした。僕たちは甲子園に出場した。そして、甲子園で試合をし負けた。それだけのことなんだ。
  「遠いな、甲子園は」
  立ち上がる。バスに戻ろう。
  「就職活動は厳しいからな、来年は無理だ。再来年の甲子園だぞ。遠いな……」
  「いつだっていいよ。でも、就職はしてよね、遊べなくなっちゃう」
  試合に負けたはずなのに、恵美は全く上機嫌だ。背中からその雰囲気が滲み出ている。
  恵美は上機嫌のまま、僕のバットを抱えて先にダグアウトを出ていった。その後を追って僕も出る。
  ふと、振り返ると。
  マウンドは夕日を浴びて朱く光っていた。
  そうか。『熱い夏』だったんだな。僕はその熱気を背中に受けながら、甲子園をあとにした。

                                  <了>



企画85-g 完成:1995年10月20日 未発表作品


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