2004年11月に【子宮体がん】を診断された。

はじめに

病気の経過を綴っていくが、少しさかのぼり身体の変化について書いてみる。

1996年3月中旬、突然身体の変調が起こった。消化器系の異常とともに、急に血の気が引く感じ。それとともに動悸、めまい、呼吸苦。これがすべての始まりだった。

これらの症状は時々起こり、診察は勿論のこと、血液検査、X−P検査、胃カメラ、心電図、ホルター心電図、頭部MRI等さまざまな検査をしても異常はないと言われる。ただ、消化器系の内服薬と安定剤を処方され様子を見ることになる。いつの頃からか、安定剤は手放せなくなっていた。

辛い不定愁訴は徐々に生理日に関係するようになってきていた。
昔から生理はひどい方で、量も多く、生理痛には薬を飲まずにはいられなかったほうである。
婦人科に受診したこともしばしば。子宮頚部の細胞診も数度受けたことがあった。
しかしひどい生理の原因はわからず。子宮内膜症はない。子宮筋腫の小さいのがあることと、両卵巣が腫れている(卵巣のう腫)との診断はついていた。だが、それらが生理をひどくしているとは考えにくかったようある。

腸間膜脂肪織炎  2002年6月末   
 急な発熱。ややお臍の周囲が痛い。風邪症状なし。2日間ほど家で様子を見たが、6時間おきに悪寒と高熱の繰り返しで解熱しない。消化器内科に受診し、抗生物質で様子を見ることになる。この時は炎症所見に問題なし。また自宅静養となるが全然おさまらず、何も食べられないしこれではいけないと救急受診する。血液検査、検尿などを行い、点滴を一本してもらっているうちに結果が出る。医師らがあわてだし、炎症所見(CRP)が高いので緊急入院の運びとなる
 入院中も発熱の原因が定かでなく、いろいろな検査をされた。腹部CT、胸腹X−P、胃液検査、導尿をしての尿培養、便培養、血液培養、腹部MRI、Gaシンチ。勿論、腹部ということで婦人科にも受診したが問題なし。そして上記の診断名がついた。しかし他に異常がないから,ややCT上に異常があった部位の病名がついたと思われる。入院中も発熱は続き、さまざまな抗生物質で叩いた。入院してから約1週間くらいで胸水が貯留し、酸素療法も始まる。そして胸CT、心エコーと検査は続く。胸水は食止めだったので低栄養が原因だったようである。IVHを挿入するところまで話しが進んだが拒否し食事を開始してもらう。
 何だかんだで、約1ヶ月入院していた。
 後で聞いたところ、医師も四苦八苦していたようで、下手したら・・・ という病気だった。

右肘脂肪腫   2004年8月    
 何年か前から気にはなっていたが、段々大きくなり,2×2cm大となり、希望して形成外科で手術をしてもらう。外来手術室。
 これがこの年患者として初めて手術室に入ったことになる。結局は通算3回入室することになった。
(19歳時に虫垂炎で手術の経験あり)



子宮体がんの回想録   2004年11月
 症状が出現したときから手術〜退院まで

 8月くらいから、生理のパターンが変化してくる。今までは2〜4日目がひどかったのに、6〜7日目にずれてきた。9月は以前からあった月経前緊張症の症状もなく、生理痛も全くなかった。しかし、何だかフラフラして調子が悪かった。
 10月に入り、生理が終わって10日程経っているというのに茶色の帯下があり、ついに10月12日に動悸、腹痛を伴う不正出血が少量ある。以前にも2回くらい微量の不正出血らしきものがあったこともある。翌日10月13日に速、婦人科に受診する。この日は体部の細胞診、血液検査(腫瘍マーカー含む)を実施し、止血剤を処方されるが、会計に行く途中で気分が悪くなり、暫く外来で横にならせてもらう。
結果は、11月1日にでることになっていた。しかしその間もずっと調子が悪く結局自宅療養していた。その間、外来に電話で様子を説明し、いろいろ指示をしてもらったり、受診の予約等を入れたりしてもらっていた。かなり神経質になっている自分がいた。

以後の経過は日記とする。

10/15
 細胞診後の出血はたいしたことないが、どうも調子が優れずに受診。内診では出血は止まってきているとのこと。そしてすでに細胞診の結果は出ていた。主治医ではなかったが、子宮全面掻爬を勧められる。

10/16  主治医の診察。
 出血は止まってきていた。
 細胞診の結果、クラス3。正常ではなく、悪性に近いクラスだ。腫瘍マーカーはやや上昇。やはり全面掻爬を勧められる。子宮全面掻爬は一泊入院で全身麻酔で実施するとのことで、この日のうちに入院に必要な諸検査を行う。
 夜になり止っていた出血がまたあった。気分が悪くこのまま変ななっちゃうかと思ったくらい。

10/17
 夜になり、また出血がどっとある。じっとしておさまる程度。気分は凄く悪い。

10/18
 16.17日の経過があったので心配になり受診。血液検査をするが貧血はなし。細胞診した以外の内膜が増殖している所からの出血であると判明。
 非常に神経質になっている私を配慮してか、早々に子宮全面掻爬の話が決まる。
 仕事はこの日から、有休扱いでお休みをもらった。

10/22  子宮全面掻爬のため入院。
 10時半頃に入院し、昼頃にラミナリア挿入。痛いとは聞いていたが、半端な痛さじゃない。挿入時はえらい叫び声を出してしまった。腰が抜けたようになり、病室まで看護師の付き添いで戻る。挿入直後腹痛は我慢できたが、いよいよ我慢できなくなり、3時頃にボルタレン25mgを挿入してもらった。程なくして手術室からコールされ、肩に前投薬の筋肉注射をして出床。
 いざ、始めるとなると動悸がしてきてどうにもならない。緊張は通り越していたので、おそらく前投薬の副作用だと思う。静脈麻酔(全身麻酔)もできず、暫く様子を見ていた。お腹の辺りでどくどく脈打っているのがわかる。心電図はピコピコうるさい。医師らが“どうするかな〜”なんて言っていた。麻酔の効いている時間はわずか15分程度なので、直ぐに始められるように麻酔前に体位をとらされた。もう恥ずかしいも何もない。早くやってくれ! という感じ。
 いつの間にか終了していたようで、気づいたときは病室に帰る準備をしていた。なんだか、異次元の世界にいるような夢?をみていた。四角やら三角の物体が宙をくるくる浮遊している夢を見ていた。
 病室に帰っても眠くて仕方ない。声をかけられれば目が覚めるが、またウトウトしてしまう。最初にトイレに立ったときは、さすがにフラフラして、看護師の支えがなくては駄目だった。
 翌日は診察後、そそくさと家に帰ってきた。
 この結果がどういうことになるか、考えもせず・・・

 その後もずっと体調優れず、仕事どころではないため休暇をもらう。
 
11/1   13:30予約診察。  がん告知。 最悪の日になった。
 この日は仕事の整理をしようと思い、朝から家を出た。時間になり外来へ。時間が迫ってくると怖くなってきた。上司も外来主任看護師も「大丈夫よ」と言ってくれたが、気休めにしかならないのは当然のことである。
 いざ、診察室に入ると、主治医はカルテを眺め、穏やかではあるがきつい一言を。「子宮体がんです。手術をしましょう」  頭が真っ白になった。正直言って大丈夫のような気がしていたのだ。
「G1bだから、手術だけで大丈夫でしょう。術中ゲフリールをして、筋層に癌細胞が達していたらリンパ郭清もします」 医師の声は耳に入ってくるが、涙が止まらない。そのときに考えていたことは、放射線療法、化学療法をしなくてはならないのか、子宮も卵巣も取っちゃうと更年期症状が出てくる、女じゃなくなっちゃうのか、などが頭を過ぎっていた。【死】という文字は不思議と浮かばなかった。
 暫く泣いた後、学校に戻り、副校長室に直行。すでに外来から結果が伝えられていたようである。経緯を話し、仕事の後始末をして早めに帰宅する。
 朝、起こさないように静かに家を出たので学校につく頃に“大丈夫か、頑張れ”とメールを入れてくれた主人が待っていた。家に着くなり荷物を放り出し、また暫く泣きじゃくる。

 手術日は、外来主任看護師の配慮があり(体調がよくないこと、精神的なこと)、早めに実施することになる。日時が決定したら連絡が来ることになった。

11/2
 
外来から連絡があり、11/6入院。11/9午後オンコール手術と決定する。
 術前検査として本日はCT検査。  11/5にMRI検査が緊急で予約された。

11/6    入院
 採血、抗生剤の検査をして外泊。 担当医は、外来で診て頂いていた助教授の主治医をはじめとして、さらに他の助教授を含むグループの4名の医師団。

 外泊中は、何をするわけでもなく、ただぼんやりし、いろいろ考えては泣いていた。
怖い気持がないといったらウソになるが、逃げようという気持はしなかった。覚悟はできていた。しかし、この短い期間で気持の整理をすることは不可能に近かった。

11/8
 病院に戻る。あらためて主治医からムンテラを聞き、各承諾書にサインをする。
 
 術前オリエンテーションを受け、剃毛をしてもらい、下剤の飲用が始まる。夕食前にシャワーを浴びる。
麻酔科医のラウンドもあり、いろいろ我儘を聞いてもらった。ベテランの女医さんで、以前の子宮全面掻爬時の前投薬で動悸がしてたまらなかったことや、普段から安定剤を飲んでいることを告げ、指示を出してもらった。したがって、手術当日の朝も安定剤を飲んでいいこと。そして前投薬は経口での睡眠薬だった。
 23時頃にウトウトし始めたが、やはり直ぐ目が覚める。指示が出ていた睡眠薬を半錠だけ飲んでみた。
この日はムンテラを聞くこともあり、病院に戻るときに主人が付き添う。そして夕方に母が来てくれた。
母には、最初は病名を言わず手術をしなければならないとだけ告げていたが、手術が決まってからは、隠しておくこともできず、告げた。むしろ会話に渋っていた私に向かい「がんなの?」と聞いてきた。父を胃癌で亡くしているため、また同じような思いをさせなければならないのは非常に辛かった。だから、早期だから大丈夫! むしろ私が母を励ましていた。母の前では,特別気丈に振舞うことが必要だった。

11/9   手術日
 体重を量り、浣腸されて、あとは呼ばれるのを待つばかりとなった。11時頃に主人と母が来てくれたが、あまり会話はなかった。テレビをつけていたが、見ていたのかどうか?!  私はというと、何も考えていなかったかもしれない。もうまな板の鯉。早く呼ばれないかとそればかりだった。
 13:30に指示の睡眠薬を内服。暫くしてウトウトしてきて、14時に出床した。ぎりぎり着いて来れるところまで主人と母も同行してくれた。「頑張ってね」 「行って来るね」

 手術室に入るときにはもうボッーとしていた。いつも学生達に説明をし、見せていた場所に自分が患者としている。
 術台が準備できると直ちに硬膜外チューブの挿入。一発で入った。そして仰臥位になるともうわからない状態だった。
 名前を呼ばれ気がついた。咳をしようとするが、まだ挿管してあったようで、咳ができず苦しかった。
多分、リカバリールームだと思うが、執刀医が横で「予定通りに終わりましたよ」と言ってくれていたように思う。喉が痛くて、しきりに「喉が・・・、声が・・・」と言った記憶がある。執刀医は病室に戻ったら吸入をしようと言ってくれた。
 
 病棟観察室に帰室したのは18時頃だったと聞いた。癒着がひどく、それを剥がすのに時間がかかったそうだ。病室に帰るなり、直ぐに吸入を実施する。しかし、まだぼっーとしていて記憶がうっすらしかない。痛みはあまり感じなかった。しかし,暫くして痛みが出現する。創の痛みというより、お臍の廻りが張って痛かった。大体朝までに2回の鎮痛剤の筋肉注射。朝方は座薬を挿入してもらった。(3時間おきくらい) 目が覚めると痛み、時間がわからずその都度看護師に時間を聞いていた。
 痛みの為、横を向きたいのだが、全然身体がいうことを利かない。足はAVインパルスを付けられ、背中には硬膜外チューブ。そのためではないが身体が動かせずにイライラした。朝方少しだけ右側に向きを変えてもらったが、硬膜外チューブの部位だと思うのだが妙に痛かった。

 手術中、主人と母は、個室(病室)とロビーを行ったり来たりし、また一旦外にコーヒーを飲みに行ったそうだが、母が泣き出し、病院に戻ったそうだ。手術予定時間は長くても3時間、リンパ郭清をすると、もう少し時間がかかると言っておいたので心配していたようである。

11/10  1病日
 早期離床といわれていたし、当然頑張って歩いて自室に帰ろうと思っていたが、とんでもない。歩く、立つどころか、横も向けない。情けなかった・・・
 午前中のうちに診察があり、どうやら膣に入っていたドレーンを抜去したようである。後で聞いたところ術中出血量は65g。
 昼頃にベッドのまま自室に戻る。術前電動ベッドだったのに、観察室にいる間に普通のベッドに変わっていた.肝心なときに電動ベッドでないのは少しショックだった。
 痛みは相変わらずあったが、鎮痛剤は硬膜外だけに頼っていた。
 夕方、介助してもらいベッドサイドに立ってみるが,フラフラしてこの日はそこまで。しかし、動いたせいかガスがあり、夕方から水分開始。2口ほど水分を摂るが吐気はない。
 夜寒気がしてKT38.0℃に上昇。クーリングだけで徐々に下降する。巡回のたびにバイタルを測るので眼が覚めるが、痛みは我慢でき、朝までぐっすり眠れた。
 Hbは10代であったが、1日1回、3日間フェジンをした。

11/11  2病日
 朝方は熱も36℃代に解熱していた。朝からお茶、経口与薬が開始となる。
 昼頃、執刀医の訪室があり、まだ歩行していないことがばれる。直ちに硬膜外チューブ抜去。術後の受け持ち看護師の中には卒業生もいた。いろいろ我儘を言ってお願いしたこともあった。この日も卒業生が担当だったので、あまりにも無様な姿は見せられないと思い、歩行すると決心する。ゆっくりではあったが、ふらつきもなく足取りもしっかりと、エレベーターホールまでの往復を点滴台を杖代わりにして歩行する。歩行後はバルンカテーテルを抜去。自尿はスムーズだったが、ベットでの寝起きに苦労したことまた排尿後に膀胱が収縮するためか、キューといたいのが辛かった。お腹の痛みは我慢できる範囲内である。弾性ストッキングも脱ぎ、AVインパルスも除去してもらった。
 昼から流動食が開始となる。
 点滴が漏れ、抜去。またすると言われていたが、医師が不在なのか、この日はやらないことになった。

11/12  3病日
 抗生剤はこの日までで、メインの点滴を2本やって夜にはヘパロック。何もつながれているのがなくなり少し楽。しかし、ベットの寝起きが辛いのは同じである為、抑制帯を持ってきてもらい、起き上がり紐にする。
 午後には母に手伝ってもらい、部屋の浴室でシャンプーと清拭をする。前かがみが辛いので立ったまま。ほとんどやってもらったが、後で腰が痛かった。
 エレベーターを使うだけだが,売店まで行ってみた。立っているのが辛い。
 両下肢に浮腫が出現する。原因は不明。手も腫れていたが、これは点滴漏れが原因だったようである。夜から5分粥になり食欲アップする。
 血液データ:Hb.9  CRP.12.8  WBC.9.4

11/13  4病日
 ぐっすり眠れたのにどうも気分が優れない。始終お腹がぎゅーとなり痛い。食事中も同様である。
浮腫は相変わらずで、歩くのもだるい。リンパはいじっていないので手術の関係ではないと言われる。
下肢を挙上するようにして様子を見る。

11/14  5病日
 陰部がただれて痛い。少しムカムカして、耳が聞こえにくく、調子が悪い。顔色もあまり良くない。ほとんど横になっていることが多かった。寝る前に何だかわからないがいろいろ考えて急に涙が出てくる。

11/15  6病日
 2病日以後、夜間に汗をかく。タオルは手放せない。もう、ホットフラッシュ?か。
 午前中のうちに創部全抜鈎。綺麗についているが、念のためステリストリップを数箇所に貼る。
 昼からまた調子が悪い。術前と同じように、もやもやし、何とも言えない嫌な感じだ。担当医が訪室してくれたときに症状を話すと卵巣欠落症状かもと言われる。排尿時の膀胱がキューと痛くなるのは、約1ヶ月くらい続くが心配ないとのこと。下肢浮腫に対しては、メドマを2回/1日やることになった。
 排便はまだ水様から泥状便である。トイレのたびに陰部は洗浄していた。

11/16  7病日
 寝汗、膀胱痛、腸動痛、陰部痛、浮腫は相変わらず持続していた。それに加え、この日は頭痛もしていよいよ我慢ができずに夕方ロキソニンを飲む。創部は問題なくシャワー浴が可能となる。調子が悪いからシャワーは見送った。
 血液データ:WBC.10.0  Hb.9

11/17  8病日
 膀胱痛が続いていたので、念のため検尿をする。
 昼過ぎに退院診察がある。内診し、創部は血腫もなく問題なし。診察後に主治医から説明がある。退院の日も決定する。
 夜は、担当の医師団3名が揃って訪室。一人の医師が「頑張りましたね」と言ってくれた。その一言が心にずーんときて思わず涙が出てきてしまった。感情失禁も更年期障害の一つと聞いた。
 ここ2日ばかり食欲がない。

術後病名 【子宮内膜がん】 
  グレードI  ステージIa 腹膜に転移は見られず。子宮頚部は異常なし。
  右卵巣は嚢腫、左卵巣は偽嚢腫(癒着していて、それを剥がしたら卵巣が出てきた)

 ・排尿後の膀胱痛  膀胱炎でなければ約1ヶ月くらいでおさまるので時間が解決。
 ・腸動痛        癒着を剥がした所が痛むのだろうと。時間が解決とのこと。
 ・膀胱と子宮を剥がしている。その部分に癒着防止フィルムを貼った。腹膜は宙ぶらりんだが、
  いずれ腸間膜で覆われてくる。
 ・更年期障害に関しては漢方で調整していく。

11/18  9病日
 朝から頭痛があり、ロキソニン内服する。排尿後の膀胱痛に関しては抗生物質を内服してみることになるが、検尿に問題なく、また下痢もしているので中止となる。
 浮腫はほとんど消失した。
 14時頃シャワーを浴び、あまり食事が摂れないので果物と思い、ラ・フランスを結構食べた。また、夕食がから揚げで割と食べた。そのせいかどうか不明だが下痢がひどくなる。下剤を飲んだみたいに水様便だ。整腸剤をもらう。夜間腰痛で眼が覚める。今までの腰痛は我慢できたが、今夜は我慢できそうにないので湿布を貼ってもらい、朝までぐっすり眠れた。

11/19  10病日
 腰痛はウソのように消失した。ただ下痢が持続している。水様から泥状便。整腸剤を飲んでいるが、トイレの往復だった。ムカムカして食欲なし。

11/20  11病日   退院
 11時までにすでに下痢が5回あった。肛門痛あり。昼も摂らず早めに退院することにした。

 家に帰って、主人、母と3人でお赤飯、鍋焼きうどんを食べた。やっぱり我が家はいい。寝るほどまでは辛くなく、横になってテレビを見ていた。動くのはしんどい。体位を変えるのもよっこらしょという感じだった。


  ☆最後まで読んでいただきありがとうございました。

  ☆気持ちの変化は別のページでね(*^_^*)


退院後〜2年目までの回想
病気の部屋