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第1話 《かすみ》
見渡す限りの雪原に《かすみ》は佇んでいた。
空はどんよりと曇り、風だけが吹きすさぶ。
足首まで埋めるパウダースノーが、地吹雪となって、舞って行く。
気温は、はるか零下だ。
その中に、霧幻天神流頭首を示す白い衣装を着ただけの姿で《かすみ》が立っ
ている。
霧幻天神流巫女頭首…その装束は、着物から袖の部分を取り除いただけのよう
な単衣の薄絹だ。
それを帯で止めただけの、ほとんど裸に近いものだ。
しかし《彼女》は寒さを感じてはいない。
冷たさを感じてはいるが、寒くは無い。
肌の血色も良く、きりりと佇むその姿は、一種幻想のようですらある。
ひときわ大きな風が雪煙を舞い上げる。
雪原を風がわたった。
それが合図ででもあったかのように、ひとりの男の姿が、《かすみ》の眼前数
メートルの距離に現れていた。
半身に構えた中肉中背の男は、眼光鋭く《かすみ》をねめつけている。
いつのまに現れたのか。
しかし《かすみ》も男も、それが当然とばかりに意に介する様子も無い。
男はジークンドーの達人、《ジャン・リー》だ。
その《ジャン・リー》が口を開く。
「俺は《シマ》。全国大会で優勝したジャンリーだ。1度あんたとはやりあい
たいと思ってたんだ。随分汚い真似をするらしいじゃないか」
その言葉が消えぬうち、
ひゅん、と《ジャン・リー》の姿が消えた。
消えたわけではない。そうとしか見えぬほど速く動いたのだ。
《かすみ》の眼前数センチの距離に、《ジャン・リー》の鍛え抜かれた拳が震えている。
「ほ〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
《ジャン・リー》シマの裂帛の気合いが大気を奮わせる。
寸止めだった。
もし、そのまま打ち込んでいれば《かすみ》の顔面はぐしゃぐしゃの、血と肉
の塊になっていただろう。
「挨拶だ、俺のスピードの前には小細工などきかん」言いながら拳をひく《ジ
ャン・リー》。
おびえた《かすみ》の視線をとらえようとして…。
《かすみ》は薄く嗤っていた。
《ジャンリー》シマは軽い当惑を覚える。
このスピードを見ておびえない?
彼はこれまでの獲得ポイントの大半をアジリティーに注ぎ込んできた。
戦いはスピードだ。
どんな強力な打撃も当たらなければ意味はない。
どんな強力な攻撃もかわしてしまえばそれまでだ。
その信念で戦い続け、そしてついに全国大会でも並み居る強豪を蹴散らして優
勝を飾った。
次は世界大会だ。
しかしそんなとき、古参プレイヤーから、大会に出場したことこそ無いが最強
のプレイヤーの噂を聞かされた。
誰もそいつに勝ったことが無いという。
負ければ、それまで育てた大切なキャラデータまでが破壊されるという。
数年前のワールドチャンピオンが引退したのは、そいつと戦って完膚無きまで
に叩きのめされたからだという噂まできかされた。
「脳内神経まで焼かれたらしいぜ」
とその古参プレイヤーは言った。
彼自身そんな話を信じているようには見えなかったが。
「そいつの名前は?」
「《かすみ》」
「いや。キャラじゃなくて」
「だから《かすみ》だよ。それ以外は誰も知らないんだ」
そういう古参プレイヤーの表情は妙に神妙だった。
《かすみ》は、人形のような美貌に、どこかひとを見下したような、美しいが
悪意のこめられた笑みを口の端に浮かべて、シマをみている。
その片手が、そっと突き出された。
「これ、あなたのじゃない?」
可愛らしい舌足らずな甘い声だ。
だが、その突き出された指先に挟まれているものを見て、シマは背に氷塊を押
しつけられたような想いを味わった。
2本の白い綺麗な指。
その指先がつまんでいるものは、《ジャン・リー》の服のボタンだった。
いつのまに?
「落ちていたわ」
むろんそんな筈はない。
いや、もしそうだとしても俺がここに現れてから《かすみ》はものを拾うよう
なアクションはもとより、なんのアクションも起こしていない筈だ。
そんなシマの内心の動揺をあざ笑うかのように《かすみ》の冷たい声が耳朶を
うつ。
「そろそろ時間なんじゃない?」
舌足らずな口調で言い終わるのと同時に
「ゲットレディ、ファイト!」
試合が始まった。
シマを驚愕が襲った。
電光の先制右フックが当たらない。
かわされた!?
いや違った。
右腕が肘から無くなっていた。
バカな!
いつ攻撃を受けた?
わからない。
瞬間、恐怖が支配しかける。
が、戦いのさなか、セルフコントロールの出来ない者に勝利は無い。
シマは瞬時に自分を取り戻す。
苦痛と困惑を意識の外に押しだし、襲い来る《かすみ》の攻撃に集中する。
読める。
肘だ。
肘を取って、その気取った顔を雪原の下の凍った大地に叩きつけてやる。
「ほわちゃ!」
肘を取ったはずだった。
だが!
「とうっ!」
どこか間の抜けた少女の気合いと共に、後頭部をとてつもない衝撃が襲う。
声は間が抜けているが、衝撃の大きさはこれまでシマが経験したことのない次元のすさまじさだった。
鉄の塊をビルの屋上から叩きつけられたような衝撃だ。
そのまま顔面から地面に叩きつけられる。
「がっ!」
顔面がザクロのように割れたのが判る。
顔面の骨はぐしゃぐしゃに砕けただろう。
何が起こったのかまるで判らないが、後頭部も挫傷したに違いない。
脳にまで損傷を受けたかもしれない。
大急ぎで痛覚を切り離す。
切り離そうとして…
「ぐわぁぁぁぁっっっ!!!」
《ジャン・リー》シマはのたうった。
出来なかった。
痛覚が切り離せない!
それどころか増幅されているかのような、凄まじい痛みが、シマを襲う。
恐怖!
ブレークだ!
ブレーク!ブレーク!ブレーク!
さらなる恐怖。
信号を受け付けない。
《ジャン・リー》から抜けられない!
びりっと電気が走ったようになって目が見開かれた。
赤い苦痛の向こうに、《かすみ》が自分を見下ろしている。
なにか言っている。
気の狂いそうな痛みで、神経を集中できない。
と、突然聴覚が明瞭になる。
痛みはそのまま、《かすみ》の声だけが半分つぶれた脳に染みいってくる。
「あなたは私の顔を潰そうとした。それは許せない。」
《かすみ》の手刀が、《ジャン・リー》シマの胸を文字通り粉砕する。
通常では考えられない打撃力だった。
一撃ヒットで相手のヒットポイントをすべて奪える打撃などありはしない。
ボーナスポイントをすべて振り当てても不可能なことだ。
だがこの《かすみ》の瓦砕きには優にそれだけの威力があった。
しかし《ジャン・リー》シマはそれを知ることは無い。
それどころか、この1戦をひとに語ることさえ無いだろう。
キャラクターとのシンクロを絶てぬまま、死を体験したのだ。
ほとんどの場合、人間の神経系はその衝撃に耐えられず、焼き付いてしまう。
シマの場合も例外ではない。
白い雪原に、赤い、返り血を浴びた《かすみ》がひとり佇んでいる。
《ジャン・リー》の死体はすでに消え、雪原にももはや何の痕跡も無い。
赤く染まったみずからの手を、狂気を宿した目で《かすみ》は見つめている。
寒さは感じていない。
冷たさはわかるが、寒いという感覚は切り離されている。
雪原に雪が舞い、風が吹き抜ける。
《かすみ》はまだそこにいる…。
第1話《かすみ》・了
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