|
[ ムヒョとロージーの魔法律相談事務所 ]
|
「停まるんじゃねェ、カナコ」
運転席の背に両足を突っ張って身を支えたムヒョが、厳しく命じた。「何を撥ねても、何を轢いても無視しろ、わかったナ」
「そんな!」
路面に低くうずくまっていた塊を、危なっかしいハンドルさばきでカナコが奇跡的にかわした。
「轢いたって、そいつらから血は出ねェ」
暗い車内で、ムヒョの顔が下から蒼い光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっている。
開いた分厚い書物――魔法律書のページが帯び始めた光だ。
淡くもどこか不穏なその輝きが車内を照らし、ロージー側の窓に張り付いている何かの姿をもあらわにした。
できれば見たくなかったそれを、ロージーはおそるおそる目で辿る。そのとき、左の耳が、かすかな金属音を聞いた。
泥に汚れた黒い爪が、外からガラスの表面を緩慢に掻いている。
外から覗いている誰かが、ドアとウィンドウの隙間に爪の先を押し込もうとしていた。
瞼の欠けた眼が、窓越しにロージーをじっと見返した。
「ロージー」
低いが鋭いムヒョの声に、頭で考えるよりも早く、ロージーは魔封じの筆を握る。
まだ手にしてまもないのに、不思議と馴染む古びた感触。その手ざわりに、陥りかけた恐慌から一気に引き戻され、動悸が治まっていくのが自分でもはっきりとわかった。
煉を込めたペン先が、淡く尾を曳いて文字を記していく。
「破魔の術!」
一瞬の閃光が、真っ暗な車内を燐の輝きで照らした。
窓にしがみついていた霊の姿が、後方に吹き飛ばされていく。
硫黄じみた残臭を曳き、効力の尽きた札が千々に砕けて散り失せた。
大きく天井を鳴らし、何かが車のルーフに飛び乗ってきた。全員が思わず上を見る。
金属のボディを掻く爪音が生々しく響き渡り、カナコの喉から掠れた悲鳴が漏れた。
『この先、直進です』
天井に張り付いている気配に気を取られていたせいでカーナビの声をうっかり聞き流しかけ、ロージーは愕然として前を見た。前方のヘッドライトに浮かび上がる道路は、大きめのカーブが左右に続いている。
なのに、カーナビが涼しげに指示した。
『この先、直進です』
|
|
|
[ ムヒョとロージーの魔法律相談事務所 ]
|
札に筆を走らせようとしたその手を、閉じた扇子がぴしりと叩いた。
加減などない鋭さに、思わずエビスは手を抱えてしゃがみ込んでしまう。
「無駄だと言ったろうに」
確かに、これだけひしめいている悪霊を一体一体処理していっては、いずれ早くに煉が尽き果てるに違いなかった。退路を封じる以外にも、まだまだ補佐の仕事は残っている。
「それともエビス。アタシの言うことが、聞けないってのかぃ? 阿呆豚めが」
「も、申し訳ございません!」
腐臭のこびりつく床に伏せ、エビスは必死に詫びた。額を擦り付けんばかりに繰り返す。「申し訳ございません、若! お許し下さい!」
「しくじったら、次はないよ」
ゴリョーは鼻を鳴らし、玩具に飽きた子供のようにあっさりとエビスへの関心を失った。
主の側で過ごしたこの十年、些細な不手際を理由にゴリョーの不興を買い、紙屑同然の扱いで馘にされていく者たちを、今までエビスは大勢見てきた。
執行人の横に立つことが許されるのは本来、裁判官だけだ。だからこそ死に物狂いでその資格も得、無視されても面罵されても耐えて、ゴリョーの側で仕え続けた。
執行補助から身の回りの世話に至るまで、ゴリョーに関わるすべてにもっとも長けているのは並み居る側近たちの中でも自分だ、という自負もある。
それでもなお、不安が拭えない。
霊と接触できるこの能力ゆえに、かつて自分はゴリョーに拾われた。
逆に言えば、それしかとりえがないということだ。
いつ、ゴリョーが自分を棄てるのか。どんな悪霊に対峙するよりも、エビスの内ではそのことへの恐怖が勝っている。
唇を噛み、膝を払って立ち上がりかけたエビスは、壁に押し当てられた手形にふと目を留めた。
元の色を想像したくない、何かどす黒いもので汚れた手の痕が、壁にいくつも残っている。子供の悪戯のように、奇妙な手形は壁もドアも窓さえもおかまいなしに横切って、黒ずんだ痕を一定の高さから下にびっしりと描いていた。
|
|
|
[ 地獄少女 〜うつろいの彼岸花〜 ]
|
ゆったりと回る糸車の音だけが、かすかに静寂を破っていた。
障子に映る祖母の影を、畳に身を崩したままであいは眺める。
いつのまにか、うたた寝していたようだった。
仄かに汗ばんだ肌に、古びた畳の感触が心地よい。
身を起こし、長襦袢の袖から白い肘を覗かせたあいは、物憂げに黒髪をざらりとかき上げる。
弱い夕陽を浴びて何もかも朱に染まった部屋は、仄暗く静かだった。
半分開いたままの戸から、畦道の芒を割って咲く彼岸花が見えている。夕暮れの中にあっても、繊細で禍々しい花の色はなお血の鮮やかさだ。
その色に、あいは、瞳を据える。
さっきまで、何かの夢を見ていたような気もする。だが、どうしても思い出せなかった。
暮れゆく夕陽は蝋燭の焔にも似た輝きを帯びて、見渡す限りのすべてのものを染めている。
|
|
|
[ うたわれるもの[短編] ]
|
いつのまにか集まってきた光る眼が薄闇の中、岩陰にいるムックルたちを四方から捉えていた。性急に交わされる、甲高く掠れた鳴き声。忙しく跳ねる足取り。キママゥの群れだ。森のそこここに棲みついている彼らは、ヒトの集落にも降りてきて畑の作物を荒らす。家畜を襲うこともあり、村人たちも手を焼いていた。
森にいた頃にはムックルも、このキママゥたちに何度か出くわしたことがある。あのとき、母は爪など振るうまでもなく、威嚇の唸りひとつで彼らをあっさりと蹴散らすことができた。それほどに、ムティカパは強かった。
なのに今、その子供のムックルがいくら毛を逆立てて唸っても、キママゥたちは甲高い鳴き声を返すだけで、まるで逃げようとしない。蹴散らすだけの力がないことを知っているのだ――まだ子供のムックルにも、ヒトのアルルゥにも。
キママゥは大きさも、後ろ足で立つところも、ヒトに似ている。違うのは全身を覆う固い茶色い毛と、剥き出した牙の長さだ。彼らは恐ろしく素早くて獰猛で、ヒトのように賢い。だから、相手が弱い獲物か否かを、簡単に嗅ぎ分ける。
光るキママゥたちの眼に思わずアルルゥがムックルを抱き寄せ、背後の岩に背を押しつけた。
ムックルは覚えている。この手を――母がヒトに倒されたあの日、鳴くことしかできずにいたムックルをそっと抱き取ってくれたアルルゥのこの手の温かさを、覚えている。あのときから、アルルゥはムックルの『おかあさん』になった。
その『おかあさん』が今にも泣きそうなことを察して、ムックルも震えた。怖い。『おかあさん』もきっと今、ものすごく怖い。それでも『おかあさん』は、ムックルを身体いっぱいで抱きしめて、懸命にキママゥたちから庇ってくれている。
『おかあさん』!
背中の毛を逆立て、ムックルは精一杯大きく吼えた。
|
|
|
[ 夜明け前より瑠璃色な−Lavender Eyes− ]
|
海から上がってくる潮風と強い陽射しに目を瞬かせながら、達哉は木立へと走った。
誰かに向かって、イタリアンズが代わる代わる無邪気に吠えかかっている。攻撃的なものではなく、かまってほしいときにだす甘え含みの吠え方だ。
「わうっ」
元気にアラビアータが鳴いた。
「おまえはどうしてこんなに可愛いのかしら?」
そして、どこかで聴いた声もする。
潮風よりも涼しい、それでいて意外なほど楽しげな響き。思わず達哉の足が止まった。
「月へ連れて帰ってしまいたいわ」
「おうん?」
「ほら、お腹をなでてあげます。よしよし、ん、気持ちいい? その顔は気持ちいいのでしょう? どうかしら?」
「わうっ、わふわふっ」
「ふふふ……や、こらっ、舐めないの、くすぐったいですよ」
堪え切れないようなくすくす笑いに、甘えかかるイタリアンズの声が奔放に重なり、達哉は胸を高鳴らせながらそっと芝を踏んで近づいた。
植えこみの向こうに、紺と白の司祭服が見えた。
スカートの裾を押さえ、膝を綺麗に折って慎ましくしゃがんでいる人物。なだらかに流れる薄桃色の髪が、陽を帯びて温かい艶を帯びている。
その前の草地にだらしなく仰向けに転がったアラビアータが、明るい色の腹毛を示して催促した。白い手が伸び、毛並みを愛おしそうになでる。傍らで息を切らしているペペロンチーノとカルボナーラは、順番が待ちきれないといった様子でエステルの周囲をうろうろしている。
「おまえはどうしてこんなにもふもふしているのですか?」
期待に充ち満ちて見上げるアラビアータの、いつもくっきりと笑っているような豆柴特有の口もとをちょっとつまみ、エステルが楽しそうに笑った。
「それに尻尾もこんなに丸まって」
「わふ」
「ほどいてしまいますよ、くるくるくる〜♪」
アラビアータの渦巻いた尻尾が伸ばされる。エステルが手を離すと、また円を描いて綺麗に丸まった。
「不思議……」
うっとりと呟き、エステルはなおも二度三度とアラビアータの尻尾を伸ばす。羨ましくてしかたがないらしいほかの二匹が、我慢しきれずに彼女へと身を擦り寄せ始めた。
|
|