−第七十二話−

−少帝を廃す−

 袁紹が去ったあと、董卓は宴席の一方を鋭く睨み、招待客の一人を怒鳴りつけた。
袁隗えんかい! 大傅たいふ袁隗! ここへ来い!」
 袁隗は袁紹の伯父であり、また大傅というのは役職で、帝の教育係である。
「は、はい…」
 袁隗は顔面蒼白になりながら、おどおどと董卓の前まで歩み出た。
「今お前の甥が私を辱め、無礼千万に出ていった様はその目で見ていただろう。ここで私がお前の首を取るのは当然のことだ。だがその前に、一つ尋ね聞いておこう。三途の川の手前で問われていると思って答えよ。お前は私の意見をどう取った?」
「はっ…、尊命のごとし、でございます」
 袁隗はひどく震えていた。無理もない。これから目の前の男に首を取られるというところなのだから。
「尊命のごとしとは?」
「董将軍の、仰ることが正しい、と思います」
「おう、そうかそうか。ならばお前の首はそのままにしておこう。さて他の者はどうだ? 私はすでに大事を宣言した。反する者があれば軍律に照らして罰するぞ」
 董卓は剣を高く掲げ、並み居る百官を平伏させた。
 そして大仰に命令した。
「侍中しゅうひ、校尉伍瓊ごけい、議郎何顒かぎょう、お前たちは袁紹を追え! やつは本国の冀州きしゅうへ逃げ帰るだろう。必ずや今夜の内にやつを捕らえて来い。やつにも相当の兵力があるから油断はするな」
 伍瓊と何顆は命令を承諾し、すぐに身を翻して部屋を出ていこうとしたが、一人周だけは董卓に意見した。
「董将軍、それは上策ではないと思われます。軍でもって彼を追うべきではないでしょう」
「周よ、お前も私に背くのか?」
「背命ではございません。袁紹の首一つをとるために大乱を招くのではないか、と懸念しているのです。彼は常より恩徳を布き、人望も厚く、財も大きいです。これを軍でもって討とうとするならば、袁紹に叛罪ありと近隣の国々の者たちも同時に動くこととなりましょう」
「どうでもいい。背く者は討つのみだ」
「袁紹という男は一見豪胆に見えますが、その実短慮で決断力に欠けています。先ほど将軍に対して激しく反発したのも、豪胆さではなく将軍を恐れるあまりの行動でしょう。将軍の覇業を妨げるほどの害を成すほどではないでしょう。それよりも逆に、彼に官位を与え、おとなしくさせておく方が得策と思われます」
「うむ…、そうか? ではそのようにしよう。冀州の袁紹に渤海郡ぼっかいぐんの太守に任命することを伝えろ」
 と、命令内容を変更した。周りから、それこそ英断、とたたえる声が聞こえると、董卓も機嫌を直したようだった。

 その後、董卓はある日に文武百官に命令した。
『この日に参内しなかったものは斬罪』という命令であった。
 数百人の臣が並ぶ宮中において、董卓と李儒はゆっくりとその中央の通路を通り、帝とその傍らに立つ何后の前で言い放った。
「李儒、宣言文を読め」
「はっ。霊帝早逝し、弁帝それを継ぐ。しかし天の資質少なく、威儀慎まず怠惰。徳なく神器損ない宗廟汚れる。また何后、教えに母儀なくまつりごとみな荒乱。衆論ここに宣す、大革の道
 霊帝の跡継ぎである弁を天子の資格なしとそしり、且つ母である何后をも母たる威厳なしとし、現帝を交替させよう、と衆論がまとまったという宣言である。
 李儒はその先をなおも続けていたが、並び立つ百官たちはおろか、玉座の弁帝もその出来事に恐れおののいていた。何后はというと、天を仰ぎ声を上げて泣いていた。何后は涙にむせびながらも弁帝にしっかりと言いつけた。
「誰がなんといおうとあなたは漢の帝です。玉座から降りてはいけませんよ」
 それに対し董卓は剣を抜いて何后に告げた。
「今李儒が読み上げた通り、弁帝は威儀なく何后は教えに賢がない。よって今日より弁帝には弘農こうのう王となっていただき、何后には永安宮えいあんきゅうに入っていただき、陳留王を新帝と立てることに決まったのだ」
 と言いながら行動を起こしていた。帝を玉座から引き摺り下ろし、璽綬じじゅ(帝である証の紐)を解き、無理矢理臣の列に並べた。さらに何后の后衣を剥ぎ平服を着せた。臣たちはそのあまりのやり方に思わず目をおおったが、ただ一人きっと董卓を睨む者がいた。純真な若い宮内官の丁管ていかんであった。
「待て、逆臣董卓! 誰からそのような権利を享け、天を欺き、天子をひそかに廃せんとするか! 我はお前と刺し違えて死す!」
 言うが早いか丁管は並みいる臣の中から剣を抜いて董卓に斬りかかった。
 だが董卓はその肥満したからだに似合わず、すばやい動きで丁管の剣をかわした。李儒の剣が丁管の首を刎ねたのはその一瞬の隙だった。若い義人の命は殿上に消えた。

 董卓の野望はここに成就した。陳留王を立てて帝とし、群臣はその暴利におそれ万歳を唱和した。その日より陳留王は献帝けんていと称されることとなった。
 献帝は弁よりも年下であったため、まだまだ幼く何事も董卓の意のままだった。
 即位式が済むと董卓は自分を相国しょうこくとし、他様々な地方の官や重職に自分の腹心を置いた。相国たる董卓は殿上に剣を佩き、靴を着け、その肥大した体躯を堂々と反らせて横行した。漢衰退の歴史はこの瞬間より始まったと言えるかもしれない。
登場人物