7月

-文月の和菓子-

土用餅


倶利伽羅や青笹の香の土用餅    平野文子

土用餅とは土用に暑さ負けをせぬよう搗いて食べる餅である。
冬の餅のように雑煮や焼餅にすることは少なく 、砂糖や小豆、きな粉などを加えて、あまり固 くならぬうちに食べてし まうのが一般的らしい。

『日次紀事』(貞享2/1685)6月の条に「この月、土用に入るの日( 中略)赤小豆餅を食らふ。俗に根継ぎと称す。 (中略)かくの如くすれば、すなわち暑に中らずといふ」とあるが、夏バテ防止にうなぎを食べるように、小豆と餅の取り合わせも当時の食生活からすれば合理的であったといえそうだ。


書屋へもひるは野の風土用餅    三浦恒礼子

菓子としての土用餅は、現在では京都を中心とした関西地方がもっとも盛んなようである。
形としては、殆どが餅で餡を包んだいわゆる餡餅で、歯切れのよさと形のはりをよくするために、中の餅に或る程度上新粉を加えているのが多い。京都などでは、土用の丑の日に端午の節句の柏餅よりも売れると聞いている。
ただ昭和9年京都発行の『俳句季語辞典』(高橋仁編・立命館出版部)によれば「土用入の日に餅を食すれば年中の邪気をはらふといひ、昔はこれを売り歩きたるも今はその風なし」とあるから、京都で土用餅が盛んになったのもそれほど古いことではなさそうである。
次の句は平成元年の作。

信楽
陶(すえ)の町販(ひさ)ぐと紙に土用もち


 

みたらし団子


笹の葉のそよぐ御手洗団子かな  朴二


焼いて甘辛いたれをつけた串団子のことをみたらし団子という人が多いが、本来みたらし団子とは京都の下鴨神社で土用丑の日に行われる御手洗詣で売られる団子であった。
かつては神社の東を流れる御手洗川という小川でみそぎを行っていたが、最近では境内に作られた御手洗池に足を浸して無病息災を祈っている。
賀茂川と高野川の合流するこの境内一帯を糺(ただ)すの森とよび、古来詩歌にも名高く、納涼の地としても親しまれて来た。


「夏待つや糺すの森のよし簾」(白明)

のように、この時期には茶店も多く、その賑わいは
「日盛を花とみたらし明日も来ん」(上島鬼貫)と詠まれるほどであった。

祭の子集へり加茂の串団子  伏兎


太閤秀吉が行った日本最大の茶会として知られる北野大茶湯(1587)にも菓子として用いられたというみたらし団子は、もともと下鴨神社の神饌菓子である。
即ち竹串に小さめの団子を5個刺し、最初の団子をやや大きく、2番目との間をあけるのは、頭と四肢を表し、厄除の人形(ひとがた)を意味するという。
10本を1束として熊笹で扇形に包み、神前に供えてから家に持ち帰って火に炙って食べた。現在では焼いて甘いたれをつけて売られている。
通常では境内近くの加茂みたらし茶屋と看板をかけた亀屋粟義だけなのが淋しい。

芭蕉より一時代前の俳人、西山宗因の「みたらしやきのふは吾妻の十団子」の句も、みたらしと静岡の宇津谷峠の十団子との俳諧的対比である。

 


 

8月

-葉月の和菓子-

盆供菓子

 

梅雨期詩が散る蓮華の干菓子食みちらし  三橋鷹女

上は新暦の盆の句だが、全国的には旧盆の方が多いようだ。
ただ新旧を問わず落雁製の盆菓子はよくみかける。
落雁は西鶴や近松の作品にあるほど、元禄の頃から人気のある菓子だったが、当時の落雁は現在のおこしに近いものだった。
それが『古今名物御前菓子図式』(1761)には現在の落雁と同じものになっている。
すなわち餅米のほしいいを炒って臼で碾いたごく細かい粉(落雁粉)に白砂糖をもみ合わせて木型や枠に押す製法に変わった。
これは高価ながらも白砂糖を大量に使用できるようになった結果でもあろう。
ついでに言えば木型に押したものを打物、仙台の塩釜や松江の山川のように枠で押さえただけのものを押し物と呼ぶのは幕末から。
寒梅粉が造られるのは明治以後で、それ以後口溶けの良い落雁粉系と、餅のような粘りを持つ寒梅粉系とに材料の上からも落雁が二分されることとなる。


厚餡割ればシクと音して雲の峰    中村草田男


厚餡は餡の沢山入った饅頭を指すようだが、たしかに大ぶりの春日饅頭などぴったりである。
饅頭は同じ配合で造っても、大きな饅頭の方が中の餡がよりしっとりしていて、この句のような感じがする。
夏の間は西日本では一般に餅よりも饅頭をつくると前にも書いた。勿論、御盆にもつくる。
米などの穀粉でつくる柏餅風のものと、重曹などの膨張剤を使った小麦粉の饅頭、甘酒を利用して小麦粉を発酵させてつくるものと、大体3種類に分かれるが、特に長崎では最後のものをふくれまんじゅうと呼ぶ。

8月15日は聖母マリアの被昇天祭でもあるが、長崎のカトリック信者もこの饅頭をつくりこの日を「ふくれ饅頭の祝日」と名付けている。このことはカトリック信者が仏教徒をよそおう為の手段でもあったらしい。かくれキリシタンの歴史を垣間見るような話である。
惟然は芭蕉晩年の弟子。

涼しさよ饅頭喰ふて蓮の花  広瀬惟然




サイダー


サイダーのみどり注ぎ我が夢二の忌  中田みなみ

サイダーは、明治20年頃から横浜の秋元巳之助がラムネの製造のかたわら、金線サイダーの名で売り出したのが最初といわれる。
その後明治37年、王冠栓の使用によりラムネと区別され、販売が本格化した。
いずれにせよ香料と甘味料を加えて、クエン酸で味付けした無色の炭酸水であることには違いない。
俳句では、大正11年『ホトトギス』の雑詠選集にある
「サイダーや含めば消ゆる氷屑」(柴田宵曲)が早い例。


米国ではサイダーは林檎汁であり、レモネードもレモン汁に砂糖と水を加えたものだが、英国では林檎酒を意味し、レモネードも炭酸入りである。
また日本にラムネやサイダーが移入された時期、欧米ではソーダ水が盛んに飲用されていた。明治以前の日本には発泡性の飲料に乏しく、炭酸飲料やシャンパンなどの発泡酒の口栓を抜く時の音には驚かされたに違いない。
勿論本来のサイダーに酔ったことも当然である。


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9月

-長月の和菓子-

おはぎと牡丹餅


彼岸では通常白い彼岸だんごと打ち物の盛菓子を飾るが、やはりおはぎ(萩の餅)が多い。 俗に「中日牡丹餅、明けだんご」などという様に、彼岸におはぎを食べる習慣は江戸時代からあった。
牡丹餅の俳句は比較的多く

命婦より牡丹餅たばす彼岸かな  蕪村
牡丹餅の昼夜を分つ彼岸かな   子規

の他かなり見られるが、おはぎの例は少ない様である。

お萩腹秋の彼岸の暮れかかる  句仏
雨淋し秋の彼岸の萩の餅    晴汀

などがそれだが、子規に「お萩くばる彼岸の使行きあひぬ」(明34)とあり、『仰臥漫録』には
「陸より手製の牡丹餅をもらう。此方よりは菓子屋に誂へし牡丹餅をやる。菓子屋に誂へる は宜しからぬことなり。されど衛生的にいへば病人の内で拵へたるより誂へる方が宜しきか」(以下略)と書かれている。

よく牡丹餅とおはぎはどう違うかというが前記の点から見れば同一物であろう。しかし語源的には牡丹餅の方が古いと思われる。
例えば日蓮が竜ノ口で斬られようとした時、一老婆が供養したものが胡麻の牡丹餅であったという。

かまくらや犬にも一つ御なん餅  一茶

の通り今でも9月12日の竜口法難会には御難の餅として胡麻の牡丹餅が供養されている。また農家では稲の刈上を祝って刈上餅をつくるが、これも牡丹餅が多い。

刈上の牡丹餅配る五六軒     一坡

ただ牡丹餅は昔は賤しいものとされ、元禄ごろの書にも「民家の食にて貴人の食するは稀なり。杉折には詰め難く、晴れなる客へは出し難し」とある。
たしかに牡丹餅と言えば古来あばた顔の意であり、後には丸く大きな醜い顔の意となった。
「牡丹餅も親の心にゃ萩の花」(雑俳、へらず口)。

また寛永15年の鷹筑波にも「萩の花牡丹餅の名ぞ見苦し野」とあり、牡丹餅の異称としての萩の餅やおはぎは少なくとも江戸初期には一般的になっていたことになる。
 
牡丹餅も餡の硬さ具合や付け方を工夫することにより幕末ごろからは上層社会でも食べるようになった。
新橋の胡萩堂の萩の餅は明治4年の創製だが、初期より黒胡麻、黄名粉、こし餡の三種であった。

要するに菓子の商品名としては牡丹餅はやや不向きだったのであろう。
即ち牡丹餅が本来の名称であり、ずっと以前からおはぎはその美称であったということなのである。




 

月見と団子

 


十五夜や障子にうつる団子突   村上鬼城

子供の頃に篠竹などで作った細長い竿で月見の供え物を突いて盗んだ経験を持つ人は多いことだろう。
「中秋はだんご十五の月見也」(柳樽五)の様に月見団子はおおむね白団子を十五個とすることが多いが、 里芋の形にした例もあり、特にこだわらなくてもよさそうである。

餡入りの場合もあるが、月に供えるものは”腹黒い”と言われない為に、特に餡無しで作ると聞いた。上新粉だけの白団子でも軟らかい内ならそのまま、又きな粉か砂糖をつければ結構食べられるし、硬くなれば焼いて醤油をつけるのが一般的であろう。

留守居して月見団子を焼く夜かな  川口松太郎

本来月見は農耕民族の初穂祭的性格のものであったが、中国では中秋節として盛大に祝われ、唐に模した風雅としての月見が日本で行われる様になるのは平安初期である。

月餅を贈る一詩や紅唐紙  墨水


月餅といえば中国菓子の代表だが、中国では満月にちなんで円形に作り、中秋節に用いられる品であった。
最近は月見饅頭もよく見られるが以前からあり、例えば吉宗の頃、吉原の取締役人であった庄司叙乂は饅頭が好きで「饅頭や雨の月見の月見かな」(1738)の他、多くの饅頭の句や文章を遺している。


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10月

-神無月の和菓子-

柿と栗と羊羹

 

秋の季語には菓子の類いが少ない。おおむね栗や柿、柚子、橡、胡桃など果実や木の実に関したものである。例えば柿の干し柿や巻柿。または米か麦を煎って碾いた粉を熟柿に搗きまぜ、蒸したものが柿もち或いは柿搗(かきづき)。


柿づきや世を味うて都人


柿は柿本人麿呂の名があるように、日本では古くから栽培されてきた。干し柿も奈良時代、平城京の市で売れれており、写経生などが買い求めている様子が正倉院文書に書き残されている。
干し柿を加工した菓子も多いが、柿羊羹が古くから有名。柿羊羹は広島や秋田県の横手など柿の産地に多く見かけるが、やはり岐阜県の大垣だろう。
天保9年の創製といい、ジャム状にした干し柿に寒天と砂糖を加えて煮詰め、孟宗竹を半割にした容器に流しこんだもの。

柿羊羹煮る夜や伊吹颪吹く  塩谷鵜平




打栗の縁に筵の秋日かな   藻水

栗は菓子の材料としては柿よりも一般的である。栗粉餅は室町時代の半ばから作られている。焼栗または茹で栗を粉末状にして餅にまぶしたもの。餅の中に搗きまぜた高級品もあった。
搗栗(かちぐり)を蒸したものを叩いてつぶし、紙に包んで圧して平らにしてから、焙炉(ほいろ)にかけて乾かしたものを打栗といい、甲斐の名産とされていた。
後には砂糖で味をつけたようだが、栗の煎餅と思えばよいのだろう。

栗羊羹に栗の少なき場末かな  江風

通常見られる菓子で秋の季語となっているものに栗羊羹がある。
栗羊羹に季感なしとする向きもあるが、それは成田の米屋などの名物ものに関してであり、上菓子として意匠を凝らした栗羊羹には充分に秋を感じることができるはずだ。
江戸末期の『菓子話船橋』(1841)には栗羊羹の製法として、砂糖500匁、栗粉600匁角寒天1本半とあるから、小布施の栗羊羹などと同じく、本物の栗羊羹と言うことができ秋そのものを味わうこととなろう。

現在では羊羹といえば煉羊羹をさすことが多いが、明治までは蒸羊羹が一般的であった 今日でも栗を使用した蒸羊羹は和菓子屋にとっては秋を代表する商品の一つ。
栗羊羹として季語にあげている歳時記もあるが、その例句が「栗羊羹夫を客とし一点前」(中川はぎの)では、栗の煉羊羹と誤りやすい。
単に”栗むし”でよいのではないだろうか。事実、蒸羊羹の甘味が淡く、食べごたえのある感じは秋にぴったりで、秋から年内一杯よく売れるが、正月になると急に売れなくなるのが不思議なほどである。


羊羹は元来唐から伝わった”あつもの”の一種で、すいとんの味噌汁のようなものであったが、茶の点心として喜ばれるようになると、汁は次第に無用化し、中身のみが蒸菓子として珍重され、足利義政の時代に蒸羊羹の基本形ができた。

寒天を使った煉羊羹は聚楽第で太閤秀吉が日本の諸大名に披露したのが初め。
創業者の伏見鶴屋はのち紀州家御用菓子司として和歌山に移り住んだ。

江戸では前田家ゆかりの藤村が宝暦年間(1751)の創業で、現在も東大の近くで繁盛しているのは御承知の通り。


昔なつかしい芋羊羹は蒸した甘藷を熱のある中に裏ごしして、砂糖、塩などを加え枠に押したものだが、甘藷の凝固力を利用するので、材料が新鮮であるのが条件。
「時の日やありて舟和のいもやうかん」(八木林之助)とあるが如何なものか。
舟和では芋羊羹を一年中扱っているが、保存性などを考慮して配合なども変化しているはず。やはり秋から冬のものであろう。その時期であれば、多分甘藷もとりたての味となっているはずである。


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11月

-霜月の和菓子-

亥の子餅

 

故郷の大根うまき亥子かな  正岡子規

亥の子とは旧暦10月の亥の日に餅を搗いて祝うことであり、関西を中心とした農村で広く行われていた。
一般には白い丸餅だが(関東ではのし餅)、搗きたてを食べることもする。 ちぎった餅にまぶすものとしては、餡、きな粉、ごまなどいろいろあるが、枝豆や納豆もよい。
しかし、手軽でおいしいものといえば、大根おろしを使った辛味餅だろうか。


いの子から似合て餅に頭巾かな  立花北枝

亥の子の起源は古く、応神天皇の代に、10月の初亥の日に餅を搗いて朝餉にしたという記録もあるが、平安朝初期には行われていたことは確かである。
以来、朝廷では大豆、小豆、ささげ、栗、柿、ごま、糖の七種をまぜて七色の餅とし、猪子形にして亥の日に用いた。
平安朝も中期になると民間に餅の需要がふえ、これを商売として生活する人も出現してくるが、これにも亥の子餅が一役買っている。

鎌倉、室町を通じて朝廷での亥の子は衰えるものの、武家では盛んで、江戸に入ると徳川幕府は早くからこの日を祝日とした。
何しろ大名旗本から御家人に至るまで夜分登城し、官職の高下によっては将軍の手から餅を賜るのである。
餅は赤、黄、白、黒、青の5色だが、一般の武士は紅白の餅だったらしい

亥の子じゃと重箱に咲牡丹餅

旧暦の10月、亥の日、亥の刻に餅を食べれば、万病を除き、長寿を保ち子孫を繁栄させるということが、どこから由来しているかよく分からないが、収穫祭の性格があることは否めない。
秋の収穫には早稲から晩稲まであり、農家でもまちまちなので共通の儀礼が成立し難いといわれる。
そこで収穫がすべて終わった後で行われるのが西日本で亥の子、東日本の十日夜である。亥の子の神は田の神で、この月に家へ帰ってくるとも山へ往くともいわれているが、田の神が田を去ることに変わりはない。
それを感謝するために餅を搗くのが農村での亥の子のあり方である。


しら箸の夜のちぎりや亥の子餅  西山宗因

亥の子餅には子をもうけるという別の意味もあった。収穫と多産は考え方において結びつく。
猪は子を多く産むから生産の行事の日としたともいわれるが、そのことの当否はともかく、俗説としては耳に入りやすい。

『源氏物語』の「葵」に、紫の上との新婚三日目に「その夜さり、亥子餅まいらせたり」とあるように、新婚の儀式の中でも使われている。
一般にはミカノモチまたはミカヨノモチヒとして知られているが、三日の餅とは直径1寸ほどの丸餅で、紅白の場合もあった。

宗因は談林の祖で、芭蕉が俳諧の中興と賞賛した俳人。
亥の子餅の別の面をひきだしている。
次の句は『最新二万句』(明42)にある句。玄猪も亥の子のこと。


浴(ゆあみ)して玄猪心のをみな哉  眉月

江戸時代に亥の子が盛んになった理由のひとつは、この日に炉開きをするようになったこともあるらしい。
亥の日に炉を開ければ火難を避けるといい、初めの亥は武家が、次の亥の日には町人が炉開きをすることになっていた。

もっとも千利休は「柚子の色づくを見て」といい、何日とは定めなかったが、その年の気候や土地により差があって当然のことである。
昭和12年の「ホトトギス」より。


摩利支天堂に亥の子の御幣受け  伊徳秀女

今日、亥の子というと、茶道での炉開きなどをぬきでは考えられなくなった。菓子としても同じことである。
牡丹餅が江戸時代から好まれていたとしても茶席には似合わない。
平安時代の猪子形にならって、小ぶりのぎゅうひ饅頭を猪子に見立てるのが一般的なようだ。
肌寒い時候となると、ぎゅうひの類も食べやすくなってくる。

山茶花の紅つきまぜよ亥の子餅  杉田久女

 

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12月

-師走の和菓子-

餅搗き



くれくれて餅を木魂のわびね哉   松尾芭蕉


天和2年(1682)といえば芭蕉39歳の作。
まだ俳人としては若かった時期、暮れもおしつまって近くで餅を搗く音を聞きながら寝ていたのであろうか。
「ありあけも三十日にちかし餅の音」(芭蕉)はそれから11年後、早朝の餅搗きを詠んだもの。
芭蕉には食に関する俳句が意外に多く、餅だけでも十指に余る。

餅搗きは朝暗いうちから始めたり、「餅つきや焚火のうつる嫁のかほ」(召波)のように夕方から夜にかけて行われたりした。
召波は蕪村の友人。また大きな農家などでは小作人も集めて朝まで続くことが多かったらしい。よっぴといとは一夜のこと。

よっぴとい地主の餅で寝つかれず  『柳樽』5


大きな餅搗きでは米を洗うことも大変である。
米を漬けた 桶に翌朝は薄氷がはっている時も多く、餅を搗き出すまでは寒いものだ。

「餅米の水きってあり欅の空」(小田切輝雄)は武蔵野の印象であろう搗いた餅を並べる餅むしろを敷く場所も大切で、のし餅なら一俵で通常40枚とれるから、2、3俵も搗けばかなり大きな農家でも家中に餅むしろを敷き詰めることになる。

「玄関の障子あくれば餅筵」(藤園)どころではなく、
「寝所の相談をして餅を置き」(柳樽27)が正直なところであった。

現在ではビニール袋があるので、餅屋としてもそれほど置き場所に苦労しなくなったものの、「筵目の荒き餅かな田舎より」(大愚)が懐かしい。

餅きりに残らぬ年の仕舞かな   杉山杉風


杉風は芭蕉の後援者の一人で、幕府へ魚を納める御用商人でもあった。正月に食べる餅も西日本では丸餅が多かったが、関東では杉風の句のように、古くからのし餅が使われている。
丸餅には鏡餅に通じる霊力に似たものを感じさせるが、作業能率などからすればのし餅の方が一般的であろう。

「餅搗やなまこのし餅或は又」(小沢碧童)とあるように餅にも種類があるが、太陽暦の現在では生子餅や霰餅は寒に多く、暮れでは正月用の白餅を主に、黄色の粟や黍などは「餅搗の粟一臼を仕舞かな」(鶯池)のように終わりに搗いた。

搗立ての柔らかい餅を餡や胡麻、きな粉、大根おろし等にまぶして食べるのは美味で、親戚や隣近所に配り餅をすることが今でも地方ではみられる。次の句、米屋からの御歳暮の意味かもしれない。

米屋より差(さし)つまる日の配り餅  高田蝶衣


餅を搗く杵が現在のように横杵になるのは天和・元禄期で、芭蕉の時代と重なっている。
それ以前は兎の餅搗きに似たタテ杵で女性が搗いており、寛永期の『仁勢物語』『四条河原図屏風』等の絵にも画かれている。

慶長8年の『日葡辞書』(1603)には鏡餅、小豆餅、餡餅、草餅、葛餅、栗粉餅、蓬餅、等16種類の餅の名があるが、江戸初期から急速に食文化が発達し、元禄6年刊の『男重宝記』(1693)には250余種の餅の名が見られるに至った。

元禄初期からの風俗絵に認められる横杵の使用もこの餅需要の増大によるものだが、タテ杵もその後長く使用されている。
森川許六編の『風俗文選』巻6(1706)に「餅は心地よき物、酒はうれしき物、茶は淋しき物」とあり、当時の事情が窺えよう。

江戸後期から賃餅と称して、臼や杵、釜、せいろうなど餅搗きの道具を用意して市中を廻る稼業があり長く続いていた。

「餅搗きが隣へ来たといふ子かな」(一茶)。


現在では町内会や子供会などが地域のイベントとして餅搗きをする例が多くなり、道具もリースなどで比較的容易に調達される様である。

「餅竈かへしに焦土此花区」(平林静塔)は戦後だが、林原らいせいが「月穂婦人に謝す」と前書した「いただきぬ餅も膾もそのつゆも」(昭19)の句の背景にある飢えも決して遠い過去ではない。

次の句、日本の伝統的な父の姿が餅搗きと重なって心打たれるものがある。


息ひとつひとつ餅切る父の夜   桜井博道

 

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