1月

-睦月の和菓子-

花びら餅

初釜のおはなびらとて京の菓子  博二

初釜とは新年最初に行われる茶会のこと。
茶道はわび、さびなどというものの、茶会は華やかな雰囲気に溢れていることが多い。
そのような正月の茶席の菓子もそれぞれに吟味されたものばかりだが裏千家の家元では、花びら餅を独楽の柄の銘々盆に盛って出すのが通例。

薄く円形にのばしたぎゅうひに、蜜煮したごぼうと味噌餡をのせて、網笠状に折ったもので、中に紅のぎゅうひを菱形に切ったものが添えられていることから、菱花びら餅というのが正確である。
菓子に使う味噌は京都の白味噌の中でも限られたもので他の地方の追随を許さない。料理でもそうだが、白味噌の菓子は京都の味がする。

塗皿の花びら餅も松過ぎぬ   博二

『広辞苑』ではなびらを引くと、「はなびら餅の略。餅または団子の一種で、花弁の形をしたもの」とあり、 1603年刊の『日葡辞書』にも「ある種類の餅」と記されている。
また『岩波古語辞典』には、「正月、鏡もちの上にのせる薄い菱形の餅、菱餅、菱花びら、花びら餅」と見え今少し分かり難い。

裏千家の茶道家で、菓子の故実に詳しい鈴木宗康氏の『京都の菓子』によれば、宮中では鏡餅の上に大はなびらという薄くのばした円形の白餅を十二枚のせ、更に大菱という薄い菱形の赤餅を十二枚のせて飾るという。
このことは室町頃に流行したらしく、公家や武家の長などへ貢ぎ物としての記録もある。

例えば『山科家礼記』(1477)に「大宅郷より上がり候物、はなびら百十枚」とあるのもそれで、『目次記事』という京都の歳時記(1685)には、「十二月の末、家毎に餅を搗き、円鏡形や菱はなびら形にして、神仏に供えたり、兄弟に贈ったりする」と記されている。

『日葡辞書』が当時の標準語である京都語を多く記載している点からみても、室町から江戸にかけて関西においては、鏡餅の上に菱餅とはなびら餅を飾る風習がかなり行われていたのであろう。
またこの時期、鏡餅は比較的長く飾られていたのに対し、はなびら餅は早く食べられていたらしい。室町後期『言継卿記』には、1565年1月3日に「菱花平にて(酒盃を)一位に勧む」というくだりがあり、一位というような高い身分の者に対しても酒の肴にしている。

着飾って花びら餅の紅透ける  博二

 

 

鏡餅

一門の竝びてゆゆし鏡餅   武原はん

吉右衛門邸と前書のある句。六代目菊五郎と共に菊吉時代を作った先代の中村吉右衛門は「ホトトギス」の同人でもあり、『吉右衛門句集』を出している。
日本舞踊で無形文化財の指定をうけた武原はんもホトトギス同人であった。

この鏡餅はどれほどの大きさだろう。「鏡餅二臼どりに一重ね」(岡本圭岳)の一臼とは約三升だから五升位の餅か。 酒樽の上などに飾る場合は最低この位の大きさがほしい。

鏡餅は略してオカガミといい、関東ではオソナエで西国ではオスワリともいう。年配の客ではオカガミを何スワリと注文される例が多い。一般には絵に描いた餅のように中高に作られるが、関西では腰の低い扁平な形が特徴的である。

平べったき餅を飾りて閻魔堂  博二

鏡餅は古くはモチヒカガミで、『源氏物語』の初音の巻にでているから、平安初期から使われ始めたのだろう。
鏡であるからには、平べったい円形が本来のもの。

正月三が日の間に大根、菰、押鮎など固い物を食べて歯の根を堅くし、健康増進、即ち齢を延ばす意味の歯固めという行事があるが、これに鏡餅が加えられるのは平安中期からである。
後に武士が甲冑に供える鏡餅を具足餅と呼び、室町末から知られるようになった。江戸後期の川柳にも「裏白が草摺りになる具足餅」(柳樽30)、「具足の餅へ緋縅の魚を添へ」(柳樽116)とある。緋縅とは伊勢海老のこと。

罅(ひび)に刃を合わせて鏡餅ひらく  橋本美代子

鏡餅を食べるのにはやや苦労がいる。のし餅とくらべて固く搗き上げないと形のよい鏡餅にならないが、そのような餅を十日以上経ってから切るのは不可能に近い。
やはりヒビに合わせて割っていくことになろうか。

昔は割った餅を火鉢などでこんがりと焼いたものだが、今ではオーブン等を利用するとよいだろう。よく陰干しにしてから油で揚げれば最高だが、少々手間がかかる。

最近では暖房の関係でカビが生え易くなっているが、飾る前にアルコール度数の高い焼酎を塗っておくとかなり効果があるようだ。


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2月

如月の和菓子

鶯餅


街の雨鶯餅がもう出たか  富安風生


梅は二月だが、鶯餅も一月から店頭に出ている。江戸時代からある菓子だが、きな粉の風味、栄養価もあり、餅菓子の中でも好まれているようだ。

きな粉を手粉にして包んだ餅饅頭の両端を尖らせ、青きな粉をふりかけて鶯に見立てたもの。蜜または砂糖などを少々加え、大福餅などよりも軟らかめに搗きあげるのは、きな粉が水分を吸って早く硬くなるのを防ぐため。

「鶯餅の持重なりする柔らかさ」(篠原温亭)はそのままの感じをよくとらえている。現在ではぎゅうひに近い物が多くなったが、それなりに趣きのある洗練された菓子といえよう。
ただ青きな粉はきな粉とくらべ、一般的に香りが劣るのが欠点である。次の句、以前は場末でこのような鶯餅をよく見かけたもの。
今ではもっと上品な感じになってしまった。


大きうて鶯餅も鄙びたり  池内たけし



豆菓子とあられ


其あとは子供の声や鬼やらい  小林一茶

三つさへかりりかりりや年の豆

一茶には「生栗をガリガリ子どもざかり哉」と、子供の歯の良さを羨んだような句がみられる。
もっとも「かくれ家や歯のない口で福は内」の句もあるから、晩年は歯に悩まされたのかも知れない。

豆といえば昔から菓子の大きな部分をしめて来た。節分に使う煎り豆も家庭で簡単に作られていたし、砂糖や塩などで軽く味付けされた豆は立派なお菓子であった。
特に戦中戦後、食料の乏しかった時代にも煎り豆は比較的手に入りやすかったので、よく食べた経験をお持ちの方も多いことと思う。

向ふのを笑って内の豆をまき  川傍柳四

豆まきは懐かしい風習だが、福は内、鬼は外と大声でやるのは照れくさいものである。他の家の声を笑いながら、年男として自分でもやらざるを得ない。
『川傍柳四』は天明二年(1782)刊だが、現在におきかえてもそのまま通用するようだ。

豆まきは室町時代に始るが、『看聞御記』という当時の日記の一月八日の条に「今夜節分也(中略)鬼に大豆を打つ事は近年である(1425)」という記事があり、「家毎に部屋に煎り豆をまき、鬼は外、福は内と唱える」と書かれているので、それ以前から行われていたことが分かるが、初めから食べられる煎り豆を使っていたことが面白い。

あたたかく炒られて嬉し年の豆  高浜虚子

菓子は元来、食料として利用される木の実や果実をさすものであったが、室町末期に書かれた『廚事類記』という料理書によると、干菓子として、松や柏の実、柘榴、干棗をあげ、「松実は炒って皮をむき、柏の実は炒ったままでよく、柘榴は皮をむき、熟した棗の皮をむいて蒸して干棗をつくる。あまずらを塗るとよい」などと書かれている。

今日では内地の松の実や柏の実などまず食べることはないが、当時これらの実が干菓子として喜んで食べられていた。

安土、桃山時代の茶会記を見ても、干菓子にあたるものは栗、干し柿、榧(かや)、豆、柑橘類、昆布、塩鮑などであり、これに氷砂糖やふのやきというクレープに似たものが加わるのみであったから、炒り豆のようなものをよくもまいていたものといっていい。

子等の目は豆炒りにまた雛の灯に  逸名

俳句でも豆煎り(豆炒り)は季語として存在している。現在では大歳時記などでしか見当たらないので、戦前のものから引く。
「煎った餅米に紅白の餅を細かく切ったあられや豆をまぜ、砂糖をまぶしたもの。桃の節句に供え、平常のおやつともする」(俳句季語辞典、昭9)とあるから、雛あられをさす。

煎った餅米は葩煎(はぜ)といい、新年の季語。関西では正月のものとされ、現在でも大阪の今宮神社の十日えびすでは売られているとか。

煎り豆に花とは雛へ馳走なり  柳樽17


あられ餅やかき餅も冬の季語とされているようだ。かき餅は欠餅で、正月の鏡餅を刃物で切るのは縁起が悪いことから手で欠いて小さくして食べることから来ているので、理解されないこともない。

あられ餅は細かく賽の目に切って乾燥し、保存することが目的なのだから、霰餅作りは冬でも、あられ餅は春であろう。

かき餅も室町辺りから、薄く切って保存するための餅として作られているから、冬では疑問が残るところだ。
嵐雪の句をみても、当時からあられとよんでいることが分かるが、あられは弱火でなければ焦げてしまうからまさにほろほろと煎らなければならない。

草餅にあられを煎るやほろほろと  服部嵐雪

 

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3月

弥生の和菓子

上巳の節句と草餅


ひし餅のひし形は誰が思ひなる  細見綾子


雛祭はもと上巳(じょうし)の節句。
古代中国には三月の上巳、すなわち初めの巳の日に、水辺へ出て禊を行い、酒を飲んで災厄をはらう行事があったが、後にこれが曲水の宴となり、三世紀・三国志の魏の時代から三月三日と定まった。

日本書紀によれば曲水の宴は五世紀末に日本で始められたという。もっともこれが女児の節句となるのはずっと後世のことだが。
上巳の節句は草餅の節句ともいい、その起源は中国六世紀前半、湖北・湖南地方の年中行事を記した『荊楚歳時記』に、「三月三日鼠麹菜(母子草)の汁をとり、蜜を合わせて粉に和す。名付けて龍舌ハン。これを食すれば時気をはらう。」とあるのに遡る。

日本でも九世紀ごろから行われ、和泉式部に「花の咲く心の知らず春の野にいろいろつめるははこもちいそ」の歌がある。
当時草餅に常用されていた母子草が蓬に変わったのは室町中期だが、その理由は、臼と杵を陰陽として母と子を同じ臼で搗くことを忌むという他愛も無いことである。
そのためか江戸では草餅といったのに対して、母子草から転じたことを知っている関西では蓬餅と呼んで来た。


菱餅や雛なき宿もなつかしき  小林一茶


いずれにせよ上巳の節句はその始めから、川で禊をして身の穢れを除き、草餅を食べて健康になり、酒を飲んで幸せな気分にひたるものであったことは間違いない。
それが近世初頭に精巧な人形を作る技術が中国から伝わったことにより、身の穢れを祓って水に流すだけの人形(ひとがた)が立派な人形になり、女児の祭りとしての雛祭の節句が盛んになっていく。

そして上巳に使われていたものがそのまま雛に飾られることとなる。
江戸期には草餅は菱形に切って飾るものと決まっていたが、更に関西では同形の白餅を重ねており、現在のように三枚に重ねるのはそれほど古いことではないらしい。
ただ上巳の菱餅の飾り方を記した『女諸礼大全』(1751)の挿し絵には、三方の上に菱餅が七枚重ねられているので飾る作法はきまっていたらしい。
武家礼式の中心である小笠原氏の家紋が三蓋菱であることに因むともいわれているが、古式によれば宮中賢所の鏡餅は赤白赤の三重であり、そのうえに薄い円形の白餅十二枚と菱形の赤飯十二枚その他を重ねるとあるから、菱餅が現在の形になったのは正月の菱はなびらと同じく、古式と関連したものがあろう。



桜餅


桜餅食うて抜けけり長命寺   高浜虚子

俳句に桜餅が登場するのは明治の後半だから、菓子としては早い方に属する。例えば今井柏浦編の『最新二万句』(明治42)という明治の俳句を集めた句集の中にも右の句をはじめ七句採られているし、虚子も好きだったと見え、桜餅の句が多い。

桜餅は享保二年(1717)、江戸向島の長命寺門番であった山本新六が売りはじめたといわれる。小麦粉を溶いて鉄板の上で薄く焼き、小豆餡を包んで二つ折りにしたものを塩漬けの桜葉二枚で両面をくるんだ。
桜葉で包んだのでスナック性があり、小麦粉製の薄い餅のため桜葉の塩味が適度にしみて、香りと共に趣きがあり、 上下貴賎の別なく好評を博したという。
文化七年(1810)に山本屋で使用した桜葉が77万5000枚だったとあるから、一個の桜餅に二枚使ったとして、38万7000個ほど製造したことになろうか。

関西では道明寺ほしいい製のものが多く、「端から黒い餡の見える桜餅なんか食えるか」といわれたこともあるが、本来は小麦粉のクレープ状のもの。
道明寺ほしいい製は後年で、上新粉製のものもあった。また桜餅は葉ごと食べる方が良いという人もいるが、ごく軟らかい葉なら知らずやはり葉を剥いだ方がいい。


桜餅二月の冷えにかなひけり   久保田万太郎

桜餅の価値は何と言っても香りの良さであろう。有名な虚子編の『新歳時記』にしても「匂ひを入れてある」と解説しているほどだ。

たしかにそのように感じられるほど塩漬けの桜葉の香りは良い。ただ塩漬葉である以上、気候が暖かになれば香りが悪くなるのは当然のこと 。
また桜餅に巻いた葉も時間が経てば香りが落ちるので、作り立てを春雪の日にでも食べることができたら最高である。

その意味では桜餅は早春のものなのだが、同時に雛祭の菓子ともなって久しい。
事実、桜餅の売り上げは三月三日がピークであり、以後は激減する。
菓子屋とすれば四月の花見の時期にでも売れてくれれば有り難いのだが、そうは問屋が卸してくれない。

万太郎の句は昭和25年の作。愛酒家で知られた万太郎には桜餅の句が30近くもあり、その多くが珠玉の作であるのはさすが。
友人の大場白水朗にも「桜餅火燵の欲しき夜なりけり」(昭3)がある。次の句も桜餅が早春のものである例。


蓋ものに春寒の香のさくら餅   能村登四郎


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4月

卯月の和菓子

団子


花見団子たべて異国の一少女  秋山さつき

団子そのものには季節感はないが、やはり花より団子である。
花見団子といえば花見の茶屋などで売られる団子と思われがちだが、れっきとした菓子の一種。関西に多く、ういろうの類を赤白緑の三色に丸めて串に刺したもので、淡白な甘味がよい。
それこそ「串に刺す花見団子の色の順」(広瀬ひろし)なのである。
勿論地方により異なり、道明寺ほしいい製や、小豆、白、挽き茶などの餡で包んだ団子を串に刺したものなど様々あるのだが。

団子といえば串に刺したものを想像しがちだが、それは串団子であり、やや小ぶりで丸い形に作られた菓子ならなんでもよい。
団子が売られるようになるのは比較的早く、芭蕉がまだ幼かった頃に出版された『東海道名所記』(1660頃)の序には「(街道では)店屋の餅。団子。茶屋の焼餅。国の名物、酒、さかな。煮売、焼き売、色々あり」と書かれている。
店屋は商店、特に飲食店をさし、茶屋よりは立派な店なのだろう。茶屋では餅を焼いただけのものだが、店屋ではもっと菓子らしく作られた餅や団子が並べられていたらしい。

団子屋は夜半の嵐にくしけづり  『柳樽』46

江戸後期には市中にも名物団子が数多く出てくるが、「桜咲く木の下蔭に団子茶屋」(柳樽94)など行楽地にはより多く見られた。
吉原への入り口である日本堤(吉原土手)にも団子屋がでており「土手の団子屋は素見の心持ち」(柳樽13)とひやかしの客を相手にしていた。素見は買わずにただ見て通るだけのこと、すなわちひやかしである。

江戸時代を通じて多くの道中案内、旅行ガイドが発行されたが、街道で売られている菓子としては餅類が多く、饅頭がそれに次いでおり、串団子はあまり見られない。
全国的には団子は蒸す、茹でるなどしてそのまま器に盛りきな粉や砂糖をまぶして食べるのが一般的だったと思われる。

京都の下鴨神社のみたらし団子の例があるにせよ、串団子そのものは急速に大都市化する江戸でのスナック菓子として盛んになっていった。

団子が名物になる場合は「茶団子のみどりを賞でて宇治の夏」(大橋敦子)などとその地の特殊な産物、例えば黍、栃、蓬などを使用する場合が多いが、十団子やみたらし団子のように厄よけなどの効験が加えられていたことは現在も同じで、全国各地の門前町にはいろいろな厄よけの団子が見られるのは御承知の通りである。


厄除けの団子ほおばる花曇り 正力タカエ



わらび餅


「わらび餅」声引き商都裏通り  藍野椋樹

商都といえば大阪なのだろうか。とにかくわらび餅は奈良、京都あたりと結び付けられて紹介されることが多いが、関西では古くから親しまれてきた菓子で根強い人気がある。

わらび粉(わらびの根から採った澱粉)を水で溶き、砂糖を加えて火にかけて煉り、木枠や型にいれて流し、固まってから切り、きな粉をまぶすのが一般的だ。
関東の葛餅に似ているが、売価はともかく、味覚の点ではわらび餅の方がいい。葛餅の半透明な硬さと、やや酸味があるのに対し、淡白な味と口溶けの良さは独特で、使われているきな粉さえ新鮮であればどの店のものも安心して食べられる。
ただ旅行者にとっては茶店などで見る機会が多いだろうし、その印象を詠んだ俳句もまた多く見かけるところだ。

みほとけをめぐり疲れて蕨餅  大野磯男

わらびは食用としていろいろと利用されてきたが、葛と同じように根茎から澱粉を採ることも万葉集の時代から行われている。
葛粉とわらび粉はよく似ており、水を加えて火にかけ、餅としてから、きな粉などをかけ主食としても使われている。
江戸初期の『料理物語』によると、「蕨の粉一升に水一升六・七合入れる」とあるから当時のわらび餅はかなり固いものであったようだ。
現在では菓子として、なるべく軟らかく作るようにされているのにくらべ、主食としては当然のことに違いない。

萩の茶屋六十仲間のわらび餅

わらび餅も昨今では関東でかなり見かけるようになった。
関西では餅米の粉などを加えて、葛餅に似た歯切れのよさ、大衆性を出しているのに比べ、関東ではわらび粉の性格をいかした高級志向がみられるのが特徴。例えば中に餡を包み込んで鶯餅風に品よく仕上げたり、餅だけの場合でも軟らかめにする。

わらび粉は葛粉と違い、腰が弱いので火加減、煉り具合が難しい。後句の擂亭は鎌倉でも有名な店。
特に庭に趣きがあり俳人も多く訪れている。近世の豪農の建物を移築して作ったおしゃれな料理屋といえばよいだろうか。
蕎麦類が主だが懐石も出す。また亭内の露庵では甘味喫茶もかねている。ただ現在ではわらび餅は作らず、葛切りが中心らしい。

擂亭露庵の床几に女ら蕨餅  井浦理栄


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5月

皐月の和菓子

柏餅


おもたせのあたたかなりし柏餅  松本秩稜

端午の節句に柏餅が粽と併用されるようになるのは元禄以前といわれるが、『東海道名所記』(1658)には街道名物として白須賀の柏餅があげられている。
浜名湖周辺の潮見坂に近い白須賀の柏餅は後に広重の東海道五十三次にも描かれており、当時は塩餡であった。



わが家系男をたたず柏餅  福田蓼汀

柏葉は古くは食器であり、米を炊く際、こしき(米などを蒸す器)の下敷きの木の葉としても使われたことから、炊事の代名詞ともなり、その専従者をカシワデ(膳部)とよぶにいたった。

また柏の木には葉守の神という樹木を守護する神が宿るということから、皇居を守る兵衛や衛門の別称でもあった。
このことが柏餅が男児の節句に用いられた一つの理由であろう。

もっとも陰暦の五月は柏の新葉が育つ時期でもあり、これで餅を包むことは誰にでも考えられることである。

いずれにせよ室町以降の菓子技術の発展は、柏餅をそれまでの携行食的役割から菓子への移行、定着するのに時日を要しなかったといえよう。

ただ柏の新葉は色彩のみで香りに乏しく、新葉を加工して乾燥させた古葉の方が香りがあるのは面白い。

砂糖入りの味噌餡も江戸時代からあったが、
「柏餅茶なくて味噌に渇しけり」(鬼帛)のように塩のきいた味噌餡が多かったようだ。

硬くなった柏餅は蒸し直してもよいが、電子レンジが好適。また焼いて食べるのも柏葉の焼き焦げた香りが懐かしく美味しいものである。

柏餅炙れば遠き母にほふ   海老沢重子



粽(ちまき)


包まれているてふ魅力粽解く  原口雅子

最近また粽を店頭で見かけるようになった。
駅の売店などにあるものは俗に田舎粽とよばれる種類で、笹の葉で餅米を三角に包んであり、新潟産が多いが、北陸から東北にかけては現在でも家庭で作ることがあるとか。

これに対し京都では細く結い上げた粽を数本束ね、上品な感じの菓子になっている。
粽に使われる笹は京都が本場で、特に洛北鞍馬山の熊笹は巾広で美しく、香りもよいので有名。


京粽笹の価を問はれけり   安斎桜碑子


粽は昔、茅で巻いたので茅巻(ちまき)というが、笹、葦、菅なども使用された。
中国でも古代から菰(まこも)の葉で米を包み、灰汁で煮た物を食べている。

粽の材料としては田舎粽系の餅米の他、上新粉製の御所粽、葛粽、羊羹粽、餅粽、餡入り粽、等と種類は多いが、現在ではういろう粽が一般的である。

粽師の古き都に住ひけり  河東碧梧桐

粽の歴史は古いが、特に中国長江中流域では夏至に食べるものとされていた。 それが楚の屈原の故事と相まって、端午の供物として知られることになる。

前三世紀、中国の憂国詩人であった屈原の忌日が端午であることから、屈原が投身したベキラの淵に粽を沈めて霊を弔うというのである。

唐書の『開元天宝遺事』によると、玄宗の代(8世紀前半)には端午に粽や団子を作っていたようだ。
中国ではしん粉をこねて芋のような形にし、葦や菰の葉で包んで十個を一連として茹でたとあるから、現在の御所粽に近い。

また中国では端午に薬草を摘む風習があるが、日本書紀にも聖徳太子が端午に薬狩を進言したという記述が見られる。

このことから端午の風習が日本に伝わったのは奈良朝以前であるのは確かであり、粽が伝わったのも同じ頃であろう。

 

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6月

-水無月の和菓子-

-水羊羹-

 

ひとしきり旅の話や水羊羹  野村蝶子

水羊羹の由来は、霊元天皇(1663即位)が、虎屋や二口屋の羊羹が固いことから、六条の亀屋陸通の柔らかい品を好まれ、水羊羹と呼ばれたことにあるという。
当時の羊羹はまだ蒸し羊羹の時代であったから、多分名古屋の上り羊羹の類いだと思ってよい。

寒天を使用した羊羹は、1589年に太閤秀吉が諸大名を京都の聚落第に招いた際、伏見の鶴屋に作らせたのが初めといわれている。
鶴屋は後に紀州頼宣に従って和歌山に移り、駿河屋と改名した。鶴屋の羊羹はところてんを利用したものだが、伏見で寒天が作られるのは17世紀の半ば。

しかしこの新しい羊羹の製法はなかなか普及せず、江戸で盛んになるのは18世紀に入ってからである。
まして練羊羹の一種である水羊羹が売られるのはずっと後のことで、江戸風練羊羹の代表ともいうべき深川佐賀町の船橋屋織江の1840年の老舗藤村の菓子目録にある29種類の羊羹の名がやっと見い出されるほどである。

これは現在と同じく寒天を使用したものであろう。ただ蕪村の序になる『平安二十歌仙』(1769)には「水羊羹の寒き歯あたり」(随古)とあり、浄瑠璃の『道中亀山噺』に「暑さをすすの水羊羹」とあることからも、水羊羹は関西で生まれた菓子かもしれない。


水羊羹稜きわやかに切られけり  砧女


水羊羹も缶詰ができて便利になった。味覚的にもかなり改良されており夏季、進物用に多く利用されている。しかし菓子は味がよくて取り扱いが容易であればよいというものでもない。

砧女の句のように、角が正しく切られて桜青葉に包まれた水羊羹には洗練された美しさがある。
次の句、ある年配の夫婦像か。よき時代の下町の風景でもあろう。

水羊羹行儀正しき夫婦かな  大場白水朗


              水羊羹写真

-葛桜-

 

葛ざくら東京に帰り来しとおもふ  小坂順子

東京で桜の生葉に包んだ葛饅頭を葛桜と呼ぶようになったのは、大正頃からだろうか。
葛粉そのものは昔からあったが、菓子として使われるのは室町末期。

和歌の神葛饅頭のやうに透き  『柳樽』百二十

和歌三神といえば、衣通姫、柿本人麻呂、山部赤人だが、中でも衣通姫は肌が衣を通して照り輝くほど美しかったといういわば女流歌人の先駆け。

葛饅頭の餡が透いて見えるのは今も昔も変わらない。

江戸の滑稽本『浮世床』の初編上(1812)には「オランダ羊羹本羊羹(中略)、ぎうまん葛餅葛まんじゅ」とあるので、文化文政の頃には葛饅頭も菓子として大いに注目を集めていたことになる。
しかし元禄16年に刊行された雑俳集に次の句が採られているから、葛饅頭も元禄年間にはすでに江戸市中で売られていたに違いない。
江戸時代前半における食文化の発展には瞠目させられるものがあるが、これもそのひとつである。

老の歯も葛まんぢうや恨まれず  『広原海』九(1702)

江戸時代の葛饅頭の製法を『菓子話船橋』(1841)から引くと、葛粉一合に水三号五勺の割合で火にかけてよく練ったものを、水で濡らした手にとり、丸めておいた餡玉を包んで濡れ布巾の上におくと書かれている。
葛は冷めてしまうと固まるので仕事にならないから手早くしなければいけないが、熱いので助手に団扇であおがせるなど苦労したようだ。
現在では練った葛を杓子や竹へらなどで丸めるようにして手に取り、水をくぐらせてから餡玉を包むので熱くはない。
ちょっとコツが分れば誰にでも作れるようになった。

葛饅頭も売り方によって名前が変わり、葛桜もその例だが、かき氷をのせて氷饅頭、水に入れて冷やせば水饅頭となり大垣の名物であった。葛は冷やし過ぎると固くなり、風味も落ちるので、冷水をくぐらす程度でよい。

葛ざくら濡れ葉に氷残りけり  渡辺水巴

この句のように砕氷でも器に敷けば最高のもてなしとなろう。

  葛桜写真

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