|
「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう、こちゃ神奈川急いで保土ヶ谷へ』
と『お江戸日本橋』にも唄われたよねまんじゅうは多数の書物にも 記述が残されています。
ちなみに歌詞の中の鶴と亀というのは、鶴見橋の袂に40軒もあったと書かれるよねまんじゅう
を商った店でも特に名高かった鶴屋と亀屋からきているそうです。
「慶長年間に恵比寿屋某という人が米まんじゅうを作り始めた」(新編武蔵風土記)
「鶴見橋周辺に米まんじゅうを売る店が多く、慶長年間から続いているところもある。」(江戸名所図会)
柴田錬三郎の「眠狂四郎」のシリーズの中にもよねまんじゅうが書かれたシーンがあります。
残念ながら狂四郎は食しておりませんが、彼のファンでしたら「なるほど」と思われることでしょうね。
よねまんじゅうは17世紀後半に浅草待乳山の下で、鶴屋の娘よねが売りはじめたものといわれ、
元禄から享保年間ごろまで江戸の銘菓とされたそうです。
鶴見のよねまんじゅうが、お土産として有名になったのは18世紀に入った頃で、
竹籠に入れて売られていたのですが、この頃のものは塩餡の餅を俵型に小さく作ったものに 焼ごてで焼き目をつけたものと書かれています。
当時、江戸の人々の小旅行として行われた夏の大山詣では特に売れたそうです。
また、そばよりも安くて腹持ちがいいと駕篭かきなどにも喜ばれたとか
旨(うまし)とて人を鶴見の饅頭屋 鶯宿梅(1730)
鬼百合によねまんじゅうの行儀哉 米仲 (1735)
米仲は基角の流れをくむ江戸屋の有力俳人で、神奈川に友人を訪ねた帰途の作。
しかしこれだけ盛んだったよねまんじゅうも、明治5年に鉄道の開通とともに姿を消してしまいます。
このことは、よねまんじゅうが街道往来の人を相手としたものだったことを示しているのです。
そのよねまんじゅうが復活したのは昭和57年。 当店の店主が発起人となり、鶴見の菓子組合で復活させました。
ごく薄い羽二重餅で餡を包んだ小さな俵型の和菓子で、白餡、こし餡、梅餡の3種類です。
そしてまた神奈川名産100選の中にも選ばれており、現代においてもよねまんじゅうが愛されつづけ
ている証であると自負しております。
|