小さな影が、軽い音を立てて星夜に腰を据えた。
舞い降りる様は鐘がリンゴンと音を立て身を振るときのものに似ている。
とても小さい鐘で、それに、夜に紛れる真っ黒だけれど。
「精が出るね」
身を落ち着けたのは彼に比べるととてもとても、ほんとうにとても大きな男の肩だ。
「ただの見廻りだ。何か用か」
そっけなく返すけれど、振り落とす様子も乗られて驚いた様子もない。そんな大きな彼も真っ黒だから、冬に引っ掛かる季節の夜空と混ざってしまっている。
小さな彼は飴玉をコロコロと落とす、そんな声で話す。
「Sランク任務の、何倍分がいい?」
「…? 何の話だ」
大きな彼は眉間に皺を寄せた。怪訝な顔です、と、顔に書いた。
けれど小さな彼は調子を変えず続ける。
「今回は値段の交渉が済んでからだよ。その代わり、言い値で即OKしてあげる」
眉間の渓谷が深くなる。大きな彼は小さな瞳を一度逸らして、上から一巡させてから小さな彼の方向へ戻した。
分厚い唇が一瞬、寄せられ、上下の幅が狭くなる。
「………、3倍、だ」
幅を取り戻した唇の間から、決断が落ちた。小さな彼は尖らせた唇の端を嬉しそうに上げる。
「リアルな数字で嬉しいよ、レヴィ・ア・タン」
それは仏頂面をしている大きな彼の信頼を、容易に汲める量りだったから。
分厚い唇は素直じゃないのでへの字になる。
「談話室で、ボスがお待ちだよ」
「…!!」」
点に近かった瞳がいよいよ点になって、視線だけ向けていたのが、顔ごと小さな彼を振り向いた。
小さな彼がふわりと浮いた。また鐘が鳴るように軽く揺れる。
「礼を云うぞ、マーモン」
「どういたしまして。当然、一括だからね」
聞いているかいないのか、一目散に大きな彼は去っていった。走るを超えて飛ぶ勢いだった。
後姿が小さな彼より小さくなって、やがて建物の中に消える。
「0倍、でも良かったんだけどな、今日は」
根がイイヒトなのにも困りものだと、残されて独り言ちる。
演出代って事にしよう、と小さな彼はその場から発った。方向は先ほど眺めていた方だ。
「...Tanti Auguri a te...」
ふわりゆらりと城内へ向かう鐘のような姿から、歌が零れる。コロンとした丸い声が丸い音符になる。誰も聞いてはいないけれど、小さな彼はとても機嫌が良さそうに続けた。
これから真冬を呼ぶ風も、空気を清ませ、星を招いて祝っている。
例えば、地球が回転する音が聞こえたら、ひとは誰ひとり心安らかに眠ることなど出来ないだろう。
己の鼓動を子守唄にして眠るつむじを見下ろして、ザンザスは思う。そこから流れ出る銀色は月明かりに反射して目に煩い。混じる白色は月明かりを溶かすようにやわい。
いつの間にか、この命もずいぶんおとなしくなったものだ。
だけれど、相も変わらず口を開けば同じようなことを言う。
「アンタがオレの世界だ」
馬鹿馬鹿しい。
そうだ、馬鹿馬鹿しいほど煩わしかった。
馬鹿馬鹿しいほどに、必要だった。
「…いつになりゃ気付くんだ」
口角がほんの少し上がる。薄い豊齢線が彼が笑んだと告げる。
大きな掌が、収まりの良すぎる小さな頭蓋を撫でる。
もし明日突然、地球が回転する音が聞こえるようになったとしても、きっとこの頭は眠る必要が有るときには眠るのだろうと思った。
かわいそうに、中身も小さいだろう頭を撫でる。そうすると身じろぎ、高い鼻筋を胸元へ擦り付けてくる。目を覚ます気配はない。鼻腔をくすぐる淡い体臭と石鹸の匂いに、目蓋が重くなった。
もしも地球が回転する音が聞こえるようになったら、自分は眠れないだろうとザンザスは思う。
重力に逆らわず、目蓋は落ちた。
聞こえるのはスクアーロの鼓動だけ。
それは、世界の鼓動なんかじゃない。
重なる彼自身のそれも、ただのザンザスの鼓動。
―――――生理前の女の子の不機嫌って知ってますか。ミーは知ってます。
それを踏まえて、今日の彼の様子をそんなだと指摘すれば、わかりきっていたけれどフランはナイフの的にされた。
「無神経ポジション獲得するのも簡単じゃないって知ってますかー」
それは無神経なふりをしてあげているのだという、言い訳としてかざされた。けれど、「…なーんて。」というかるーい一言で、フラン自身によって否定される。至極かんたんに、否定を否定出来るとふくませて。そうとるか、とらないかは、相手に委ねる。やさしいいじわる。
談話室のソファは、秘密主義の王子様によって占拠されている。どうゆったり座ろうが3人は掛けられる、その端っこに、クッションを抱えてストライキの様相。反対側の端に座ったら、蹴り落とされた。
秘密主義の王子様は秘密主義であることは秘密にしないらしい。
フランからすれば、瞳の色すら見えないその顔いっぱいに「なにかあります」と書いてあるようにしか見えない。
どうしたものかなと小首を傾げると、細い首の許容量を超える大きなかぶりもののお蔭で身体まで傾きそうになる。慌ててそれを両手で掴んで定位置に戻す。
むちうちになったら訴えてやろう。そう、思いながらテーブルに目を遣る。今日ルッスーリアが作ったお茶請けは、バターリッチなフィナンシェだった。
床に座り込んでそれを素手で5つほど、一気に口へ放り込んだフランは、ギラギラ光る両手をそのままに、立ち上がる。ソファの裏にまわる。かんむりを傾けた金の頭は振り向かない。
「きょーうはなんの日? うふっふー」
べたべたとぬめる指で、隠された目を目隠しした。なんとも抑揚のない歌だった。
もちろん、的に刺さるナイフは増える。
男とはひどく臆病ないきものだったのだな。
と、はらに女を棲まわせたようにスクアーロは思った。
正確には「思ったらしい」とスクアーロは思う。
そんな経験はないのに、記憶はあるのだから、実に気持ちが悪い。
白塗りの大仰な建物へと視線を上げる。何を否定するつもりか、顔を上げられなかったらしい。厚い銀の前髪が視界を半分遮った。まるで世界に霜が下りたよう。この世の何もかもを背負い込んだみたいな面持ちでそこに佇み、門を潜ることを躊躇した。
―――――不意に襲いかかる既視感。
霜を払うようにかぶりを上げた。
どっしりと据わる城を見据える。睨め付ける。
見上げた物は違えど、彼は今までに何度も同じような「経験」を記憶してきている。
主の赤い眼が閉じていた八年の間も、来たる日の主の野望の為ならばと彼はどんな汚泥をも呑み、かぶりもした。出会ってからの半年と変わらず、ギラギラと輝いて見せた。不自然なほどに。永遠にも思えた八年は、振り返ればそう長くはなかった。
人ひとりのキャパシティを超える情報が吐き気を呼ぶ。
砂利を踏み締めると、腱の隙間に剃刀を挟まれているかのように痛んだ。
額に手をやるスクアーロをマーモンが伺う。
即座に手を振り、幻覚の強化を却下した。
一歩引いて見遣っていたベルフェゴールが、わざとらしく肩を上下させて嘆息のジェスチャーをする。相槌の代わりにマーモンが鼻をすんと鳴らした。スクアーロは視線を尖らせ、前しか見ていない。
捻じ込まれた「記憶」にあるより早急過ぎるボンゴレ十代目の継承式。主の出欠の返答を聞かず、その場へ赴くことをスクアーロは宣言した。鮫に喰い殺されかけれた傷は勿論そう簡単に癒える筈もなく、立っているのもやっとの状態だというのに。
けれど、彼は傷と包帯やギブス、松葉杖などの治療具と補助具だけをマーモンの幻術で隠し、己の足でここに立っている。
涼しい顔とは裏腹に、よく見るとほんの僅かばかり震えているのが見てとれる背中は、触れてみれば汗でぐちゃぐちゃなのではないかとベルフェゴールは思う。
金の前髪の下から、スクアーロの横顔を覗く。
まぼろしの「記憶」では、スクアーロは主の背中を見ていた。
それを見遣った「記憶」を、ベルフェゴールは持っている。
今、主はここにはいない。
表面上の傷は多くは残っていないものの、未だ内腑の癒えきらぬザンザスへ、畳み掛けるように継承式の開催が報らされた。彼は予定調和のため唇を開くことすら億劫なように見えた。
無理矢理捩じ込まれた「記憶」を、スクアーロが真っ先に否定したさまも、ベルフェゴールは同じ角度で見ていた。
色も失せた彼の表情をもう一度覗く。銀の瞳だけは色を失っては見えない。
既視感を、一歩足を踏み出すことでスクアーロは打ち消す。
ベルフェゴールもそれに倣う。
笑い飛ばすように、歯を剥いた。
男とはひどく臆病ないきものだったんだなとは、スクアーロは思ったことがまだない。
願わくば、一度も思わずにいたい。
術で形作られているだけのルッスーリアとレヴィは、張り付かせた表情を変えなかった。
今彼らがどんな顔をしているか、マーモンにはわからなかったから。
「ええー。こんなの蜂蜜じゃない」
蜂蜜のような髪に輪を光らせて、ベルフェゴールは唇を尖らせた。
彼の前には2センチ近くの厚みにふかふかと焼き上がった、日本で言うところのホットケーキが小山になっている。そこへまわしかければいいと、山本が持ってきたプラスチックボトルに入った蜂蜜がお気に召さないとか。角切りのバターは溶け出して、今にも小山のてっぺんから流れ落ちそうだ。
「なんで? 蜂蜜だぜ? …開け方わかんないとか?」
哺乳瓶にも似た、いかにも庶民じみた蜂蜜の保存容器を初めて見たのかと思った山本は、オレンジのキャップを回して蓋を開けて見せる。ボトルの胴を押すと細い口からあふれた蜜が表面張力と粘度で盛り上がる。琥珀みたいにきらりと光った。
「はァ? んなわけないし、馬鹿にしてんの?」
「そんなこと言われてもなあ…」
困り果てた山本がボトルの裏を見る。台所に常備されていた、近所のスーパーで購入してきたと思われるそれには、品名の欄に「蜂蜜」、原材料の欄に「蜂蜜(アカシア、レンゲ、クローバー)」と書かれている。何を疑えば良いのかさっぱりわからない。
「んー…。こまったのな」
最後には指に出して舐めてみた。甘みも、鼻に抜ける独特の香りも、若干の粘り気も、舌の上で消えるさまも、蜂蜜以外のなんだと思えばいいのか。ああ、バターが溶けて流れて消えてしまった。山本は顔にお手上げだと書いてしまう。
それを見ていたベルフェゴールが溜息を落とした。
「あーもう。しかたねーからそれ使ってやるよ。ほら、よこせよ」
ようやく差し出された手にボトルを渡すと、それをまっ逆さまにひっくり返した。使い切る気かと思う加減でボトルの胴を絞る。
「こんなんさー、こーんなゆるゆるじゃ、べったべたになるだけで面白くないし、」
あんかけ料理かというほど、ホットケーキをどばどばと蜂蜜まみれにしながら言う。
「ぐっちゃぐちゃの、ぬっるぬるのー、てかてかで……、 あーー…。おいしそうかも…?」
浸かるほど蜂蜜にまみれたホットケーキを見下ろして、小首をかしげる。さらさらと金の前髪が流れて、王冠が傾いた。
ナイフは使わず、フォークひとつで思い切り刺され、持ち上げられたホットケーキを、一口で半分たべてしまう。残った半分が、丁度歯を剥いて笑う時の彼の口のかたちに似ている。もぐもぐもぐとわざとらしいほどの咀嚼のあと、すべて呑んで口の中を空っぽにした金色の王子様が言った。
「ねぇ、これお土産にもう一個ちょうだい」
のちに聞いた話だが、イタリアの蜂蜜は白く結晶化しやすく、ガラス瓶に入ったそれは、蓋をせずまっさかさまにひっくり返しても落ちてくることはほとんどないのだという。
電話口で聞くにしたら、受話音量を最小にしても煩い声が、聞いていないことまで説明してくれた。赤い花や柑橘類の花から良く摂れるらしいそれらは、「べたべたもするけど、とにかくざりざりする」。らしい。
わざわざスーパーへ買いに行った新品の蜂蜜は、美味しく召し上がって頂けただろうか。
松葉杖をつく音も、控えめなノックの音も。
ドアノブが捻られた音も、蝶番が軋む音も、彼の気配さえも。
聞こえただろうに。
市松模様の床に足を踏み入れ、スクアーロは眼を眇めた。そこからそれ以上歩みを進められなくなってしまう。ロッキングチェアに斜めに腰掛けて夕空を見遣る赤い眼は、何も映していない。窓ガラスを透かして外を見ることすら出来ていないかもしれない。
この部屋に足を踏み入れた時、「生き恥を晒しやがって」と言われたそうだ。
「俺を哀れみ満足したか」と、言われたそうだ。
燃えるように赤い夕焼けに染まる真っ赤な部屋で、それでも色をうずめられず怒りに燃える赤は、それはそれは鮮やかで、美しくて。
その赤に焚きつけられるように、必死に意味が解らないことばかり口走っていた。胸を掻き毟りたい気持ちを声にした。何か言葉にしないと伝えられないと知って紡いだ言葉は、ちっともちゃんとした形になどなっていなかった。
ただ、何も失っていないと、スクアーロはそれだけ確信したのを覚えている。
―――――と、そう「知っている」。
与えられた「記憶」の中の自分はあまりにも自分のようで、気味が悪い。
叫んで、縋って、ついには殴って、泣き喚いて、どうしようもなく愛して、もう一度誓っていた。
もう一度誓わせてくれと乞うていた。
髪を切るさまも、百番勝負を終えて剣帝を名乗るさまも、脳裏に焼きついている。気味が悪い、自分のようなもの。
けれど、スクアーロは何があろうが己が見紛うことがないものを、この世にたったひとつ知っている。それだけは、間違いようがないと知っている。
記憶の中で彼と対峙するのは、いつだって誰と見紛うはずもない、ザンザスだった。
だからこそスクアーロは、今、己が同じ事をしても、何の意味もないだろう事を悟っていた。
執務室に足を踏み入れてからしばらくその入り口で立ち尽くしていたスクアーロは、体勢を少しだけ、前のめりにした。
松葉杖を差し出す。先端に着いているゴムが床に触れ、摩擦を起こし、彼を支える。彼の足は音をさせなかった。歩くたびにカシャンカシャンと、松葉杖だけが不自然な音をさせた。腰の下まで覆う長い、長いままの髪が、前に進もうとするたびに背中から流れて、視界を塞ぐ、狭くする。
スクアーロの長い影がザンザスを覆って、初めて赤い眼が上がる。うろんなその視線でだって、赤は失われない。彼も十年の記憶を持っている。話さなくたって、自分たちが「記憶」の中で今、何を会話したのか、はっきりと脳裏に浮かぶ。
視線を絡ませたザンザスが、うっそりと笑んだ。
脳裏に浮かぶ彼はスクアーロを殴り、瞳を燃やし、激昂していたが、とうとう口にしなかった言葉がある。
今のザンザスは勿論その言葉を思い浮かべた「記憶」を持っているし、その時のスクアーロも珍しく彼の言わんとしていることを間違わず解っていたと思う。
「さぁ、俺を見限るがいい」と、ザンザスは思っていた。
何度目のことだろうか、彼が己を捨てることを、ザンザスは期待していた。
そうすればきっと、やっと、スクアーロを得れた。理解できた。
そうして失っただろう。
他の一切の言葉を投げ付けて、この言葉だけ言わずに、ザンザスは待った。彼が今度こそ終いを告げると思って、薄い唇から眼が離せないまま、待っていた。
だが、スクアーロがザンザスを見限ることは、終ぞなかった。
そして「記憶」の中では、それから十年の時が流れていた。
十八になった沢田綱吉は何の滞りもなく十代目ドン・ボンゴレを継承したのだそうだ。
現役を退いて程なく老衰と病にじわりじわりと蝕まれた九代目はその命を終え、ザンザスは沢田綱吉の率いるボンゴレを守った。
スクアーロの髪はもう一度伸びていた。
嫌でも解るだろう。彼らがその夢を叶えることはなかった。
真反対の表情をして、やはりザンザスは思う、「さぁ、俺を見限るがいい」と。
記憶の中で二人は十年という月日を初めて共に過ごし、互いに変わり、互いが互いを変えていた。
それは、「今この時だ」という、失う為のきっかけを失い、どろりと底暗く流れる時の中で、繋いでしまった手を離せず済し崩し的に過ごしているように、ザンザスには見えた。
それはそうだろう、惜しかろう、察せないわけではない。
だが、有無を言わさず捻じ込まれたのは蓄積された十年の記憶だ。昨日と今日程度の落差はきっかけにならずとも、十年の重さはとばりを落とすだろう。天秤が傾いて皿が地に着いてしまうだろう。与えられた経験を伴わない「記憶」の中のスクアーロが告げなかった別れを、今度こそ聞くことになるだろう。
それでいい。なんて好都合なことだろうか。
詰らなくても、叫ばなくても、言いたかったことは既に伝わっている。
十年毎日猜疑心に苛まれなくて済む。
十年、毎日脅えなくても済む。
視線が絡めば銀の眼はきちんと汲む。
言葉にしなくても、言葉にしないからなおさら、間違いないと主が告げていると理解した。スクアーロの眉間が深く翳り、きつく結ばれた唇が開く。包帯が横切る顔が俯いた。
「もう、いらねぇよ、…何も」
ぽつりと落ちた声に、ザンザスは更に口角を引き上げた。
「何も欲しくねぇ、何も期待しねぇ、何も待たねぇ、何も好きじゃない何も嫌いじゃない、何もいらない…なにも…もう、」
長い長い銀糸を引いて、頭が上がる。予想していなかった、泣きそうな銀色とぶつかる。
薄い唇が、一度息を吸って引き結ばれた。そのまま、もう一度綻んだ。
「―――――アンタ以外、…なにも! …あんた程は…ッ」
澱んだ赤が冴えて、見開かれる。
やっと焦点が合ったように、スクアーロの下唇が赤いのに気が付く。濃い歯型が刻まれて震えている。
思わずザンザスはそれに手を伸ばした。親指が淡く触れて、なぞる。ぬるい体温と、かさついてささくれた唇、それに載る湿り気が伝わる。まるで何十年かぶりに触れたような、そんな心地がした。
少し、ガラス球みたいな眼を逡巡させ、結局その手に己の手を重ねることはなく、スクアーロが続ける。
引っ掛かって詰まったような声が落ちた。
「…っ…じゃあ、オレ、…行ってくるなぁ」
松葉杖を直角にしただけで、二人の温度は離れた。脇に力を入れると更に距離は遠くなる。ゆっくりと主へ背を向けた。杖をつかないと歩けない状態の所為だけとは思えないほど、彼の歩みは遅い。滝のようにその背を流れる髪が揺れるさまを、ずっとザンザスは目で追っていた。
「記憶」を違え、最後までその背にザンザスが何かを言うことはなかった。
十八年の時を経て、スクアーロが彼を見限ることなど、やはりなかった。
遠慮がちな音を立てて、厚いドアが閉まった。
耳を澄ましているのに、ドアの向こうで松葉杖をつく音が聞こえない。
聞こえるはずのない音が聞こえる。膝をつく音が、銀の髪が床に流れ、さらさらと広がる音が、聞こえた気がした。
彼らが共に過ごした時間は、まだ一年にも満たない。