ESSAY


   常世と神仙境
           
                       千田 稔

 常世(トコヨ)が仙人の住むといういわゆる神仙境と同義とするのは、よく知られているように『日本書紀』垂仁天皇崩後条の「常世国は、神仙の秘区、俗の臻(いた)らむ所に非ず」という一節である。しかし「トコヨ」という和語が神仙境の意味をあらわすまでから、日本列島には神仙境とは別のイメージをもっていたのであろうか。
 「トコ」に「常」という漢字を与えたのであるが、『広辞苑』には「とこ(常)」として「いつも変らない、永遠であるの意を表す語」とある。『岩波古語辞典』では「とこ(常)」の説明として、「床」と同根として原義は「土台の意であったと思われる」とある。同辞典の「とこしへ(永久・不変)」の項では「床石(とこし)上(へ)」の意と解釈している。この説が妥当とすべきかは、なお検討を加えねばならないが、ここではそれに従うとすれば「トコ(常)」とは不動なるものということになろう。「ヨ(世)」に対する「古語辞典」の解釈は「ヨ(節)」と同根か、という想定を示している。たしかに「節」は、『竹取物語』に「ふしをへだてて節(よ)ごとに」という『広辞苑』の引用例があるので、「ヨ(世)」は人の一生のことをいうものと解することはできる。とすれば、「常世」(トコヨ)とは、不動なる人生、つまりは「永遠の生」をいうとしてよいと思われる。
 しかし単純に右のように「とこよ」という言葉の意味を解釈してよいかどうか疑問の余地が残る。折口信夫の「妣が国へ・常世へ―異郷意識の起伏―」という論考に「とこよの意義」という一節がある。「とこよ」については「絶対・恒常或は不変の意」としているが「よ」の意義は幾度かの変化を経て、ことごとくその過程を含んできたために「とこよ」の内容が極めて複雑なものになったという。「よ」について折口は次のように説く。      
 「よ」という語の古い意義は米あるいは殻物をさしたもので、後には米の稔りを表すようになった。「とし」という語が米・殻物の義から出て「年」を表すようになったと見る方が正しいのと同じように、これと同義語の「よ」が齢・世などという義を分化したものと見られる。
 「よ」という原義について折口の解釈を『古語辞典』には見出せないが、しかしすでにみたように「節」というのは「季節」という熟語からもおのずからしることができるように、一定の「月日」を区切ることばであるから、「年」に「よ」のことばの源流を求めてよいのではないかと、折口説に誘われる。
 だから折口は「とこよ」は、古くは長寿者をさすことばであって、長寿の国から出たことばと説くのは逆であるという。
 「常世」(トコヨ)ということばの意義についての詮索は右のような見通しをえることができたとして、日本列島に中国あるいは朝鮮半島から神仙思想が伝わる以前に「常世」という長寿を希求する思想があったかという、小稿における冒頭の問題提起にどのような答えを準備すべきであろうか。
 例えば次の万葉歌の「常世」(原文「常呼」)は、神仙の住む楽土のイメージではない。

  大伴坂上郎女、跡見庄(とみのたどころ)より、宅(いへ)に留(とど)まれる女子(むすめ)の大嬢(おほいらつめ)に賜ふ歌一首 并に短歌
常世にと わが行かなくに 小(を)金(かな)門(と)に もの悲しらに おもへりし わが児の刀自(とじ)を ぬばたまの 夜昼といとはず 思ふにし わが身は痩(や)せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋(こ)ひば 古郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ(巻四―七二三)(短歌略)

大伴坂上郎女が跡見庄に滞在したときに自宅にいる娘を恋しく思う歌であるが、「常世に私が行くというのではないのに門の前で悲しそうに思っていたわが娘」とよまれていて、「常世」に行くことは悲しいところにおもむくのだという意識があった様子がくみとれる。おそらくこの場合の「常世」とは、帰ることのできない、遠い異界であることを連想させる。仙人の住む神仙境には右の万葉歌に歌われたような悲しみの情感がともなわない。
 「常世」を歌った万葉歌の中では、右にあげた一首を除いては、そのような悲壮感をともなわない。しかし「異界」としての「常世」は、どの歌にもモチーフのちがいがあるとしてもよみこまれていることは、いまさらいうまでもない。ただ次の一首は「常世」の原型をとどめているのではないかと思われる。

  大伴宿禰三依 離(わか)れてまた逢ふを歓(よろ)ぶる歌一首
吾妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若(を)ちましにけり(巻四―六五〇)

大伴三依という官人が久しぶりに会った女性に「変若ちましにけり」という印象をよんでいるが、それは常世の国に住んでいたからだろうかという。「変若(を)ち」とは若返りのことをいうが、本来神仙思想は不老不死であっても若返りの観念は含まれない。とすれば常世の国が「変若」をもたらすというのは、むしろ日本列島で想念された「常世」の一つの特質ではなかったかという思いをいだかせる。
 「変若ち」と関連してニコライ・ネフスキーや折口信夫、石田英一郎が論をなし、さらに和田萃もすでに言及しているので、ここではそれらについてくりかえす必要はないであろう。

   常世の所在

 「常世」が日本列島において次第に神仙思想とつながり、先にみたように「神仙の秘区」という解釈を付されるにいたるのであるが、もとをさかのぼると「常世」は日本列島に住む人々にとってどこにあるとみられていたのであろうか。
 最も通説的な考え方に立てば「常世」は海のかなたにあるとされてきたし、それに見合う民俗例は数多くある。しばしばとりあげられる沖縄・奄美のニライカナイやその類例に含まれる、海のかなたの神々の居処などは「常世」に関わるものであろう。
 海に関わる「常世」の観念は、古く海洋民たちによって広範囲にアジア各地で共有されたと想像でき、それが「ニライカナイ」とか「トコヨ」というローカルな異界観念を生みだしていったが、後に中国から強い文化伝播のベクトルが東アジアの各地に向かったとき神仙思想につつまれかつ習合していったことも容易に想像できる。
 大伴旅人がよんだ肥前国松浦川での歌などは、冒頭の歌に付された「松浦川に遊ぶ序」は、『遊仙窟』などを参照して綴られたと指摘されていることから、神仙思想の影響が強く及んでいる。

  松浦の仙媛(やまひめ)の歌に和ふる一首
君を待つ松浦の浦の娘子(をとめ)らは常世の国の天(あま)娘子(をとめ)かも(巻五―八六五)

歌の素材となった風景は海浜であり、歌意から知られるように「常世」=「神仙境」は海のかなたに求められている。同様の事例はわれわれになじみ深い浦島太郎の原像を歌った「水江の浦島の子を詠める一首 并に短歌」(巻九―一七四〇・一七四一)にみる「常世べ」と「海若(わたつみ)の神の宮」をあげることができる。ただし細部にこの浦島伝説をとりあげると単に海のかなたに「常世」が存在したのではなく海底を意識されていることは注意しておく必要があろう。つまり「海若の神の宮」は記紀神の海幸・山幸神話で語られる海底の宮のことに似ている。だから「海若の神の宮」は海のかなたの「常世」というだけではなく海底の宮殿というイメージとしてとらえられる。だから「常世」といっても各地において様々な意味的変差をもって語られていたのであるが、総じていえることは海洋民あるいは漁撈民によって伝承・伝播された文化である。
 ところが、このように固定化して「常世」と海の関係をとらえてしまうと、山間部に「常世」はなかったのかという疑問がわく。例えば古代の吉野(現在の奈良県吉野郡)は、神仙境に擬せられていたことは『懐風藻』の詩篇によって知られる。だが、吉野の地が山岳地帯であるから盆地からみて異界的空間として古代の人々が感じとったようにも思われるが、私は紀ノ川からさかのぼって吉野に入った魚撈民が神仙思想をもたらしたのではないかと思われる。その理由らしきことをやはり万葉歌に求めてみたい。

  仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌(三首の中)
あられふり吉志美が嶽を険(さが)しみと草とりはなち妹が手を取る
 右の一首は、或は云はく、吉野の人味稲(うましね)の柘枝(つみのえ)仙媛(やまひめ)に與へし歌そといへり。但し柘枝伝を見るに、この歌あることなし(巻三―三八五)

三首のうち一首のみをあげるにとどめたが、味稲という人物は吉野の川に梁(やな)をしつらえたところ柘(つみ)(桑の木の一種)が流れてきて、それを拾いあげたところ女性となって味稲と共に過ごしたが、後に天女となって飛び去ったという吉野地方に伝わった民話をもとにした歌である。ここにおいて味稲という男性は梁を作ったとあるので、本来は魚撈民という役割をになっていたのではないだろうか。吉野が「常世」=神仙境と位置づけられた過程を右のように憶測すればやはり本来の「常世」のありかは海に関わることをもって第一義とすべきであろう。
 『日本書紀』神代上にスクナヒコナミコトはオホナムチミコトとの国作りの後、熊野の御崎から「常世郷」あるいは淡島(鳥取県か)で栗茎にのって、はじかれて「常世郷」に至ったとあるのも、いずれも海上他界としての「常世」である。また『日本書紀』の神武東征伝承にミケイリノノミコト(神武の兄とする)は、熊野で浪の秀(ほ)をふみ「常世郷」に向かったとある。同じく『日本書紀』垂仁天皇二十五年条にはアマテラスの鎮座する伊勢の地を「常世の浪の重浪帰する国なり」と記している。さらにすでにみた同天皇崩後年条における田道間(たぢま)守(もり)が出むいた常世国は「遠くより絶域に往(まか)る。萬里浪を踏みて遙に弱水を渡る」ところにあったと伝える。この表現からも海のはるかかなたの地に常世国があったというイメージをいだかせる。

   地図に書かれた「常世」の島

 日本列島を描いた古式の地図として行基図(あるいは行基式日本図)はよく知られている。この行基図は、いく度となく転写され、変容されて近世に至るまで伝えられていくが、その一系列の行基図として十四世紀初頭に作図されたと推定されている「金沢文庫蔵日本図」がある。この「金沢文庫蔵日本図」は国土を龍がとりかこむという特異な表現が一つの特色であるが、それとともに、龍の図像の外側に地理的実体のない二つの異域が表現されている。一つは「羅刹(らせつ)国」、もう一つは「雁道」である。前者の「羅刹国」については、ここでは詳細な説明を省略するが『今昔物語集』巻五第一話「僧迦羅・五百の商人、共に羅刹国に至れる語」を典拠にしていることは指摘されている。ところが近年今まで不明とされてきた「雁道」をめぐって、二、三の論考が報告された。「雁道」についての表記の全文は「雁道 雖有城非人」とあって「金沢文庫蔵日本図」では日本国土の北方に陸地の一部として描かれている。地図作成史の視点から秋岡武次郎は 「わが国では古くから雁は夏は北方の常盤(磐)島に住むと考えられていたが、この常盤島と雁道の関係は不明であるとして、明確な結論を保留した。「常盤(磐)島」の意味が判然としないのであるが、おそらく古来雁の故郷と伝承されている「常世(島)」のことであろう。「雁道」ということばの意味が不明であるがおそらく雁が渡ってくる道筋にあたると空想された地名であるとみられる。この「雁道」についての一説は応地利明によって提起された。「羅刹国」同様『今昔物語集』に典拠があるとし、巻三第十一話「釈種、龍王の聟と成れる語」の内容が地図上の「雁道 雖有城非人」にほぼ合致するとした。説話の内容と地図上の類似点は釈種を乗せた大雁が未知の土地に降り立つこと、そこで「龍の娘」が「人の形」に姿を変えて仲むつまじい関係になる、つまり「龍の娘」は「人に非ず」に相当すること、さらに釈種は国王を殺し「龍女」を后とするため「龍王の宮殿」と本国とを往還するのであるが、その「龍王の宮殿」を「城」とみなしうることである。
 以上応地説の概容を示すにとどまったが、常世の鳥とされる雁と、常世という楽土を示す「龍王の宮殿」(龍宮)は、まさに地図に表現された「常世」であった。
 「龍王の宮殿」は「龍宮」のことであるが、「龍宮」という漢語とその発想は仏典に由来するので、「常世」の鳥である雁が「龍宮」と結びつくに至るには、神仙思想的な「常世」の概念が仏教化したことによるものである。同様に浦島太郎の「竜宮城」も、『日本書紀』雄略天皇二十二年条に浦島子が女に化した大亀とともに海に入り蓬莱山(とこよのくに)に至ったとあるように、原型の神仙境的楽土が仏教的な改変を経たものである。同様の事例は先にふれた熊野から常世に渡ったという神武紀などの伝承であるが、これも後に、観世音菩薩の補陀落渡海の信仰に変化したことにみることができる。さらに今一つの例をあげるとすれば、池の中に三神山などの神仙の住む島を配した庭の原型が、仏教寺院の中で浄土の庭として造園されていったことであろう。

   常世=神仙境に見立てる

 「藤原宮の役(えだち)の民の作れる歌」(巻一―五〇)に「寄り巨勢道(こせじ)より わが国は 常世にならむ 図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と……」とよまれたように国土が「常世」であろうと文様を背に描いた神々しき亀が新しい時代として現れてくるという。ここにおいては亀は背に蓬莱山を負うという中国の故事をふまえていて、「常世」は神仙境そのものとみなされる。
 現実の藤原宮は耳成山、香久山、畝傍山の三山をとりこんで造営されたもので、中国の東方に浮かぶとされた三神山を見立てたものであった。藤原宮以後平城宮も元明女帝の遷都詔にいうように三山を以て鎮としたのも、宮そのものが神仙境とみなす認識が継承され、さらには平安宮も舟岡山、双ヶ丘、神楽岡が三山としたという説も認めてよいであろう。ただし、古代の宮(あるいは京全体をも含めてよいと思われるか)を三神山からなる神仙境と見立てたとしても、「海」ではなかった。三山を神仙境とみなすシンボルとしながらも宮都は「天」であった。というのは畿外をあらわす鄙に冠せられる枕詞は「天離(ざか)る」であるからだ。「海」と「天」は「アマ」と音を共通するから「天」は「海」のことでもあると言い切ってしまうことはできない。なぜならば、元明女帝の平城遷都詔には、三山のことと、さらに「四神図に叶う」地であることを述べている。青龍・朱雀・白虎・玄武の四神は『淮南子』天文篇、『史記』天宮書にあるように天空世界の四方を守護する神だからである。
 さて、右に記したように日本古代の宮都を、三神山を配置した神仙境=常世と見立てながらも、場所としての認識は「天」であった。それは「天皇」号に関係すると考えられる。「天皇」号は道教の最高神で宇宙をつかさどる「天皇大帝」に由来するという説に従うと、「天皇」は天帝として位置づけられていたということになる。日本の宮都の平面形は中国のそれをモデルにしたとみてよいが、中国の場合、皇帝は天帝の命をうけた天子が地上を治めるのであって都城は天空世界を模して地上に実現したものである。そのような観点から日本の宮都と中国の都城の思想的背景を探るとすれば、前者は観念的に「天」そのものであるべき存在であったのに対し、中国の都城は天上界の天帝の居処を地上にコピーしたものというちがいを指摘することができる。
 
(参考文献)
「折口信夫全集」(第一巻、第二巻)中央公論社、一九七五年。
柳田国男『海上の道』岩波書店、一九七八年。
和田萃「古代日本における鏡と神仙思想」(森浩一編『鏡』日本古代文化の探求)社会思想社、一九七八年。
秋岡武次郎『日本地図作成史』鹿島研究所出版会、一九七一年。
応地利明『絵地図の世界像』岩波書店、一九九六年。
福永光司『道教と日本文化』人文書院、一九八二年。



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