spirit of language


言葉と心の散歩道   さあ、元気をだそう!

●涙をぬぐえ 胸を張れ 万策ここに尽きるとも 天あり地あり未来あり 君杯をあげたまえ いざわが友よ まず一献を (原詩 中垣内氏「一献歌」。歌詞の由来などは一切省略しますが私が一部改作しています。自分の節で真夜中に歌って下さい。きっと元気が出ますよ。私も原曲は知りません。)


●「逃げることで安心や希望を少しでも自分の手元に引き寄せておけたなら、死ぬまでは至りません」
(安積遊歩。安積さんの活動が日本の社会のある 面を救う予感がする。君よ、辛ければ逃げろよ。生命なき秩序より、生命ある無秩序を愛せ。原則主義の冷徹。その不自由を嗤え、そして葬れ)。

●「私たちは、どんなにすばらしい経験を積み重ねても、いわば常にスタートラインにいるものだから、油断などできない。やはり、いつもなにほどかの緊張感をもっていなければならないのではあるまいか。」(興福寺貫主 多川俊映)

●「世は口を開けば『こころの時代』という。しかし、流動してやまない心をそのままにしておいて、何が生まれるというのだろうか。形のないものと形あるものー、その二つで一つなのだということに、思いを深めたいと思う」
(興福寺貫主 多川俊映)心をとめる形あるものがあってはじめて心がみえるというのだ。心のみならず、人間の行為すべてが空間という形のなかでしか、具体性をもたない。

● 今 東光 『闘鶏』より。河内人が夢にみた、河内シャモをつくったという。こんな人間が日本にはすくなくなった。

「河内軍鶏を見たほどの人は、一見して誰にでもわかるほど威風あたりを払った猛将の風貌を備えている。やたらと神経質に動き廻ったりしないで、巍然(きぜん)として直立している。彼が直立して睥睨(へいげい)しているのは、あたかも彫り物か何かのようで、時たま眸(ひとみ)を動かすので生きているのが解るほど、それほど彼はどっしりしている。」


『興福』120号で、興福寺貫主多川俊映氏は法華経「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」について説いている。「常不軽」とは「この人は、僧尼であろうが、在俗の信徒であろうが、誰彼なしに礼拝し、『私は深く、あなた方を敬います。少しも軽くみたり、あなどったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩の道を歩んでおり、やがて仏となるからです』とほめたたえる。……誰もが仏に通底していることに大きく注目すれば、人をみくびることなぞ、およそできるものではない。」