姜尚中さん
東京大学大学院教授
【プロフィール】
なんじ復讐(ふくしゅう)することなかれ。復讐するは我にあり。ひとがひとを裁くことで思い起こ
されるのは、聖書のこの言葉である。裁きを通じて応報的な正義を実現しようとした古代では、血生
臭い復讐劇が後を絶たず、聖書は神という超越的な「第三者」に裁きの主権を委ねることで、「罪」
を憎んで「ひと」を憎まず、当事者間の「和解」の可能性を確保しようとしたのかもしれない。
「可死の神」として国家にひとを裁く至高の権限を委ねられた近代以後、個人の権利や義務、その刑
事責任の判定は、国家の定めた法律による裁判という形態をとるようになった。主権者としての国民
が、国家の法律を制定する主体であり、その結果、自分たちがつくったルールに自分たちが従うとい
う立憲的な民主主義の原則を通じてひとならぬ法がひとを裁くという「擬制」ができあがったのであ
る。
だが、交戦権と死刑の宣告の権限を独占する主権国家は、そのような原則を、個人の人権を保障する
ためにではなく、むしろそうした絶対権を確保し、国家への忠誠と畏怖を広げるテコに利用してきた
ことがある。二〇世紀の「国家悪」の数々の悲劇のひとつは、そのような「可死の神」によって引き
起こされ、また今もそれが続いているのである。
こうした悲劇は日本のような「先進国」にまったく無縁であるというわけではない。そう思うのは、
死刑制度の存廃をめぐる討論番組で、ある検察OBが次のように嘯(うそぶ)いていたからである。
「えん罪は社会秩序の維持に不可避的にともなう必要悪である」。
この驚くべき「ホンネ」をきかさ
れたとき、わたしはそうしたことが実際にこれまで起こっていたのではないかと推測せざるをえな
かった。人間のつくった制度に完璧なものはない。死刑制度は人間がつくったものだ。だからえん罪
のような「汚点」があっても、それは必要悪とみなせばいい。なんというおぞましい虚無的な三段論
法であろう。このような冷笑的なニヒリズムが「法の番人」を支配しているとすれば、公平な裁判所
で公正な公開の審理を受ける平等の権利が永久に奪われてしまう可能性があることは明らかである。
個人の権利や義務、刑事責任の決定のうち、もっとも過酷なそれは生命という至高の「財産」が奪わ
れる場合だろう。したがって、この権利を一貫して譲るためには、審理による決定に抗弁できる当の
個人の権利が確保されていなければならない。つまり、死刑制度の存続は、第10条の精神とは相容れ
ないのだ。とすれば、この第10条の定める権利を確保していくだめには、それは死刑制度の撤廃と切
り離して考えられないのではないかと思う。極端なケースこそ、制度の本質をもっとも照らし出す、
この格率をあらためて反芻(はんすう)したい。
(この原稿は、アムネスティ・インターナショナル日本支部編 「はじめてよむ世界人権宣言」小学館 1998年
に掲載のものです。
)
(2007.09.20 up)