白柳 誠一さん
カトリック枢機卿
【プロフィール】
20世紀から21世紀にかけて、私たち人類は、人のいのちをないがしろにする大きな戦争や民族間の紛争を経験してきました。武器の製造という、いのちを蝕む文化・文明によって多くの人命が失われてきたのです。
そして、人間は自由を履き違え、欲望のままに生きる競争社会ができ上がってしまいました。競争社会というのは相手を蹴落とすものであって、それは相手を蔑むといった「死の文化」につながるものです。
私たちの生きている社会は「死の文化が支配している社会」と言っても過言ではないのではないでしょうか。しかしまた、同時に「いのちを大切にする文化」が芽生えつつあるのも事実だと思います。個人やグループ、国としてもそういう運動が展開されつつあります。
その一環として死刑の問題も捉えることができると思います。
私たち信仰を持つ者のほとんどの考えと言っていいと思いますが、少なくともキリスト教には、
「人間のいのちというものは神の賜物である。神が創造したものである。人間はいのちを自由に侵すことができない。人間は生まれてから死ぬまでの間、あらゆる可能性を持っている」
という考えがあります。
これに対して自殺・堕胎・安楽死という、外部からの意思の力で人を殺す――そこには、ナチスにも匹敵するかのような「役に立たない人間は殺す」という考えにまで通じるという問題がありますが、一方では「いのちを守ろう」という運動もあります。私たちは今、このような葛藤の中に生きているのです。
そこで非常に大切な要素として、人間は「理性と意思」「考える力」「比較して判断し選ぶ力」を持っています。宗教的観点から死刑の問題を考えるとき、私たちは更生ということを信じます。死刑が唯一の合法的な防御の手段だとはいえないと思うのです。
終身刑は罪の償いが行われる可能性があります。贖罪の気持ちが現れるとともに更生する気持ちが出てくる可能性が充分にあるということです。
終身刑で一番に大きな問題は、被害者遺族・関係者の気持ちの問題でしょう。しかし、かれらも犯罪者が死刑になったことによっては決して癒されはしない。癒される唯一の方法は、相手(犯人)をゆるすことです。
例えば、9・11のときに「夫を亡くした辛さを報復によって晴らしたくない。復讐することで誰かがまた亡くなる、ということに自分は耐えられない」という話がありました。
また先日の新聞の記事ですが、フランスで10歳の女の子が殺された事件で、以前から死刑廃止の気持ちを持っていた女の子の父親が、「まだ死刑に反対ですか?」という記者からの質問に、「もちろんそうです」と答えています。フランスは死刑を廃止していますが、事件が起きると死刑復活の動きが出る。その中での発言です。
さらに、「なぜ死刑に反対なのか?」という記者からの質問に対して、
「娘は優しい子でした。“死”という重すぎる犠牲をはらった結果が、さらにもう一つの“死”だとしたら娘のためにも受け入れがたい。以前なら死刑になっている若者(犯人)が仮釈放なしの30年という判決で生きていく。私はフランスが死刑を廃止したことに感謝したい」
と答えていました。すばらしいと感じました。
例えば私たちは、先の大戦中に日本軍によって家族を目の前で殺された人たちに会います。フィリピンでは「私たちは決してそのことを忘れない。でもゆるす。ゆるすことによって自分たちが救われるからです」と言われました。
神から与えられたいのち――医学などの進歩でいのちが大切にされる半面、堕胎や合法的な安楽死など、自分のいのちを自分一人の所有物かのように自由にできるという考えが広がっています。しかし、宗教的な考えで言えば、人間のいのちは神から与えられ、私たちは造られたものです。すべての人間は助け合い、愛し合い、共同体を作って生きるよう求められているのです。罪を犯した人に対しても同じです。その人が罪を償ったのであれば、ゆるし、受け入れる。人間のいのちを、あたかも人間の所有物のように左右させることはしない。そのためすべての人々が助け合えば、世界全体がきっと幸福になるでしょう。
非常に難しいのは、この宗教的な情操というものが今の世の中で欠けてきているということです。人間の価値を物質的に判断している・・・こういうところに死刑問題の解決の難しさがあるのだと思います。
宗教者が対話によって協力して、「死の文化」を「愛の文化」に変えなければいけない、私はそう考えています。
(2007.07.12 up)