10月10日の死刑廃止デーを記念し、アムネスティ死刑廃止ネットワーク東京では同日夜7時より「死刑廃止の会」の菊池さよ子さんを講師に招き、「死刑廃止運動、現在・過去・未来」と題して学習会を行なった。

以下に菊池さんの話の概要を報告する。
■ 1956年の死刑廃止法案
戦後間もない1948年の3月12日に、最高裁は死刑合憲判決を出した。よく知られている「一人の生命は全地球の重さよりも重い」という非常に格調高い文章で始まるものであるが、最終的には「死刑は残虐な刑罰に当たらない」という結論で死刑を合憲とした判決である。
ただし、この合憲判決は永遠に死刑を合憲とする判断ではない。憲法には「残虐な刑罰はこれを禁止する」とあり、この判決の中でも、将来において国民の世論が死刑は残虐な刑罰であると認識する状況になれば、その時点では死刑は廃止すべきであるということをはっきりとうたっている。
そういう中で、戦争に対する反省から「国家が人を殺すことはすべきではない、人の命を尊重しなければいけない」という当時の時代的な背景も手伝って、死刑の廃止について積極的な議論がされていった。
1955年には法務省の役人である正木亮を中心に「刑罰と社会改良の会」が発足。弁護士や学者、法務省の役人も含めて、死刑廃止の問題を正面から議論していくことが行なわれた。
それと並行して、国会議員の中でも死刑廃止を国会で議論すべきだということで、1956年、参議院法務委員会の委員長・高田なほ子や羽仁五郎らによって、国会に死刑廃止法案が提出された。
これは非常に格調高い法案で、対案をどうするかの議論はなくて、刑法から一切の死刑を削除するという法案である。国会での提案趣旨説明では、戦争を放棄した新しい憲法の理念にのっとって、いまこそ死刑を廃止すべきだということが言われている。
この死刑廃止法案に対する反対派の意見は「死刑廃止は時期尚早だ」というもの。死刑廃止に真正面から反対の論陣を張っているわけではなく、「国民の世論がなかなか死刑廃止では納得しないから、やはり時間をかけて世論を変えて廃止すべきだ」というもので、死刑は存置すべきだという意見は意外と出ていない。「死刑廃止は理念としては正しいのだが国民の世論がそれではなかなか納得しない」という議論になっている。もちろん被害者感情の問題などいろいろ出されてはいるが、死刑の問題を考えるときに被害者感情を強調される傾向は最近のほうがむしろ強いように感じる。
■1970年代の動き
1975年の7月には、正木亮の死後ほとんど自然消滅していた「刑罰と社会改良の会」を復活するかたちで「犯罪と非行に関する全国協議会」が発足。学者が中心だったが、法務省のOBもおり、現場に近い人たちが集まって、「刑罰と社会改良の会」の理念を受け継ぐかたちで発足した。ただ、まだこの時点ではなかなか市民運動としての大衆運動の広がりはあまりなく、学者が中心となり、本を出したり、論文として死刑廃止論を発表するというもので、市民の中に死刑廃止の運動を大きくしていく動きはまだなかった。
1977年にアムネスティの「ストックホルム宣言」が出たことで、世界的にも死刑廃止の声が広がってきていることが実感され、「日本でも死刑廃止の市民運動を作ろう」という盛り上がりが出た。救援連絡センターの当時代表だった水戸巌さんなどが中心になって、宗教者や弁護士や学者などいろんな人たちに働きかけ、アムネスティの死刑廃止グループ(当時)とも連絡を取りながら、日本に死刑廃止の動きを作ろうとがんばった。
78年、79年というのは大きな集会を打っても人が集まるような時代ではなかったので、20人くらいの小規模で学習会を開いたり、死刑廃止の仲間を広げていくことが行なわれた。また、死刑廃止の署名やビラまきなど、街頭でいろいろな人に声を掛けていくことが、ささやかではあるが各地で行なわれた。死刑廃止運動の萌芽の時期だった。
■ 4件の再審無罪判決が出た80年代
1980年1月24日、大逆事件(注)で幸徳秋水等が処刑された日を記念して、死刑廃止を考える集会を呼びかけ、その集会をきっかけに市民運動の会が発足した。
(注)大逆事件:
1910年、天皇暗殺計画があったとされ、当時の社会主義者、アナーキストらが大量に逮捕され、26名が起訴された事件。うち24名に死刑判決が言い渡されたが、天皇の恩赦により半数の12名が無期懲役に減刑された。1911年1月24日に11名が、25日に1名が処刑された。今では事件は明治政府によるデッチあげであったとする見方が強まっている。
「死刑廃止の会」もそこで出発している。また、死刑を考える獄中者の会「麦の会」、中山千夏さん、孫斗八死刑囚と関わって『逆恨みの人生』という本を書かれた故・丸山友岐子さんの2人を中心とした「死刑をなくす女の会」も登場してきた。
「麦の会」は、現在は事実上解散状態となってしまっているが、インパクト出版会から『死刑囚からあなたへ』(1巻、2巻)という本を出版している。死刑判決を受けた人たちが、死刑執行されるのがいやだから死刑を廃止してほしいというのではなくて、裁判を受けいろいろ考える中で、自分がなぜそんな事件を起こしてしまったのかということを真正面から捉え直し、どこで過ちを犯したのか、どうすればこんな事件を起こさなくてすんだのかということを一人一人考えるようになり、被害者に対してどうしたら償いができるのか、単に「死んでお詫びをします」ではなくて、被害者・被害者遺族に対する本当の意味での償いはなんなのかということを、メンバーそれぞれが事件を振り返りながら書いたものを単行本にしている。
81年には、全国各地で死刑廃止を考えるグループができてきた。大阪の「かたつむりの会」や福岡の「たんぽぽの会」など。それぞれ連絡を取りながら各地の死刑囚の面会に行ったり裁判の支援をしたり文通したりするようなかたちで死刑廃止の輪が広がっていったのが80年代初頭。ちょうど免田栄さんの再審開始決定があった時期である。
それまで死刑囚の再審請求はラクダが針の穴を通るようなものだなどと言われ、絶対に無理だと思われていたのだが、その前に最高裁で「白鳥決定」というのがあった。これは、「疑わしきは罰せず」という理念を、通常の一審・二審の裁判だけでなく再審においても適用するとしたもの。それまで再審に必要とされていた「無実の証拠」ではなく、無罪判決になるような新たな証拠があれば再審を積極的に開始していくとした。
免田さんは83年7月に再審無罪が確定してその日のうちに釈放されたが、そのときに開口一番言ったことは「死刑を廃止してほしい」だった。いかに死刑が残虐かというのを彼は身をもって体験し、単に「無実だから釈放してほしい」ではなくて、全部の死刑囚の死刑を廃止してほしいということを開口一番、記者会見で言った。死刑は残虐であるということと、死刑には誤判がある――冤罪や無実ということではなくても、たとえば計画的な犯行でないのに計画的な犯行とされて死刑になったり、主犯がうまく死刑を免れ従犯だった人が主犯にされ死刑になるなど、裁判での事実認定の誤りがあると。そういうところから死刑はやはり廃止すべきだと確信を持って、出獄後の第一声が「死刑を廃止してほしい」という訴えだった。
免田さん以下、谷口さん、斎藤さん、赤堀さんと4人の死刑囚が再審で無罪になった。このことは死刑廃止にとって追い風になると思われたが、マスコミのキャンペーンも含めてなかなかそれが死刑廃止に結びついていかなかった。イギリスでは死刑囚が執行されてから真犯人がわかったというエヴァンス事件の反省から、政府も積極的に死刑廃止を国会に提案し廃止した。日本でも免田さんたちの事件をきっかけに政府も死刑廃止を積極的に考えなければいけなかった時期だったと思うが、これが直ちに死刑廃止に結びつかず、非常に歯がゆい思いをした。
それでもやはり「無実の人が死刑になることもありうるんだ」ということが広く知られたことは大きい。
さらに81年にはフランスで死刑廃止が実現。免田さんたちの再審無罪が相次いだことに加えて、ヨーロッパの中で最後までギロチンを残していたフランスで死刑が廃止されたことで世界は死刑廃止に向かっていると、日本でも死刑廃止は一気に進むのではないかと非常に期待された。
ただ、運動面で見ると、当時死刑廃止のグループが全国各地にできてはいたが、それは個別の死刑囚の支援をしている会だったり、無実の死刑囚を支援している会だったり、それぞれ独自の動きをしていてなかなか横の連絡を取りながらまとまっていくということがなく、死刑廃止の運動は思うように広がっていかなかった。そこでこれら個々の死刑廃止運動を一本にまとめるために88年にできたのが「死刑執行停止連絡会議(以下、停止会議)」である。
「死刑廃止」では運動を広げていくのはなかなか困難だということで、日本ではまず死刑執行停止の法案を国会に提出して、5年間なら5年間の死刑執行停止期間をおいてその間に死刑廃止に向けた世論を作って、停止の次に廃止と段階的に死刑廃止をしていけばいいのではないかと、死刑執行停止の法案を国会に上程することを目的として「停止会議」を作った。
この時点では死刑廃止議員連盟もまだなく、ただちに法案ができるとか国会で議論が活発化するとかいう状況ではなかったが、この停止会議ができて死刑廃止運動のネットワークが作られていく過程で、ちょうど89年の12月15日、死刑廃止条約が国連で採択された。これで日本が死刑廃止条約を批准すれば日本でも死刑廃止を実現できるということで、国際世論を背景にして「地球が決めた死刑廃止」という標語を作りながら90年12月1日に死刑廃止の大きなイベントを持ち、これをきっかけに死刑廃止フォーラム90(正式名は「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」)ができた。
■ 90年代以降の動き
国連死刑廃止条約、フォーラム90の立ち上げというこの時期、3年4ヶ月にわたって死刑執行がされない期間ができた。(89年11月〜93年3月)
世界的にも死刑廃止の世論を背景にしているし、これはうまくいけば日本でもこのまま死刑廃止、あるいは執行停止まで持っていけるのではないかと、非常に期待された時期である。
しかし、そういう中で93年に後藤田法務大臣が死刑の執行を再開。3年4ヶ月の停止期間を破って死刑を執行したということで大変なニュースとなり、当時はマスコミも死刑執行がされると大きな記事で取り上げた。各新聞も、死刑について諸外国はどうなっているとか日本の死刑の実態はどうなっているかなどの記事を連載し、死刑廃止のキャンペーンをかなり積極的にやった。
後藤田法務大臣の執行再開後、法務省は毎年必ず死刑を執行している。後藤田法務大臣の前には4人の法務大臣が執行命令書にサインをせずに辞めていったが、いまは歴代の法務大臣が必ず関与していくようにしており、また執行ゼロの年を作らないようにしている。何年か前には12月27日に、本当に駆け込みのギリギリの死刑が執行されたこともあった。今年(2003年)も9月12日に執行があったが、これも、今年、総選挙も内閣改造もあると読んだ法務省が、新しい法務大臣にいきなり執行命令書の判を押せと持って行くのも難しい、そうなる前に森山法務大臣に判を押させようと、そういうことをたぶん計算して決められた日にちだと思う。
やはり死刑の問題というのはつねに政治と絡んでいるし、国は、死刑の執行をいつやるか、誰をやるか、どういう時期にやるか、というようなことをすごく考えながらやっていると思う。
90年代には死刑に関する情報開示の面でわずかながらの変化もあった。後藤田法務大臣が93年に死刑を再開するまでは、死刑の執行があってもニュースにすらならなかった。その後、96年からは法務省も「何日に何人死刑を執行しました」ということだけはファクスで知らせてくるようになり、密行主義とはいえ、最低執行の事実くらいは公表されるようになった。ただ、本当の意味での情報公開とは程遠いわけで、もっと死刑の執行ないしは死刑囚のおかれている現状について情報公開が求められる。
■ 死刑廃止に関する法務省関係者の発言
前述の、1956年の死刑廃止法案提出者の一人である羽仁五郎は、法務委員として全国の刑務所を回ったときに刑務官から「ぜひ死刑廃止を国会で取り上げてほしい」と訴えられたことが法案提出のひとつの大きな背景となっていると国会で発言している。公聴会では元大阪拘置所所長の玉井策郎が公述人として死刑廃止の証言をし、東京拘置所の元所長の高橋良雄も『鉄窓の花びら』という死刑廃止の著書がある。昔の拘置所長や刑務官は死刑廃止をかなり積極的に言っている。ところがいまはそういうことを言うとたぶん所長もクビになるだろうし、刑務官も辞めざるをえないのだと思う。正木亮も法務省の内部で積極的に死刑廃止を言ったが、いまの法務省の役人でそういうことを言う人はいない。昔自由に発言できた雰囲気がいまはなくなっているということではないか。
■死刑囚の処遇の変化
死刑囚の処遇についても、昔といまとではかなりの差がある。
1960年代くらいまでは死刑囚の処遇は、監獄法の規定する「刑事被告人に準ずる」あるいはそれ以上の優遇されたものだった。たとえば、再審無罪となった赤堀さんのケースで言えば1日に10人まで面会できた。1963年に矯正局長名で「外部との交通を原則として禁止する」という通達が出た。それでも一気に処遇が悪くなったわけではなく、その通達以前に確定していた人たちの処遇は、いったん緩やかになった処遇を禁止するわけにいかないから徐々に締め付けていった。この通達以降に死刑が確定した人については最初から制限するというやり方をしてきた。
これは、ひとつには「麦の会」ができたことに対する法務省の警戒心ではないかと考えられた。拘置所なり当局からすれば、おとなしくしている死刑囚に対しては温情的に処遇を緩やかにして外部との文通や面会もさせてあげるが、再審請求をしたり、死刑は廃止すべきだと言って国家賠償の裁判を起こしたり、処遇の改善を訴えて裁判を起こしたりという死刑囚は見せしめ的に外部との文通や面会をさせないと。中の死刑囚を孤立させ、外部の支援がなくなれば裁判を起こすことなどできなくなるだろうという狙いがあったのではないか。死刑囚の処遇改悪の背景のひとつに、そうやって死刑囚の再審を押さえ込んでいくというのもあったのではないかと思う。
■ 今後の課題について
私自身の死刑廃止のひとつの理念のようなものとして、「犯罪の原因には社会的な背景が必ずある。経済的な要因やその人をとりまく人間関係といったものを考慮することなしに、あくまでも個人の責任として、凶悪犯人だからといって見せしめ的に死刑にすれば問題は解決するという発想は絶対に誤りだ」というのがある。その人を死刑にしたからといって、同じような状況があれば、同じような犯罪がまた繰り返される。最近の傾向を見ているとまさにそうだと思う。教育の問題であったり経済的な要因であったり、社会全体をどうやって変えていくかということを考えなければ根本的な解決にはならないはずだと思う。
ただし、事件を起こした背景について考えるときに、昔の事件がある意味わかりやすかったのに比べて、最近の事件ではなかなか背景が見えにくいのも事実である。
貧困を原因として起きた永山則夫事件、日本企業によるアジアの国々の経済的抑圧を告発するという目的で企業に爆弾を仕掛けた「東アジア反日武装戦線」の連続企業爆破事件(結果的には8人の死者と大勢の負傷者を出すことになった)などは、なぜそうした事件を起こしてしまったのかという背景はわかりやすかったし、事件自体はもちろん酷い事件になってしまったのだけれども、彼らの訴えに自分たちも非常に共感できる部分すらあった。
それに対して、最近の事件は、いじめの問題やその人を取り巻く人間関係のトラブル、その中で精神的に追い詰められていって犯罪が起きてしまうといったものが多いようだ。お金を盗ろうとして結果的に人を殺してしまった、というようなものは原因がわかりやすい。しかし最近の事件は、必ずしも殺意はそういう単純な殺意ではない。だから、なぜそんなことをやるんだろうとわかりにくいというか、共感できる部分がないというか、背景が見えてこない。そこにさらに接見禁止がついて面会ができない。マスコミの報道を見る限りではなぜそんな事件が起きたのか、全然わからない。そして、しばしば「人格障害」という言葉が使われ、要するに理解できないからこんな奴は死刑にするしかないんだというようなキャンペーンになっている。そこが非常に怖いと思う。
ただ、同時に、手紙のやりとりをしていても死刑囚との意思の疎通ができなくなってきていることを、最近の傾向として私自身感じていることも確かである。「自分がなぜこんな事件を起こしたのか」、「自分はどういう人間なのか」ということを死刑囚が表現できなくなってきているようで、なかなか上手にコミュニケーションが取れない。以前、「麦の会」を中心にやってきた人たちなどは、文通していて私自身学ぶところもあった。やりとりにすごく充実感があって、変な言い方かもしれないが相手の人との会話を楽しむようなことができた。死刑囚も自分たちと同じ人間なんだ、一緒に共感しながら一緒に死刑廃止をやっていけるんだというのを実感できた。
彼らは自分と同世代で、問題意識がどこかで共通している部分があり、他方、いまの若い死刑囚との関係では自分はもう母親のような年代になってしまっていて共通の話題ができないということもあるのだろうが、でも世代の問題だけではない。いまの死刑囚がもっと自分を開いてくれないという部分が大きいように思う。私にとっての死刑廃止の原点、やっぱりこの人を死刑にはしたくない、こういう人たちを殺すのはおかしいというのを実感として持って、単に制度としての死刑廃止をするというだけではなく死刑囚と顔が見える関係を作って行きたいと思い続けながら、なかなかコミュニケーションが取れないというジレンマを最近感じているところである。
この、コミュニケーションの取れなさ、事件や死刑囚に対する共感のできにくさ。死刑廃止運動の中でもいまそこが問われるのではないかと思う。