「国家の暴力 − 戦争・死刑・人権」報告


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戦争と死刑という2つが国家による暴力であるということでした。では国家による暴力というものをどう考えていけばいいのかですが、私は「国家の暴力」といったときにまず思い浮かべるのが、ヴァルター・ベンヤミンという20世紀のドイツの思想家です。

ちょうどナチスの時代に活動していて、ユダヤ系であったためにもちろんナチの追及をうけたわけですが、亡命するのが遅れ、スペイン国境で追い詰められて服毒自殺をした思想家です。この人が若いころ、1921年に『暴力批判論』という有名な論文を書いています。

「暴力批判論というのは国家の暴力の廃絶を目指す哲学である」というふうに書き始めているのですが、そのなかで、彼は国家の暴力として2つのものを区別しました。

ひとつは、彼の言葉では「法措定的暴力」。法を措定する――「措定」というのは立法といってもいいですね――法を作る暴力。これが第1です。

第2の暴力として「法維持的暴力」。作られた法を維持する暴力ですね。いま私たちの国でもたくさん法律があります。これに違反した者を捕らえるために、たとえば警察があるわけですよね。警察権力が行使する暴力というのは、これは法維持的暴力であると。法秩序を維持するための国家の暴力。国家は法秩序を維持するために、つねに実力を行使する準備ができている、ということですね。これはわかりやすいと思います。

しかし、ベンヤミンは同時に、「法措定的暴力」と言うんです。つまり、法を維持する前に、法というのは国家が作ったものである、その法の合法性というのはどこにあるのか、それは国家が作ったというところにあると。国家において、民主主義の国であれば、議会で多数を取ってそれが法律になるわけですよね。しかし、ではその議会の合法性というのはどこにあるのかというと、これは、たとえば憲法であると。憲法で、その国の国権の最高機関は国会であるというふうに、たとえば決められている。それでは、その憲法の合法性というのはどこにあるのか。どんどんさかのぼって行きますと、まず国家というものを作り出すこと自体が、ひとつの法のなかの法、あるいはそれ以後国家のなかで作られるあらゆる法に合法性を与える、法のなかの法としての国家をつくり出すことなんだ、というふうに捉えるわけです。

そして、その法のなかの法としての国家をつくり出す行為というのは、もうそれ以上、合法性をさかのぼれないわけですね。国家がいったんできてしまえば、そのなかで議会で作られる法律、あるいは王政ならば国王が出す法律、これはそれなりの合法性を持っているけれども、国家自体の合法性というのは、国家がつくられるときには、じつは合法も違法もないんだというわけですね。つまり、暴力的につくられる。合法性・違法性以前の、力でもって国家がつくられる、ということなんです。

国家の創設の時点でそれが暴力的に行われるということはたとえば、私たちに近い例でいえば、イスラエルという国家ができたときのこと、あるいはアメリカ合州国という国ができたときのことを想像してみればわかりやすいと思います。

国家の要素として通常挙げられるのは3つです。領土、住民=国民、そして統治権。この3つがそろったときに一応国家が成り立つというように考えられているのですが、「ここからここまでがわれわれの国だ」と線引きをする、囲い込む、そのこと自体がすでに暴力なんですね。イスラエルにしても米国にしても、「ここがわれわれの国だ」と言ったときに、そこに住んでいた人々やいろいろなものを排除しているわけです。ですから、領土を囲い込むということは、同時に人々を排除して、「国民であるわれわれ」と「国民でない彼ら」とを区別すること。ここにもまた暴力が働くわけですね。

そのことは日本という国家についても同じです。近代の日本の国家の起源には、幕末の内戦がありました。薩長を中心とする明治政府をつくることになった軍隊と、徳川幕府をサポートする諸藩の戦争、内戦の結果として、勝利した官軍側が明治政府をつくったわけです。つまり内戦という暴力、戦争の結果として近代の日本国家ができた。では戦後日本国家はどうかというと、起源には第2次世界大戦があった。 この敗戦の結果として、戦後日本国家が憲法とともにできたわけですよね。

もっとずうっとさかのぼっていっても、大和朝廷が国内を平定するとか、これは戦争なんですね。これはどの国でもそうです。たとえばフランス共和国。やっぱりフランス革命の暴力というものによって、民主主義国家として成立したわけです。その前にあったフランス王国だって、王権が支配を確立するときには暴力によって成立している。どんな国家も、その国家の起源にはじつは暴力があるんだと。国家をつくるということはじつは暴力的行為なんだと。で、いったん成立して、その国家がすでに成立していた他の国から承認されると、国家として認められるということになる。そうすると、そこには人々から合法的だと考えられる国家が成立して、そのなかで憲法に基づいて、さまざまな法律が作られていく。こういうかたちになっている、とベンヤミンは考えたわけです。

ですからじつは、「議会で暴力なしにいろんな議論をして法律を作っている」といっても、その法律を執行するためには本質的暴力が常に必要だし、そもそもその議会が、権力そのものが、国家の権力として、「法措定的暴力」というものを吐いて息しているんだ、とベンヤミンは考えました。ベンヤミンの考え方に教えられたわけですけれども、私もそのように考えています。

そういう意味では、暴力的でない国家と暴力的な国家があって、暴力的な国家を暴力的でない国家にすればいいんだというふうに考えるのは少し甘いかもしれないですね。つまり国家というものそのものが、やはり暴力をすでに含んでいるのだと。で、もし私たちが、国家というものの存在、あるいは国家というものの制度、あるいは国家というものの価値観、そういうものを内面化しているとするならば、私たちの中にもそういう国家暴力は潜んでいるかもしれない。

そのように考えていくと、戦争というのは、国家の起源にある暴力とつながってくるわけです。国と国とが戦争する場合でも、太平洋戦争のことを考えてみれば日本と連合国とが戦争して日本が降伏する、その結果、平和条約が結ばれて戦後日本が成立するわけですが、そこでは講和条約というひとつの法が――暴力の結果としてひとつの法が――日本の国家のかたちにゴーサインを出す、という形になっているんですね。イラク戦争でも、あらゆる戦争がそうです。

戦争は法措定的暴力というものに深くかかわっている、そういう暴力だと思います。

しかし戦時ではない、平時の国家では、そういう国家の暴力が見えにくい。しかし法維持的暴力は常に働いている。そして、その法維持的暴力のなかでも、国家の起源にある法措定的暴力の血塗られた側面を見せているのが死刑という制度だろうと思います。

死刑という制度は他の刑罰とはやはり根本的に異なるだろうと私は思います。それは裁かれた人の生命そのものを断ち切ってしまうものです。なぜその必要があるのかですが、ベンヤミンの手法に倣って考えていくと、それはある特定の法を犯したから、個別の法を犯したから、というよりは、死刑になる人の犯罪そのものが、法体系全体としての国家をもしかしたら揺るがしかねないもの、そういう側面を持っているがゆえに死刑というものが存置されて、ときどきそういう国家の根源にある力が死刑というかたちで国民に対して見せつけられる、そのことの効果を国家が期待している面があるのではないか、私はそんなふうに考えてます。

私たちの国の世論でも、7割8割の人が死刑存置を支持しているという数字が出てくるわけですね。すでに死刑を廃止している国でも、廃止のときに死刑廃止派が多数派だったかというと、必ずしもそうではないことがしばしばあって、いわゆる世論は存置派が多いけれども政治的リーダーシップをとって死刑を廃止する、ということが多いわけです。

ではどうして世論がそのように死刑に肯定的なのか。これはもちろんその国や地域によっても事情が違うことは考えられますけれども、一般的に言われているのは、「死刑がないと、犯罪者に対する威嚇力がなくなってしまって凶悪犯罪が増えるのではないか」というような議論がよくありますね。これは、ご存知の方が多いと思いますけれども、統計的には支持されない。

死刑を廃止した国がその後凶悪犯罪、あるいは殺人事件の続発に苦しむというような事実はあまり知られていない。たとえば私がよく知っているのは1981年に 死刑を廃止したフランスですけれども、フランスの場合フランス大革命以来のギロチンによる死刑制度がずっと続いてきていたわけです。廃止するときには「死刑を廃止したら殺人が増える」というような議論がたくさんあったわけですけれども、廃止してもべつに増えているわけではない。で、死刑を存置している国でも殺人事件の発生率が比較的高いところと、そうではないところがある。つまり死刑を存置するか廃止したかによって、殺人その他凶悪犯罪の数が統計的に増える、減る、一定の傾向は認められないということはすでに知られていることですね。
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