「国家の暴力 − 戦争・死刑・人権」報告


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しかし、もうひとつ非常に難しい問題がある。それは、いわゆる報復感情という問題ですね。たくさんの罪のない子どもたちを殺した死刑囚、これは当然報復されるべきだという考え方がありますし、遺族が極刑を望んでいる、そういう遺族感情を考えると、やはり死刑は必要なのではないか。そういうふうに考える人が日本の場合もかなり多いと考えられるわけです。

私はそこで、「報復、リベンジ、復讐」ということと「処罰」、この両者をきちっと区別することが必要だろうと思います。

この問題を考えるときに私が想起するのはハンナ・アーレントというもうひとりの思想家です。ベンヤミンと同じようにドイツで生まれ、彼女の場合はナチス時代のドイツからアメリカに早めに亡命することに成功したため、戦後、アメリカでたくさんの著作を書いて、20世紀を代表する政治哲学者となった人です。

この人が『人間の条件』というよく知られた著作の中で、一人一人まったく異なる、ひとつとして同じ人間というものは存在しない、そういう多様な人々が集まって社会を構成している、その社会のあり方について考察して、こういうことを言っています。

多様な人々、それぞれ全く異なる人々が、しかし人間であるという一点で共通の生活を営んでいる。そのときに、まさに異なる人々が集まっているがゆえに、そこではさまざまなトラブルが発生するし、場合によっては殺人というような暴力が人から人に行使される。そういうときに、まず自然な反応として、暴力をこうむった側から出てくるのは「報復したい」という感情だと。

彼女はそれが人間のナチュラルな傾向だと認めるわけですね。殴られたら殴り返したくなる。右の頬を殴られたら左の頬を出せというような教えもありますけれども、普通の人間が殴られたらやっぱり怒るし、殴り返したいという、これが自然の、あるいは多数の人の反応だというわけです。で、それを放っておいたら殴り返すわけですね。そしたらさらにまた殴ってくるかもしれない。

暴力の応酬、暴力の連鎖ということがよく言われますが、アーレントによると、暴力が発生したときに、それに対する復讐や報復、リベンジというものを無制限に認めていたら、これは暴力の連鎖がとどまるところをしらないようになってしまうし、最初の加害者と最初の被害者がともに崩壊してしまう。そして、社会全体が崩壊してしまう。そこでこのような暴力の自動的な連鎖を断ち切るために人間が行うことのできる活動として2つのことがあると。

ひとつは「赦し(forgiveness)」ですね。

人間には赦すことができる力が与えられていると。ある暴力が発生したときに、その暴力のトラウマといいますか、その傷を永遠に背負っているのでは前向きに生きることができないので、暴力をふるった人を赦すということを人々は行ってきたわけです。その結果として社会が維持されてきた。こういうことをまず言うんですね。

しかし、意図的な犯罪と極端な犯罪については赦しは与えられない、これらに対しては処罰(punishment)が必要になってくる、と。

しかし、処罰というものに対するアーレントの捉え方は、通常とはかなり異なります。

処罰というのは普通、復讐と並んで赦しに対立するものと考えられている。むしろ復讐の別の形態、法的な形態だと考えられているけれども、そうではないのだと。アーレントによると、人間――暴力をふるうこともありうる人間――の自然的な反応をそのまま認めていれば、暴力の無念さに立ち至って、皆が崩壊してしまう。暴力の自動的な連鎖を断ち切る行為として、赦しと並んで、むしろ報復に対立するものとして、処罰というものがあるのだと。こういう考え方を『人間の条件』のなかでハンナ・アーレントは定義しているのです。

私は、初めてこれを知ったときには非常に新鮮な感じがしました。

処罰というのは権力的な行為であって、むしろ暴力に近いもので、したがって赦しの対極にあって、それは報復に近いんだという印象を私も持っていましたし、哲学者だとたとえばニーチェなどは法とか処罰というものの起源にやはり復讐の意思を見てとるいう考え方なんですね。ところがアーレントは、それをむしろ逆に考える。

私自身はやはり、暴力、場合によっては人の命を奪ってしまうような暴力というものに対して、それを犯した人に対して処罰を行わないということは、現実問題として、社会のあり方としてはありえないだろうと考えています。処罰なき世界、それはユートピアかもしれませんけれども、現実問題としてはありえないと考えるわけです。しかし重要なことは、「復讐」と「処罰」ということがきちんと区別されることではないかと思います。

アーレントが「赦し」と「処罰」に共通性を見出したのは、それらがいずれも、もしそれが介入しなければ暴力の連鎖が自然と、自動的にどこまでも続いてしまうかもしれない、赦しも処罰も暴力の連鎖を断ち切るという点で共通性があると、こういう論理なんですね。

そういう意味では、処罰というものを報復とか復讐感情を満たすものとして考える、あるいはそう考えて処罰というものを社会のなかで体系化・制度化していくのではなくて、暴力の連鎖を断ち切るという観点を重視して、処罰のシステムを考えていく、そういう方向に見方を転換しなければならないのではないかと思うわけですが、ところが、そのハンナ・アーレントも、死刑を認めたケースがありました。

いまお話しているような論理からいうとアーレントは死刑に対しては消極的なのではないかと思われますし、彼女が一般的な死刑廃止論に理解がないわけではないのですけれど、彼女が、「これは死刑でなければならない」ということを強く主張したケースがありました。それは1961年にイスラエルで行われたアイヒマン裁判です。
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