死刑廃止デー記念学習会 「文学と死刑廃止」
2006年9月9日、アムネスティ死刑廃止ネットワーク東京は、翻訳家でアムネスティの理事でもある藤田真利子さんを迎えて「文学と死刑廃止」というテーマでお話をしていただいた。
以下に、藤田さんのお話と質疑応答の概要を報告する。
死刑廃止の論拠について考えるとき、私の場合、「国家に人を殺す権力を与えてはならない」というのがまず最初に来る。「人を殺してはならない」というのが一番に来るのではない。国家が人を殺す権力を持つことに大変拒否感がある。
これは子どもの頃から外国文学を好んで読んできた影響だろうと思う。たとえばカミュは、アルジェリアの独立運動のときにフランスが抑圧して、独立しようとしている人たちを死刑にしたことを書いた。また、スペインの独裁政権、ナチス、フランスのレジスタンス等々を題材とした文学では、愛する人、友人、仲間が死刑になるといった政治的なものが非常に多く、そこに出てくる死刑はまさに「悪」であり、死刑とは悪い人が使う武器であるというふうに見えた。
このように、自分の死刑に対するイメージを形作ってきたものはやはり本、物語であり、私の死刑廃止への思いは、その刷り込みがとても大きかったのだろうと感じている。
もうすぐ死刑廃止か、という動きになっている韓国は、国会で死刑廃止派の議員が多数を占めている。独裁政権の時代に自身が死刑を宣告され、牢に行った経験のある国会議員が大勢いるというのが大きく関係している。
翻って日本を見ると、確かに日本は第2次大戦中、大変な弾圧があった。でも、政権は変わらず、地続きである。他の国だと、当時弾圧されていた人が日のあたるところに行って、「さあもう自由だ」と、続いて「じゃあ死刑を廃止しよう」、みたいな流れになったりするが、日本の場合は、たとえば一番弾圧されていたのが共産党であるが、政権が変わって共産党の人たちが「さあ俺たちの時代だ、死刑廃止するぞ」となることはなかった。日本での死刑廃止の実現について考えるとき、そういった難しい状況が確かにあると思う。
死刑廃止を訴えるときに、いくら理論で訴えても、理屈ではやり込めることができても、絶対納得してもらえなかったという経験が皆さんにもあるのではないか。こういった、人の生死にかかわる問題で人を動かすのは、やはり理屈ではなく感情だと思う。
とても小さな例えになってしまうが、子どもが小中学校に行っている頃、PTAで広報誌を作る係をやっていた。学習指導要領が変わったとき、「こんなものを押し付けてきた」みたいな記事を私が書いたところ、PTA会長が突然口を出してきて、それを書くなと言う。他の委員のお母さんたちに、「PTA会長が口を出すのはおかしいんじゃないか」という話をいくらしても、お母さん方は波風立てたくないから、「差し替えたらいいじゃない」みたいなことを言う。あまり悔しくて、悔し涙が流れてしまった。そうしたら、みんなころっと態度が変わって、結局そのまま出せたという経験がある。そのときに思った。涙って強力だなあと(笑)。
以上は非常に小さい経験だが、いま社会学などでも「感情の社会学」と言って、「感情というのは、個人の中に起きる、からだの生理的な変化といったことだけではない」ということが言われている。感情についていろいろな研究をしている学問があり、それによれば、人は社会を通して感情についての文化規範を身につけるという。
自分と対象、自分と状況との関係に、感情の語彙――「私は怒っている」とか「これは悲しい」とか、そういったもの――を当てはめレッテル貼りをして、その貼ったレッテルに、その後は左右されると。たとえば、お葬式に行けば悲しくなるとか、お葬式で故人の遺影を見ると悲しくなるとか、そういうのは最初から自分のなかから出てくるというよりは、そういう状況を経験してきて、社会の中で「こういうときは悲しいものだ」というものが、自分の感情として感じられるようになってくるのだ、というような学問がある。
光市の母子殺害事件で、被害者の遺族の方が非常に感情的に訴えておられた。そういう感情が強いと、社会はすごく感情的に動かされ、たとえば、人を殺してはならないという死刑廃止運動の主張と、人を殺してはならないという社会の規範、同じことを言っても、実際にあった殺人事件のほうにばかり味方をするようになってしまう。
その社会のいろんな変化について、東京創元社の「ミステリーズ」という小説雑誌に、ミステリー評論家でミステリー作家でもある笠井潔さんという方が『ぼくのメジャースプーン』(辻村深月)という小説の評論で次のように書いている。
探偵小説では犯罪という悪が作品の中心に位置してきた。しかし、探偵小説がジャンルとして、悪や犯罪の意味するものを独自に追求してきたとはいえない。近代的な法思想を前提に、大多数の探偵小説は書かれてきた。
しかし近代的人間が消失しようとしている現在、罪と罰をめぐる近代的な制度や観念の失効もまた不可避だろう。犯罪や悪の意味するところが、もはや自明とはいえない異様な新事態が到来しつつある。
たとえば殺人事件の被害者家族が、被告への死刑判決を裁判官に要求する。被害者家族の涙ながらの訴えをマスコミは同情的に報道し、被害者の救済や犯罪の重罰化を求める「世論」が勢いを増してきた。新聞の論説や、法思想に通暁しているはずの「識者」もまた、被害者家族の発言や「世論」に棹さすような発言を繰り返している。
ここに書かれているのは、
「近代的な法思想では、犯罪は被害者への侵犯ではなく法=国家への侵犯であり、法律というのは被害者に対する犯罪というよりも社会に対する犯罪だということで国家が代わって処罰する。だから、被害者が直接報復するようなことは許されなくなっている。そういう近代的な法思想のもとでの死刑は、犯罪に対する最大の報復としての殺人ではなく、社会からの永久追放の手段である。だから本当は、法律家や大学教授など識者といわれる人は「個人の復讐をするわけではない」と説くべきなのに、それはいまやられていない」
というようなこと。
この『ぼくのメジャースプーン』という小説は子どもがある犯罪に対する報復を自分でするという話で、どんな罰だったら釣り合いが取れているんだろう、というようなことを子どもがとても悩む。本当は善き個人が報復するというような概念。笠井氏が指摘しているように、社会が変わっているのだ。
ミステリーでよくあるパターンというのが、非常に残虐な殺人を描写し、その犯人が死刑にならなかったことに怒り、自分で報復するというもの。ただここで大きいポイントがあって、そのパターンのミステリーを書いているのは日本とアメリカだけ。ヨーロッパのように死刑が廃止されている国では、誰かが死刑にならなかったからすごく怒るということが一般的でない。現実に死刑がない国では、「死刑にならない」ということに対して被害者遺族が恨みを溜め込むというのはあまりないようだ。死刑のある国とない国とで、そんな違いがあるように思う。
ミステリーで異常犯罪のパターンの本は多い。犯人を憎み、そんなやつ許せないと思わせるような小説というのは確かに書きやすいのだろうけれど、それってどうなんだろう? と思う一方で、でもそういうのはミステリー作家が社会の動きを見て、影響されて書いているのだという点も指摘しておきたい。
笠井氏は上記評論中で、「どうか犯人を死刑にしてくださいと国家に求めるのは、倒錯である。被害感情、報復感情の無力な吐露からは、なにも生まれない。決闘権の回復といった法思想の全面的な組み直しが、いまのところ一挙的には難しいとしても、被害者家族は絞首台の処刑ボタンを委ねよという運動を開始することはできる」などと書いており、この人は一体? と思ってしまうのだが、でも、犯罪と処罰について、社会の風潮にそのまま流され影響されて一般受けのするミステリーを書く人よりは、犯罪と処罰ということについての社会の意識が変化しているということを意識化してここに出したというのはすごく意味のあることではないかと思う。
さっきから「感情が人を動かす」という話をしているが、私もバダンテールさんの『死刑執行』と『そして死刑は廃止された』を読んだときに、ものすごく感動した。(注:ロベール・バダンテールはフランスが死刑廃止をした際の法務大臣。『死刑執行』は1996年新潮社から、『そして死刑は廃止された』は2002年作品社から、ともに藤田真利子さんの訳により刊行された。) 日本社会で、死刑廃止の側が感動できる物語を提供できるとしたらその辺しかないのかなと思う。安田好弘さんのように、信念を持って死刑を求刑された被告人のためにがんばる弁護士の闘いと、それからあとは政治家の闘い。フランスで死刑廃止をしたときは、60〜70パーセントは死刑廃止には反対していたわけだから、やはり政治家のイニシアチブがすごく必要だと思う。もうひとつ、日本での可能性というと宗教か。キリスト教の殉教の物語とか。堀田善衛の『海鳴りの底から』は島原の乱を書いたものだが、あの拷問のすさまじさ。
きょう学習会で話をするにあたって、「いま、死刑廃止とはどんどん反対の方向になっていってしまって、日本での死刑廃止運動は一体どのようにしていったらいいのだろう、被害者遺族の怒りというものに対して私たちは何で対抗できるだろう」ということをすごく考えたのだが、やはり冷静に理論を語って「抑止力がない」といった話をするのではなく、情熱一本槍で押すしかないのかなと思った。そして、政治家の人には「ぜひ、死刑を廃止した政治家になってください」と。それから、死刑廃止に情熱を傾ける弁護士の物語を世の中に伝えることができないか。いろいろ死刑のことが出てくる本など読み返してみても、「ああ、これは日本には当てはめられない、だめだ」ということばかり思ってしまったのだが、実際に当てはめられなくても、一人ひとりの気持ちを変える力として、そういう物語があるのではないか。
- 1/2 -
|
|
|