質問: 「和解」と「許す」ってことが微妙に違うニュアンスで語られているというふうに感じました。決して許すわけではない、だけど、MVFRに参加されている方々は和解をしたいんだと。遺族の方々にとって「和解」というのは結局、どういうイメージをそれぞれの遺族の方がされているのか、そのへんをもう少し具体的に聞きたい。
私もよくわからないし、たぶんMVFRでも定義がひとつあるわけではなくて、はっきりわからない、わからないものだ、ということで始まっていると思うんです。
ただ、共通するのは事件のことを過去に葬り去ってしまうのではなく、また、加害者に敵意とか、加害者に気持ちを向けるのではなくて、起こったこととか被害者の人に気持ちを向ける……たとえばさっきから「追想」と言ってますけど、セレモニーするときにも必ず愛する人への敬意とか愛情とか、そういうものをどうやって表現したらいいのか、ということがものすごくベースになっていると思うんですね。
だからポジティブなものが先にあるというか、事件に向き合う。
向き合ったときに、必ずしも和解というのは許すことではないんだけれど、向き合ってそれに対してどうしたらいいのかっていうことを考えて行くという、そういうことは、大会参加者にはだれでも共通していると思うんですね。
ただ、そのあり方っていうのはそれぞれが全然別々で、だから、「許した」っていう人もいるし、「許してないけど、いつかは許したい」っていう人もいるし、「絶対に許さない」っていう人もいるし、すごいバリエーションなんですね。だからひとつの定義というのはない。
ただ、「許す」という言葉は、結構みなさん使われるっていうか、「許すか許さないか」という議論はしょっちゅうされていて、これは宗教的なこともすごく大きいんだろうな、と思いました。
必ずしもMVFRの人たちがみんな宗教を持っているわけではないけれども、でも、やっぱりクリスチャンの土壌っていうのは強い。
最後の日のセレモニーではいろんな宗教のセレモニーを紹介していました。僧侶さん、牧師さん、ユダヤ教のラビなどがそれぞれの信仰に基づいてセレモニーをやるわけです。
ワークショップにもありましたが、スピリチュアル――「宗教」というより、スピリチュアルなものをみんなすごく大切にしています。
だから、さきほどのトランスフォーマティブ・ジャスティスの話で、「それは自分と和解すること、自分を許すことでもあるんだ」、みたいな議論が出てきたんだと思います。そういうスピリチュアルな発想があるからそういう思いに至るのかなと、私は個人的には思いました。
私もよくわからないと最初に言いましたが、日本だと「和解」という言葉イコール「許し」みたいに聞こえてしまうと思うんです。けれども、そんな単純なことではない、それだけは確実にわかった。そういう人もいればそうじゃない人もいる。
質問: アメリカではたしかにそういうスピリチュアリティにおける回復とか、その回復の運動が回復的司法の運動のほうに行っているのかもしれませんが、どうもあまり世界的に広がりがないというような感じを覚えます。世界的にはそういうものって、なかなかうまくいかないような気がしますが、どうでしょうか。
アメリカでもうまくいっているわけじゃ全然ないんですよ。
ほんとにこの小さな350人の会でさえもみんな意見がバラバラです。リストラティブ・ジャスティスひとつ取っても「いやだ」と言う人もいるわけです。
べつにアメリカでスピリチュアルな考え方でうまくいっているわけではなくて、ブッシュ大統領を見ればわかると思うのですが、国家としては最悪ですよね、「修復的司法」みたいな概念はまったく、アメリカの国家にはないと思う。
けれども個人レベルではとてもいい取り組み、いい発想をしている人はいる。でも、それを世界に広げていくというのはすごく困難だし、多くの関係者がジレンマを抱えながら、どういうふうにあのアプローチを使っていったらいいのか悩んでいると思うんですけど。
なかなか政治とこういうことが直結していかないっていうのは、日本だけじゃなくてアメリカでも同じことだと思います。だからこそアメリカでは死刑もなくならないし……。
質問: テレビで見たのですが、大阪の池田小の事件で校舎を建て替えたいっていう話で、アメリカでも学校で銃撃事件があって、アメリカの遺族の人たちは建て替えるのではなくて、忘れるのではなく……という、さきほどおっしゃっていたような話をかなりしていました。このへんの日本人とアメリカ人の違いというのはどうしてなんだろう?って報道を見ていて思ったのですが。
私もわからないですね。
オレゴン州のレーン郡というところでスクールシューティング(学校で起こる銃の乱射事件)があって、その地域の取り組みというのは、彼の事件は自分たちの息子や娘にも起こる、被害者にもなり得るし加害者にもなり得る、「この事件を忘れるな」ということで、犯罪を犯した子に対してもただ罰するだけではなくて、心のケアだとか、薬物依存の問題への対応だとか、さまざまな角度から子どもたちに対応するようになってきているんですね。
そういう取材をして今年のあたまに番組を作ったんですけど、そのときもやっぱりスクールシューティングがあった学校はそのままになっていました。ただ、フェンスがなかったところにフェンスができたとか、モニュメント作る作らないという話で、だれを被害者にするかでもめたりしている。その少年が自分の親も殺してるんですね。で、その親の名前を被害者のモニュメントに入れるか入れないかで町中で大もめになってたりとか。結局その学校はモニュメントは作らないことになったみたいです。だから、その土地その土地でいろいろな問題解決の方法ってあると思うんです。
私も池田小の事件のとき「なんで壊しちゃうの?」と思ったんだけれども、でも被害者の中にはそれを望んでいるっていうことが一方にはあるわけですよね。
でも、一方では、遺族の中には「壊さないで」と言っている人もいるんですって。それは唯一自分の殺された子どもたちが行ってた学校なんだから壊さないで、って。あまり報道はされていないですけれども、そういう声もじつはあるんです。
たまたま早くメディアに出てきた意見が「壊せ」という声だったことと、それが声が大きかったということで、そちら側の意見に流れとしては行ってしまったのではないでしょうか。
なにがベストかっていうのは私はよくわからないけれども、それは私たちが決めることではほんとはないと思うんですよ。
いちばんいいのは、これは個人的な意見ですけど、遺族の方とか、被害者の人たちが集まって、もう少し時間がたってから話せれば……最初に決めてしまうのではなくて。
そういう場がほんとは必要なのになあと思いつつ、でもそれをどうやったらいいのか、私にもわからないです。
質問: ソーシャルワークを勉強していた者です。日本のソーシャルワーカーの教育の中では、このような重いテーマはまったく取り入れてないんですね。それでおそらくレイプのサバイバーの人を支援するとか、いろんな類のことでソーシャルワーカー、全然、適応できていないと思うんです。ソーシャルワーカーとかメンタルヘルスの専門家たちを、おそらく、被害者が教育をしなければいけない、というような状況に追い込まれているんじゃないかというふうに思うんですけれども、そのへんの被害者家族と、いわゆる「 」付きの「専門家」との関係というのは、アメリカではどういう感じになっているのか教えてください。
ここは350人という小さい会ですから、全米中でこういう取り組みがなされているわけではありません。今回、「誰もが影響を受ける:臨床心理士が見た死刑が関係者に与える影響」というワークショップに出たのですが、そこには、ソーシャルワーカーも来ていたし、臨床心理士もパネリストで来ていたし、弁護士も来ていました。いろんな専門家が来てたんですよ。
で、まず、「体験者の人から話を聞く」ということが、あたりまえですが第一歩です。アメリカでもべつに系統だった何かが周到に用意されているわけではないんです。
たとえば、「死刑囚の家族にどう対応するか」なんてマニュアルはアメリカにもないわけです。それは一人ひとりで出会った人とどう向き合って行くか、ということだと思うので、ここの場でも必ずしも専門家の人たちがそういう教育を受けているというわけではないんですね。
ただ、たぶん日本なんかよりそういう人たちと接する機会というのはずっと多いと思うんですよ。
だから、パネラーの話を聞いたあとの参加者のディスカッションでは、とてもリアルな話が出ます。
死刑の執行に立ち会ったという学生を教えている先生だとか、自分も死刑執行に立ち会ったという弁護士さんも来ていました。
その弁護士さんは、死刑執行の3日くらいあとにテレビドラマの"ER"を見たらパニックを起こしてしまったと。それまで全然平気だったそうなんですね。もちろん処刑に立ち会うのはしんどかったので、すごく心構えをして臨んで、「何年も弁護してきた相手だけど、でもしょうがない、自分はやることはやってきたんだ」って言い聞かせて、彼の希望で立ち会ったんです。
その3日後か4日後に"ER"を見て、医者が人命を救おうとしているところを見て、自分はなんであの死刑執行の場にいて「やめてくれ!」という一言も叫ばなかったのか、とか、あのガラスを突き破って「やめて!」と、なにかアクションを起こせばそれで延期になったかもしれない、と。
本来弁護士はどんなに悪い加害者でも擁護して、その人権を守るのが仕事じゃないか。私はみすみす殺されるクライアントを見てしまったんだ。――そんな罪悪感がワーッと来て、それから1週間くらいふつうの生活を送れなくなったという話がありました。
それぞれの参加者がすごくリアルな体験をしてきているから、逆にパネラーを務める人たちもそういうのをシェアしたいんだと思うんですよね。
だから、パネラーがすごく経験があって、来ている人たちが「ああ、いいお話を……」っていう感じじゃないんですよね。会場全体がそういう体験をシェアしあう。
さらに、その場だけが大切なのではなくて、みんなでEメールの交換したり、電話番号交換したりして、そこでグループができていくんですね。その場だけじゃなく続いて行く。
私もいまEメールで、そこで知り合った何人かとやりとりしているし、場が広がって行くというか、それが必要なのかなと思います。
質問: リストラティブ・ジャスティスは、被害者の方から見たらこれは大変効果的なプログラムだと思うんですけれども、加害者の立場として見たら、これは果たして司法制度としてどうなんでしょう? 加害者が、加害者とはまったく関係のない被害者側の事情によって加害者がどうなるかが決められてしまうわけじゃないですか。そうなると、法の平等というか、同じ殺人を犯したのに被害者の家族の方が死刑に反対であったために死刑を免れた、同じ行為をしたのに被害者の家族が死刑に賛成であったために死刑になってしまった、そのような司法制度というのはちょっと成り立ちにくいんじゃないかな、と思うのですが。
リストラティブ・ジャスティスで、殺人事件の場合は、さっき説明した対話とかカンファレンスやサークル・センテンシングは全部、司法手続きが終わったあとにやるんですね。
犯罪が軽いもので初犯で、というようなあまり悪質ではないと見られた事件は、法廷で裁く前にもうひとつの道を作り、そこにこの修復的司法の委員会があったり対話があったり、という仕組みになっているんです。
これで死刑になったり死刑にならないっていうことは、それは非常に不公平だと思うし、それはいまのところあり得ないですね。
軽微なケースは法制度の中にある程度取り込まれるけれども、いまのところ重大なケースは、司法手続きが終わってから対話したりカンファレンスしたりということで、法制度の手続きが終わって、処遇が決まってからやる。
だからたとえばテキサスでは、死刑囚に、リストラティブ・ジャスティスの対話をするとか、そういうオプションができています。殺されてしまう前に関係修復してどうなるんだという意見もあるんだけれども、処遇が決まってからやるのが重大事件だというふうに考えてもらいたいんです。
リストラティブ・ジャスティスやトランスフォーマティブ・ジャスティスを、重大事件で最初から司法制度の中に組み込めってMVFRの人たちが言っているわけではなくて、あくまでも司法手続きを終えたあとにやる。その部分で、自分はやりたいかやりたくないかっていうオプションだと思うんですよ。
それ以上に発展した議論はそこでは出てきてないです。
質問: 処遇で量刑に組み込もうという話ではなくて、処遇とは別におこなうと。
そう。そういうふうに私は理解している。
で、死刑に対してはそもそも参加者たちは反対しているわけだから、彼らの議論の持って行きかたも、死刑に反対することの根拠のひとつに「犯罪をどう見るか」っていうことがあると思うんです。
「トランスフォーマティブ・ジャスティスとかリストラティブ・ジャスティス的な見方をしたら死刑なんておかしいんじゃないか」という議論をする人も結構いますよ。
質問: MVFRには同じ事件の被害者と加害者がいるんですか。
両方の家族が会員になっているケースはいくつかあります。でも、片手で数えるくらいだと思います。
質問: 被害者と加害者が対話をすること自体は、被害者が望めば、加害者と会って話をする場を設定できるということについての制度的な障害というのはないんですか。たとえば当局が会わせないとか、そういうことはないんですか。
州によっても違うし、地域によっても違うので一概に言えないのですが、私が把握している限りでは、いろいろな制度的障害は存在しています。あと、制度的障害ではなく、一定の条件を満たさなければできないということは当然あります。
たとえばテキサスでは、最近は死刑囚であっても申し込みができるようになっています。ただ、申し込んでも、どちらか一方が望むだけではだめで、両方が望まなければ対話は始められません。
テキサスでは、たぶんNGOだと思うのですが、修復的司法を運営しているところがあります。矯正局と提携をしていて、申込書をそこに出すとそういう場を設定してくれる。
もちろんアセスメントをして、本当にこのケースでやっていいのか、たとえば被害者の人がいくらやりたいと言っても、そのやりたい理由というのが、たとえば「懲らしめてやりたい」みたいなそれだけの理由とか、あと、加害者が全然反省していなくて、対話をしたがためにあきらかに傷ついてしまうだろうということが予想される場合などがありますよね、そういうのは避けます。
準備の段階がきちんとあって、NGOと矯正局で相談しながらテキサスはやっています。ミネソタもそうです。ミネソタもNGOと矯正局が提携しながらやります。対話をするときにはNGOの、きちんとトレーニングを受けた人たちがファシリテーターとして、重罰の場合は刑務所の中でやるわけです。
全部の州でそれが可能とは思わないですね。私も把握しきれてはいないのですが。
質問: 行政とNGOとの関係も含めて、アメリカの場合、かなりうまくいっているケースもあるということですね。
そうですね、「うまくいっているケースもある」ということであって、べつにどこもがうまくいっているわけじゃないと思う。
日本ではほんとに誤解されて伝わってしまっていると思うのですが、これはほんとに軽微なケースが一般的であって、こういう「死」が絡むケースというのは、アメリカでさえ本当に数える程度しかおこなわれていないんですね。
去年日本にも、アメリカからこの修復的司法の専門家がやって来て、お話ししてくださったのですが、彼なんかも、何年も現場を、こういう軽微な事件をやってきて、トレーニングをいくつもやってから深刻な事件のファシリテーターになったのです。
それが日本の場合、死が絡む事件にいきなりこれを適用してしまう傾向があって、私はちょっと最近こわいなっていうふうに思っているんですけど。
名古屋である学会があって、そこで修復的司法のワークショップがありました。それもやっぱり死が絡む、致死の事件でのロールプレイだったんですね。
こういうふうに、日本では、死のケースにいきなり適用してしまうわけですが、危険です。
被害者の方もプロセスが必要だけども、加害者のほうもプロセスが必要なわけですよね。加害者もふてくされてたり、悪いことしてないと思ってたり、してると思っていてもその表現方法が、なかなか表現できない人であったり。
いろいろ問題を抱えているから犯罪を犯すわけで、心からの反省がすぐできるような人間だったら逆に言うとそんな犯罪など犯さないんじゃないかっていう疑問もあります。
そうすると、やっぱり時間をかけて更生プログラムをやっていかなくてはいけないと思うのですが、なかなか日本では、懲役刑といっても仕事をさせているだけで、ほとんど更生プログラムなんていう概念がいままでなかったと思うんですね。
最近、少年院では「贖罪教育」と言って、被害者への理解を深めたり、謝罪の気持ちを高めたりとか、具体的に将来的にはどうやって弁償していったらいいのかということを踏まえて一部の少年院で始めたらしいです。でもその根本的な考え方も刑罰指向というか、とにかく「反省しなさい」というのがすごく多いんですね。
もちろん反省しなくてはいけないんだけれども、それに至るまでは、犯罪者もきつい家庭環境で育ってきた人が多いので、その受けとめをしていかないと、すぐに謝罪とはいきません。
1ヶ月、2ヶ月でできるものではなく、それなりの時間とプロセスが必要なんです。
いま、いろんなところでロールプレイとかやっていますが、果たして死の事件で対話するという発想がいいことなのか。軽微なレベルで取り組みが何もなされていない中で急ぎすぎないほうがいいというのはすごく感じますよね。
欧米でもジレンマを抱えながら……アメリカは特に重罰指向です。ものすごく厳しい罰の指向がある中で、でも同時に更生プログラムというものが昔からの流れとして、刑務所の中でも少年院の中でもおこなわれてきているので、ジレンマを抱えながらですが、でも、その両方――軽微な事件における取り組みの実績と昔からの更生プログラムと――がある中で、修復的司法も適用できる余地があると思うんですね。
そういうステップを飛ばして、日本で、いますぐ致死レベルでできるのかっていうのは、私はとても疑問ですね。
質問: アミティ*の更生プログラムのような手法をやったうえで修復的司法に取り組む……という考え方は?
*アミティ:
米国のNPO。犯罪・薬物依存といった、他人・自分へのさまざまなかたちの暴力の根源に虐待があるという精神分析医アリス・ミラーの考え方にのっとった更生プログラムをおこなっている。
詳しくは「アミティを学ぶ会」ホームページ
http://www.cain-j.org/Amity/
最初取材をしたときに、「アミティと修復的司法がドッキングすればいいのに」と、じつは私も単純に思いました。
アミティがやっていることは加害者へのケアであって、一方、修復的司法は両方なのですが、どちらかというと被害者に重点を置いて「加害者にどうやって向き合うか」ということをやっていると思います。
その両方がドッキングして、さらに被害者への支援みたいなものもドッキングして、そうしたらいい社会になるのに、と思ったのですが、ひとつのジレンマはさっきから話に出ている致死の事件。
すごく複雑だと思うんです。
「死」だけじゃなくて「性」が絡む事件も同様に難しい。
アミティの人たちに「修復的司法をどう思うか」と聞いたら、「あれはあれでいいと思うけど、『修復し得ない』関係っていうのもあると思う」と。
被害者のほうが「会いたくない」と言う場合もすごく多いですし。
アミティのプログラムは刑務所の中でもおこなわれていて、たとえば終身刑の人たちがスタッフになったりするんですね。
そういう人たちに話を聞いたら、被害者の人たちに自分たちがコンタクトを取ると、カリフォルニアではハラスメント罪になるんですって。加害者から被害者に直接やるのは「いやがらせ行為」というふうに見られてしまう。
だから、弁護士を通さないといけないのですが、弁護士を通したら、ふつう被害者には連絡を取らせてもらえないんですって。弁護士が打診したとしても、被害者は「いやだ」と言う人が多いし。
日本でも原田正治さんという死刑に反対している遺族の方がいらっしゃいますが、彼も10年間、加害者から手紙を受け取ったけれども開封しなかったと。
そういう被害者の方は多いと思うんです。そうすると、加害者からのアプローチで修復的司法をやろうと思っても、被害者に会う道というのは閉ざされちゃってるわけですよね、制度として。
それがひとつと、あとはあまりにも深刻で修復しきれないこともある。
アミティでは、自分のやったことに目を向けさせるためにはなんらかの修復を自分の中でさせなくてはいけないということで、たとえば被害者に宛てた手紙を――実際に被害者には出さないんだけれども――書いたりしている。
あと、「サイコドラマ(心理劇)」。誰かを被害者に見立てて、それで謝罪するシチュエーションを作る。または、自分を語らせるシチュエーションを作るとか、修復的司法「的」なアプローチはアミティの中でもやっているんですね。
MVFRで出会った心理療法士の人からも同じような例を聞きました。
その心理療法士は、幼児性愛者専門の刑務所で心のケアをしている人です。最近使っている手法に修復的司法があるのですが、実際の被害者と修復することが難しいわけです。その被害者が3歳だったり0歳だったりした場合に、対応できませんよね。
その場合は被害者のほうは被害者のほうでケアを受けて、加害者のほうは、自分の中で修復させなきゃいけないから、幼児性愛者だけでグループを組ませて「模擬修復的司法」をするんです。その中でだれか一人を被害者に見立てて、それで話し合いをする。それが非常にうまくいくっていう話をその人から聞きました。
だから日本の場合も亡くなったケースで直接被害者と加害者を会わせるんじゃなくて、模擬的なことを踏んでからやっていくとか、そういう取り入れ方もあるんじゃないかなと思います。