シスター・ヘレン・プレジャン 
    デッドマン・ウォーキング ノー・モア 





 第1部

 シスター・ヘレン・プレジャンの講演





みなさん、こんにちは。
きょうは本当に「特別な日」だと思っています。と言いますのも、原田さんと対談ができるからです。
原田さんは日本でもとてもユニークな特別な存在であり、その方とステージを共にすることができて、本当に特別な日です。

きょうはみなさんをひとつの「旅」にお連れしたいと思います。
その私の旅というのは『デッドマン・ウォーキング』の中でも書いていますが、いかにして私が死刑廃止運動に関わるようになったか、そしていかにして被害者の遺族の方々たちとも接し、彼らを理解するようになったかということについてお話ししたいと思います。

でも、日本の方々も私と同じような旅をなさっているのだと思います。
みなさんもそれぞれが、本当に死刑しか道がないのか、死刑が唯一の道なのかということをいろいろと自分の胸に問いかけていらっしゃるでしょう。
非常に恐ろしい犯罪、あるいは暴力的なことが行われたとき、死刑を執行することによって、その恐ろしい暴力を同じように私たちも繰り返してしまう。
はたして、それしか道はないのでしょうか?



貧しく、社会の片隅に追いやられた人たち

私はカトリックのシスター(修道女)です。私は、シスターが一般にすると思われている仕事――たとえば学校で教えること、教区での仕事に携わること――をいろいろと経験してきました。でも実際に貧しく、社会の片隅に追いやられて苦闘している人たちと直接的に触れ合うということはありませんでした。

しかし、福音書の中にもあるように、貧しい人たちのことを知るということで、私はひとつの精神的な「目覚め」を経験しました。
これはイエス・キリストがなさったことと同じです。イエス・キリストはつねに貧しい人たち、権利を剥奪された人たち、周辺に追いやられてしまった人たち、すなわち追っぱらってしまえばいいんだと思われている人たちの側に立っていらっしゃいました。

私たちは貧しい人たちと分け隔てられていると、彼らについてはごく画一的なイメージしか浮かんできません。あるとき、貧しい人について作文を書くようにという課題を与えられた一人の少女が書いたものはこういう調子でした。
「この家はとても貧しい一家であった。お母さんは貧しく、お父さんも貧しく、子どもたちも貧しく、そして家の執事も貧しく、それから運転手も貧しく、庭師も貧しかった。だからとても貧しい家だった……」

その後、私は、ニューオリンズ都心部の非常に貧しい公営住宅の地区に移り、そこでアフリカ系アメリカ人の人たちが、貧困と人種差別にあえいでいる実状に触れました。
そういう人たちと触れ合うことは、私にとって本当に目からうろこが落ちるような目覚めでした。これだけの不正義がゆるされているのかと、とても衝撃を受けました。
たとえば、彼らは学校に行ってもなにも教えてもらえず、警察の処遇もひどく、それに仕事を求めても見つからない。
それはただ単に、その肌の色ゆえに、このような不正義が行われているのです。



死刑囚との文通

そういう貧しい地区で働いていたある日、プリズン・コアリッションという刑務所連合のようなところの人から、受刑者の文通相手になることに興味はないかと聞かれました。そこで私は、もちろんなってもいいと答えました。
それはちょうど1982年でした。ルイジアナ州では1960年代からずっと死刑の執行はなかったので、私が文通相手として手紙を書き始めた人が実際に死刑囚であり、そして電気椅子で処刑されることになる人だということは、まさに考えもしていませんでした。

私が彼に手紙を書きますと、すぐに返事がきました。その返事には、「Dear, sister Helen(親愛なるシスター・ヘレン)、お手紙をくださってありがとう。私はずっとひとりぼっちでとても寂しいのです。ですから、文通相手になっていただければ本当にうれしい」とあり、それ以来、私たちは定期的に手紙のやりとりをするようになったのです。

そうした手紙のやりとりを通して、彼には刑務所を訪れてくれる人がだれ一人いないことも知りました。そこで私は、それなら自分がその死刑囚の独房を訪ねようと決めたのです。

『デッドマン・ウォーキング』でも書きましたが、初めてそのようなところに行くというのは本当にビクビクするような、もう恐怖がいっぱいの思いでした。
ニューオリンズから彼のいる刑務所までは、車で2時間半の道のりでした。刑務所に着くと、看守が私を中に連れて行ってくれました。
ゲートがあります。たくさんのゲートひとつ、またひとつ、またひとつと、私が入るたびにそのゲートはパタッと後ろで閉じられます。
いったいどこまで歩いていくのだろうかと思ってついて行くと、ちょうど角を曲がった所に格子で囲まれている場所がありました。そこにはグリーンの扉があり、その上には赤い文字で「死刑囚監房」と書かれていました。
私がその部屋に入りますと、看守はその部屋の扉を鍵で閉めていき、パトリック・ソニアという、私が会う死刑囚を連れに部屋を出ていきました。



人間の顔

彼を待っている間、私は本当にビクビクしていました。こういう刑務所の中は初めてですし、私はこれからここで、その死刑囚に会うわけです。
たしかに彼はとてもすてきな手紙を書きました。けれども実際に会うとなると、どんな人かわかりません。殺人を犯した人だからとても恐ろしい人かもしれません。しかも私は2時間も死刑囚といっしょにいるわけです。
殺人を犯した人といっしょにいるという経験は初めてでしたから、本当にビクビクとしていたのです。

そして看守が彼を連れて部屋の中に入ってきました。
彼と私の間には2人を分け隔てるとても厚いメッシュのスクリーンがあります。私はおそるおそる目を上げ、スクリーン越しに彼の顔を見ました。
そのときに本当に驚いたというか、もうそこで私がいちばん感銘を受けたのは、彼の顔が本当に人間的な顔をしていたということです。

彼は微笑みながら、「シスター・ヘレン、私に会うために、こんなに長い間自動車を運転して遠くまで来てくれて、本当にありがとう」と言いました。

それ以来15年、私は死刑囚監房にいるたくさんの人たちに会ってきました。中には女性の死刑囚もいました。その一人がテキサス州のカーラ・フェイ・タッカーです。
彼女は2人を殺して死刑囚となったわけですが、そういう人たちと会ったときに、私がいつも感銘を受けるのは、その人たちの顔が本当に人間の顔だと、人間そのものの顔だということなのです。

社会がいまも死刑という制度を維持し、この制度を持つことができるのは、死刑囚の顔を見たことがないからだと思います。
死刑囚といえば、もう動物と同じだ、怪物だ、われわれのような人間じゃないんだ、だから殺してもいいんだ、処刑をしてもいいんだと、しばしばそういうふうに思ってしまうからです。



法の手続きへの疑問

その面会の2時間はあっという間に過ぎてしまいました。
彼には訪問客などだれもおらず、私がやって来て本当にうれしかったのだと思います。その2時間の間、彼がほとんど一人でしゃべっていました。
私は、彼がしゃべることに耳を傾け、そこからたくさんのものを受けました。
そこに私がいたという私の存在自体、これが彼にとってはすべてであり、うれしかったということです。

その1回目の彼との面談で、私は、彼が死刑の判決を受けたその事件の共犯者である弟は、死刑ではなく終身刑であることを知りました。
同じ犯罪を起こしながら、なぜ一人は死刑でもう一人は終身刑なのか? そのときに私は、いわゆる法の手続きというものに非常に疑問を持つようになりました。

人間の「生」、人生というものは本当に複雑なものです。たとえば、誰かが有罪であるかどうか、罪を犯したのかどうかを決めるのも、本当に難しい、複雑なことです。
実際に白状をして有罪・無罪と決めていくと言いますが、いまアメリカでは、罪を犯していないにもかかわらず死刑囚の独房に入れられている人が93人もいます。
現在は裁判の過程でDNA鑑定など、いろいろな鑑定方法もありますが、それでも無罪のままに冤罪で刑務所に入れられてしまうのです。
日本でも状況はそんなには変わらないのではないでしょうか。はたして日本ではどうなんでしょうか、と思います。

たしかに、だれか罪もない人が殺害されたときには、私たちは大きな怒りを感じます。
そのような怒りを感じるのは当然だと思います。これは正当なことであり、そういう怒りがあってこそ、われわれの道徳的な感受性も存在するわけです。
だから、そういうふうに怒りを感じるがゆえに死刑を求めるのかもしれません。
しかし、それを決めるのが政府であるということが問題なのです。政府にはいろいろな欠点があります。また、これを構成する人間もとても脆弱です。そういう中で、その政府が死刑について決めることこそが非常に大きな問題なのです。

面会を終えて家に向かって車を運転しているときに、私はいま会ってきた死刑囚のパトリック、そして彼の弟についてもいろいろ思いをめぐらせました。
そのとき私は、死刑については何も知らないけれど、これから死刑について学んで行こうと強く思ったのです。
私の父は弁護士でしたが、私自身は法律や法的な事柄については何も知りませんでした。でも、「これからは専門家になろう。特に死刑に関しては専門家になろう」、そういう気持ちでいっぱいでした。


死刑に対するアンビバレントな感情

数か月して、再びパトリックを訪問しました。それからはいつも、彼を訪問するたびに弟のエディも訪問するようになりました。
こうして私は、この兄弟について知るようになったのです。
犯罪そのものに関してはとりたててたくさん知っているわけではありませんでしたが、私はここでひとつはっきりと確信できることがありました。たしかに彼らは、恐ろしいことをしました。でも、だからと言って、彼らの人間としての命は奪ってはいけないということです。

それから数か月後、私はまた刑務所連合の事務所に行き、ソニア事件について知りたいので、その背景情報があるかと聞きました。そうすると、「もちろんある」と言って、非常に分厚い、彼らの事件をまとめあげたたくさんのファイルを持って来ました。

そのファイルのひとつを開くと、いちばん初めにあったのが新聞の記事でした。
そこには10代の男女2人の写真が載っていました。1人はデイヴィッドという17歳の少年、もう1人はロレッタという18歳の少女でした。その記事の見出しは「10代の若者、殺害される」というものでした。
また、その記事にはパトリックとエディの写真も載っていました。でも、その写真は笑い顔などではなくて、本当に恐ろしい表情をした、まさにこういう恐ろしいことをした男たちという2人の写真だったのです。

実際にその事件はどういうものだったのかということを、その記事で読みました。そこには非常に細かく、恐ろしい詳細が載っていたのです。
それによると、夜、パトリックとエディが銃を持ってうろついているときに、ある人の地所で10代のカップルが車を停めて中にいるのを見つけました。
ソニア兄弟は、自分たちが警備員であるというふりをして、「お前たちは他人の家に侵入している」と言いながら、カップルに近づきました。彼らは、「禁止されているところに不法侵入しているから、お前たちのことを報告しなければいけない。でも、女の子がわれわれとセックスをするのなら報告はやめてやろう」と言いました。
10代の若者4〜5組くらいが、彼らによってそのような目に遭っているのですが、しかしそれまでは殺害されることはありませんでした。ところがこの日に限っては、その10代のカップルが殺害されてしまったのです。女の子はレイプされていました。2人とも顔を地面にうずめて、頭は後ろから撃たれていたのです。

私はその詳細を読んで本当に恐れおののきました。まだこれから人生を始めるという10代のなんの罪もない2人に対して、こんなにも恐ろしいことができるのかと。
しかも、この恐ろしいことをした2人というのが、私が実際に知っている2人なのです。

罪のない人たちにこんなことをしたということを知ったときに、そこで激しい怒りや憤りを感じない人などいないと思います。ですから私も、われわれ全員が持っている死刑に対する非常にアンビバレント(相反する)で曖昧な気持ちを理解することができます。
こういう恐ろしい犯罪を知って怒りを感じない人はいませんし、こういった恐ろしいことをした人物は、もちろん死刑に値する、死に値するのだと、私たちは思ってしまいます。
そう考えると同時に、もうこのことをこれ以上考えたくないという気持ちを持つわけです。

私たちはだれしも、自分の愛する人が殺されたときには加害者にも死んでもらいたい、殺してやりたい、自分の手で加害者の命を、本当に苦しめて苦しめて奪い去ってやりたいと思うものでしょう。そのように思わない人というのはいないのではないでしょうか?

ですから、私たちはこの死刑という問題になると、非常に道徳的にアンビバレントで曖昧な、どっちについているのかわからないというような相反する2つの感情を持ってしまうのだと思います。
感情的にみるとものすごい怒りを感じる、しかしながら感情面だけではなく、他方で人権や宗教の問題、それから憐れみの心ということも考えます。私たちはその2つに相迫られ、非常に心が乱れて、どういうことを考えればいいのかわからないというな激しい混乱に陥ってしまうのです。


ある被害者遺族との出会い

そのあと私は、殺された10代の若者2人の親御さんを訪問してみようという気持ちにもなりました。でも、私は訪問することが、またとても恐ろしかったのです。
きっと彼らは怒りに満ち満ちているでしょう。特に私が、自分たちの子どもを殺したあの2人の兄弟の精神的アドバイザーであることを知れば彼らは本当に怒るだろうと思ったからです。
ですから私は、被害者の親は訪問しないと、その当時は考えていました。でも、それがいかに大きな間違いであったのか、あとになってわかったのです。

結局、私は被害者の家族に会いました。しかし、初めて会ったときの状況は、考えられる限りでは最悪のものでした。
ルイジアナ州では、死刑囚が処刑される前に恩赦を与えるべきかどうかを審査するための公聴会が開かれます。しかし、この公聴会は最初から人を敵対させるような仕組みになっているものなのです。つまり、そこに出席するときに、いったい自分はどちらの側なのか――その死刑囚の刑を執行しようとしている州の側なのか、あるいは死刑を執行しないで減刑というものを求めている側なのか、そのどちらなのかということをまず明らかにしなければいけないのです。

その公聴会が終わって、刑を執行するのかどうか、委員会が投票で決める結果を、私たちは建物の外で待っていました。
そのときに、ふと見ると、お嬢さんを殺されたウォルフさんのご両親がやはり歩きながら待っていたのです。彼らは私の目もまっすぐに見られないくらい、私に対して本当に怒りを感じていました。私がその視線を捉えようとしても、彼らはその私の視線を拒絶したのです。

そのうしろから息子のデイヴィッドを亡くされたご両親が歩いてきました。私は、きっと彼らもまた、私に対して非常な憤りを感じているのだろうと受け構えました。すると、男の子のお父さんであるレブランさんが私のほうに近づいてきて、「シスター・ヘレン」と呼びかけたのです。
「あなたはこれまでずっと、加害者であるあの2人を何度も訪ねていらっしゃる。それなのになぜ私たちを訪ねてくださらなかったのですか。私たちは、この死刑ということに関してどれだけのプレッシャーを感じていたことか……なぜ、そういう私たちを訪ねてくださらなかったのか」。彼はそういうふうに私に言いました。

「いったいあなたはいいままでどこにいたのか、なぜ訪ねてくださらなかったのか」。この言葉を聞いて、私はもう本当に衝撃を受けました。被害者の家族といえば、もう直ちに「もちろん死刑賛成だ」と私は考えていたからです。
ところがレブランさんは、「あなたはこれまでいったいどこにいたのか。この死刑ということが私たちにいかに重くのしかかって来て、私たちがいかにそれでプレッシャーを受け、大変な思いをしてきたか……それなのに、あなたはなぜ来てくださらなかったか」とおっしゃったのです。
私が行かなかったのは、ただ単に私が臆病であったから、怖かったからということに過ぎません。そこで私は、「申し訳ありません。ただきっと、私にはお会いになりたくないだろうと思ったからうかがいませんでした」とレブランさんに申し上げました。

被害者遺族の中で、私の手を取って、そして実際にいかに自分たちが苦しんできたかということを初めて話してくださったのが、このレブランさんでした。
実際に被害者遺族として、自分たちが心の癒しと和解をいかに求めてきたかということを初めて話してくださったのです。

ちょうどこのレブランさんも原田さんと同じです。自分たちの心の中に平和と和解を見つけるために、もう一人の人間の死という復讐の気持ちではなく、自分の悲しみと失ったものに関して何か心の中で和解を見つけたいと思っていらしたわけです。
このように聞くと、そんなことは不可能だとみなさんは思われるかもしれません。しかし、それがレブランさんの気持ちだったのです。

レブランさんはキリスト教徒でした。彼はイエス・キリストのおっしゃった、「叩かれたならば、相手を叩き返すのではなく、ゆるしなさい」という「ゆるし」、そしてキリスト教の伝統の中にある「憐れみの心」というものをとても深いところで信じている方でした。
ですから、自分の息子の死に対しては復讐を求めず、自分の心の平和のためにもやはり復讐は求めてはならない――復讐や憎しみに身をまかせると、自分も人間として滅びてしまう――そういうふうに思っていらしたのです。


死刑は被害者遺族の癒しになるのか?

『デッドマン・ウォーキング』の中でも書きましたが、私は、他の多くの被害者遺族にも会ってきました。その中のお一人、お嬢さんを殺されたあるご家族の方は、「とにかくもう死刑にされるのが待ちきれない。私自身が、自分の手で、あの電気椅子のスイッチを押したい」とまでおっしゃっていました。その方は、処刑を目撃してから外に出てきたとき、マスコミの前でこのようなことをおっしゃいました。
「あまりにもあっという間に簡単に死にすぎた。死んでしまったら、これからもう地獄の責め苦で、地獄の中でもう苦しんで、苦しんで、苦しめばいい」

この言葉は、加害者が処刑をされたところで、それによって遺族の心は癒されないということを表しています。
たとえ処刑場面を見たとしても、自分たちが味わっている大きな喪失感を癒すことはあり得ない、それは死刑によっても決して満たされることはないということを示すものでした。



そろそろ私の時間もなくなりました。これから原田さんのお話を伺うその前段として、私は自分の経験を話させていただきました。これからは原田さんご自身の旅について語っていただき、今度は原田さんと私で対談をさせていただきたいと思います。アリガトウ。



2001年1月30日
豊島区民センターにて



第2部 シスター・プレジャンと原田正治さんの対談へ


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