島に本を送る活動 |
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30年間続ける活動があと5年間になりました。本年は会員同志の交流を主とし、島に島の本を送る活動を充実させていきたいと思います。 |
「本を送る」ことの現状と意義 |
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雑誌{「しま」より許可を得て転載。 |
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平成1年12月に発行された『島』139号において“図書館と島づくりを考える”というテーマで特集が組まれた。その特集の中に私の加わっているグループの代表、河田真智子が、「島に本を送って十年」と題して、“ぐるーぷ・あいらんだあ”という集団の活動報告を寄稿している。 特集の、「離島の図書館運動報告」ともいえる内容の中で、河田の一文は少々趣を異にしている。それは、図書館ができる以前の、離島で暮らす人々の本が欲しいという思いと、それに応えようとしてきた、また応えてきたグループの活動報告であるゆえだ。河田は、十年余の経過を簡単に述べているが、十年間継続はひとことで述べてしまえるようなものではない。彼女の、“島”に注がれる熱いまなざしが、とぎれることなく続いてきたせいといえる。 |
“本を送る”活動に出会う私がこの“ぐるーぷ・あいらんだあ”に加わったのは、グループの持つ”島に関わっていきたい“という主題のせいではなく、常に思っていた“子どもたちに本を読んでほしい”という、島とはあまり関係のない理由からである。 当時、といっても1979年頃のことであるが、3年ほどかかって、子どもたちに読んでほしいと思うような児童書を集めていた。その送り先をどうするかと考えていたやさき、離島に送る本を集めているという記事が朝日新聞に掲載されたのが目にとまり、河田を尋ねたのである。 私は、この集めた児童書の送り先として、本の入手が困難なところ、また本を手にするであろう子どもたちが相当数いるところというように考えていた。 河田を尋ねたときには、グループのもとに集められた本は、すでに伊豆の青ヶ島へ東海汽船の手によって送られた後であった。だが、グループの活動として、島に本を送ることは続けていくという河田のことばで、グループに加わってみようと思ったのである。 |
図書に対する認識の変化1979年、河田は“本を送る”活動の基本的な資料の作成のため、50の島の教育委員会あてにアンケート用紙を送付し、回答を依頼した。返事が来たのは6通、再度の依頼で5通、計11通の回答があった。 このアンケートの内容は 河田は『11通のアンケートから正確な状況はつかめない。』と述べている。しかし12年後のいま(編集者注; この原稿の執筆時点)、このわずかな回答の中で、当時の島の「情報」としての図書に対する姿勢を、現在の状況と比較して類推することができるように思われる。 1.の質問に「ある」と答えたのは、奄美大島、瀬戸内の江田島、人口わずか200人ほどの伊豆の青ヶ島である。 1.に対して、「ある」と回答した奄美大島の場合は、名瀬市に鹿児島県立図書館奄美分館があった。そして、「中央公民館、小・中学校に図書館が完備しており、本島の場合には図書に困窮していないと思う」といいきっているのである。このことは、奄美大島全域において、情報としての図書を希求するものがさほど強くなかった、いや、ほとんどなかったのではないかということを思わせるのである。 他のものについては、公民館の図書室のほか小・中学校の図書室にある程度の冊数が揃えてあるという回答がほとんどであった。これが、1979年頃の、全国の離島における図書に対する認識の程度ではなかったかと思われるのである。 当時、離島においては、人材の育成よりも港や道路の整備、各種施設の充実といったようなところに施策の重点が置かれていたのではないだろうか。そして何年間かの間に港が完成し、道路が良くなり、施設が整ってきた。その結果、大都市とさほど変わらない生活物資が地方の末端にまで行きわたるようになってきた。所得格差は依然として存在するとしても、生活の画一化は好むと好まざるとにかかわらずどんどん進んできたのである。 今日まで、離島の生活のレベルアップには、行政が大きな役割を果たしてきた。そのひとつとして、現在全国の離島に港があり、沖に停泊している大きな船からはしけを用いて上陸しなければならないといったような島は、ほとんどなくなったといってよい。 このように、国の施策に盛り込まれたものが離島にほぼ行きわたった状態の中で、それだけでは満たされないもの、間に合わないものがあることに人々は気づきはじめたのではないだろうか。 現代は、中央から地方に向けてさまざまな信号が発信されている。その信号をキャッチし、分析し、自分たちのものとしていく能力、あるいは技術の必要性といったものも意識されだしてきたのであろう。あるいは良質の情報の欠如といったことが、一部の住民にも意識されはじめているように思われるのである。そしてこのような認識が、おぼろげな形となり、住民のさまざまな活動として現われ、また具体的な形として文庫の設立、さらに図書館設立運動へと発展してきたのではないだろうか。 ここでとりあげているのは、図書館という“情報の集積スペース”としての施設であるが、近い将来、情報だけではなく、訓練や経験、学習などを必要とする“福祉のソフト”という、形で捕らえることはできないが個人のうちに存在しているというものも、住民の要求するものとしてとりあげられてくるものと思われるのである。 |
認識の変化の現われとして1990年夏“あいらんだあ”の“本を送る”という活動が地方の新聞数紙に掲載された。まず反応があったのが“本を送りたいが”という提供者からのものだった。次に、高知県宿毛市にある沖の島の開発総合センターの山本卓史氏から“提供してもらえるか”という問い合わせがあり、続いて沖縄県糸満市大里区、久米島の具志川村、さらに1991年に入って沖縄県西原町にある養護施設、県立森川養護学校からも身体の不自由な子どもたちに本を、という問い合わせがあったのである。 私たちのグループではこれらの問い合わせに対して本を送ることで応えていこうとしているわけだが、河田がアンケートを送り回答を依頼した12年前に較べると、図書館に対する認識がずいbんと変わってきたように思われる。 個人のレベルにしろ、地域全体という捉え方にしろ、なにかしなければいけないという意識が、人々の間に生まれている。そしてその1つの現われが“本を送って”というような要望となっているのではないだろうか。 |
糸満市大里区の文庫1990年9月、沖縄県糸満市の公民館から「本がほしいのだが」という問い合わせと、夏休み期間に一時的に開かれた文庫の報告、さらにこの文庫を常設とするための準備委員会の会順〔図1・2)を同封した便りが送られてきた。この問い合わせに対し、もちろん送る用意があること、またどのようなものしなるかといいうサンプルの意味も込めて、公民館の内部ににある大里文庫に、本の小包一個を送った。何回かの便りの交換は、この文庫を設立する活動のとりまとめ役との間におこなわれた。大里区の場合は、教育委員をしておられる山城光子氏がそのまとめ役であり、活動の中核をなしているらしかった。 文庫を開設するということは簡単にはできないことである。それなりの理由があるはずである。そこら辺りの事情をたずねてみた。 文庫を開くに至った理由というのは、沖縄地方全域の抱えている問題のひとつ、全国に比較すると格段に低いといわれている児童の学力の格差を解消していきたいというものであった。 現在、沖縄県下において、学童の学力を向上させようという運動が進められているが、文庫の開設はその運動のひとつなのである。これは何年も前に考えていなければならないことなのであるが、最近、中央との画一化の進むなかで、この学力の格差というものが、より痛切に感じられてきたということなのであろう。その結果として“学力向上推進協議会”なるものが発足し、活動のひとつが「文庫の開設」になったと考えられる。 1990年の8月、大里公民館で一時的に開設された児童文庫の図書は、図1でみられるように多くはないが、集めるのに苦心した跡がうかがわれる。恐らく、さまざまなものが集められたであろう。そして質の善し悪しを問わず、子どもたちはたいへんよく本を読んだ。 この、子どもたちの本に対する熱意が、おとなたちの常設の文庫の開設をという活動のエネルギーとなったのではないだろうか。これは準備委員会が児童文庫の終わりに近い8月末に開かれているということから推察される。 準備委員会が開かれた4ヶ月後の1991年1月、大里文庫が誕生した。開設するにあたり準備された図書は、図3のように種々さまざまである。月刊誌の237という数字は、各家庭にある雑誌を、すべて集めたのではないかとも思われるのである。これは担当者がいかに苦心しているかということを物語っているように思われる。 さて、子どもたちに文庫を開いたから本を読め、というのはどうもおとなの勝手のような気がする。だいたい子どもとは本が好きなのである。本来はもっと前に、そのような施設が作られていなければならないのだが、そのような場を用意するはずのおとなたちは、道路や建築物が立派であるほうがよいらしく、その方面に力を入れてきた。子どもたちのことを考えてみると、今さらなにを、という気持ちにならないでもないが、地域の意識が情報、あるいは学習という面に向けられてきたということは、子どもたちの将来にとってよいことと考えられる。 |
子どもたちの読書意欲に応えられる本を図3にある表に児童図書510という数字がある。新しく開かれる図書館がまず最初に目指すものは児童書の充実である。この大里文庫の510という数字も、児童書に重点が置かれていることを示している。 充実させるという意味の真意は、子どもたちが楽しんで読める本を揃えるということにある。20冊、30冊と同じような表紙のハードカバーのシリーズの本を置いて、充実したと考えるとしたら、それは間違いである。 私が中学生であった昭和26〜8年当時、中学校の図書室に並んでいた本は、ほとんどがおとなのいわゆる文学作品であった。当時の子どもの本といえば、エジソンとか野口英世といった人の伝記がわずかに書架に並んでいた。中学校の図書室に入ってくる本は、戦後初めて出版された角川の「昭和文学全集」であったり、三笠書房の「現代世界文学全集」といった、中学生向きとはいい難い一般の図書であった。そのうちに、岩波書店が「岩波少年文庫」を発足させた。学校の図書委員をしていた私は、新しく入ってくる何冊かのなかに、この少年文庫を見つけると、書架に並べる前に読んでしまうのが常であった。そのうちの何冊かは今でもはっきり思い出すことができる。岩波少年文庫のなかの「くるみ割りとねずみの王さま」「みつばちマーヤのぼうけん」、あかね書房の赤い表紙の「パール街の少年たち」等々。もう35年も前の話であるが、現在の大里の少年たちより恵まれていたように思える。 さて本題にもどろう。 現在では、児童書と言えるものが、数え切れないほど出版されている。もし、子どもの本に造詣深い係りの人がいて、ある程度の予算が準備されたなら、子どもたちを活字の世界にのめり込ませていけるような素晴らしい本の選定をすることもできるだろう。それほど面白く、感動をさそうような本が出版されているのである。 このことは35年前よりも恵まれているといえる。経済的な裏付けがあれば、よい本を購うことは可能である。そのために必要な情報は十分に用意されている。 大里文庫の場合、図3に見られるように、本ばかりではなく、僅かではあるが経済的援助もなされている。このうち幾莫かは子どもたちのために向けられるのであろうが、真に子どもたちのことを考えた図書を入手するよう考えてほしい。世の中には、出版社の売り上げを増やすためだけに企画され、出版される本もままあるからである。 |
石垣島ダンボールぶんこ1987年、石垣島に住むあいらんだあの会員から、絵本の文庫を作りたいのだが何とかならないだろうかと相談を受けた。 その絵本がほしいという要望を出した人たちは、大都会から石垣島に移り住んだ家族の母親たちで、彼女たちの幼年期には身の回りに絵本があるのが普通であった。ところが移り住んだ石垣島では、自分たちの望むような絵本を入手することができない。このことが文庫を作りたいとする動機といえる。購入したくとも本屋さんもなく、図書館の利用にも限界があるというありさまのなかで、古い本でもよいからとにかく絵本を、という要望になったのであろう。 絵本を集めるにあたっては”ぐるーぷ・あいらんだあ”の会報で会員に呼びかけをおこなった。「絵本がほしい」というグループの要望に、東京・目黒の緑が丘にあった旧「ありんこ文庫」〔代表・有木昭久氏〕から、「文庫は閉鎖したが残っている本があるのだが」とダンボール4箱の絵本、児童書が送られてきた。他に呼びかけて以来、少しずつではあるが、絵本・児童書がグループのもとに寄せられてきている。それらが「石垣島ダンボールぶんこ」に送られる絵本で、以後、2ヶ月に郵便小包1個〔20冊〜30冊〕ほどのペースで送ってきた。 この「石垣島ダンボールぶんこ」というのは本が1カ所に集められているという文庫ではなく、絵本の入ったダンボール箱が、会員の家庭を次から次へと回って行くというシステムが採用されている。 内容については、絵本ばかりではなく、わずかではあるが学童向けの読み物やお母さんたちが読めるようなものが入っている。しかし、この状態では全体のなかから読みたい(見たい)本を選び出すことはできず、将来は1カ所に本を集めた常設の”文庫”にしたいというのが、会員の希望である。 送ることのできた絵本は、主として会員から寄せられたものだが、一部には私個人が用意したものもある。絵本の内容については、子どもたちに好かれるものを、と考え、図書館の児童室の絵本が並べられているスペースを観察したり、絵本について書かれた報告や評論等を参考にした。送り初めてから1年余経過した時点で、子供たちに好かれたものとしては「ぐりとぐら」「カマキリのチョン」(福音館書店)や「11ぴきのねこ」(こぐま社)などがある。 絵本を選ぶ考え方として、原作を子ども向けに作りなおしたもの、たとえば白雪姫とかシンデレラといった既成の物語を絵本化したものは避けるようにした。はじめから絵本として作られたものを送りたかったからである。また絵本のみではなく、若干の児童書を送った。会員である各家庭では子供たちはまだ幼い。母親の本を読んでいる姿をみることができればと考えて、灰谷健次郎や今江祥智のものもいくらか送った。 このグループが発足した当時は、会員はわずか5家族に過ぎなかったが、1991年の初めには2家族と増えてきた。移住者たちのグループであったものが、地元の家族が加わって広がってきている。親の近所づきあいということもあるが、会員外の子供たちが遊びにきて、いっしょに絵本を見ていくことが多いということである。 現在、絵本・児童書の数は500冊ほど、ダンボール箱に25〜26個ほどになり、一部は西表島にある“やまねこ文庫“にも4箱ほどが西表へ通う保健婦さんの手で運ばれ、子供たち用にと貸し出されているという。 |

漫画も役割の一端を担うのでは1987年、わずか一晩という短い滞在時間であったが伊豆の青ヶ島を訪れたことがあった。前述のアンケートにおいて、1.質問に対し図書館が「ある」と応えた島である。この人口200人ほどの島に、文庫ではなく、しっかりと形のととのった図書館がある。 蔵書は、一般書籍や児童書などの他に、相当量の漫画が置かれている。公立の図書館では、特に選ばれた一部の漫画が図書館に置いてもよいものとして選ばれ、児童書のなかに混じって並んでいるが、青ヶ島の図書館では漫画も図書の一部として子供たちに供用されている。これは、図書館の業務を担当した島の教育関係者のひとり、松原和史氏の柔軟な考え方、またそれをバックアップした当時の村長・故山田常道氏の応援、さらに子供たちに本に親しんでほしいと考えた周囲の心づかいもあったに違いない。 青ヶ島の図書館の蔵書に漫画がある理由は、島を出ていった人々からの寄贈が多いということからである。これらの漫画が、島の子どもたちにどのような影響を与えたかを調べることはできないが、少なくとも本を手にするという機会が多くなり、身近なものとして捉えられてきたのではないだろうか。このような状況が作り出され、その中で子供たちが育っていくとすれば、漫画だからといって無視することはできないように思われる。 昨年5月に誕生した、鹿児島県大島郡知名町(沖永良部島)の町立図書館で、書架に並べられずに置いてある何種類かのハードカバーの漫画をみた。この何冊かの漫画は、鹿児島県立図書館が知名の図書館に貸し出したものなのだが、図書館に漫画を置くなどは許せないといったおとなの狭量のせいで書架に出されないのである。漫画がダメというそれだけの理由で、子どもたちが感動するものに接する機会が失われるとしたら、はなはだ残念である。 児童書の書架に並べられている本のなかには、私個人としては置きたくないものがあるのだが、漫画というだけで否定的な態度をとるものには、活字が並び、同じような本が20冊も揃っているというだけの外見で良いものというように思い込み、内容については何ら知らぬこれらの本が並べられていることについての批判はないのである。 |
蔵書の量の確保か質の維持かこれからは図書館設立運動が各地で展開されることになろうが、その前の段階として、地域の“文庫”設立もまた盛んになるだろう。こういうなかで、地域の力のみで文庫を開くには、地域住民に文庫の存在をいっしょに考えようとしていく意味も含めて、各家庭にある図書の持ち寄りを呼びかけることになる。 本の持ち寄り、本を集める寄贈という方法は少々問題がある。集められた図書が文庫に適当かどうかを考えたときすべてのものが良質のものとは考えがたい。 私たちが本を手放す場合、友人にプレゼントすることもあろうが、まとまった量となると、手もとにあるものを整理しようという気持も強いことは否定できない。図書館のまた文庫のための寄贈を呼びかけたとき、蔵書として扱うには不適当なものが混合することになる。狭い地域、あるいは島において、寄贈した側の気持の尊重ということを考えると、蔵書として不適当な図書をどう扱うかという点についても、係りの人の抱える問題のひとつとなる。 私的な文庫、個人が開いた文庫ということであれば、主催者の好みが特色となっていて蔵書の数という点に問題はないのだが、地域の意志で作られる文庫については、蔵書の数を確保することがひとつの大切な要素となり、問題の図書も数として計算されることになる。 図書館や文庫がはじめに目指すものは、提供できる本の量の確保である。この場合、初期の段階では図書の質について考慮する余裕はなく、住民ひとり当たりの冊数の確保が第一の目標となる。冊数の確保ということは、図書館のおこなうサービスのひとつとして必要なことなのであろうが、数字のみで片付けてよいのだろうかと考えるのである。 図書館がおこなうサービスの目的は、良質の情報の提供ということではないだろうか。こう考えると、量・冊数の確保より良質の情報の確保のほうが優先されなければならないはずなのだが、そうはならずに蔵書の数何万冊が図書館運営の目標になってしまいがちである。 地域の図書館においては、住民ひとり当たりの冊数を増やすということを考えるよりも、住民にとって必要な情報の収集、あるいは良質の図書の提供ということを第一に考えてよいのではないだろうか。限られた予算、とぼしい情報のなかで、いかに良質の図書・情報を入手するかは、担当者のもっとも苦心するところであろう。この苦心の結果はおそらく利用率の向上ということになるのではないだろうか。図書館とは、蔵書の数よりも、利用率の高さのほうが高い評価をうけるものであるはずなのだ。 利用率の高さということを考えると、文庫といえどもその点の評価を受けなければならない。 |
地域住民の意識を高めていくにはしかし、文庫の持つ性質のひとつとして、地域住民の生活に密着したものであることが要求されるはずだ。これは、情報としての資料を整えることよりも、いかに利用者に喜ばれるものを揃えるかということに重点が置かれて良いはずである。もちろん良質の図書が揃えられるにこしたことはないが、子供たち、また主婦の利用ということを考えたとき、図書館で置くことのできない漫画や、読み物としてミステリー、タレント本など、その時々で話題になるようなものを揃えるということも考えられて良いであろう。 図書館の運営にあたっているのは司書と呼ばれる方々である。その運営についてはその方々が存在するので問題はないのだが、文庫についていえば、司書のような係員を置くことはないはずである。司書に替わるものとして、地域の人たちのなかで何らかの役割を果たしてきた人たちが、休日など文庫の開いている日に受付事務を引き受けるというのが普通の形態であろう。(図5) このような活動を援けるために、社会において本に関わりを持つものは、何らかの責務を負わねばならないのではないだろうか。私がこれから係わっていこうとしている「大里文庫」は、地元の人々の熱意によって設立された。大里区で起こったような動きに対し、コントロールするということではなく、指導や助言、情報の提供といった手助けがなされて良いはずである。そしてその役割を果たす機関ができ、存在が明らかになれば、値域の文庫を作るという行動、さらにその先にある図書館の設立運動へ指導的な役割を果たすことも可能ではないだろうか。 |
“本を送る”ということのうしろめたさ私は、ぐるーぷ・あいらんだあに加わり、“本を送る”ことに係わってきた。その中で感じていることは、本を送るという行為は自分を満足させることでしかないのだという否定的な思いと、山ほど本がある地域から本に恵まれない地域へ移すという行動はそれなりの意味をもつのだという肯定的な思いとがないまぜになって、これでよいのだという気持にはなれないのである。 しかし、現実には本を提供してくださる方々がおり、一方には本を受け入れて下さり、提供してくれた方々への感謝の気持ちを伝えてほしいという伝言もある。 このことを考えてみると、グループの活動ということが大事なのだということを第一とし、私個人の感情はうしろへ押しやってしまってよいのであろう。また本を受け入れた先で、それを手にした人たちが、自分たちにあったものを選んでいけばよいのだという、選択をまかせてしまう考え方もある。だが、本の好きなもの、読書の好きな人間として、やはり送る本の内容にこだわらずにはいられない。これは、私の読書歴のせいなのだろうと思う。 |
読むことによって成長する子どもたち最近、身の回りを見まわしてみると、机の上はもちろん枕元、テレビの上、バッグのなかなど、本の姿が見えないということはない。読む読まないは別として、とにかく手の届くところにも本があるのである。 このことは、私の幼かった頃、現在ほど本が溢れていないときにもそうであったように思う。幼年期には「のらくろ上等兵」が大好きであったし、とにかく家にはおとなの本があった。戦災で家が焼け、疎開した新潟県の高田市(現在は上越市)に住んでいた小・中学生時代にも、本の姿が身の回りから消えることはなかったといってよい。ことに中学三年の一年間は、本に囲まれていたといえる。 私の通った学校には、教室の二倍ほどもある図書室があった。中学三年の一年間の大半を、この図書室の中で過ごしたのである。それは、図書室の管理をしていた担任の教師が、受付の事務員がいるにもかかわらず、私に図書の貸し出し・返却の受付をさせた。このことは授業に出ず、図書室で本を読んでいてよいことであった。社会科を教えてくれた担任の教師ばかりでなく、他の教科の教師もこのことを了解していたようで、叱責されるようなことはまったくなかったし、そればかりか、音楽の授業の最中に呼ばれて受付をするなどという、今の中学生には考えられないような学校生活を送った。 この図書室に並べられている書棚のなかで、文学が並んでいる二個の書棚が私の目当てであった。そこには、児童書と共にくすんだ灰色の表紙の森鴎外、横光利一、泉鏡花、堀辰雄といった個人の全集と、ばらばらになりそうなおとなの文学書が並んでいた。そのなかから手にしたもので印象に残っているのは『怒りの海』(『非情の海』という書名でフジ出版から出されている)や、最近文庫本で復刻された『偉大な王』、また鴎外の『うたかたの記』『舞姫』などがある。後になって備えられたものに、角川書店の「昭和文学全集」、三笠書房の「現代世界文学全集」などが入っていた。その中からヘミングウェイの『誰が為に鐘は鳴る』、パールバックの『大地』などを読むことができた。しかし、中学生にとって、永井荷風、泉鏡花、またドフトエフスキーといった作家のものは、とても読むことができなかった。もちろん、当時出版されていた少年向けの雑誌に載っていた「少年王者」「地球SOS」「砂漠の魔王」といった漫画も、書店の店先の立ち読みで毎月欠かさず読んでいたのである。 中学時代に培われた読書癖は、中学を卒業し、東京の印刷会社へ住み込みで就職してからも続いた。印刷会社からは、神田神保町の古本屋街へ三分もあれば出ることができた。このころは、本よりも映画という時代ではあったがそれでも本を読むことができた。このころ読んだものに『風と共に去りぬ』『白鯨』『次郎物語』などがあった。 この中学から高校生の年頃に読んだもののなかに児童書があるかどうか考えてみたが、印象に残っているものがほとんどないのである。そのなかで、小学校の図書室から持ち出し、長く手もとに置くことになった『北欧神話』が印象に残っている。 二十代、三十代の読書は、興味本位の乱読であった。しかし、いつのまにか永井荷風が面白いと思えるようになっていたし、泉鏡花の現代ばなれした文章も抵抗なく読むことができるようになっていた。 |
よいものを用意しておく努力を私が児童書を読むことになった契機は、三十代の後半、書店で手にした『指輪物語』(トールキン著、瀬田貞二訳、評論社)であった。そのあとがきから、『ホビットの冒険』『ナルニア国物語』といった物語など、イギリスの作家による児童書を読むことになった。 日本の児童書のなかに、伝記、また文学作品の名作といわれているものを子ども向けにやさしく書きなおしたものがある。このようなものは、おとなが読んだとき、まったく感銘を受けることがない。おとなが面白くないものは子どもにも面白いはずはないのである。すぐれた文学作品は、できるだけ原作に近いものに触れたほうが、心に残るはずである。ダイジェストされたものを読んだだけでは、原作のもつ香り高い趣き、心に沁みてくるような思いを得ることは決してない。 イギリスの作家の手による、子どものために書かれた本はおとなが読んでも面白い。それは、作者のもつ思想をひとりの人間に伝えたいというような書き方で書かれているからなのではないだろうか。おとなが子どもに向かっていいきかせるというのではなく、子どもも、おとなと対等な個人として扱われているということなのだろうと思う。これは幼児向けのものを読んでも、決して、“言い聞かせ”ということが感じられないことからもわかるはずだ。 そのような過程のなかでめぐりあった本が、『運命の騎士』『ともしびをかかげて』(ローズマリ・サトクリフ著、猪熊葉子訳、岩波書店)の二冊であった。 私は、自分の生き方について、考えさせられるような本にはあまり出会わなかった。しかしこの二冊は、生きていくということについて考えてみたいと思わせる、内容を持っているのである。長い読書歴のなかで、生きていくということを考えさせてくれたのは、私自身が稚いせいなのだろうが、おとなのための文学作品よりも、子どものために書かれた本である。 大きな書店の児童書のコーナーには、子どものための本が並んでいる。そのなかに創作童話といって、日本の作家の手になったものが並んでいるのであるが、子供たちによって読み継がれていくような童話、物語を探すのは難しい。しかし絵本にしろ児童書にしろ20年以上も前から、あるいはそれ以前から現在に至るまで、絶えることなく書店の店頭に並べられていたものもある。このことは、長い年月の間に子供たちの手によって選ばれてきた本といえるのではないだろうか。 良いものを選び出すのは難しい。しかし新聞の書評や児童文学論などに目を通すことで、ある程度の水準のものを探し、読むことができる。他にも世界各国で出版された児童書に与えられる文学賞があって、そのなかでもイギリスにおけるカーネギー賞の受賞作品のなかには、今世紀最高の傑作といわれる『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス著、高杉一郎訳、岩波書店)といったものもある。日本においてもいくつかの文学賞があり、それらの受賞作品は読みごたえのある、重みを感じさせるものがあるのである。 20年ほど前、あかね書房から「国際児童文学賞全集」という24冊ほどの全集が出版された。そのうち何冊かを読むことができたのだが、いずれも読みごたえのある楽しいものであった。今では絶版となっていて入手することが難しい。古本屋を探しても見当たらないのは残念である。 |
なにげなく読書ができるようにということ子どもたちに本を読んでほしいという私の思いは、子どもたち自身に“自分の考え”を持ってほしいということなのである。いいかえると、自分の“価値観”を持てということなのだ。そのために必要なのは経験、体験なのだが、読書はその体験や時間をいつの間にか自分のものにすることができるという役割を果たす。そういう意味で本を読むことは大事なのである。しかし、本がなければできないことだ。「本の少ない地域に本を移す」という作業を続ける理由はそれだけのことなのである。 常に本を読むことができるということは“学力向上”ということばかりではなく、自分の世界を拡げることができる。その視線は、身の回りから日本、さらに世界へと延びていくはずだ。また、読書を続けることで、いつの間にか少年期に読めなかった本も読めるようになる。これは成長している証しでもある。 私はこんなことも考える。将来、パソコンの発達によって、どんな僻地でも自分のほしい内容の図書を手に入れることができるようになることを。これは、各地域に図書館を作り、そして充実させていくということで可能になるだろう。 “本を送る”という活動は、生活のなかに本を溶け込ませていくこと、読書がテレビを見ることと同じような習慣にまでなるようにということを目標として続けていきたいと考えている。 |