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八島メモ


ただのメモなので、読みにくいですが、山口県の高齢化の進んだ島の、平成13年現在の記録としてお読み下さい。


二月の日曜日(2001/2/18)、山口県熊毛諸島八島へ。

日程
2/18
0811大竹→柳井
0850柳井駅→上関渡船場 乗客は数人
1000上関→八島 乗客は4人。釣り2人(夫婦か)、地元の女性。
1710八島→室津 乗客は3人。行きと同じご夫婦。挨拶もしない。
1752室津港→柳井駅 乗客は数人。
1849柳井→岩国 途中由宇で寝台特急に抜かれる
2005岩国駅→栄橋

天候
曇りのち晴れ3時頃までは時々ぱらぱらと雨がふる曇り。後、晴れる。

八島集落
集落は斜面に沿って広がっている。大きい家が多い。梁は立派で太さが50センチ以上もあったりする。石垣を張り巡らせ、祝島ほどではないがなかなか壮観だ。人間のパワーを感じさせる。しかし石垣が守る家々の半分以上は空き家。軒は傾き、中には天井が落ちているものもある。どの空き家もここ十数年のものと思われる。
海に面した小学校のあとは門と創立百年記念碑(1974年)、朝礼台、風力・風向計を残して空き地になっていて、門の向かいに給食室だけが残っている。中にはいると数組の金属の食器がおいてある。錆びついた冷蔵庫もある。薪式を改造しバーナーを取り付けた煉瓦造りの調理台の上には棚があって、これはだいぶん使われていないようだ。学校の校庭あとに白いコンテナが二つおいてある。これが八島地区高齢者コミュニティーセンター、らしい。戸を開けてみると一つはカラオケルーム風、もう一つは小さな和室となっていてカラオケセットがおいてある。カラオケルーム風の方は使う人もいないらしく、入り口にまで蜘蛛の巣が張っていた。
集落を見下ろす高台にもう二十年も使われていない保育園があった。建物はまったく傷んでいない。浄土宗の住職さんの家の敷地だから、家の一部として使っているのかもしれない。非常にせまい庭にはブランコがある。しかし、ブランコの鎖は錆びて、切れてしまってぶら下がる板はない。

【道で会ったおばさん】
人口は70人ちょっとではないか。
大きい家が多いのは、ハワイの移民が戻ってきて、家を建てたのだ。
しかし現在はまた空き家にしてしまって、どこかに行ってしまった。

【寺山氏 浄土宗の住職。奥さんは郵便局(簡易局)職員。】
シマダスでは人口96人。しかし現在は51世帯80人弱と思う。
ここ数年で急激に生活基盤が揺らいでいる。
上関町の八島分室は昔は職員を島から出していたが、今では月〜金、泊まり込みで職員が派遣される。
農協・漁協の八島支所は週に一回(水曜日?)、職員が日帰りでやってくるのみになった。
郵便局は数年前から辞めたいと思っているが、後継が居ないので辞められない。本土側の病院は平日しか外来を取らないので、特別な許可を取って平日の金曜日など、通院のための休みとしている。数年前、あと5年だけやってくれと言われたけれど、このままずるずるとやらないといけない気がする。
浄土宗の住職をやっているが、檀家は島内25軒ほど。島外にも多い。法事等で島外に出なければならないことも多い。このあいだは岩国に行った。檀家は全国に散らばっている。多いのは関西。東京、下関、広島などにもいる。島にはもう一つ、浄土真宗の寺もある。その檀家も島内はほぼ同数のはず。
移民でハワイに行った人も多い。ほとんどは既に二世か三世だ。八島の人口よりも多いと思う。
島には多いときで百二十軒以上の家があった。覚えている範囲では人口は三百人弱だが、その前はもっと多かったと思う。昔は子供が五人はふつう。十人以上いる家もあった。
中学がなく、高校からは通えない。出ていった人は戻ってこない。産業がないからだ。いま、島には漁業従事者もいるが、数えるほどだ。
休みに帰省する人もいるが、たいていお盆だけ。正月は戻ってこない。船が欠航がちになるからだ。そのかわり、春休みにくる家もある。
夏祭りはやっている。昔はアイスクリームなんかの屋台も出たが、今は古浦のお宮さんから御輿をトラックに乗せてくるだけ。昔は二隻の船で御輿を担いで持ってきた。船は網元が四軒あって、二隻一組になって漁をしていたから、二隻ずつ、四軒の交代で御輿を担いだ。
夏に古浦のキャンプ場に来る人は多い。広島や徳山などからが多い。立派なバンガローを建ててある。(夏になると連絡船が古浦に寄港する)
小学校は昔はたくさん生徒がいたが、昭和61年に廃校になった。百周年の行事をしたあとそんなに年数は立っていなかった。休校にはしなかった。当時、都会から子供を里子として預かり、学校を存続させようと言う議論はあったが、責任を持って里親をできる人がいなかった。島の老人のほとんどは、島の外、それも遠く離れたところに子供夫婦を持っている。何かあったら出ていかなければならない。そのときは家にはちゃんと雨戸をして、板を打ち付けてから出ることになっている。昔から八島の人は外に出るのに抵抗が少ない。だから、島には子供を六年間、責任持って預かれるという人はいなかった。

【学校脇のお墓に水をかけていたおばあさん】
八島には昔から中学はなかった。通学は、私の頃は手こぎの船だった。
海が荒れて通えない日もあった。

【道沿いで草刈りをしているおじさん】
静かな島だろう。寂しいのが欠点だが。
空き家はたくさんある。家賃ただで貸してやるぞ。

古浦へ
途中の道はあまり使われていない。昔放牧をやっていた遺構があちこちにある。所々の斜面にミカンの木があり、健気に実を付けている。鳥は多い。草むらの中で始終何かがごそごそやっている。
道ばたの野生に近いミカンを一つもいで、かじる。非常にすっぱい。野生の味だ。
古浦のお宮は立派である。二十円でおみくじがひける機械がおいてあったが、使えるのかどうか判らない。トイレもあるが、水道の水は出ない。きっと連絡船が古浦に寄港しキャンプ場がオープンする夏だけ、整備をするのだろう。
キャンプ場の資材置き場に、昔小学校で使われていたであろう、小さなパイプ足の机があった。
キャンプ場は立派だ。なかなかきれいな浜を前にして、ロケーションも抜群。
島のキャンプ場はたいてい集落から離れたところにあり交通の便が悪い。この島も例外ではないが、連絡船をキャンプ場横に寄港させて成功している。

南へ
南側に向かう海沿いの道は波に洗われ、破壊されている。途中で引き返した。