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**5 離島桟橋に立って、まだどこに行こうか迷っている。いろいろ考えるところがあって、なかなか行き先が決まらない。 ここ石垣島は八重山諸島の交通の拠点になっていて、どの島に行っても、もう一度この島に戻ってこなければ、次の島に行けない仕組みになっているかに見える。ところがいくらかの例外もあって、例えば1日に1回、波照間と西表を直接結ぶ高速船が運行されている。西表と竹富を結ぶフェリーもある。これらを効率的に使わないテはないのであって、いろいろ考えるからなおさら分からなくなる。結局いちばん最初に出る船に乗ることにして、船会社に聞いてみたところ、西表島大原行きであった。 西表には主に2つの港があって、どちらにも1日約10回の船便があって便利だが、今日は台風の影響で波が高く、大原行きしか出ないらしい。その大原行きに乗り、船会社のマイクロバスに乗り換えて、ユースホステルに近いもうひとつの港、船浦に向かう。 まだお昼前で、ユースに荷物を置いてよく考えてみれば、ヒマである。 なんだかしばらく船の上でだらだら時間を消費していたので癖がついてしまったらしい。どこに行くのも億劫である。空には黒雲が立ちこめていて、今にも何か降りだしそうだ。 まあしかし、このまま夕方までユースホステルでじっとしているわけにもいかないだろう。近くに浦内川という川が流れて、そこになかなか凄い滝があると本に書いてある。 バスの時間が近いから、あわてて準備をして、バス停まで出てバスを待つ。待っていると猫が寄ってきて、2メートルぐらい離れたところで立ち止まってこちらを観察している。そんなに珍しいかい。このカメラはニューマミヤシックスといって、6センチ幅のフイルムを使って、一辺6センチの真四角の写真が撮れる凄いカメラで、どれどれ、ちょっと写してやろう。 近づいていって、レンズを向けようとすると、逃げられてしまった。道端の車の向こうに隠れてしまって、にゃおにゃお言ってみるが返答はない。沖縄のある島では、猫のことを「まやー」と言うそうだ。にゃおにゃおでは通じないのかもしれない。だいいち、そう言えば沖縄方言に「お」という発音はない。 バス停といってもバス停のポールがない。近くのお店で尋ねたら、ここらで待ってればいいと言われたからこんなところで待っているのだが、なんにも標識のないところでバスを待つというのは非常に心許ない。エンジンの音が近づいて来るたびに気になる。 近くの横道から、なんだか怪しげな足の太いお姉さんが出てきて、こちらににじり寄ってきた。バスに乗るのかと思いきや、ぼくの目の前で立ち止まってカバンをごそごそしている。中から色刷りのきれいなパンフレットが出てきた。 「あのー、旅行の方ですか」 エンジンの音が近づいてくるたびにそちらを見るのだが、あいにくバスはまだ現れない。「このパンフレットを見てください」 山火事について考える、という大きな題字が踊っていて、その文章のあちこちに「舌」という文字が見える。 あの猫はどこに行ったのだろう。あそこの車の下にまだいるのかなあ。 エンジンの音が近づいて、やっと、ついに、とうとうバスがやってきた。 *** 滝を見て帰ってくると、夕方が近い。雨も降りだした。ユースホステルの部屋に横になって、文庫本なんか読む。雨足はどんどん強くなってゆく。 夜、食堂の方で大きな音がして、人が走り回っている。強風で食堂の窓ガラスが割れたらしい。少し騒ぎが静まってから行ってみると、ガラスの破片がいっぱい散らばっている。危ないから、と 蒲団を敷いて、オリオンビールを飲んで、とにかく明日には明日の風が吹く。あんまり吹いてもらっちゃ困るけれど、どうも雲行きが、非常に、怪しい。 |
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**6 白い建物が向こうのほうに見えていて、そこに行きたいのだけれど、なかなか距離が縮まらない。右にはマングローブのジャングルが広がり、左は海らしいが、風は強く、時おり波しぶきで目の前が真っ白になる。その向こうに白いさんごのかけらの海岸が、長々と延びているようでもある。歩いても歩いても白い建物のところにたどり着かない。 にわかに波が高くなってきて、ぼくはマングローブのジャングルに避難する。中は薄暗い。実験台があって、会社の同じ職場の人が一人、黙々と実験をしている。 実験室を出て、エレベーターで下に降りて、自動販売機でジュースを買う。シークヮーサードリンクである。沖縄ではどこでも売っている。これがなかなかうまい。すだちとみかんの合の子のようなものだ。 近くの浜で星砂を拾うことにして、扉を開けて外に出る。そこに上司がいた。 なんだか寒い。くしゃみが出た拍子に目を覚ます。冷房を切る。朝7時。起床時間である。 *** 雨風はおさまっているけれど、雲は相変わらず多く、山にはガスがかかって上のほうが見えない。海にも白波が立っていて、灰色の空との区別が明瞭でない。昨夜の風であっちこっちに散ら 朝食を食べ、今日は忙しくて、波照間まで行く予定だから、ゆっくりしていられない。ザックに防水のザックカバーを取り付け、宮古で購入した傘をいつでも取り出せるようにその脇に固定した。カメラは密封構造の一眼レフ、ペンタックスLXに50ミリを取り付け、さらにウエストバッグにコニカの広角28ミリ付き防水コンパクトカメラを入れた。準備万端整えて、ユースホステルの車でバス待合所まで送ってもらい、待つほどもなくバスがやって来て乗り込むと、とうとう雨が降りだした。乗物に乗っているときに雨が降るのは全然構わないけれど、雨男ここにあり、嬉しいかと言えば、もちろんちっとも嬉しくない。バスを降りるまでには頼むから止んでくれないか。このままじゃ、西表の印象は雨一色だよと、誰にお願いしたらいちばん効き目があるんだろう。 雨に濡れた窓ガラスの向こうに緑の山々がかすんでいる。その緑の色が、本土よりちょっと濃いような気もしないではない。 波照間行きは大原港から出る。港には石垣島からの船が今日も出入りしていたから、波照間行きも出るだろうとは思ったが、いちおう船会社に電話を入れた。聞いてみれば、石垣発の西表経由波照間行きは、波が高いせいか客が少ないせいか、とにかく西表には寄らずに波照間に行く予定だと言う。 「時刻表では西表に寄ると書いてあるのに、どうして来ないんですか」 そんなわけで、仕方がない。船で石垣まで戻ってきた。波照間行きの最終便にようやく乗り込む。いちばん前の席に座ると、船員がやって来て、そこは危ないから後ろのほうへ移れと言う。ずいぶん揺れるらしい。 石垣港のまわりは珊瑚礁の浅い海が広がっている。そこに波はほとんどなかったが、外海に出ると船は強烈に揺れ出した。高速艇だから、波の上に飛び出して、それから次の波の中腹に着水する。そのたびに凄い衝撃と音が響く。 波は高くなりスカイダイビングの高度が増していって、とうとう船は速度を落とした。戦法を切り替えて、波をひとつひとつ登って降りることにしたらしい。船内の振動はなくなったが、船の何倍も 波照間の港の入り口に、ひときわ波が高く泡立っているところがあって、船は一旦停止してその高みに登る。ジグザグに登ったその頂から、ゆっくりと波の動きに合わせて斜面を斜めに滑り降りる。右舷に空が広がり、左舷に波の壁がある。そうして船は突然揺れなくなった。珊瑚礁が天然の防波堤になって、波がここまで来ないのだろう。エンジン音が快調に響きだし、と言ってもすぐに港内に入るが、やっと生きた心地がした。 *** 宿に荷物を置いて、オンボロ自転車を借りて、まわりをめくら滅法に漕ぎ回る。日本国国土地理院発行の地図は持っているのだけれど、車で宿に来たときにどこをどう通ったかが分からないから、したがって今現在自分の所在位置が不明である。 とにかくまっすぐ行くと、だんだん下り坂となり、海に出た。引き返して、逆にまっすぐ走ると、上り坂が終わってさとうきび畑を抜けるとすぐ下り坂となり、また海に出た。 なるほど、そういうことか。ぼくは納得して、地図を折り畳んで、ウエストバッグに突っ込んだ。 海には低く雲が垂れて、渡ってくる風は強い。南国という感じではない。ああここはさい果ての島なんだなあ、と思う。 はてるま、というのは、琉球の言葉で、さい果ての珊瑚礁の島という意味だ。 沖縄本島のほうでは、今でも、子供を脅すとき、そんなことをしていると波照間にやってしまうぞ、と言う人がいるそうだ。 |
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**7 八重山諸島で初めに人が住み着いたのは西表島であるが、次は波照間だという説がある。西表はジャングルと山の島でマラリヤの有病地だったが、波照間にマラリヤはない。耕作にもある程度適していた。 さらに、波照間は重罪人の流人の島だった。やってきた文化人たちは、島の知識レベルの向上に寄与した。 しかし、時代の荒波は容赦なく島を洗う。 琉球王朝は島津への貢租に充てるため、1637年宮古、八重山に重税人頭税を導入し、各島の島民を苦しめた。 波照間でも何十人もの島民が夢も希望もない暮らしに見切りをつけ、税の取り立てのない幻の楽土、南波照間(ぱぃぱてぃろー)を目指して、船を出して、戻らなかった。 驚かされるのは、人頭税が廃止されたのが、本土に文明開化の槌音が響いてから30年以上も経過した明治36年1月であることだ。実に300年近い長い年月の間、人々の人格は無視され続けたのである。 沖縄戦も波照間に深い傷をもたらした。 八重山各村の民衆は、石垣島の山奥や西表島など、外から目のつきにくい場所に疎開することを軍から強要された。それらはほとんどがマラリヤの有病地であった。軍はマラリヤの薬を軍用にはたくさん持っていたにもかかわらず、それらを隠し、住民の手元にそれが渡ることはほとんどなかった。さらに、疎開したあとの家畜を皆殺しにすることを命じ、軍用の食糧として用いた。戦争の 当時の波照間の全人口1275人、そのうち罹病者が、1259人(98.7%)、死亡者が、461人(36.2%)。 波照間島民の疎開先であった西表島南風見海岸の石に、 戦後波照間はまた、ゼロからの出発となって、現在に至る。 |
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**8 この島では夜間、水道が止まる。だからお風呂を済ませてから晩ご飯となる。 宿の庭にご主人の手作りらしい大きな木のテーブルとベンチが出してあって、まずそこに猫が集まってくる。十匹以上いる。ラジカセが現れて、沖縄の音楽が鳴り出す。 日が暮れてきて、フクギの枝のあいだにぶら下がった裸電球に明かりが点る。 今日のこの民宿の宿泊者は3人。ぼくのほかに、ぼくと同じぐらいの年の女の子が1人。四十ぐらいの男性が1人。3人が揃うと、テーブルの真ん中に「泡波」が置かれる。「泡波」は波照間酒造の泡盛。この島でしか手に入らない幻の銘酒だ。水割りで飲む。 ご飯と大量の煮物が現れて、3人分かと思ったけれど、同じものが3つも現れたのでびっくりした。凄いご馳走である。全部食べられるだろうか。パクついていると、お刺身、炒め物、まだまだ出てくる。とても食べきれない。 猫が集まって来て、しきりに食い物をねだる。どうせ食べきれないから喜んでお裾分けする。ニンジン、豆腐、キュウリ、調子に乗って、大根にからしをいっぱいつけたのをやったら、ちょっと匂いを嗅いで、向こうに行ってしまった。どうもこの兄さんはろくなものをくれないらしいと悟られたか、ぼくよりも向かいの女の子のほうが人気が高い。 彼女はもうこの島に5、6日いる。島でぼんやり海を見ているのが趣味だ。髪はショートカットでさすがに肌は黒い。はじめ沖縄の子かと思ったが、家は東京で、東急ハンズに勤める社会人である。今年の新入社員。年休を取って来ている。学生のころはよく小笠原に行って、2週間ぐらいぼーっとして帰って来ると、東京でもついつい道の真ん中を歩いて、車にクラクション鳴らされたり、友達に引き戻されたりする。 「だって、道の真ん中歩くのキモチいいでしょう」 モンパの木のおじさんというのはこの島に移り住んで来て、モンパの木を使った民芸品などを作っている。同宿の四十おじさんと親しいらしい。 四十おじさんは芸術家で、からくりんという名の金属細工のからくりおもちゃを作っている。この民宿の常連だ。年に何回か、この南の島にやって来て、もっぱらモンパのおじさんやこの民宿の主人と泡波を飲んでウクレレをかき鳴らし、大いに夢を語って息抜きをする。 *** 「あれえ、噂をすれば何とやらだな」 「ご主人、おおい、泡波もう無いよ」 「ご主人、歌、歌おうや」 「ご主人の歌える歌、無いかな」 *** 翌朝、ちゃんと、宿の部屋の蒲団の上で目を覚ました。 まぶしい。こんなに明るいと、寝ていられない。外は晴れ。抜けるような青空である。 庭に出てみる。東京の道の真ん中を歩く、例の女の子が、ベンチに腰掛けていた。 「おはよう」 *** 空はそれこそ抜けるような快晴。3人でモンパのおじさんの家の庭にお邪魔して、朝から泡波を飲んで三線をかき鳴らす。雨男としては、まったく恥ずかしい天気だけれど、考えるに、波照間はかくも素晴らしい南の島である。 |

狐日和
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