島旅思春期
ぼくは三年ほど前から「ひと月ひと島」ということを続けている。ひと月に一度、何でもいいから「島旅」をしようというのがその主旨だ。その島旅に、最近少し変化が出てきた。それは一昨年秋の転勤がきっかけだった。
2000年10月、ぼくは転勤をして新しい職場で働くことになった。仕事場も千葉から山口に変わった。責任が重くなり忙しくなったけれど、仕事は俄然面白くなった。それまでは自分の中で会社と私生活を区別できていたのが、会社を出ても仕事のことが気になるようになった。
山口に来たので島が近くなった。しかし休日に島に行きそこで海を眺めていると、いつの間にか、そこには仕事のことを考えている自分がいた。そんな自分は嫌いだった。島であまりゆっくりできなくなった。風を感じ、空気を感じる島旅をしたいと思っているのに、そのために小道具が必要になった。オカリナを吹くのである。オカリナを吹くとなんだかその土地や風と一体になれる気がする。島でオカリナを吹く機会が増えた。
ぼうっとしていると不安になるのだ。刺激を求めて何か違う島を目指すようになった。
今年八月には軍艦島(長崎県)に泊まりがけで行った。昔の炭鉱の島で、戦前から戦後にかけての崩れかけた九階建ての鉄筋コンクリート共同住宅が並んでいる。今は無人となってしまったそのゴーストタウンで、共同住宅の屋上に腰を下ろし、空を眺めながらオカリナを吹いた。気持ちがよかった。
九月には第二海堡(東京湾)に行った。こちらは明治大正期に東京湾の海防のために作られた人工島である。ここも主役は廃墟だ。砲台跡などが残っていてそれに腰掛けてやはりオカリナを吹いた。島から見える東京湾は船が溢れていた。しかし島には何組かの釣り人がいるだけでゆったりとした時が流れていた。
それらは非常に刺激的な島だった。しかしぼくは印象を整理しかねていた。
ちょうどこの時期ぼくの仕事は佳境に入っていた。七月から九月までは特に多忙を極めた。それまでのぼくの人脈を駆使して出張に明け暮れた。それでも仕事のない休日には精力的に島旅をした。仕事に充実感があったから、数少ない休日に私生活の方も充実させる必要があった。会社だけの人間になりたくなかったのだ。
会社でのぼくは、しょせん歯車のひとつなのだろう。自分の歯車にいくら油を差し続けても、他の歯車が壊れてしまえば仕事はうまくいかない。そしてもし歯車が全部かみ合って仕事が動き出したとしても、もともと歯車の組み方が間違っていたら仕事は間違った方向に進む。自力だけでその状況を打破するのは至難である。
ぼくはそのうち何かを見つけて自力で人生を切り開いていきたいと思っている。今はそのための準備期間だ。将来自力で求めるものはなかなか見えてこないし、会社の中でそれが実現できる可能性だってあるのかもしれないけれど、そんなわけでぼくは私生活のウエイトを下げるわけにいかなかったのだ。
数えてみるとこの三ヶ月のうち自宅で眠れたのは約十日だけだった。しかし三ヶ月の仕事の結果はいいものではなかった。結果は予想されたうちのひとつだったけれど、期待されたものではなかったのだ。職場で結果をまとめながら、自分で自分の力が抜けていくのがわかった。
昼休み、息抜きに非常階段に出た。青い空を雲がゆったりと動き、風が海の香りを運んでくる。ぼくはここからの景色が好きだ。工場の煙突の向こうには海がある。海には瀬戸内の島々が浮かんでいる。目の前は安芸の宮島。そして少し沖合いに阿多田島。阿多田島には行ったことがなかった。
ぼくは島旅に非日常を求めていたのかもしれない。だから島から職場が見えるというのはどうにも落ち着かない気がして、今まで行くのをためらっていたのだろう。でも今なら大丈夫かもしれない。今週末、あの阿多田島にでも行ってみよう、そう思った。
たっぷり朝寝坊をして、阿多田島には昼過ぎの船で渡った。ぶらぶら歩きながら島を一周した。
道には赤い蟹がいっぱいいた。道ばたの枯れ草がぼくの足音に驚いてがさがさとうごめく。ときどきおっちょこちょいの蟹がいて、枯れ草の下から道の真ん中に飛び出してくる。棒切れで突っついて、蟹を怒らせて遊ぶ。
小さな島だからそこここで寄り道しても、三時間で一周できた。オカリナは結局、吹かなかった。
集落の入り口に立派な小学校があった。そこで校長先生に声をかけられた。最終の船の時間まであと三十分。道ばたで話をする。
校長先生は陶山勝さん。阿多田の前の任地はチリのサンチャゴ日本人学校。銀行マンから学校の先生に転職したという方だ。
広島の山の中の小さな町で育ち、大阪に出て銀行マンになった。しかし都会の空気は肌に合わなかった。仕事の担当は地元の小学校。集金等で子供たちの相手をしているうちに昔の夢を思い出した。
陶山さんは五人兄弟の末っ子。要領が悪く親に逆らわなかったから、学校の先生方との親交が深かったお父さんに可愛がられた。その影響で学校の先生に憧れた。子供を見ているうちに一度は諦めたその夢が再びよみがえってきた。
踏ん切りがついたのは交通事故で九死に一生を得たときだった。もう一つの人生をはじめるつもりで会社を辞め、大学に入り直して教職の資格を取った。そこまで憧れて手にした先生という仕事は、陶山さんにとって楽しくて仕方がなかった。だから一生懸命子供とつきあった。
さらに陶山さんは、「海外を体験する」というもう一つの夢も、サンチャゴ日本人学校への転任という形でとうとう実現してしまう。そして今、その体験を生かして海外と日本を繋ぐ何かを模索しているという。
帰りの船は六時発。甲板のベンチに座ったらすぐに船は動き始めた。島がだんだん小さくなり、代わりに職場の工場の煙突が、オレンジ色の空を背景に少しずつ大きくなってくる。しかしそれは悪い感じではなかった。
今回の島旅は非日常ではなかった。阿田多島は空間的にも心理的にも、日常と同じレベルで続いていた。
島ってなんだろう。なんでぼくは島旅を続けているんだろう。ひょっとするとその答えは永遠に変わり続けるのかもしれないし、あるいは島にこだわり続けることで少しずつ分かってくるものなのかもしれない。
島旅を意識して島に行き始めてまもなく十年。なんだか少しずつ島旅がぼくの心を動かし始めている。そう、きっとぼくは島旅思春期に入ったのだ。
西の山の向こうの空に赤い色を残したまま、東の藍色の海から月が出た。満月だ。そういえば今夜は中秋の名月だった。[完]