善光寺奉還


    はじめに
    著者紹介
    時代背景
    登場人物

    寄り道
 塩尻峠  高ぼっち
 善光寺  花岡平
 草競馬  諏訪神社
 尾尻城  林城
 川中島

    第1巻
 第1章 牧の邑
      
 第2章 峠
      
 第3章 諏 訪
    
 第4章 念仏講
       
 第5章 隣国の雄
    
 第6章  餌 食
 第7章  遠 雷
 第8章  別れ路
 第9章  戦 気
 第10章 明 暗
 第11章 北 へ
 第12章 善光寺
    第2巻
 第1章 越州
 第2章 毘の化
 第3章 冥加
 第4章 川中島
 第5章 洛の風
 第6章 転蓬
 第7章 大河決戦
 第8章 落日
 第9章 一統の世
 第10章 法輪
 第11章 大仏殿
 最終章 山河

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第1章 牧の(むら) (1)


  山と川に象徴される信濃は、北に善光寺の阿弥陀信仰が栄え、南に太古からの諏訪神道が根づいた農耕と牧畜の国で、その信仰の分岐点が、諏訪湖を縁どる『塩尻峠』という小さな水分(みくまり)だった。
  山谷(さんこく)に住む人々は、ふたつの信仰に影響されて生きてきたが、大地の傷口のような地形は、北は千曲・犀川へ、南は天竜・木曽川へと谷が裂けていて、谷ごとに国がいくつにも分かれていた。
  ここは、峠から北へ三里ほどくだった小笠原家の領する筑摩郡埴原(はいばら)内牧(うちまき)といって、地元ではこの一帯を『片丘(かたおか)』と呼んでいた。
  大永八年(一五二八)四月。野は雪解(ゆきげ)の水音とともに若草の季節を迎えて、浅田作兵衛(あさださくべえ)(うまや)では今日も栗毛の木曽駒が産まれた。
「また(おす)じゃ」
  昨夜から出産につき添ってきた総領の作左は、湯気のあがる産駒(うぶごま)の背を拭きながら落胆の声を()らした。
  外では次男の五郎太が、野焼きに集まった牧人(まきうど)に、どこで聴き込んできたものやら戦情報を吹聴して緊張感が(みなぎ)っている。
諏訪頼満(すわよりみつ)殿と武田信虎(たけだのぶとら)殿が、一戦する動きがあるぞ!」
  牧手たちは小童からの凶報に身を(おのの)かせた。
  『牧手』とは牧場の職種のひとつで、とりわけ調教師といったところであり、ほかに飼手(かいて)馬医(めい)占部(うらべ)足工(あしく)など、浅田内牧の牧人は作兵衛を牧主とする、総勢二十八名の波多判官代(はたほうがんだい)下司(げす)(管理人)たちだった。
熊井(くまい)の駒のほとんどは、諏訪下社の別当殿に召しあげられたそうじゃ!」
  五郎太は隣りの熊井郷の状況を、さらに詳しく報じた。緊急に駒の徴収があるということは、近々合戦のあることを意味した。
  熊井の地は、信濃守護職である小笠原家の国府費用をまかなうための国衙(こくが )領である。
  隣領諏訪の内紛で、上諏訪の諏訪頼満に追われた下諏訪の金刺(かなさし)一族が、塩尻峠を越えて小笠原長棟(おがさわらながむね)を頼ったため、ここを南北二郷に分け、南熊井を諏訪下社に寄進して一族を住まわせ、大祝(おおほうり)の金刺昌春の叔父である小屋の村井伊予守(むらいいよのかみ)を別当として、辺境の警固にあたらせていた。
  『大祝』は、神を祭って罪けがれを清める神主で、上社では諏訪氏が、下社では金刺氏がそれぞれ世襲のものとしていて、その争いからつくられた筑摩郡の新領地初の施政が、駒の徴収であった。
  牧手のひとりが、五郎太に()いた。
「戦は、諏訪領南の甲斐国との国境と聞くが、なにゆえ、熊井の別当殿が戦支度(いくさじたく)をなされるんじゃ?」
  十五になったばかりの五郎太は、その質問者へニヤリと笑みを浮かべた。
「下諏訪の奪還じゃ!」
  牧人たちは、年端(としは)もゆかぬ五郎太の言った意味を考えたが、誰もわけの解ける者がない。皆答えを求めて身を乗り出した。
「どういうことじゃ?」
「簡単なことじゃよ」
  うしろの厩から声がして、総領の作左が産駒を取りあげた手を拭きながら、物憂げな顔でのっそりとあらわれた。
  今度は、一勢に作左を振り返って、つぎの言葉を待った。
「この戦、甲斐へ落ち延びた大祝金刺一族の(とむらい)合戦。武田は加勢じゃ」
  そこまでなりゆきを聴いた牧人たちは、やっと合点がいった。つまり、諏訪領南側で国境を接する武田信虎が上諏訪へ攻め入った隙に、反対側の下諏訪の地を村井・小笠原勢で奪還しようというのだ。
「して戦は、いつ頃になるんじゃろうか?」
  牧人の不安は次々と湧いてくる。甲斐に身を寄せている金刺昌春が下社の奪還に立ちあがれば、これに加勢する府中の小笠原長棟も兵を招集するは必定であり、筑摩郡のここからも戦に狩り出される。
「さあ……」
  作左はそれ以上は答えず、首をひねって口ごもった。
「夏じゃ、夏にきまっとる!」
  話の腰をおられた五郎太が、立場を取り戻すように憶測した時期を告げた。
「いい加減なことを申すな」
  気張っている弟の五郎太を制したが、聴く耳を持たない。
「別当殿は熊井城の増築を、ふた月のうちにあげろとの仰せによし。さすれば、戦支度の間をとっても葉月(はづき)に始まる」
  自信に満ちた読みに、牧人たちの腰がすっかり浮いてしまった。厩前の日だまりから、ひとり、またひとりと離れていく牧人を尻目に、兄は弟を叱りつけた。
「確証のないことを申すものではない。わぬしのひと言が、とんでもない波風を立てておる。ご信府様の知下(げち)があったわけでないぞ!」
「兄者、戦というものは動きが見えてからでは遅すぎる。その前に察して、手を打つが常道(じょうどう)ぞ」
  兄の説教に増々興奮して戦手立てを言い放った。
  黙ろうとしない弟の耳元に、作左は口を寄せてささやいた。
「わぬしの予測におののいて、牧夫が逃げ出したら何とする」
「兄者、そんな信のおけぬ腑抜けどもを味方に、戦に勝てると思うておるのか?」
  五郎太は近在の邑衆(むらしゅう)から『天童』と呼ばれるほどに気敏(きはし)の利く子ではあるが、人を食った言い草が何とも鼻についた。
「わぬしは、合戦の怖さを知らぬわ!」
  呆れ返った作左は、言葉を投げつけるように言い捨てて母屋(おもや)へと消えた。
  その背に、
「駒を、(たか)ぼっちへ放ちませ!」
  と、怒声を送った。

 

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