善光寺奉還


    はじめに
    著者紹介
    時代背景
    登場人物

    寄り道
 塩尻峠  高ぼっち
 善光寺  花岡平
 草競馬  諏訪神社
 尾尻城  林城
 川中島

    第1巻
 第1章 牧の邑
      
 第2章 峠
      
 第3章 諏 訪
    
 第4章 念仏講
       
 第5章 隣国の雄
    
 第6章  餌 食
 第7章  遠 雷
 第8章  別れ路
 第9章  戦 気
 第10章 明 暗
 第11章 北 へ
 第12章 善光寺
    第2巻
 第1章 越州
 第2章 毘の化
 第3章 冥加
 第4章 川中島
 第5章 洛の風
 第6章 転蓬
 第7章 大河決戦
 第8章 落日
 第9章 一統の世
 第10章 法輪
 第11章 大仏殿
 最終章 山河

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第2章 峠 (2)

 戦とは悲しいものだった。何の恨みもない相手と渡りあわなければならない。それも身も心も悪鬼となって、おのれの意思とは別なことをやらねばならぬ。わが槍が相手の脇を貫いた時、五郎太は二度と戻れぬ橋を渡ったことを知った。
  仏前での勤行が何と無意味なものだったことか。人が生きるとは、

所詮(しょせん)冥府魔道(めいふまどう)をさまようだけのなま悟りの繰り返しだった。
  自分が突き伏した武者の首を、塩尻郷の味方が()っ切っている。何とも(おぞ)ましい地獄絵だった。吐き気を催しながら、あとも振り返らず川へとび込んだ。
  水中で、
(人を殺した……。殺してしまった)
  と、逃れようのない現にもがいた。どうやって着いたかわからぬまま岸辺にあがると、三人が待っていて手を差しのべた。
「五郎太、心配したぞ」
  六助に手を引かれた時、やっと人間に戻ることができた。
  だが人を危めた手は、槍の柄を握ったまま離れない。おのれのなした所業を手が覚えている。
  六助が指の一本一本を解いて、得物を取りはずすとき、
「人を危めてしまった」
  と岸向うでの戦闘を告げると、三人は一様に同じ顔になって五郎太を見つめた。
  又吉が弁護するように(いさ)めてくれた。
「やらなんだら、わぬしがやられていたぞ」
  しかし、どんな(なぐさ)みの言葉も、渡ってしまった橋を帰すことはできなかった。
  敵の渡河がはじまると、四人は作兵衛に指示されたとおり勝弦峠へ向かって走り出した。勝足の足は矢毒で紫色に変じて、三人が交代で(かつ)いで峠下の松林にやっとたどり着いた。
  背後には横一列となった敵が津波のように押し寄せていて、峠へ着くまでに追いつかれるかもしれない。味方の旗が(なび)いている群れの中に身を投じるまでが勝負だった。
「勝足、もう少しだ。しっかりせい!」
  六助は消沈しきっている背中の勝足を励ましたが、最早声に余裕はなかった。六助の息があがって根方(ねかた)につまずいた時、四人の覚悟は決まった。
  五郎太が決意したように言った。
「ここで、いさぎよく闘おうぞ」
「おおッ!」
  松林を取り囲んだ岡屋勢は、少しずつ包囲網を縮めてきた。林のあちこちに五郎太たちのように追いつめられた集団がいる。逃げ切れないことを知った傷狼たちが、互いに身を寄せ合って群れをなしていった。
  人を危めてきた五郎太は、妖異(ようい)と化して皆に(げき)を飛ばした。
「よいか、円陣をくめ! 傷ついた者を中にいれよ。逃げたら全員のくびを馘かれるぞ!」
  誰もが下知に従った。食われまいとする群れと、食らいつこうとする群れがそれぞれ威嚇(いかく)しながら、等間隔のままジリジリと雨水に抉られた赤土の峠道をにじりあがった。
  あと(わず)かで、小笠原の陣営へ逃げ込める位置まできた時、均衡が破れた。耐え切れなくなった村井勢のひとりが、峠の陣営に向かって走り出した。瞬間、円陣の結束が崩れて、隙に乗じた岡屋の者どもが槍を繰り出した。引きあげ体勢をとって穂先をあげた数人が田楽(でんがく)刺しに突き伏され、あっという間に乱闘となってみる間に味方が討たれた。
「あうう……」
  死の恐怖に勝足が泣き声を漏らした。みんなが、最早これまでかと(はら)(くく) った時だった。
「ごろうたぁ!」
  峠下の林の中から、大声で呼ばわる作兵衛の声がした。
「おちちうえ!」
  五郎太も必死に叫んだ。
  しばらくすると馬蹄の(とどろ)きとともに、数十騎の騎馬武者が峠道を駆け登ってきた。形勢は一変に逆転して、はさみ打ちとなった岡屋勢がわれ先に道沿いの松林へ逃げ散った。
  先頭を切って駆けつけた作兵衛は四人の無事を確かめ、傷ついた勝足に手を差し出して馬上へ引きずりあげた。残った村井勢たちもありったけの喊声をあげて気力をわかし、その勢いに乗って勝弦峠へと引きあげた。
  長衛門以下数百の村井勢は、転がり込むようにして小笠原軍の陣営に戻った。陽はとっぷりと暮れ、薮蚊(やぶ)が血の匂いを嗅ぎつけて群がっている。
  時が経つにつれ、村井勢の誰にも悔しさが込みあげてきた。
「なぜに、御本陣をお引きあげになられたんじゃ!」
  作兵衛は、小笠原の旗本衆に噛みつくようにつめ寄った。
「われらも存念は分からぬが、どうも神戸(ごうど)(富士見高原)で援軍の武田信虎殿が、諏訪勢に敗れたらしいぞ」
  それを聞いた作兵衛は、小笠原と武田が合力した金刺氏の陽動作戦が水泡に帰したことを知り、諏訪頼満の底力を知った。
(やはり諏訪は神の国だ。国人衆の意気が違うわい)
  この戦が無謀なものだったと思わざるを得なかった。陽が落ちた湖岸には点々と篝火(かがりび) がたかれ、遠く南の上諏訪城下の方まで弧線を描き出している。時折、出城から聞こえてくる喊声が、傷ついた村井勢にやりきれない虚脱感を与えた。

 

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