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第4章 念仏講 (4)
信濃は春になると、高並みの山肌に様々な雪形があらわれる。里人たちは残雪の形を見ては、農作業や放牧の時期をはかった。
「西山に、天馬の雪形が出たんに、そろそろ田植えをはじめるかいねぇ」
吉田郷の農民たちは、虫が群がり出るように野良にわいた。作業の合い間に腰を伸ばしては、東山の山裾を眺めて馬煙のあがるのを待った。浅田内牧の駒が放牧されると、秋の刈り入れまでは戦がなかった。今年は田植えがはじまっても放牧がない。
二日立ち三日立っても、やっぱりなかった。
五日目になると、
「こりゃ、今年は合戦があるぞい」
と、みな口々に言い合った。
案の定、梅雨に入ると林城から各郷の地頭のもとへ早馬が走った。こたびは高遠頼継・知久頼元の連合軍を伊那に攻めるという。これまで府中小笠原氏に味方していた高遠方が、尾尻城包囲戦の際に松尾小笠原方に味方して兵を出さなかった。諏訪が上下社に分裂したように、小笠原家も府中(松本)と松尾(下伊那)とに分かれて啀み合い、狭い渓谷は盆地ごとに土豪が群がり起きていた。
みすずたちの祈りも空しく、片丘の里にも軍役催促の触状がまわって荷駄の供出を命じられた。長衛門と謀った作兵衛は、各戸一反歩につき米五升の徴収をなし、さらに荷駄要員として五軒にひとりの人足を召集した。
浅田内牧は荷駄隊差配のため、これまでの五人の出陣のほかに更に三人を増兵した。若者たち全員が騎馬武者となって二度目の出征だった。
五郎太は筑摩一の駻馬に跨って威風堂々と押し出し、初陣で矢傷を負った勝足も元気に騎兵隊の中にあった。彼らは作兵衛を隊将に結束して、小笠原騎兵隊の中堅を守る突撃隊に成長していた。
領主小笠原長棟も内牧衆らの荒武者を率いて、伊那谷へなだれ込んだこの頃が生涯のうちで最も充実した時期であった。
天文二年七月二十日。小笠原軍は騎兵隊五百をもって、塩尻郷の下西条から箕輪の福与城をめざした。
岡屋を源頭とする天竜川は、勝弦峠と小野峠の山裾を流れくだって塩尻からの支流と辰野で合流する。そこに福与城を構える藤沢頼親の合力がなければ伊那へ入ることはできず、この要衝が府中小笠原氏の前線基地であった。長棟の娘を頼親に嫁して伊那口を固め、南への進攻に備えて筑摩・安曇・伊那三郡の支配をもくろんでいた。
五郎太らは、谷深い伊那街道の支城ごとに府中小笠原氏の三階菱の入った幟旗を押し立て、天竜川西岸を南下していった。
伊那盆地に入ると風向きが変わり、強い日射しに甲胄が焙られて汗がとめどなく流れた。
水の干上がった三峰川の対岸に白旗が林立し、小笠原軍団を迎撃せんとする高遠軍が待ち構えていた。川を挟んで両軍が睨み合ったまま何時までも動かず、飼い葉桶に水を満たした雑兵どもが、武者の間を走り回って喉の乾きを潤して歩いた。
午刻に至ると木曽山脈の峰々に黒雲がわき、見る間に伊那盆地を雷雨がおそった。
騎馬数に優る小笠原軍は、豪雨に乗じて一勢に鞭を入れて突撃を開始した。
これを見た連合軍も負けじと軍を進め、両軍は三峰川の中州で激突した。しばし一進一退を繰り返して双方の軍団が絡み合ったが、高遠軍が徐々に川上へと追いやられ、半刻後にはなだれうって高遠城へと潰走した。
小笠原軍もそれ以上深追いはしなかった。もともと高遠も知久も鎌倉以来の府中小笠原氏に合力する清和源氏の頼流であり、高遠頼継に至っては諏訪上社大祝を嗣ぐ血統として、代々『頼継』の名を襲名する名家だった。
城を囲んで十日もすると両陣営から和議の使者が立った。月が変わって、小笠原長棟と高遠頼継は、先祖からの片切の故地において鎌倉以来の結束を確認し合い、従来どおり松尾小笠原氏に対抗することを誓った。
支配者たちの出払った常光寺阿弥陀堂では、みすずが声を嗄らして力説していた。
「ここを、戦のない里にしましょう! 筑摩と諏訪の念仏衆が力を合わせれば、御信府様の意のままにならずに済みまする。阿弥陀様は必ずお救いくださいまする!」
講員たちは、自分たちの平和を守って戦場で奮闘する武士を悪の輩と決めつけ、排斥せよと吹聴するみすずの説得に辟易だった。これまでは岡屋郷との和平の橋渡しと思って来たが、ここまで危険な言動を口にするようになると放置できなかった。
「いくら尾尻城代の若殿のご正室になられたとて、それを申されてはともに念仏を唱える訳には参らぬ。われらは唯々、阿弥陀様のご慈悲にお縋りするばかりじゃ」
老いた講員から排除されたみすずは、暗い目をして憲定を見た。
憲定も法論せずに、真宗の礼賛文のみを唱導した。
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってこの身を度せん。大衆諸ともに至心に三宝に帰依したてまつるべし」
講員のすべてに判断を委ねる問いかけだった。戦の排斥に立ちあがるも自重するも、それはどちらも弥陀のご意志だと言いたかった。
念仏講は、熊井城の祈願所として開山した寺に根づこうとしている。戦への思いは一瞬であっても、阿弥陀仏の道は未来永劫に続く。
憲定は、みすずの信心決定が真実であっても、御本寺によっで政批判の制約を受けている以上、熊井郷の支配者とともに修羅の巷を歩かねばならぬと思った。
世が混沌として明日の見えない時代に、すべてをなげうって他力にすがろうとする一向念仏には力がある。信徒衆は死を覚悟して承継者を育て、それが忠義の思想を培って組織力を生んで権力へと成長した。こうした宗派は、布教の拡大をなさんがための教団を生み出すように見られるが、下剋上の時代に土地を争奪するための社会規範も再構築する。
律令国家の解体は、一見無秩序となったかに見えるが、その実は底流に人間支配の絶対性があって、古い上衣を脱ぎ捨てるように新しい体制に衣替えしただけだった。
仏は千年の時の流れの中で『自己』という自覚を民衆に植えつけ、大河の流れを変えるほどの社会変革をもたらした。それは神道に対する挑戦でもあり、神道を排斥する新仏教の台頭でもあった。
『信仰』とは、おのれを託することにある。同時におのれを持つことでもあった。おのれを持たずして他に託することなどできない。諏訪の信仰は現人神の大祝をして、その判断を委ねたところに、隣国の餒虎の餌食となってゆく要因があった。それは単に諏訪だけの特質にとどまらず、多かれ少なかれ同じような精神構造で発展をとげてきた信濃全体の体質だと思った。
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