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第5章 隣国の雄 (2)
その年、幼な妻の腹には勝千代のお種が宿って、両家の思惑はまんまと成功するやにみえた。ところが、年が明けると妊婦の容態が俄に変わり、懐胎半ばにしてあえなく逝去してしまった。
父信虎は、葬儀の日に近衆たちに囁いたという。
「あやつを、この後どうしてくりゃようぞ」
もう勝千代を利用する次の策略を考えていた。この父にとっては、妻子といえども、おのが野望を満たすための道具でしかない。それほどにしなければ一国の維持が難しく、戦国の世を生きのびることはできなかった。
上杉家から嫁した新妻の死によって甲武同盟が崩れると、相模の北条氏綱が甲斐へ侵入を開始した。
信虎は、それまで北の諏訪頼満と対峙していたが、すぐに和睦の交渉を始めた。諏訪神氏を通じ、上社神長守矢頼真を仲介にして、秋風の吹く鈍色の境川北岸で頼満との会見に臨んだ。両者は互いに相手の真意を窺って近づこうとしなかったが、神長の促す宝鈴に先導されて席に着いた。
和睦を申し出た信虎が、まず口火を切った。
「われら甲斐は、諏訪大明神に刃向かう族には決してござらぬ。こたびの諏訪進攻は、金刺昌春にそそのかされて加勢に至ったものにござる。なにとぞ、これまでの遺恨を水に流し、両国の和平を図りとう存ずるが、いかがでござろう」
頼満は信虎の単刀直入な申し出に、しばし返答ができず、長く伸びた顎鬚を扱くばかりだった。
「碧雲斉殿……」
神長の守矢から頼満は促された。
「信虎殿、今のお言葉、諏訪南宮法性上下大明神にお誓いできまするか?」
「あいや、誓うてお約束申す」
信虎の必死の要請に頼満はおれた。実際のところ、甲斐は駿河・北条の連合軍に攻められて窮地に立たされていると聞いているが、このところ急速に力をつけてきた信虎と和睦する方が孫の頼重にとっても良きことのように思えた。頼満もすでに五十六歳となって、近頃はめっきり体が弱っている。
「諏訪の宝鈴にかけて、お約束できましょうな」
頼満はくどく信虎の真意を問い、神長をして枯れた河原に何度も宝鈴を振らせた。土手に居並ぶ両軍は、鈴鐘が響き渡ると和平の成ったことを知って喊声をあげた。
年が明けた天文五年(一五三六)春。勝千代は十六歳となった。元服には将軍足利義晴から偏諱を賜わり、――晴――の一字を頂いて『晴信』と名乗りをあげた。同時に、父信虎の元服時に受けた従五位下左京大夫の叙任も受け、外面的には武田家の総領として家督を嗣ぐ地位にあるやに見えた。
だが、信虎との性格の不一致は、二人の関係を日ごとに悪化させていた。勝千代が晴信と名乗って元服しても、国の政には一切関与させてもらえず、初陣式の沙汰さえなかった。
悶々とした日々を送るなか、五月になると敵対していた駿河に今川氏輝急死による家督争いが惹起し、弟の承芳こと後の今川義元と異母弟の恵探による『花倉の乱』がはじまった。
義元の後継者である駿府臨済寺の太原崇孚雪斎和尚の要請を受けた信虎は、異母弟を擁立した福島越前守を久慈に破って義元をして今川家を嗣がせることに成功した。
この甲駿の関係をゆるぎないものとするため、翌月には義元媒酌による三条公頼の二女と晴信の祝言をあげさせた。これは、義元の正室に晴信の姉の定恵院を輿入れさせるための布石であった。
信虎は、甲駿同盟を自分の思うがままに進めていたが、重大な過ちを犯した。それは同盟前に義元に謀反を起こして駿河から甲斐に落ちてきていた前島一門と、それを匿った国人たちを義元への義理立てから詰腹を切らせたことである。
国人衆は、窮鳥を討った信虎の非情さに憤慨して、多くの重臣が国外へ出奔した。後に、このことがきっかけとなって信虎追放の気運が高まってゆく。
ともあれ。
信虎の動きは忙しかった。晴信の祝言、定恵院の輿入れが決まって甲駿同盟が安定すると、かねてより計画していた北方の信濃国南佐久郡への侵攻を開始した。
「晴信様、初陣にござりまするぞ!」
近習の駒井政武は、大声で部屋に駆け込むなり吉報を告げた。
「相手は誰じゃ!」
「信州海の口城、平賀源心法師にござります」
晴信も、この出陣には喜んだ。武田家の嫡男が元服したというのに、初陣もせずに年を越すのかと不安だった。
「御前様は、やはり晴信様のことを、お考えになられておられたのでござりまするなあ」
駒井も自分のことのように興奮している。
(よし。武功を立てて、これまでの汚名を返上するぞ)
晴信も心が逸った。奇しくも、父信虎が信濃攻略の決意をした時が、晴信の初陣の時であった。
天文五年十一月二十一日。みぞれ降る八ヶ岳東麓の無人の荒野を、武田軍五千の兵馬は北へと進んだ。甲斐から信濃に通ずる道は、八ヶ岳山麓を富士見峠へ抜ける鎌倉道と、この佐久往還道の二筋しかない。
佐久へは急な峠道がないかわりに、だらだらとどこまでも続く坂道を四里も登る。そこは、駒の放牧に良い草原が広がる丘陵地帯で、海の口は荒涼とした大湿原の搦め手であった。
城は背後を山谷に連なる峠に囲まれ、前面には千曲川が天然の荒堀となって口をあけている。
近郷の邑々からは、郷民の鳴らす半鍾が浅間山の吹きおろしに乗って聞こえてきて、籠城組との結束を見せていた。
「佐久の猪たちゃあ、なかなか威勢がいいわい」
信虎は城向かいの諏訪神社に本陣を置き、焚き火に跨がって呻くように言った。南佐久郡を攻略するにあたり、信虎は善光寺参りを兼ねて何度か下見してある。
ここはもと大井荘といって、郡内が四十七の里郷に分かれて小領主や地頭が割拠していた。それを統べているのが、大井一族の血を引く平賀源心だった。
源心が、郡内で覇を唱えるには訳があった。千曲川中流の葛尾城を根城とする村上義清が後押しをしていて、聞こえる半鐘も後詰めに村上軍が内山城に入ったことを城兵に報せるものだった。
「信方よ、ここは補給路を断って、ひと月も囲めば自落するかいの」
側に岩のように鎮まる先鋒大将の板垣駿河守信方に訊いた。
「ははッ」
武田家の重鎮は、いつも慎重な返事を返した。
暮れかけた鉛色の空を見上げ、不安そうな顔で、
「冬将軍が、遅れてくれれば何とか……」
と、言ったきり口ごもった。
武田五千の兵は寒風にさらされて、どこまで寒さに耐えられるかが勝敗の分かれ目だった。雑兵たちは毎日裏山に入って、樵のように薪づくりに精を出している。
手持ち無沙汰な晴信は、数名の側近を従えて千曲川沿いに点在する無人の村落を視察して回った。貧しい草屋の家々を回るうちに、側近の一人が呟いた。
「こんな貧しい農家のどこの家にも、神棚と仏壇だけはござる」
そのひと言が、晴信をして礑と気づかせた。
(そうか! ここは神の国なんじゃ! 日常は諏訪暦によって生活が営まれているんじゃ)
禅寺の厳しい規律の中で管理されてきただけに、人がどのような規律で生きているか敏感に嗅ぎ取ることができた。
「そちは良いことに気づいた。孫子いわく、彼を知りおのれを知れば百戦して殆うからず。これで敵が見えたぞ」
と、興奮して叫んだ。
側近たちには、各家に神仏の祭壇のあることが、なにゆえ敵を知ることになるのか分からない。
駒井が近習を代表して訊ねた。
「晴信様、そのことがどうして敵を知ることになりましょうや?」
彼はそれ以上を語らず、徒っぽい目をして、
「考えてみよ」
言うが早いかひらりと待馬に跨がるや、疾風のごとく本陣めざして駆け戻っていった。
本陣の幔幕をはねあげると、祈祷師を呼びつけた。
「諏訪暦を持て!」
床几に腰をおろすのももどかしそうに、冬の神事の項をめくると、そこには廻湛神事として十一月から十二月までの行事が、びっしりと書きこまれてあった。
「年内神事のうち、どうしてもなさねば年を越せぬものはどれじゃ!」
と、大声で訊いた。
「師走の二十四日におこなう大海祭にござりまする。これは、稲の霊を祀るものにて、なさねば年が越せませぬ」
『大海祭』とは、稲の神様が冬ごもりすることで、これをしないと来年米を作ることができなくなる。
(これだ!)
晴信は確信を得た。
籠城兵のほとんどが、普段は農事に勤しむ百姓たちで、今は農閑期といえども、なさねばならぬことが山ほどあった。
一方武田軍も、城を包囲できるのは冬将軍の到来までだった。ぐずぐずしていたら八ヶ岳東麓の帰路を雪に閉ざされてしまう。両軍の衝突は、十二月に入って千曲川を挟んで小規模な礫合戦が一度あっただけだった。
晴信は先鋒大将の板垣信方を呼んで、こたびの包囲戦の見通しを訊ねた。
「五千もの将兵を、いつまでここにはりつけておくつもりか? こんな合戦をしたとて埒があかぬのではないか?」
「晴信様の仰せのとおりにござりまするが、これは御前様のお指図にござりまする」
「兵は詭道なりと申すぞ。奇策を謀らんのか」
板垣は首をふって、きっぱりとした口調で言った。
「こたびの出陣は、晴信様の初陣にござりまする。御前様は、佐久を攻略する甲斐の姿勢を、世に知らしめるための攻城と仰せにござりまする。雪が降るまでの手定めの戦でござる」
それを訊いた晴信は、
「ふふん」
と、鼻で嘲笑った。
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