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第5章 隣国の雄 (3)
包囲から三十五日目の十二月二十六日。海の口にとうとう冬将軍がおりた。
甲斐の将兵たちは、朝から撤退の準備にとりかかって、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
晴信が本陣の指揮所へ走ると、父信虎も帰還のための準備に、不要な品々を焚き火へ投げ込んでいる。
「ぬしゃ、引きあげの用意は済んだかえ?」
顔も見ずに訊いた。
「お父上、お願いがござりまする!」
晴信は片膝を粉雪の舞う地について大声で懇願した。そのあまりの勢いに、信虎も手を止めて振り返ったほどだった。
「お願いにござります。われを殿軍にお命じ下さりませ!」
地に伏して、雪が吹き飛ぶほどに絶叫した。
「何をたわけたことを、初陣のそちが殿軍を務めて何とする。学問を積んだとて、そんな作法も分からんのかい!」
信虎は呆れ返って一蹴した。近臣たちの嘲笑に耐えながらも、晴信はなおも食いさがった。
「成果をだしてご覧にいれまするゆえ、こたびの殿軍を、なにとぞ仰せつけ下さりませ!」
三度目の懇願で、信虎もその決意のほどを知って目をすえた。
「よし! 日頃そちが言っているへぼ兵法が、何の役にも立たんことを知るがええ! こたびの殿大将を命ずる」
この強情な嫡男の鼻っ柱を、へし折ってやるつもりで命じた。
信濃の雪は、灰のようにさらさらと乾いた音を立てて降った。二日もすれば退路が分からなくなる。晴信は今夜が勝負だと思った。
殿軍として残った三百の兵に対し、駒井に命じて酒の用意をさせ、体を冷さぬように配慮した。
「深酒をせんようにほどにせよ、具足は解くな」
晴信自らが、将兵の間を下知して回った。
内山・平賀の地に放っておいた突破が、次々と戻ってきて敵の動きを報じた。
「平賀郷では、大変な騒ぎになっております。武田が撤退したといって、みんな神社に集まって、まるで祭りのようでございます」
(やはりそうか……)
晴信は確信を得て頷いた。それを横で見ていた信方は、眉間に皺を寄せ、
(晴信様は、何か企んでござる)
と、直感した。
信方は晴信が殿大将を申し出た直後、信虎に進言した。
「ああ申されても、こたびが初陣。もし敵に討たれやもしたら武田家の恥となりまする。拙者も殿軍に加わって、お支え致しとうござる」
信虎も、その申し出を入れて残留を許した。
懸念したとおり、晴信は今宵、海の口城に突入しようとしている。それも殿軍の三百という少数でだった。五千の大兵をもって三十五日間囲んで落ちなかった、難攻不落の山城にである。
(無謀な……)
少年の浮薄な企みに腹が立った。
「そちたちがついていながら、何を致しておる!」
信方は、止事無い計画を決行しようとしている近臣たちに向かって怒鳴った。そんな信方の顔を見て、晴信は笑いながら言った。
「そちの目には、この突入が無謀にうつるやもしれぬが、決してそんなことはない。敵方の動きを読んだ奇策じゃ」
晴信に言わせると、味方は雪に退路を断たれまいと懸命だが、敵方も同じように年越しの準備におわれているという。さらに敵は、武田軍はこの大雪で、決して戻って来ないと踏んで油断しているというのだ。
「そこが付け目じゃ」
からりと言う。確かに、武田軍が引きあげてから海の口城からも小隊ごとではあるが里に下っている。夜半には大半の兵が城を出るだろうが、それにしても殿軍の三百では、いくらなんでも城を抜くことはできまいと思った。
雪の深々と降る丑三つ(午前三時)を回った頃、晴信はやおら立ちあがると、暗闇に蹲る餓狼たちに低くはっきりした声で言った。
「出陣!」
それは、最早十六の少年のものではない。確信に満ちた若き大将に差配される軍団が、裏山に潜む獲物を狙って襲いかかる猟師のように城の火明りをめざして出発した。
大手門は堅牢に閉じられていたが、裏手門の錠は放たれたままだった。三百の兵は、魔風のごとくするすると城内へ潜入した。中は、がらんとして異臭がこもっている。
山稜の傾斜のなりに建てられた山城は、三段の廓に分かれた武者溜まりとなっていて、梯で建屋をつないでいる。一段目の大溜まりには、数十人の残兵が酒に酔いどれて眠りこけていた。晴信勢は、それらの左右から、床板に突き立つほどに、
――グツリ――
と、槍を一斉に突き入れた。
溜まり場は、たちまちにして修羅場と化し、城内に絶叫を轟かせた。二段目の溜まりに寝ていた城兵たちは、突然降って湧いた敵兵に逃げ惑い、源心の御座所である高座の廓へとなだれ込んだ。狭い屋舎に閉じ籠った狂獣たちを、長柄の槍で一匹ずつ突き伏せた。最後の数人となった時、髪を振り乱した常人の倍もある巨漢が大音声を発した。
「あいや、参ったあ!」
平賀源心であった。四尺八寸の左文字の大太刀をガラリと床へ投げ出すと、どっかと胡坐をかいた。
「武士として死なせてくれ!」
残る者も同じように腹を寛げた。死に際の儀式は忙しかった。源心は、おのが腹に刃を当てながら、取り囲んでいる餓狼たちを睨め回して訊いた。
「こたびの企てをした御大将は、どなたにござろうや」
松明に照らされた晴信が進み出て、
「武田家総領、武田大膳大夫晴信にござる」
と、慇懃に頭を下げた。
「これはまた、弱齢の大将かな。大雪の虚をつくとは気づかなんだ、あっぱれにござる」
源心は澄んだ目をして、脇腹に深く短刀を突き入れ、ゆっくり横真一文字に掻っ切った。
降雪の原野を、武田の餓狼たちは巨漢の屍を担いで南へ下った。雪は源心の怨念のように、晴信隊の足に纏いついて遅々として進まない。
平沢の峠にさしかかった時、信方は晴信に具申した。
「このままでは、追手に追いつかれてしまいまする。源心殿の御首級を落としましょう」
晴信が頷くと、源心の大頭が雪に転がり、胴体を松の根方に葬って四尺八寸太刀を供えて合掌した。
遠く内山城の方から激しい半鐘の音が響いている。海の口城が抜かれたことを知った敵兵が召集をかけていた。
「追手の来ぬ間に、板橋の宿を越えるぞ!」
信方が晴信に代わって下知した。三百の将兵は、晴信を中心に一丸となって吹雪の平沢峠を下った。最早、晴信の差配に疑いを抱く者はいない。この若殿となら、どんな悪鬼も砕けるに違いない。英雄に欠かせない条件は智力と度胸と、それに運である。若き英主には、その三拍子がそろっていた。
あれほど吹雪いていた冬将軍も、夜明けとともに止んで、八ッの岳峰をくっきりと天に浮かびあがらせている。
(この御大将とともにゆこう)
百戦錬磨の兵たちの誰もが、運の良い晴信の横顔を見て思った。
海の口城の殿戦に参加した将兵の多くは、それから五年後の天文十年六月十四日、父信虎を駿河に追放する立役者となって、晴信政権を樹立することになる。その主だった者には、先鋒大将の板垣信方をはじめ士大将の馬場信春、足軽大将の横田高松、原虎胤など、その後、武田二十四将と誉めそやされる名だたる勇士が加わっていた。
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