南部俊三郎、幕末岩国藩の儒者


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三士誠忠之碑南部五竹(俊三郎)(1831-1867)は幕末岩国藩の儒学者であり、このページの筆者の曾祖父にあたります。

岩国藩は長州藩の支藩にあたりますが、五竹は宗藩と異なり勤王の志気が乏しいことを憂い、尊王攘夷をもって大義を明らかにするよう諄々説き、建尚隊なる組織を作り、士気の挽回と学問の振興を目指しました。さらに、宗藩奇兵隊に呼応しようと同志に諮りますが、機が漏れて縛に就き独り自若同志の責めを担い、斬刑に処せられます。その後、五竹の同志達は戊辰の役に建尚隊は征討軍に従い北越に力戦し、大いに岩国藩の武勲を顕しました。五竹は志半ばで世を去りましたが、彼の功績は死後顕らかにされ、岩国城の麓に建立された三士誠忠之碑にその銘が刻まれています。

五竹は武人であり儒学者であったため、多数の論文、書簡、詩作、紀行文などを残しています。一小藩の出来事ではありますが、幕末・維新研究のお役に立てればと考え、このページを作成いたしました。各文には原文(漢文。句読点あり)の他に、釈文(読み下し文)、語釈が加えてあります。

南部五竹(俊三郎)の生涯

南部五竹が残した著作(原漢文、PDFファイル)

三士誠忠之碑

岩国藩

文政絶句抄

筆者紹介

深渓詩稿(筆者自作詩集)

五竹が生きた時代の日本は諸外国、露米英仏蘭が開国を迫り、我が國の周辺に巨艦を泛かべ窺い威嚇するといった時代でした。外に眼を移せば、清國は先の諸外国に割拠され侵略同然の中に在り、庶民は奴隷の如く塗炭の苦しみを味わい、滅亡の寸前にありました。わが神國日本もまた幕府は弱体化し国防意識に乏しく、諸侯もまた二百六十年の太平の夢未だ醒めずといった状態でした。この危急存亡の時に何を成すべきや、五竹は岩国という辺境の一小藩の儒学の士でありながら、隣國の清の情勢を感知してその轍を踏まないためにも夷狄を攘うべしと、尊王攘夷の急先鋒として藩政改革に命を賭し、斬により散華したのです。

五竹の著作をまとめた白雲洞遺稿、白雲洞遺稿拾遺には参政山田府生(城太郎)に宛てた「建白書」の他、「駿台雑話を読む」、「離騒を読む」、「贈塩谷古侯叙」などの論文があり、ここには五竹の思想の根幹をなす激しい尊王攘夷思想が読みとれます。これこそは彼の生き甲斐でであったのではないでしょうか。その激しさに反して、友人に送る辞に「送帆足子徳帰豊後序」、「送佐藤文水帰後豊序」、「送海賀某帰秋月序」、「送川子道之長州序」、「送枝公素遊京師序」などがあり、友情細やかな様がしのばれます。また、九州の諸山名勝を探幽した紀行文「遊蘇山記」、「雲仙紀行」、「遊岩戸記」、「米良紀行」など、さらにはその詩の中で山水自然を愛し詩情豊かで、生きとし生ける全て、捨て犬や禽獣・漁猟にまで愛情を注いでいます。優しい心を持ち、雅趣に富んだ一詩人で儒学の士である五竹が、尊王攘夷という激しい思想に命を賭したのは、天保から慶応と言う激動の時代背景を無視して理解することは出来なません。

五竹の著作はほとんどが漢文で、JIS規格にない漢字も多数含まれております。このような漢字は外字ソフトを使って作成しています。作成した外字を表示可能にするため文書はPDF形式にしました。PDFファイルを読むためにはアクロバットリーダーが必要です。アクロバットリーダーはAdobe社のホームページよりダウンロード可能(無料)で、またパソコン雑誌の付録にも含まれている場合があります。

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