
日本三名橋の一つ、蜿々と五龍相追い趨くが如くの錦帯橋を渡り、遙か聳え立つ岩国城の山麓、吉香公園の北隅に高さ三メートル余の碑が建立されています。これが写真の三士誠忠之碑です。三士とは、このページの主人公である南部五竹に加え、東宗一郎、栗栖平次郎をさします。
文久、慶応の激動の時代、宗藩長州藩と異なり尊皇の志が低い岩国藩にあって、宗一郎、平次郎の両名は精義隊を編成し藩の士気鼓舞に尽力しますが、隊の若年者の過激な行動が藩法に触れ、両名は柱島(先の大戦中には聯合艦隊の泊地として使われていた)に流罪となります。平次郎は島を脱出した後、同志に所思を訴えて自決します。五竹は残った宗一郎を密かに救い出そうとしましが、計画は露見して五竹も斬首となりました。戊申戦役終了後、精義隊、および五竹が作った建尚隊の両隊の活躍が評価され、宗一郎は赦されます。
彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年藩公および旧藩有志により三士誠忠之碑が建立されました。碑文は三須成懋の撰によるもので、以下にその全文を示します。

旧岩国藩に三士あり。曰く東崇一郎、曰く栗栖平次郎、曰く南部俊三郎なり。文久慶応の際、国事多事、防長最も其の衝に当たる。藩主吉川有恪公、聡明にして夙(つと)に文武を奨励し、以て宗藩を輔け、力を王室に尽くす。而も昇平の余弊、有司恬嬉(てんき)にして士気振るはず。崇一平次、深く之を憂え、門生を激励して精義隊を編し、以て公志に達す。藩議これを許す。然ども其の所為過激にして常典に触れ、共に南島に謫(たく)せらる。且つ、平次の家籍は没す。平次郎憤りて時に自から禁ぜず、南島を脱して帰り、所思を同志に訴えて、屠腹して死す。時に年二十有八。衆は其の勇決に感ず。實に慶応二年十二月九日なり。
俊三郎も亦た同志に糾合し建尚隊を編み、有司を排撃、尊攘の大義を伸べるを謀り。且つ、私(ひそか)に崇一を南島より抜かんす事す。露になりて捕り、慶応三年八月廿三日、斬に処せられ、其の家籍を没す。時に年三十有七なり。
崇一郎は諱は正純、字は崇一、白沙と号す。天資俊邁にして文章を好む。安政中江戸に遊び、一斎佐藤氏に従學す。又、山陰山陽に歴遊し、老儒碩学を訪い、学徳日に進む。自ら悟る所あり、姚江學を尸祝(ししゅく)して幟(しる)す、聖賢の正宗を為す、常に道義を講明し以て己の任と為す。嘗て時事を痛論し世にれられず、遂に家を其の子敬治に譲り、自ら断髪して老ける。
平次郎は諱は靖、字は子共、幼にして頴敏、博学にして文を能くす。芳姿処女の如くにして、剛毅いやしく苟せず人に下る。崇一と交わり意気投合し、共に王學を唱う。又江戸に遊び昌平黌に入り。業成りて帰り、藩校の助教を為す。精義隊 編制の挙、最も有力と云う。
俊三郎は諱は裕、字は君綽、人は朴訥(ぼくとつ)を為し、藻思敏活一たび筆を援ば、四座屈服す。孤介時好に趨いて反せず退いて神仙の説を修め。琴をつまび弾き鍛冶を学び。人皆これを嗤笑す。而も恬然として顧ず、家に檐石無く亦た晏如たるなり。嘗て鎮西に遊び、犀潭木下氏に従う。常に尊攘の説を持し、慷慨人と語り、往々胸塞がり気迫り、口言うを能わず、涙漱々として下る。刑に臨みて、神色自若、観る者に嘆き涕を流すを感せず。
明治元年、大政維新、赦しありて、有恪公、三士の志を憫みて、首釈尋られて復た、子共の家を其の子祥一に、君綽の家を其の子需に給う。崇一は既に帰り、窮陬に帷を下げて、講習倦せず。つい晩に塾を鎖してともがら徒に謝し、独り易を読んで以て楽しむ。明治廿四年三月病没す。時に年六十。遠近これを聞き腕惜して己まずと云う。
嗚呼三士の為す所、各異同あり、君に誠を尽し、忠を國に致すことは則ち一なり。戊辰の役、藩兵摂越に暴露して、奥羽に奮戦、其の死者の多くは精義建尚二隊の養成する所より出ず。則ち、吾が藩勤王の功、有恪公の宿志者有りて成る。
未だ嘗みず由せず三士の鼓舞の興を作す力なり。この頃、旧藩同志、碑を建て、三士の功を紀めし碑を建てんと欲す。余は因て其の概略を叙し、係て以て曰を銘す。
主唱の人あり、士気の振を維ぎ。ああ吾が三士、靖献仁をなす。後進観て感じ、王事これ勤む。忠に死し義に斃れ、功は万春に垂る。
明治二十五年月日 三須 成懋 撰 南部 保 書