高校時代、友人に「Sちゃんって波瀾万丈だね」と言われたことがあるが、まさか私がこんな病気にかかるとは彼女も予想していなかっただろう。
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事の起こりは一九九二年十月中旬のある日だった。
その日、私は眼鏡の度が合わないので(私の眼は乱・近・遠視が微妙にからまっているので眼鏡の度が合いにくいのだ)予備校の近くの『花クリニック』という病院の眼科で診てもらおうと出かけた。この病院は狭い敷地を上手に使ってある縦長の総合病院で眼科は三階にある。外来受付のソファーに座りぼんやりと待っていると、しばらくして順番がやってきた。
ごく普通の診察の後、その眼鏡は度が強すぎているので、度が合っている予備の眼鏡の方を使いなさいとのことだった。そこで私がお礼を言って帰ろうとすると、先生(命の恩人である)が「診察台に座って」と言った。
「何か病気と言われたことがある?」「以前、白内障と言われました」「それもあるけど、内科の病気で」「いえ特にありませんが」「病気かもしれないから血液検査させてね」
実は以前も別の眼科で肝臓が茶色くなっているから内科に行きなさいと言われて(九二年七月)、内科で肝機能の血液検査をしたことがあるが何ともなかったので、今回も大して心配はしていなかった。しかし採血した後、先生が「検査の結果が出ればはっきりするけど、多分病気だから三十日に必ず来てください」と言うので少し不安になって、その日は帰った。
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日記抜粋。
十月三十日(金)
今日は花クリニックに行く日だ。何にも無ければ良いけれど。ま、どちらでも良いけどね。たまには病気も良いし。何てね。九時
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血液検査の結果、ウィルソン病である疑いが極めて濃厚になったので、私は慈恵医大で受診することになった(“命の恩人”先生は慈恵医大の医師であった)。が、“命の恩人”先生の問い合わせによりウィルソン病治療の権威である医師(青木継稔教授)が東邦大学大橋病院の小児科にいらっしゃる事が判ったので“命の恩人”先生の紹介状を持参の上、十一月四日に行くことになった。
十月三十日から十一月三日までのなんとも不安で中途半端な日々が明け、十一月四日に私は母に付き添ってもらい池尻大橋にある東邦大学大橋病院小児科外来を訪れた。
外来待合室のソファーで黙って座っている間、母が何かをメモに取っている。なにを書いているのかと見れば「字、口、生理不順、よだれ」と、その当時の私の『問題点』が書かれていた。私は「よだれ」と書いてあることに抵抗を覚え抗議したが、「でも…」と悲しそうに母が言うので、それ以上何も言えなくなった。そのうち母が席を外してしまったので、教授が今来たら嫌だなあ、と多少心細く思っていた。すると案の定、母が戻ってこないうちに教授らしき人が目の前を通った。そして私の名が呼ばれた。
カーテンで仕切られたその部屋には、教授、それから助手らしきハンサムな若い男の先生がいた。
「ずいぶん早く来たんだね。君を待っていたんだよ。どうしたんだい」と、教授は優しくおっしゃった。私はこの一言で何だか気が抜けてしまって、母がメモに書いたことを思い出しながら(思わず最初に「よだれ」を言ってしまった)、私の『問題点』を端から言っていった。当時の私の話し方と言ったら酷いものだったので、教授はほとんど聞き取れなかったのではないだろうか(後に教授御自身が「初めの頃は分かったふりはしていたが、半分も聞き取れなかった」とおっしゃっている)。そして母の話を聞きながら教授は私の眼を診察し、そしておっしゃった。
「危ないところだったね。発見が二〜三ヵ月遅れていたら失明と歩行不能になっていたよ。二〜三年遅れていたら劇症肝炎を起こして死んでいたよ。でも、もう大丈夫だからね。二〜三ヵ月入院して治療しよう」
前夜、入院ということも有り得るかな、とは思ってはいたが、でもそれが現実となるとさすがに怖くなり、思わず母の服をぎゅっと掴んだ。しかし、これで治る!!と言う喜びもあり、その一瞬の間にいろいろな感情が心中を巡った。
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そして一九九二年十一月四日、“Sちゃん”は東邦大学大橋病院小児科病棟306号室(十二月十七日から310号室)の住人となった。