私が入院する直前、つまり九二年十月頃から、我が家で購読している新聞では『麻酔』という連載小説が始まった。数年前から新聞小説を読むことを習慣にしている私は『麻酔』も読んでいた。途中で入院してしまったので詳しい物語は知らないが、主人公の妻が全身麻酔を使う手術を受け、麻酔医のちょっとしたミスにより植物人間になってしまう。かいつまんで言うとこんな小説である。
全身麻酔を使う検査手術を受けることは入院した日から告げられていたので、私は正直怖かった。『麻酔』は小説だし、全身麻酔によって死ぬなんていう事故がそう頻繁に起こりうるはずはないことは分かっていたが、それでも私は怖かった。
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一九九二年十一月十三日、金曜日。
この朝のことは余り記憶に無い。いつのまにか、母がベッドサイドにいた。手術は朝一番で行われる予定であったので八時にトイレにいった。用を済まして廊下をうろうろしていると、処置室(看護婦室の隣室で注射や点滴をする部屋)に呼ばれた。そこで肩に筋注をした。筋肉に直接注射するのだから、結構痛い。思わず大騒ぎしそうになったが、その寸前に母に言われた事(痛くても大騒ぎしないのよ)が脳裏をよぎり、ぐっと我慢して、「痛いっっ」だけに押さえた。この筋注は予備麻酔らしく、段々と唾液が出なくなってきた。ただでさえ暖房が効きすぎている病棟なので、唇が乾燥してきて辛い。そこで、母にリップクリームを持ってきてもらおうと看護婦さんに頼んだ。しかし母は持ってきてくれなかった。そして、私がリップクリームのことばかり思っているうちに手術室へ行くことになった。
この辺の記憶は曖昧で、いつストレッチャーに乗ったのか、いつ浴衣(手術着)に着替えたのかは良く分からない。
数人の看護婦さんがストレッチャーを押し、脇を母が歩いている。重いでしょう?と聞くと、これに乗ってしまえば皆同じよ、と看護婦さんが答えたので安心する。三階の病棟から地下の手術室まで行き、入口で母達と別れた。母の心配そうな顔を見ながら、親不孝な娘は見納めになるかな、と思った。いくつかの手術室に通じているホールみたいなところを通り、手術室に入る。モーツァルトか何かが流れていた。医師と看護婦がばたばたと慌ただしく準備をしているのが分かる。この頃は、筋注が大分効いていたのだろう、やっとの思いでストレッチャーから手術台に移った。それでもロレツが回らない口で私は何か喋っていた。医師か誰かが「うるさい子だなあ」と言ったのを聞いたような気もする。
「鈴木さん、ボーッとしてきましたか」と聞かれて返事をすると、酸素マスクみたいなのがぬぅっと寄ってきて口に当てられた。大きく吸って下さいと言われ、麻酔って注射でするんじゃないんだ、と思いつつ二、三回深呼吸すると私は暗闇に落ちていった。最後の瞬間に、戻ってこられますように、と願ったのは言うまでもない。
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本当に漆黒の闇に吸い込まれていったのだ。死とはあのようなものかと思う。しかし、私は戻ってきたから、あれを闇と思うのであるのであって、もし『麻酔』のように本当に植物人間になってしまっていたら、あの暗闇に落ちる瞬間のことも、母の心配そうな顔も思い出すことはなかっただろう。
私は貴重な経験をしたと思う。たかがあの暗闇を通ったくらいで死を理解できるなどとは決して思ってはいないが、ただ一つだけ分かったことがある。死人に死はない、と言う事だ。「死」は我々が生きているからこそ意味があるのであり、死んでしまった人間には、死は関係ないのである。
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「Sさん、Sさん、聞こえますか!」静寂の中で心地好く熟睡していたのに、頬を叩かれ耳元で叫ばれたのだから、その目覚めは余り気分の良いものではなかった。しかし目覚めを意識した瞬間、嬉しくなった。戻ってきたのだ!!そしてもう一度、心地好い眠りに落ちた。
次に気付くと、病室であった。何か臭いものが口に当てられている。その匂いが嫌で、私は手で退かそうとしていた。横で母が言うのが聞こえる。「酸素マスクを嫌がって外してしまうんですよ」先生「大丈夫そうだからいいですよ。肺活量多いし」(事実、私は肺活量は凄くて、技師もびっくりの3.96gであった)。そして三度目の眠りについた。
やたらに喉が渇く。唇が乾燥する。今度はリップクリームを塗ってもらった。朦朧としている。お腹が空いたことよりも、何より喉が渇く。水、水とそればかり言っていた、と母が後に言った。その日は一日中、絶食絶水だったので、どんなに言っても貰えない。しかし午後二時頃であろうか、氷を口に含めることになった。本当においしかった。
この日はずっと熱があり、傷は当然痛むし、辛い一日であった。しかし何より辛かったのは、時折目覚めた時に両親の苦しそうな顔を見ることであった。私は以前に骨折したときに両親に同じ顔をさせた、いわば前科者なので非常に辛かった。
翌日は意識がはっきりしていた。朝食はお粥であったが食べたし、昼食からは常食であったので嬉しかった。しかしこの日は熱が高く、うつらうつらして一日を過ごした。そして夕食後からウィルソン病の治療薬であるトリエンチンの服用が始まった。
手術後三日目の十六日は朝から起きて良いと言うことだったので、朝食を食べ終わると、起きる努力をした。が、ずりずりするだけで一向に起き上がれない。約十五分の悪戦苦闘後、ついにベッドから滑り落ちてしまった。看護婦さんを呼び、立たしてもらった。けれども、立ったは良いが、数歩歩いたところで気持ちが悪くなってしまい、ベッドに戻った。十一時頃であったか、ベッド柵を使い四苦八苦しながらも何とか自力で起きられたので、テーブル(車輪付き)を歩行器代わりにソロリソロリと電話をかけに出掛けた。
まず自宅に電話する。父がいた。二言三言話したとき、しまった車椅子にすれば良かった、と後悔した。貧血だ。しかし父に心配をかけてはいけないと、なんとか耐えた。しばらく話していたが、それ以上立っていると倒れそうになったので、ちょっと疲れたからと言って切った。切った直後、もう限界だ、倒れてしまおうと思ったとき、人が歩いてきたので看護婦さんを呼んで貰った。その後数日間は用心のため車椅子を歩行器に使っていたが、それ以降は貧血にはならなかった。
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母の記録によると、当日は処置室入りが八時十分、手術室には八時三十分、終了が十時二十分であったから、そう大掛かりな手術ではない。しかし、私のお腹には5p7針の傷が残っている。
手術直後は慢性肝炎と言われていたが、その後の詳しい検査により、肝硬変であることが判明した。