自分以外にはなれない
最初は、ただのアングラ掲示板だと思っていたら、なんか異様に成長してしまった巨大掲示板「2ちゃんねる(2ch)」。最近は日常生活にまで影響を及ぼすようになってきている。
日常生活への影響の例としては、
誰か:「2ちゃんに書いてあったアレって本当?」
私:「ンな訳ないだろ……」
とか、
誰か:「だめですよ2ちゃんになんか書いちゃ」
私:「さすがの私も2chに本名で書き込みしたりしませんよ……」
とかいうやりとりを毎日のようにしなきゃならなかったりすることが挙げられる。中には意図的にデマを流す悪質な書き込みを頭から信じ込んで、青筋立てて怒鳴り込んでくるような人もいるから始末に負えない。
2chに限らずネットに流れている情報は基本的に疑ってかかるべき物で、あまり読んでいて腹の立つような内容だったら端っから読まないようにするのが一番だ……と言い聞かせるのだが、どうもなかなかそうはいかないらしい。「活字の魔力」というのか、「出版」という形で世の中に流れている物を信じ込んでしまう人というのは少なからずいるようだ。ネットに限らずTVや新聞に対しても同様である……これは余談だが。普通のBBS(掲示板、と呼ばれる形のものもあれば会議室と呼ばれるものもある)では、書き込んだ人間はその書き込みに責任を持つのは当たり前とされる。書き込みをした人間は、ハンドル名、あるいは本名で「誰々である」と他の参加者に認識される。以前に行った書き込みと、新しい書き込みの間で書いていることに差があったり矛盾があったりすれば、その本人の信用が失われる。
一方、2chでの書き込みは、基本的に匿名でなされる。他の掲示板と違うのはその程度のことなのだが、たったそれだけのことで、書いた人間が書き込みの内容に関してまったく責任を取る気を持たないという一種独特の気風を持つようになっている。
書き込みは、その書き込みそのもので独立した人格のようなものを持ち、それ以上の物を持たない。だから書き込みをした人間のことを呼ぶ時には、その書き込みの番号で呼ぶという習慣が2chでは定着している。例えば書き込み番号が「300」の書き込みをした人物は、一時的に「300」という名前になるわけだ。
「300」氏は、「300」を書き込んだというそれ以上の意味を2ch上では持たない存在である。他にどんな書き込みをしたことがあろうが、その書き込みをした人物とは切り離された人格として、そのスレッドにおいての「300」という人格になる。
この、人を呼ぶときに書き込み番号で呼ぶという習慣が、書き込みはそれ自体が人格であり、その文章をキーボードから打ち込んで送信ボタンを押した人間がこの世に存在するという事実が意図的に無視されるという空気を作り出してしまう。これまでの生活やこれまでの言動、いままで成し遂げてきたことや失敗したことなど、いろいろなことが積み重なって人間は社会の中で自分の人格というものを確立しているものだ。だが2chの中では、それら全てのことは全く意味を成さない物になり、ただキーボードで打ち込んで送信ボタンを押したその文章だけが意味を持つ。
そのため、2chの書き込みは全般的に下品である。遠慮がなく、罵詈雑言にあふれ、根拠のない憶測やあからさまな嘘が平気で書き込まれる。
そういう2chの世界は、「そういう世界」を知らなかった人間からすればかなりのカルチャーショックとなる。人間誰しも、社会的地位とか「自分が、他人からどう見られるか」ということを気にして「自分」という人物を演じているのに、ここではその必要がない。それら全ての束縛から解放され、社会的な自分ではなくありのままの自分を表現できるのだ! ……なんて思うかも知れない。正直、私も最初はそんなことを思った。今だから言えるが、できるだけ本業と関係ないところで、「煽り」と呼ばれる、わざと他人を怒らせることを目的としたような書き込みをしようとしてみたこともある……。
だが、上手くいかない。無理をして、「遠慮のない書き込み」をしようとしている自分がそこにあるのだ。社会的束縛から解き放されて、どんな下品な書き込みも自由に出来るはずなのに、かなりの「無理」をしなければその類の書き込みが出来ない。しばらくたって気が付いた。
結局のところ、私は「会ったこともない他人のことを気遣いつつ、出来るだけ誰もが傷つかないように気を配った」ような、そういう書き込みしかできない人間なのだということに。それは「演じている社会的な自分」ではなく、本当の自分だったということに。
つまるところ、妙な言い方になるが、僕は結局、根が「いいひと」なんだということになるのだろう。自分の中に鬼畜のような「もう一人の自分」がいて、その自分と戦うっていうシナリオは、お話としてはよくあるパターンだ。
確かに、誰しも心の中に負の面、あまり人に見せたくない嫌らしい部分は持っているだろう。けれど、それが「本性」で、社会的な自分は表面を取り繕っているだけの偽物の自分、いわば「仮面」である……というのはどうなんだろうか。「2chでの自分」を振り返って思うに、結局のところ、両方とも自分なんだと思う。
「怖い俺」も、「優しい僕」も、両方とも自分なのだ。
そもそも人間の心なんてそんなに簡単に2極に分けられるものではなく、心休まる風景を見たり心優しい人と話をしたりすれば自然と温厚な人柄になるだろうし、逆に、心の荒むニュースを聞いたり下衆な人間と話をしたりすればどうしても心が荒んでくるような、状況に左右される曖昧なものだ。「自分」なんてものは明確なものではなく、いろんな自分が同時に存在していて、その間を耐えず揺れ動いているようなものなのだろう。その「たくさんの自分」の中で一番無理のないあたりに、普段は落ち着いているのだ。