「面白さ」を伝える秘訣とは
ヒカルの碁
(水曜・TV東京系 夕方19:27〜)
平凡な小学生が、碁盤に宿る平安時代の幽霊と出会ったことから、囲碁の世界へと導かれていく。
●原作にひたすら忠実なアニメ化マンガなどをアニメ化する、いわゆる「原作付き」のアニメの場合、アニメスタッフが取るべき方向性は大きく分けて2種類ある。1つは、原作をどれだけアレンジし、アニメ作家(監督・演出)のテイストを持ち込むことができるかという方向。もう1つは、どれだけ原作の雰囲気を忠実に映像化することができるかという方向だ。
内容は薄いが妙に人気があるためにアニメ化が決まったような作品や、担当する監督自身に強烈な「持ち味」があり、どんな原作を与えられても出来上がってみればその監督の色に染まってしまうような場合などは問答無用で前者となる。「フルーツバスケット」や「こどものおもちゃ」などはそれにあたるだろう。一方、原作があまりにも偉大で、そのテイスト、世界観などが完璧に確立されており手を加える事などできない場合は後者になる。「ドラゴンボール」などがそれにあたるだろう。
「ヒカルの碁」は間違いなく後者だ。複雑に絡み合いながらも一分の隙もなく構築された完璧なシナリオといい、1週間で描いているなんてとてもじゃないが信じられないほどにクオリティの高い絵といい、現在週刊誌で連載しているマンガの中で最高峰に位置する作品であることは多くの人が認めるこの作品をアニメ化するにあたっては、原作の絵のクオリティや、微妙な間から窺える細かい心情描写を可能な限り映像で再現することにスタッフの全勢力が傾けられているように思われる。原作を手掛ける天才的なシナリオライター&絵師と、アニメスタッフとの真剣勝負がそこにある。だがそこには、アニメオリジナルの独自のテイストなど入る余地はないといっても過言ではない。
●衝撃的だった原作
もう数年前のことになるだろうか……。私は、「射撃競技」なんていう人様にはなかなか興味を持って貰えないジャンルの記事を、興味がなくてもなんとか面白く読んで貰えるように作れないかといろいろ苦労を重ねていた。始めるのが難しいと思われているけれどこんなに簡単なんだよとか、使う道具もやってる人達も、トイガンに比べてこんなにレベルが高いんだよとか、そういう内容を特集記事のようにして何回かやったのだ。
それでも結局は「面白くない、まったく興味ない、あんな記事やめろ、邪魔だ見たくない」なんていう沢山の投書ハガキに落ち込み、「結局、興味のない人に興味を持って貰うことなんか無理なんだ」と諦めに近い気持ちになった。興味のある人だけ読んでくれればいい、興味のない人には何をやったって無駄なんだと。
そんなときに読んだこのマンガ(アニメの原作)は衝撃的だった。私自身このマンガを読むまで、碁なんてゲームには全く、自信を持って、一切興味などなかった。格子目の描かれた板の上でやるゲームには将棋とあとひとつ白黒の石を使うのがあって、それには五目並べともう一つわかりにくいルールのものがあるらしい、という程度の知識しかなかった。それなのに、このマンガを読んだだけで、俄然興味が出てきてしまったのだ――相変わらずルールはいまいちどうも良く分からないし、実際に打てば経験者にはなすすべもなくボロクソにやられてしまうだろうけれど、でもTVで囲碁中継や講座をやっているとつい見てしまったり、碁のゲームを買ってしまったりする程度には興味を持ってしまっている。
まったく興味を持っていない人間でも惹きつけてしまう。こんなことが、現実に可能なのだという例を、この私自身というこれ以上ない具体的なサンプルをもって実証してくれたのだ。それは驚きだった。もちろんそれは雑誌の記事ではなく、ストーリーを持ったマンガだからこそ出来ることだという考え方もある。だがこの「ヒカルの碁」という作品を良く読んでみると、作品内では碁のルールそのものや、プロになるための細かい手続きや昇段のシステムなどに関してはほとんど一切説明はされていないことに気付く。つまり、HowTo物としては描かれていないのである。描かれているのはあくまで人物であり、碁に心惹かれ、それに打ち込んでいる人達の表情や心情、生きざまなのだ。それらが、ヒカルの碁で描かれている全てである。
●人の営みこそが感動を呼ぶ
感情移入がドキドキ感を生み、感動を生む。本来、ルールも知らないどんな世界なのかもわからないゲームが主題になっているストーリーの登場人物に感情移入なんか出来るはずもないと思いがちだが、実はそんなことはない。西部劇にしろSFにしろ、普段の自分の日常生活とはまったくかけ離れた世界を舞台にした作品など山のようにあり、名作と呼ばれるものも数多く存在する。結局のところ人間がどんなことに心を動かされるかというのは、どのような世界でも根本的な所は変わらない。そこのところをしっかりと描ききれば、それがどのような世界を舞台にしていようと人を感動させることのできる作品は生まれうる。
つまり、人の心を動かすのは、結局、人の営みなのだということである。碁に興味のない人間を碁好きにさせてしまう決定打は、碁というゲームのルールでもなければ、ましてや碁盤や碁石の値段などではなく、碁好きな人間が生き生きと碁を打つ姿そのものだったのだ。
ところで、聞けばなんでも先日、猟用資材工業会関係の会合で、「射撃の世界でも『ヒカルの碁』みたいな作品を作って売り出せば低迷続く鉄砲業界の起死回生になるのでは」みたいな話が出たらしい。――とはいってもご列席の方々のほとんどは結構なお年を召された方ばかりということもあり、「ヒカルの碁」自体を知らず(当たり前だ)、その話題を出した人とウチのボスの二人が必死こいてヒカ碁の説明をしたとかなんとか……。
実際に作るとしたら主人公に取り憑く射撃の天才って誰にしたらいいだろう、南部麒次郎あたりかなとか、想像はふくらむけれどもこれだけじゃただの質の悪いアニパロにしかならない。現実にはそんなのは無理だというのは冷静に考えれば分かるのだが、先述の「面白さを伝えるのは、結局は人なのだ」という「ヒカルの碁」で描かれている表現手法そのものは参考になろう。
ワールドカップやオリンピックに挑戦しているトップシューターを、ただ機関誌に成績と賞状を持って笑ってる顔写真を載せて終わりにするのではなく、その射撃人生において何かドラマチックなところはなかったか、あるようなら(少々の脚色を加えてもいい)手記というような形で発表したり(自転車競技では、アームストロングの『ただマイヨジョーヌのためでなく』なんかは感動的だったしベストセラーにもなった)、少年マガジンでやってる実在スポーツ選手シリーズのネタとして売り込んでみたりするなど、やりようはいくらでもあるのではないだろうか……。
書きつづっているうちに話が「ヒカルの碁」から随分と離れてしまったが、キャラ論や作中で打たれた碁の分析などは他サイトで山ほど書かれているので、たまにはこんな変わった「ヒカルの碁」論もあってもいいのではないかな、とご勘弁を願って今回は終わりとしたい。