平気な顔して。 母が心筋梗塞で倒れました。
と、こんな重大事件を平気な顔してさらっと書いてられるのも、処置が早く無事に助かり予後も安定しているからです。「心臓を手術した人がこんなに早くこんなに食欲が出るのは見たことない」とスタッフがあきれるくらい良く食べて、本人は「500g太った」とか嘆いてました。
処置が早かったのには訳があります。近くに出来たばかりの日医大付属北総病院にドクターヘリが常駐しており、それを使って病院まで搬送してくれたお陰です。出先で具合が悪くなり、母の友人が携帯電話で救急車を呼んでくれたところ、救急隊員が様子をみて即座にドクターヘリの出動要請を出し、近くの公園から病院へ直行――容態急変してから2時間後にはICUで心臓カテーテル手術を終えていたという、病院内で発症してもこうは上手くいかないというくらいのスピード処置だったそうで、関係各位には感謝の限りです。近々「ドクターヘリのおかげで助かった例」としてどっかに載るかも知れません。そのくらい、全てがトントン拍子に行ったとのことでした。
さて、そのドクターヘリですが、その運用の性格上当然のことですが病棟のすぐ側に常時待機していて、1日に何度か飛び立っては帰ってきます。なんといっても母の命の恩人です。一度はこの目で見ておかねばと、見舞いに行ったついでにヘリポートが見える窓まで案内してもらいました。6Fの窓からヘリポートがある方向を見ると……。
ヘリポートが空です。留守のようです。残念。と思ったのもつかの間、ヘリポート周りになんか大勢の人が集まってきました。なんか空を指さしたりとかしてます。おお、と思ってそちらを見ると、今まさに救急患者を乗せたヘリが下りてくるところです。双発ジェットエンジンで動いているとは信じられないほど静かな音を軽やかに響かせながら、鮮やかに(H)の字のど真ん中に降り立ったそのヘリには――。なんと、テールローターが付いていません! なんだこりゃ!
実は、病院のパンフレットの表紙にも誇らしげにこのヘリが飛んでいる写真が載っており、それを見た時から「あれ?テールローターが見えない?」と思ってはいたのですが、それは回転しているから写真じゃ見えないだけなんだろうと思っていました。けれど眼下のヘリポートに止まっているヘリをいくら目を凝らしてみても、テールローターはもちろん2重反転ローターも付いていません。なんでこれで飛べるんでしょう!? 飛べるはずがありません! でも飛んでる!
ヘリコプターという乗り物は、頭の上に付けたでかい扇風機(メインローター)を回して飛ぶ乗り物ですが、扇風機が一つだけだと胴体が扇風機と逆側にグルグル回ってしまい空を飛べません。だからそれに対抗する力を発生させるために、小さい扇風機が機体の後ろの方に縦向きに付いています。それをテールローターと呼びます。テールローターはメインローターに対抗して機体を止めておくだけではなく、その力を調整することで機体の向きを変えたりなど、舵取りの役割も果たしています。ヘリにとってもっとも重要な部品の一つ、それがテールローターです。
そのテールローターが有るべき場所に付いてないのにもかかわらず、そのヘリコプターは平気な顔して飛び、ホバリングしながら降りてきたのです。構造的に絶対に必要になるはずのものが無いのに飛んでいる――車に例えるならば、前輪の無い車が平気な顔して走ってるようなものです。まるで魔法を見ているかのようです。その驚きたるやかくや。ところが。
その場にいた母も、たまたま見舞いに来ていた叔母も従姉妹も、僕の驚きを分かってくれません。誰も驚きを共有してくれません。テールローターなしで飛んでいるヘリコプターがいかに奇妙な物なのかを僕が必死で力説しても、一人で浮いてる状態です。悲しい……。
一方、ヘリからはストレッチャーが引き出され、救急病棟へ運ばれていきます。彼(または彼女)はどうなるのか、どんな状況なのかは6Fの窓からはまったく窺えません。助かったことを祈ります――。その晩、さっそく調べたところによると、このヘリはマクダネル・ダグラス社が長年かけて開発した「NOTARシステム」とやらを採用したヘリで、テールローターの変わりにダクトから空気を吹き出したり、高速域では垂直尾翼(!)の揚力を使ったりしてメインローターの反力を打ち消す構造になっているとのこと。テールローターがないお陰で騒音が少なく、着陸時の安全性も高いとのこと。調べて理屈が分かれば納得ですが、知らない状態で「それ」を目の当たりにしたときの衝撃は、それはもう凄いものがありました。
TMVさんあたりだったら、「ああNOTARだねそれ」とか、平気な顔してさらっと言いそうで、それはそれで誰も分かってくれないのと同じくらい悲しいですが。北総病院に常駐しているドクターヘリ、MD902の写真が載っているページへのリンク。
このページの一番下にあるのが、母を運んでくれたまさにそのヘリです。
http://isweb41.infoseek.co.jp/travel/helicopt/explorer.html