これってTRPGリプレイ?

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(水曜・TV東京系 深夜24:55〜)

 ネットゲームの中、ファンタジー風味の架空世界が舞台。ゲームのルールが全く適用できない不思議な少年キャラクターとそのプレーヤーを中心にして、ゲーム世界の謎が少しずつ明らかになっていく。


拡散するストーリー

 不思議な感触を視聴者に与える作品である。「剣と魔法の世界」が舞台になっているにもかかわらず、戦いはほとんど描かれない。基本的に登場人物の全員が、ただの遊びとしてその世界に訪れているゲームのプレイヤーに過ぎないこともあり、序盤では物語が収束していく方向が全く定まらず、キャラクターそれぞれがてんでばらばらの方向を向いた散漫な群衆像が描かれるばかり。
 そのうち、「世界の謎を解き明かす」ことがテーマとなり始めたが、そもそもゲーム世界の中における「謎」など、本来はゲームデザイナーが盛り込んだ設定にしか過ぎないわけで、物語のテーマになり得るものではない。
 物語全体を方向付ける明確なイベントが存在しない、散漫なストーリー展開。普通、そういう物語は「つまらない話」と呼ばれる。もっとも最近は、ストーリーが散漫な変わりに強烈なキャラクターで無理矢理視聴者を惹きつけるタイプの作品、いわゆる萌えアニメというやつも多いが、本作品では特に萌えキャラと呼べるようなキャラクターもいないのだ。
 商業的に見れば、キャラも弱いしストーリーも甘い、失敗作だと断罪してしまいたくもなるのだろうが、ここでちょっとだけ見方を変えてみるとこの作品の面白さが見えてくる。登場人物を、画面に映るそのキャラクターだけで捉えるのではなく、画面には映らないどこか別の場所、つまり「現実」(もちろんそれはストーリー内での「現実」であり我々が生きるこの「現実」とは別のものだ)にいる誰かが演じているキャラクターである、と捉えるのだ。
 つまり、TRPGのリプレイとして作品を見るのである。そうすると、作品が途端に奥深いものになってくる。そこが面白い。
 
 

確固たるアラインメントを持つキャラクター

 コンピューターの中のキャラクターを成長させるのだけがRPGではない。実際に人間同士が顔を合わせ、あるルールに乗っ取って架空世界のキャラクターを演じる、という遊びはコンピューターRPGが登場するずっと以前から行われていた。それを、一般にテーブルトークRPG (TRPG)と呼ぶ。
 TRPGの代表格であるD&D(ダンジョン&ドラゴンズ)では、キャラクターを設定する時、ただ体力や精神力や賢さや素早さといった身体的ないし精神的特徴だけでなく、「アラインメント」というそのキャラクターの行動規範のようなものも設定する。善(ローフル)-中間(ニュートラル)-悪(カオティック)の3種類だ。プレイヤーは設定時に決めたアラインメントに従い、悪人キャラクターは悪人らしく、善人キャラクターは善人らしくキャラクターを演じる。たとえキャンペーンのクリア(例えばダンジョンの攻略など)に障害になろうとも、「悪人」であるキャラクターは自分の危険を顧みず仲間を助けたりしてはいけないし、「善人」であるキャラクターは行き倒れを見つけたら、たとえそれが行き倒れを装った追い剥ぎの可能性が非常に高かろうと決して見捨てたりしてはいけない。
 さらにD&Dを進歩させたAD&D(アドバンスドダンジョン&ドラゴンズ)ではアラインメントは単なる善-中間-悪ではなく、倫理観(法に対する立場付け。ローフル-ニュートラル-カオティック)と心理観(感情を元にした行動理念。グッド-ニュートラル-イビル)の2種類に分かれ、それぞれの組み合わせで3x3=9種類ものアラインメントが存在し、より奥深い人間の行動原理をキャラクターを創る時点で設定できるようになった。
 本作品は、非常に「嫌な」キャラクターや、「くそ真面目な」キャラクターが登場する。それらを単に類型化したキャラ設定として見てしまうと非常につまらないが、そのキャラクターにはプレイヤーがいて、彼らがそのキャラクターをそういう風に演じているのだ、と考えると面白さがわかってくる。徹底してカオティック・イビル(法を守る気もなければ誰かのために行動する気もない、とことん自己中心的なだけでなくさらには天の邪鬼で鼻持ちならない)を演じているやつもいれば、カオティック・グッド(自分が正義と信じる行為をとことん行う。そのためには法を破ることなどなんとも思わない)なやつもいるし、ローフル・グッド(法なり規律なりが正義であり、それを守ることが他者の為になると信じ、また他人にもそれを強制しようとする)を貫いているやつもいる。ローフルが行きすぎてローフル・イビル(法と秩序を守るためには他人の心を踏みにじることなどなんとも思わない)になっちゃったヤツまで登場する。
 その演じ方が徹底していて心地よいのだ。特に、「嫌なヤツ」の徹底の仕方には(声優の名演技もあって)圧倒されるものがある。実際にTRPGをプレイすると、自キャラはカオティックだとか言ってたくせに肝心なところではいい子ちゃんになってしまい、問い詰めると「カオティックは自由なんだから状況によっていいひとぶるのも自由」とかなんとか屁理屈を言い出すプレイヤーに切れそうになった経験を持っている人にとっては、どんな状況だろうと徹底して悪者を演じきっている彼には、逆に喝采を送りたくなるのではないか。どうせ悪人をやるんだったらここまでやれよ、中途半端に猫かぶってんじゃねえ……って感じで。
 主役級のキャラクター数人をダンジョンで露払い(つまりトラップ探査機替わり)に先行させ、その後を嬉しそーに「運転手は君だっ♪車掌はぼっくっだっ♪」と歌いながらこっそりと付いていく様子なんか最高! そーだよカオティック・イビルたるもの、やるならこうでなきゃだめだよな!

 
 

目的なき目的を探す旅

 物語において、前面に出ているのはゲーム内でのキャラクターであり、その後ろにいるキャラクターを演じているプレイヤーは基本的に描写されない。この一風変わった構図から何を読みとれば良いのか。
 人間というものは概ね、自分のやりたいように行動したいと思う自分と、社会との折り合いや周りへの遠慮などから、なかなかその通りには行かない自分という「2つの自分」に、自分の中で上手く折り合いを付けながら日々の生活を送っているものだ。だからこそ、「社会との折り合いや周りへの遠慮」を気にする事のない仮想世界において、「本当の自分」をさらけ出して生きたいように生きるというゲームに夢中になるのだろう。現実社会という枷から解き放たれ仮想世界でさらけ出される「自分」は、一見すると普段の自分とは全く異なる別の自分のように見える。だが、本当はそれも紛れもない自分自身であることに、いつか気付かされる事になる。
 「ここはゲームの世界だ。だから自分のやりたいように行動し、自分が楽しみたい形で遊べばいい」というセリフが、劇中では何度も繰りかえされる。その「やりたい事」が負の方向へ突出した人間、例えば弱そうなプレイヤーキャラクターを探しては殺して回る事を楽しみとしているプレイヤー、いわゆるプレイヤーキラー(PK)も時々登場するが、作品中ではそのあり方を、嫌悪は表明するものの否定する事はしない。そしてその一方で、逆に他人のために尽力することや自分を犠牲にするキャラクターも描かれる。それらは、それを「楽しみ」として、自分なりの「遊び方」でゲームを遊んでいるだけである……と描かれる。
 なにをしても自由という世界に解き放たれた時、人間はどのような行動を取るか。そこに現れるのは、本当の自分なのか、隠されたもう一人の自分なのか、それともそれとは全く違う「誰か」なのか。そもそも自分とは何か……。
 ゲーム世界は何をしても自由な世界であると同時に、何もしなくても自由な世界でもある。それならば現実世界はどうだろうか? 毎日を無事に生活するだけでも必死だったような時代とは異なり、現在では大抵の事は自由になるし、また高望みしなければ何もしなくても普通に毎日が生活できてしまう。「生きるため」だけには何もしなくてよい世界では、人は何のために生きれば良いのか? 人生の目標と言えるようなものを見つけだすことが出来た人はいい。だが、それが出来なかった大勢の人間はどうすればいい? そもそも人生の目的とは、見つけなければならない物なのだろうか?
 本作品では、物語が終盤に向かうにつれ、「キー・オブ・ザ・トワイライト」という名前のアイテムを探すという目的に向かって多くの登場人物が動き始めた。このアイテム、有るかどうかもわからない、有ったとしてもそれが何なのか、どういった働きをするものなのかもわからないものとして描かれている。存在も形も目的も不明な「宝物」を探す旅……。それは、「目的なき人生」を送る現代人の、一つの心の現れなのかも知れない。



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