CLAMP作品がCLAMP作品たる所以
ちょびっツ
(火曜・TBS系 深夜26:20〜)
「パソコンが人型をしている」ということ以外は全く普通の世界で、地方出身でパソコンのことをまるで知らない浪人生が道に落ちている不思議なパソコンを拾ったことから起こる様々な出来事。
●CLAMP作品における報われない主人公たち正直に言ってしまうと、実は私はCLAMP作品をどうも心から好きになれない。実際、凄いとは思っている――「魔法少女もの」なんていう使い古されて手垢が付きいまさら誰も手を付けようなんて思わなくなっていたジャンルに手を出し、結果的に国民的な大ヒットアニメーションを作り出してしまった(カードキャプターさくら)。そして今度は「まれ人もの」なんていう、これまたありがちもありがち、既に古典的といっても良いくらいのジャンルで新連載を始め、にもかかわらずどうやらこれまた大ヒット作品になろうとしている。
どのようなキャラクターを、どのような絵柄で描き、そしてそのキャラクターにどのような行動をさせれば読者/視聴者の心を掴むかを察知し、そしてきっちりとそれを作品内で実現してしまう手腕はクリエイターとして超一流であることは間違いない。だが、キャラクターから目を離してストーリーそのものに目を向けてみると、一見スケールが大きそうに見えて、実は限られた人数の人間同士の問題でしかないことに気が付いてしまう。国家の存亡、はては世界そのものの存亡がかかっていながら、実は数人、多くて十数人程度の人間同士の愛憎劇でしかない。しかも主人公はその愛憎の外側にいる、巻き込まれただけの第三者でしかない。
他人の修羅場に巻き込まれて死にそうな思いをする哀れな主人公という救いのかけらもないストーリー展開ながら、なぜかその作品群からは妙に救いを感じてしまうのは何故か。それは、主人公が愛すべき好人物として描かれているというただそれだけが拠り所になっているからに他ならない。
圧倒的な画力と演出でスペクタクルを見せられ、愛すべき主人公たちが必死の思いで戦い抜いたその果てが、個人の事情に巻き込まれただけ……ってだけの理由でチャンチャンと締められてしまうというのがどうしても納得がいかない。じゃあ結局いままでのは何だったのだ、あんたらの手の中で踊っていただけかいと悪態の一つもつきたくなって当然の主人公が、涙を流して感動してたり納得して微笑んでいたりするのが我慢ならない。
●愛すべき登場人物。けど……
ある日とつぜん、自分に尽くしてくれる(人間ではない)女の子が自分の家にやってくる――俗に「まれ人もの」と呼ばれているジャンルである。ある程度ヒットしたものでは「ああっ女神さまっ」や「電脳少女」、古典的なところでは「うる星やつら」などがあるが、もちろんこれ以外にも有象無象の作品群が数限りなく存在する。
「もてない男性のもとへ可愛い女の子がやってくる」という、ストレートな、なんのてらいもなく男性の欲望をそのまま形にしたような設定だけあって、アダルト系の作品にもこのような導入をよく見かける。これらの作品は一般的に「どうやってごまかすか」とか、「どうやって上手くやっていくか」といった要素がドラマのメインとなったドタバタコメディーに近いものになることが多い。だが、「ちょびっツ」においては既に「女の子(パソコン)を所有する」という行為そのものは「普通のこと」として認知されている世界で話が進むため、そういった王道のストーリー展開が使えない――というよりは、異なるストーリー展開にするためにそういった異常な世界観をあらかじめ構築した、と見るべきだろうか。既にあたりまえの存在となっている、「人間ではないが人間の形をした隣人」に対してどのような態度をとるべきか、というのがとりあえずの一貫したテーマとなっているように見受けられる。
これもCLAMP作品の多くに見られる特徴なのだが、序盤から普通なら中盤といわれる所まで話数が進んでも物語はそれほど動かない。状況説明、キャラクター紹介といった普通なら最初の数話で終わらせてしまうような内容が延々と続く。もちろんその時点では、キャラクターを描き、それを動かすだけで読者/視聴者をそのキャラクターの虜にしてしまう天才的な手腕がいかんなく発揮される。男性のもとを訪れる女性型パソコンがひたすら可愛らしく描かれているのは当然として、それを迎え入れる側の男性も「まれ人もの」に良くある浮気男であったり根暗なコミュニケーション不全男であったりすることはなく、木訥で不器用だが正直で思いやりのある好人物として描かれている。
一方で、この「パソコンが人型をしている世界」を作った張本人、およびその周りの人間たちが一連の事件そのものを操っているかのごとき描写を少しづつ始めるのも特徴の一つだ。ということはこの作品もまた、結局のところ主人公とは関係のない「誰か」の都合によって主人公達が振り回されるだけというお約束のパターンになってしまうらしい……?
もちろん(いままでの他のCLAMP作品と同じように)彼らも主人公達の好人物さに当てられ、彼らを愛し始めてはいるようなのだが、だからといってそれが人間を手駒のように弄ぶことの免罪符にしてしまうのは如何なものだろうか。
CLAMP作品は、おしなべてどれも良く出来ている。どのようなデザインの登場人物を、どのような形で動かせば「面白いオハナシ」が出来上がるのかを熟知しており、そしてその作業を完璧にこなしている。ヒットしない訳がない。だけれど、この作者達には自分たちの作品に登場する多くのキャラクター達への、大抵のクリエイター達が普通に抱いている類の「愛情」みたいなものが希薄なのではないだろうかと思えてならない。