完成しつつあるデジタルアニメ
東京アンダーグラウンド
(火曜・TV東京系 夕方18:30〜 ※放映終了)
東京の地下に広がるもう一つの世界、「アンダーグラウンド」からやってきた2人の少女を成り行きで匿うことになった正義感の強い少年が、授けられた不思議な力を使って追っ手達と戦う。
●当世風ヒロイック・ファンタジーロマンス! バイオレンス! 友情!
ドラマを作る上でお約束の要素を詰め込んで作られたと言う点で、非常に分かりやすい作品だ。気の強い女戦士、心優しいお姫様、一本気な熱血漢、冷静沈着(?)なメガネ君とお約束のキャラクター設定といい(あと一人、気が優しくて力持ちな大男か、でなければ不良っぽくて反抗がちだけど強い奴が加われば戦隊物の王道が出来上がるな)、普段自分たちが暮らしている世界のすぐ側にもう一つの世界がある――という設定といい、王道へ向かってまっしぐらな感じである。
けなしているわけではない。1つくらいはこういう、予定調和な作品があってもいいんじゃないかと本気で思っている。
さて、こういうバトル物を続けていく場合は、主人公にとっての「戦う理由」というものが重要になってくる。敵が来るから戦うというだけでは戦いの理由としては弱い。いわゆる、「負けるわけにはいかない」という確固たる理由が必要になる。アニメにおけるバトルでは、「負けられない訳」があるほうが勝つことに決まっているからだ。――実際には、負けるわけにいかないくらいで勝てるんだったら誰も苦労しないのだが――とこれは余談。
本作品においての「戦う理由」は、「惚れた女のため」という極めて王道のものが使われている。物語序盤において「ボーイ・ミーツ・ガール」が描かれるないなや速攻でお姫様が拐かされ、それ以降は延々と主人公が「囚われのお姫様を助ける」という、いにしえのファンタジー伝統の動機付けにより戦いを続ける。ありがちなパターンだが、それだけ効果的であり万人の心に訴えかけるからこそよく使われるのである。だが、普通はそれだけで話を持たせるのは無理だ。いつまでもお姫様を囚われのままでいさせるわけにもいかないだろうし、かといって無事に助け出してしまえばもう戦う理由がなくなってしまう。
物語に変化を付けるために導入されるイベントとしてよくあるパターンとしては、「お姫様」の救出には成功したけれども他の誰かが変わりに囚われの身になってしまう……とか、お姫様が囚われの身になっている間にいろいろあって、洗脳されちゃったりなんかして、出会ってみれば敵になってたりする……とかが考えられる。だが「東京アンダーグラウンド」においては、ついに最終回までお姫様は捉えられながら主人公を一途に想い続け、そして最後の最後で主人公とその仲間達は救出に成功して(ついでに世界まで救っちゃって)メデタシメデタシ……という終わり方をした。
まことに、一切の変化球のない、どまんなかストレートの直球による真っ正面から真っ向勝負ストーリーであった。
●デジタル処理について
とまあ、かくあるごとくにこの作品はお約束とパターンの集合体だったのだが、「見た目」に関して言えば少しは従来の作品に対しての変化が見えた。ようやく一般的になってきたデジタル作画の利点を活かし、統一した演出手法を使うことで上手い具合に世界観を描き出しているのだ。具体的には、「キャラのアップ+背景ノイズ」といった手法などだ(この方法自体は「疾風の用心棒」でも良く見たやりくちだし決して革新的でオリジナリティあふれるものというわけではないが……)。
デジタル処理によって作画されたアニメ絵は、使われ始めたころは本当に酷かった。どぎつい色調にきついコントラスト。背景はまるで塗り絵のようで、奥行き感が皆無……。特に絶望的なのは「動き」だった。
物がA地点からB地点へ移動する場合、それはただ同じ速度で移動するだけでは「動いた」ようには見えず、画面上でその位置が変わっただけのようにしか見えない。
「溜め」「動き出し」「移動中(浮遊)」「制動」「お釣り」「静止(→そして次の行動へ)」
というような様々な要素を連続的に描いて初めて、「動いた」ように見える。加速度の表現というやつだ。少ない絵の枚数でこれらの表現を実現してしまうところに日本アニメーションの技術のすばらしさがあったのに、最初のころのデジタル作画では(おそらく作画ソフトにそういう機能があって便利だったのだろう)、なんのタメもなく、にゅ〜っと移動するだけ、みたいな動きが続出した。「日本アニメも、もう終わりか」と暗澹たる気持ちになったものだった。
ところが、嬉しいことにそれは過渡期における一時的な混乱に過ぎないものだったらしい。コンピューターを使って作画するといっても、それはただ道具が変わっただけに過ぎず、人間の技術はすぐに道具を使いこなしてしまう。そしてコンピューターという優れた道具を使いこなしたとき、今まででは不可能(あるいはコスト的に無理)だった表現が、低いコストしかかけられていないはずのTVアニメーションでごく当たり前のように目にすることが出来るようになってきたのだ。
もっとも、まだ正直「やりすぎ」と感じることがないわけではないが、見る側も作る側も、いずれ慣れるだろう。なんといっても、最初はまるで使いこなせていなかった新しい技術を、みるみるうちに使いこなしていく様子を見るのは一般視聴者としても嬉しい物だ。人間は進歩する生き物なんだなあ、なんてことを思ったりして。